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カテゴリー | 文芸作品に描かれたダメダメ家庭 |
配信日 | 09年11月20日 (10年11月28日 記述を追加) |
取り上げた作品 | 不思議の国のアリス(1865年刊行) |
作者 | ルイス・キャロル(1832―1898) |
以前に、このメールマガジンでルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」を取り上げました。 その際には、その作品中の登場人物である白の女王に焦点を当てた形で取り上げました。 作品を紹介する際には、「どの点に焦点を当てるのか?」「どの切り口から記述するのか?」そんな点が問題になってくる。 それこそ写真を撮る際にも、「どの方向から光を当てるのか?」「どの方向から撮るのか?」あるいは、「対象との距離は?」とか色々と考えることがあるでしょ? 特定の作品を取り上げ、「子供に読ませたい。」「読ませたくない。」とかの文言で一刀両断するのは、実に簡単でしょうが、私はそんなに知的レヴェルが低い人間ではないし・・・ さて、「鏡の国のアリス」を取り上げ、その前作であり、もっとポピュラーな作品と言える「不思議の国のアリス」を取り上げていなかったのは、まさに「どの切り口から紹介していくのか?」という点が、固まっていなかったからです。可能な切り口が多すぎるんですね。 「不思議の国のアリス」は、ダメダメ家庭の問題に関連したマターに限っても、様々な切り口が可能といえます。実際に、このメールマガジンでは、その「不思議の国のアリス」についてたびたび言及しております。ダメダメ家庭は会話不全の家庭といえますが、会話不全といっても、言葉は飛び交っていたりする。ただ、そのやり取りにおいて、相手に対して「伝えたい」「分かってほしい」という気持がない場合が多い。言葉を言い放しのケースが多くなっている。別の言い方をすると、言葉のやり取りにおいて、意味と論理の不整合の問題が発生している。 「意味と論理の不整合と言われても・・・ちょっと、わからないなぁ・・・」と思われる方も多いでしょう。 ですから、ちょっと説明いたします。 たまに書きますが、言葉は、ギリシャ語でLOGOSとなり、まさにヨハネの福音書の冒頭の「はじめに言葉があった。」の「言葉」は、その「LOGOS」です。そして、このLOGOSから、論理という意味のLOGICという言葉も生まれている。 言葉は、まさに論理を表現するもの。 かと言って、論理だけでなく、実体としての意味も表現している。 皆さんの目の前にHBのエンピツがあったら、それを「エンピツ」という言葉で表現すると、その言葉は、多くの文房具におけるエンピツの位置づけという論理の問題・・・ボールペンでもなく、あるいは色エンピツでもなく、毛筆でもなく、シャープペンシルでもない存在・・・そんな論理の集合体であると同時に、まさに、さわることができる実体としてのエンピツでしょう。 エンピツという言葉の使われ方としては、論理の要素としてなり、実体の象徴としてなりの、基本的にはその両面を持っていますし、その2つの面が、対立するようなことは滅多にない。だから、お気軽なやり取りにおいては、その違いを意識することはない。 しかし、内容について詳細に突っ込んでいくと、意味と論理の不整合が発生したりすることもある。 それこそ「そこのエンピツを取ってくれない?」と頼まれて、目の前にあったボールペンを相手に渡したとしましょう。 その相手が左手にボールペンを持っていて、だからこそエンピツがほしかったという場合だと、ボールペンを渡した行為は不適となります。ただ、とりあえず書くものがほしかったとか、ちょっとした棒がほしかった・・・くらいのニュアンスだったら、ボールペンを渡してもOKとなります。 「論理面が重視されるのか?」「実体面が重視されるのか?」 同じエンピツという言葉でも、状況によって違ってくるわけです。 ここで目の前のエンピツから、社会という場に議論の場を移してみます。 この場合では、意味となると、人間そのものとなり、論理となると、法律が該当するといえるでしょう。社会の構成要素として、実体としての人間がありますし、いわば規範としての法律も社会の要素といえる。 人間は触ることができる実体的な存在。しかし、法律は触ることができない抽象的な論理体系。法律は、その論理的な整合性が求められる。しかし、その法律に論理的な整合性があるからと言って、その法律に意味があるかというと別問題でしょ? たとえば、こんな「日本の」法律を例として考えてみましょう。 「野生のパンダを見たら、放置せずに、かならず捕まえること。」 