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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない発想,精神
配信日 09年11月25日 (10年10月1日 記述を追加,11年1月19日 一部分を分離))
タイトル ふんぎり
追記 覚悟のない表現」という部分を分離独立 (11年1月19日)
前回配信のメールマガジンで、「チャンレンジ精神」についての文章を配信しております。
何事も減点法のダメダメ家庭では、何かにチャレンジするという発想がない。むしろ、人のチャレンジを「くさす」ことばかりしている。
そんな環境で育ったので、ダメダメ家庭出身者は、何も新しいことを始められない。

何か新しいこと・・・なんて、たいそうなことではなくても、ちょっとしたことでも、何もしない。まあ、「ふんぎり」を持って物事を始めることをしない。
たとえ、チャレンジする機会があっても、
「これをやったら、こんなデメリットがあるんじゃないかなぁ・・・」
「こんなことをしたら、色々と不都合なことが・・・」
と、真っ先にデメリットをあげて、ウダウダしているだけ。

まあ、新しいことをすれば、メリットばかりとは言えませんよ。しかし、何かを成し遂げたいと思ったら、「ふんぎり」をつけて、始めないとね。
そんな簡単な「ふんぎり」の一つとして、たとえば、誰かにメールするなんてこともありますよね?今まで何回もやり取りをしているなじみの相手ならともかく、初めての相手なら、やっぱり「ふんぎり」も必要なもの。

私のようなメールマガジンの発行者に対しても、意見を言いたいこともあるでしょうし、質問をしたいこともあるでしょう。どんな意見であれ、「伝えたい」という真摯な思いがあるのなら結構なことですよ。
それに、本来は、誰かにメールするくらいなら、失敗しても大したことではないんだから、「ふんぎり」の練習としてはちょうどいいのでは?

私の元に来るメールにおいて、初めての人からのメールの場合には、その人が普段やっている「ふんぎり」の度合いが判るものなんですね。
初めての人に意見を言ったり質問したりするのはいいとして、そのようなことにどれくらい馴れているのか?
ただ、回数が多いということではなく、「初めての人とのやり取りから、自分が求める成果をあげるには、どうすればいいのか?」日頃から考えている人は、そんな文章になっているものなんですよ。

それなりの準備を持って、自分の考えをまとめ、相手に分かりやすく伝える・・・これは単に度胸とかの問題ではないでしょ?
むしろ、当事者意識からくる覚悟の問題でしょ?
あるいは、その事態における重要な点を認識する問題でしょ?
あるいは、事前準備の問題とも言えるでしょ?
と同時に、初めてやり取りする人だったら、結果的に、コケることもある。
その失敗をどのように受け入れ、どのように次に生かすのか?馴れている人は、その準備も、しっかりしている。失敗やトラブルの準備も出来ている人だからこそ、成果をあげられる・・・世の中そんなもの。

そんな、ちょっとした「ふんぎり」の経験を積み重ねて、それこそ、就職や結婚などの、人との出会いなり、決断になっていくわけでしょ?しかし、「ふんぎり」がない人は、「で・き・と・う」で結婚して、「て・き・と・う」に子供を作って、その子供には「ふ・つ・うの子供になれ!」と要求する。メリハリがなく、まさに「だらぁ〜」と流れているだけ。あるいは、以前に書いた表現だと「テンテンテン(・・・)」と言った感じになっている。何かを聞かれても、「ワタシは・・・その件については・・・えーと・・・」そんな感じで「Yes No」を明確にせず、流れている。
普段から判断から逃避し、減点法で生きて、失敗を過度に恐れるダメダメな人は、一番、考えなくてはならない選択の場面で、一番考えない。

そうなる前に、せめて「ふんぎり」の訓練くらいはしておいた方がいいのでは?
それこそ、この私に意見のメールをするのもよし、投稿の文章を考えるのもよし。
どうせ、失敗しても、大したことじゃあ、ありませんからね。

日頃から、覚悟を決めて、自己責任の原則を持って、何かを始める。
そんな訓練を早めにやっておかないと、選択することをどんどんと先送りするようになってしまう。選択を先送りして、結果的にトラブルになっても、自分が選択したわけではないので、「ワタシは悪くない!」と言えてしまう。そんな言い訳が通ってしまうので、ますます何も選択しないような人間になってしまう。

逆に言うと、日頃から「ワタシは悪くない!」なんて言っている人は、その行動にふんぎりがないもの。それだけ自分自身で考えずに、何かあると他者を犯人認定する傾向が強いことが見えてくる。決意を持って新しいことにチャレンジすることに慣れている人間の方が、やり取りにおいても危険はないわけです。だって、それだけ自己責任があるわけでしょ?
何事も自分でやるから、責任も持てるわけだし、だからこそ尊厳もあるんでしょ?

ダメダメ家庭出身の人間が、自分自身を再生させるためには、規格品的な「レディーメイド」なスタイルを捨てる必要がある。ちゃんと自分そのものに合ったスタイルを自分で作っていかないとダメなんですね。しかし、ダメダメ人間ほど、自分で考えることが怖く、ありきたりな規格品にすがってしまい、その「規格品的なふつう」の姿を捨てることができない。自分自身に対する信念があるがゆえに、再生の信念があるがゆえに、そして再生に対する切実さがあるがゆえに、ありきたりなものを捨てることができることになる。
愛情なんてその典型でしょ?ダメダメな人が語る愛は、実に軽い。まるで何かの大量生産の商品のように軽いもの。

ダメダメな人は、型どおりの安直な愛や結びつきにすがってしまう。たとえば、地縁血縁のような努力もせずに得られるものにすがってしまう。そんな人が言う親子の愛などは、単なるストーカー的な言い訳になっているだけ。そんな愛は発展していかないし、後は惰性になるだけ。

自己逃避のダメダメ人間は、「ありきたりな」「ふ・つ・う」の中に浸りきって、思考停止になってしまう傾向が強い。たとえ、それなりに考えるにしても、ダメダメ人間は発想が減点法であり、マイナス面ばかりに着目するので、発想としては「そのマイナス部分を少なくしよう!」と考えることになる。大きなクラッシュになるような事態は避けようと必死になる。まあ、これは誰だって同じこと。しかし、ダメダメ家庭では当事者意識がないので、マイナス部分しか考えない。プラスがありえないわけです。だからこその「ふつう」なんですね。

それにダメダメ家庭では、親は子供をサポートしたりはしない。子供がどんなに困っていても知らん顔。それどころか「いったい、誰のためにこんな苦労をしていると思っているんだ!」と親の方が先にグチる始末。
だから子供としては「自分の身は自分で守るしかない」状況になっている