こんな法律は、論理的な整合性から見ると、何も問題ない。 日本の他の法律と、不整合をきたしているわけではないでしょ? 上記の法律に、違反した場合の刑罰として死刑とかが規定されていたら、別の法律との間に齟齬が発生する場合もあるでしょう。しかし、罰金くらいだと、不整合はきたさないでしょ?罰則規定がない場合には、上記の野生パンダの捕獲義務に関する法律は、日本の法律の体系から見ると、何も問題ない。 しかし、その法律に何の意味があるの? だって、日本には野生パンダはいませんものね。 捕獲義務も何も・・・そんな事態は発生しない。 だから、その状況での対応を規定した法律も、意味はない。 論理体系としては齟齬はないとはいえ、現実における意味を持っていない。 「意味がない」という、まさに「ナンセンス」状態となってしまう。 「不思議の国のアリス」という作品を考えるに当たって、そのような「意味と論理」の不整合を認識できるセンシビリティがないと、よく理解できないことになる。 逆に言うと、その点が難しい。 だって、意味と論理の不整合なんだから、言葉から実体としての意味を還元できるイメージ能力と、言葉の論理を組み立てることができる論理構築能力の双方が必要となってくる。その2つの能力があってこそ、その間の不整合も認識できる。 それだけではありません。意味というものを議論するんだから、それは、局所的な性質を持つことになる。 それこそ、例示した「野生パンダ捕獲の法律」だって、日本に野生パンダがいないことを、知っていないと、そのナンセンスさは、伝わらないことになる。ヘタをすれば、「野生パンダのことを真剣に考えている日本政府は動物愛護に熱心だ!」などと評価されてしまう可能性もある。 抽象的な論理体系は、それなりに伝わっても、意味というのは、実体に即している分だけ、伝わりにくい。 伝わりにくいとは言え、やっぱり、そんな「実体の意味と、体系としての論理の不整合」という事態が、現実として発生している。 特にダメダメ家庭においては、「相手にわかってほしい。」という気持がなく、「て・き・と・う」にやり取りしている場合が多いので、まさに「とりあえずは、言葉としては通っていても、何が言いたいのかわからない・・・」「じゃあ、いったいワタシはどうすればいいのよ?」そんな事態が発生してしまう。 まさに、この「不思議の国のアリス」におけるアリスのように、途方に暮れ、困惑することになる。 そして、その困惑を強調するために、作者のルイス・キャロルは、この不思議の国をアリス一人で旅をする設定にしています。このことは、以前より頻繁に言及しております。楽しいファンタジーにするつもりなら、お茶目だったり、頼りがいがある「お伴」のキャラクターを設定しますよ。今回の文章では、その点に焦点を当てた文章にいたします。 たとえば、実に有名なシーンである、チェシャ猫とのやり取りで考えてみましょう。 そのシーンの、もともとのやり取りは、こんなもの。 アリス「ちょっと伺いますが、ここからどっちへ行ったらいいでしょうか?」 猫『どこに行きたいのか、行きたいところ次第です。』 アリス「どこって別に―」 猫『そんなら、どっちへ行っても同じです。』 アリス「―どこかに出さえすれば―」 猫『どこまでも、どこまでも歩いて行けば、必ずどこかに出ます。』 上記のやり取りを荒唐無稽だと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、実に現実的なやり取りなんですよ。 だって、この私は、下記のようなやり取りを、実際にしたことがあるんですからね。 私『その映画監督さんの作風やテーマは・・・・』 相手「その映画監督は正統的なの?」 私『アナタの言う、『正統的』って、どう言う意味なの?』 相手「正統的って・・・ふつうのこと・・・」 私『じゃあ、アナタの言う、その『ふつう』って、どういう意味?』 相手「・・・ふつうって・・・ふつうのこと・・・」 私が受けた「回答」は、確かに論理的には整合性がとれている。しかし、そこには実体としての意味はないでしょ? そして、そんなやり取りは現実に存在しているわけです。 そんなやり取りをすると、まさに途方に暮れることになる。 それは求めていた回答が得られなかったという『不満』ではなく、「コイツ・・・なに考えているのかサッパリわからない。」という『不安』に近い。 しかし、その不安も、お伴の人がいると、全然違ってくるでしょ? たとえば、極端な話になりますが、アリスが不思議の国で、水戸黄門ご一行と一緒になってしばらく一緒に行動する・・・そんなシチュエーションを考えてみましょう。 そうすると、上記のチェシャ猫とのやり取りだって、違ったものになってきます。 ちょっと、ここで例示してみましょう。 うっかり八兵衛「あのぉ〜、そこの猫さん!ちょっと伺いますが、ここからどっちへ行ったらいいでしょうか?この娘さんが困っているんですよ!」 猫『どこに行きたいのか、行きたいところ次第です。』 うっかり八兵衛「アリスさんは、どこに行きたいの?」 アリス「どこって別に―」 猫『そんなら、どっちへ行っても同じです。』 うっかり八兵衛「猫さん!アンタ・・・つれないねぇ・・・アリスさん、どうしようか?」 アリス「とにかく―どこかに出さえすれば―」 猫『どこまでも、どこまでも歩いて行けば、必ずどこかに出ます。』 うっかり八兵衛「もうっ、ラチがあかないや!別の人に聞こうよ!ねえ、アリスさん。」 アリス「そうね。八兵衛さんありがとう!サヨナラ!ネコさん!」 上記のやり取りだったら、求める回答は得られなくても、心理的な不安なり、怪訝な思いはしないでしょ? 不満はもっても、不安にはならない。 あるいは、水戸黄門本人がチェシャ猫に聞いてくれるパターンもあるでしょう。 ご老公「もしもし、そこの猫どの!この娘さんの頼みを聞いてくださらぬか。」 アリス「ちょっと伺いますが、ここからどっちへ行ったらいいでしょうか?」 猫『どこに行きたいのか、行きたいところ次第です。』 アリス「どこって別に―」 猫『そんなら、どっちへ行っても同じです。』 アリス「―どこかに出さえすれば―」 猫『どこまでも、どこまでも歩いて行けば、必ずどこかに出ます。』 ご老公「今日はあの猫どのも機嫌が悪いようじゃのぉ、別のものに尋ねるとしよう。ふぉ、ふぉ、ふぉ・・・」 アリス「そうね!次は親切な人だといいな。」 そんなパターンでも、心理的な不安なり怪訝な思いを持ったまま、次に移るということはないでしょ?逆に言うと、この作品では、アリス一人でやり取りをしているので、心理的な不安なり、怪訝な思いが解消されずに、積み重なっていくことになってしまう。 何度も書いていますが、作品中でアリスが体験しているやり取りは、我々の現実世界でのやり取りを、ちょっとデフォルメしただけの、実に現実的なやり取りと言える。 とりわけ「意図がない言葉だけが飛び交っている状態」といえるダメダメ家庭においては、その手の状況が頻繁に発生している。やり取りにおいて「言葉の論理は、それなりに整っていても、そこに実体性のある意味が伴っていない」わけ。論理的には整合性があっても、その論理と意味との間の整合性がない。 この作品で描写された、言葉を語る珍妙な生き物との珍妙なやり取りは、ダメダメ家庭やその周囲でのやり取りを、ちょっと視点を変えただけのもの。 そんな状況をアリス一人で乗り切ることになる。 おまけに、その珍妙な相手に対し、アリスの側が合わせる必要がある。だって、相手側は、アリスのことなど何も配慮しないわけですからね。せめてお伴がいれば、間を取り持ってくれるわけですが、アリス一人だから、全部をアリスが対応する必要がある。 だからこそ、アリスはその身体の大きさを頻繁に変えることになる。まさに「自分一人で全部やらなければならない」がゆえに、「必死で相手に合わせている」ダメダメ家庭の子供の姿そのものでしょ? 言葉を語る珍妙な生き物は、ダメダメ家庭の個々の人間の姿といえるわけですが、現実社会全体を象徴する存在も、作品に登場してきます。 それはトランプ。 だって、トランプは、身分秩序があって、それぞれに役割があって、その中では、それなりのルールがある。そんな組織体系は、我々の人間社会とまったく同じでしょ? 人間にしてみれば、トランプは「たかがトランプ」ですが、トランプにしてみれば、逆も真なりですよ。 だから、作品中に出て来るトランプの集団は、人間社会の象徴なんですね。 今回の文章において、この「不思議の国のアリス」という作品では、舞台となっている不思議の国は現実世界の象徴であって、その中をアリス一人が旅をする孤立感・・・その点が重要だし、作者もそれを重要視していると書いてきました。 しかし、購読者さんの中には、「まあ、このメールマガジンの書き手は、21世紀の人間なんだし、色々とムダに頭が回る人なんだから、そんな突拍子もない見方をするのかもしれないけど、19世紀のルイス・キャロルは、そんなことは考えていなかったのでは?もっと『ふ・つ・う』に考えなさいよ!」そう思われる方もいらっしゃるかも? そんな疑問は当然としてあるでしょう。むしろ健全な疑問ですよ。 一人で旅をするという不自然な設定にしたのは意図的なのか?それとも、お伴のキャラを作れば楽しくなると言うアイデアが思いつかなかったから、たまたま一人になってしまったのか? 意図的なの?結果的なの? それに似た取りかけは、以前にもやったことがあります。 ウィーダの「フランダースの犬」のラストのシーンに出て来る絵は、どうして、「似合わない」ルーベンスになっているのか?そんなことについて書きました。 作品そのものをしっかり読めば、その答は出て来るもの。 ウィーダの「フランダースの犬」においては、作者のウィーダは、多くの絵描きの名前を作品中に登場させることによって、似合わないルーベンスの絵を使ったのは、意図的であることを、示していました。多数の選択肢を提示しているわけですからね。 ルイス・キャロルにおいても、作品そのものから、「意図的なのか?意図していないのか?」がわかるものなんですよ。ただ、その作品は、「不思議の国のアリス」そのものではなく、次回作の「鏡の国のアリス」の方です。 もし、「不思議の国のアリス」において、たまたま「お伴」のキャラを設定し損なったのと言うのなら、次回作では登場させるでしょ? 新しいシリーズにおいて、新キャラを投入するなんて、この手の商売の鉄則ですよ。 キャロル本人はともかく、出版社だって、そんなアドヴァイスもするでしょうし、「不思議の国のアリス」の読者からのファンレターもあったでしょう。その中には、「次回作も期待しています。次にはかわいいお友達を仲間にしてあげて下さいネ。」なんて記述があるファンレターも絶対にありますよ。つまり、たまたま「忘れていた」ということはあり得ない。表現の可能性を判った上で、拒否しているわけです。 不思議な世界を、一人で旅をする・・・その不安感は、次回作にも引き継がれていると言えるでしょう。 つまり、作者としては、それだけ、一人で旅をする違和感なり、不安感なり、怪訝な思いを重視しているわけです。 同じように引き継がれているのは、不思議の国が、現実世界そのものであり、単にそれを見る視点を変えたと言うだけということ。 トランプたちが、現実世界の社会システムのメタファーであると前に書いています。身分秩序があって、それぞれに役割があって、その中では、それなりのルールがあるシステムなんだから、我々の人間社会と同じですよ。 そのトランプに対応するのが、「鏡の国」では、チェスになってくる。 チェスも、まったくもって、身分秩序があって、それぞれに役割があって、その中では、ルールがあるシステムでしょ?そして、「鏡の国」においては、それがそのまま舞台となっている。 ちょっと見には、珍妙に見えるかもしれないけど、結局は、現実社会ではこんな珍妙なことをやっている・・・そんな現実社会を、「子供の心」を持った人間が単身で旅をする・・・ それは、まさにダメダメ家庭の子供の現実そのもの。そして、不安感なりストレスがどんどんと積み重なっていく。 そして最後になって、現実社会のメタファーといえるトランプが次々とアリスに襲いかかってくる。そしてアリスは、「アンタたちなんて、単なるトランプじゃないの!」と絶叫することに。 今まで散々に「相手に合わせていて」自分を偽っていたけど、次々と襲いかかってくる現実に対して、ブチ切れてしまって、反抗に転じる姿は、秋葉原で暴走した通り魔と心理的には変わらない。 こんな逆ギレ状態も、お伴のキャラクターがいて、適宜フォローしていれば、こんなことにはならない。最後のトランプの場面だって、それこそ水戸黄門がいれば、うまく収めてくれますよ。助さんとか格さんが印籠なんか出しちゃって・・・うまく収まってしまうでしょ? 一人で旅をするが故に、一人の子供にすべての負荷が集約してしまい、トラブルの際に落ち着いた対応ができずに、結果的にカタストロフになってしまう。。 「不思議の国」でも「鏡の国」でも、作者のキャロルは、あえて、お伴のキャラクターを設定していません。それは、現実世界において、自分一人で対処してきたキャロル本人の精神状況の反映なんでしょうね。 最後のトランプの場面でも、皆と笑顔でダンスするような大団円の後に目が覚める・・・そんな流れでも、なんの問題もないでしょ?カタストロフに直面して目が覚めるのは、それだけ精神状況の危機を反映しているといえます。 逆に言うと、キャロルとしては、作品を作ることによって、自分自身を見つめることで、最終的なカタストロフを回避したわけです。 某かの作品を作ることで精神的に救われることもある。しかし、救われてしまったら、もう作品は作れない。 心の平穏にいる人間が作品を作っても、論理的には整っていても、あるいは作品の構成としては立派でも、そこに心の痛みというか、精神的な実体感がないものになってしまう。 言葉において意味と論理の乖離が発生するように、作品全体においても、一分の隙のない構成でありながら、作り手の「痛切な思い」がなくなってしまう場合もある。 体系としては問題がなくても、一つ一つの意味付けとの不整合が発生してしまう。 そして、そのことを、「不思議の国のアリス」という作品や、ルイス・キャロルの活動は、様々な方向から示していると言えるでしょう。 ルイス・キャロルの作品は、この「不思議の国のアリス」以降は、論理はあっても、実体感が欠如してしまうようになっていきます。 これについては、ルイス・キャロルが、もともとは論理学者だという面もあるでしょう。 文章をまとめる際にも、論理構築という自分の得意分野に引っ張られてしまう傾向は当然のこととしてあったでしょう。 しかし、論文を書くわけじゃなく、芸術作品を作るんだから、実体感の問題は避けては通れませんよ。何か痛切なものがなければ、作品なんて作る気にはなりませんよ。 芸術作品だったら、その痛切な実体感を、的確な論理構成によって作っていくわけでしょ? 実体感がなく、論理構成だけの「作品」なんてあり得ませんよ。 さて、ここでルイス・キャロルの「あの趣味」を考えてみましょう。 彼は、まあ、少女性愛者として有名ですよね? ただ、3次元の少女には手を出さず、少女の写真を撮って、それをコレクションして満足していただけのようです。 さて、そのルイス・キャロルが愛した「少女」という存在を考えてみましょう。少女という存在は、「女性の論理」は持っていても、「女性の実体」がない存在と言えるでしょ?まさに、「意味」と「論理」が乖離している存在ですよね? 「意味」と「論理」がせめぎ合っている状態だったら、一期一会の作品に結実するわけですが、ただ単なる乖離だったら、一回性を持つ作品とは言えない。消しがたいほどに強烈な意味を持つが故に、それに伴う論理も作品に寄与することになる。 まさに、単なる小さな女の子を愛しても、何かが誕生するわけでもない。 たぶん、この「不思議の国のアリス」でのアリスのモデルとなった女の子は、「意味」と「論理」というか、「女性の論理」と「女性の実体」が、一期一会的なせめぎ合いの状態だったのでは?そんな時期は、まさに一時のものであり、同じように、芸術家としてのルイス・キャロルも一期一会の存在と言えるのでは? (終了) *************************************************** 発信後記 作品というものを考えるにあたって、ゼロから何かを作る人の視点と、いわゆる研究者の視点があり、その2つは大きく違っています。 研究者は、「していること」「言っていること」には着目しますが、作品の理解のための本筋は「しようとしないこと」「言っていないこと」だったりする。 この「不思議の国のアリス」の書籍に付随する解説で、「この作品はキャロルが即興で語った話を基にした。」・・・なる記述があります。まあ、キャロル本人がそんなことを言ったのでしょうね。 研究者とまりの人は、そんな言葉をまじめに受け取ったりするもの。 しかし、論理と意味の不整合の内容なんだから、いくらキャロルが天才と言っても、純然たる即興は無理ですよ。 そもそも即興って何?その場で、浮かんだものを、そのまま語ること?この話をまったくゼロの状態からその場でひねり出したの? 別の例で考えると、たとえば、レトルトカレーがあって、3分間暖めれば食べられる・・・ということでも、それは3分で食べられる状態になるということであって、3分でカレーができたということではないでしょ? レトルト状態にするまでに、結構な時間がかかっているわけでしょ?野菜を切って、肉を炒めて・・・と、色々な工程がある。 純然たる消費者というか、純然たる読者だったら、その違いを考える必要はないでしょう。 カレーだったらおいしいかどうか?文芸作品だったら、楽しいかどうか?それだけで十分。 しかし、研究者だったら、取り出す前の状態まで考えないとね。 キャロルとしては、様々な問題意識があって、それを、アタマの引き出しに入れて、適宜、自分で考えていったわけです。 アタマの中の引き出しには、山ほどの、小ネタが入っている。それを、その都度、取り出して語った・・・それがキャロルの言う即興ということ。 だからこそ、アリスが地下の世界に落ちていく際には、途中で本棚とか食器棚を見て、そこから色々と取り出すことになる。引き出しでも、あるいは、棚でもいいわけですが、事前に色々と入っているから、簡単に引き出せる。そのことを、キャロル自身が、ちゃんと作品中で「解説」しているわけです。 作品の理解ということは、その引き出しの方を理解することが重要なんですよ。 まあ、ゼロから何かを作る人は、そんなことは当たり前にわかることなんですが、逆に言うと、それがわからないからこそ研究者をやっているもの。だからその手の解説って、トンチンカンの極み。 そんな解説を読むと、まさにアリスの様に途方に暮れることになってしまうんですね。 |
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R.11/2/18 |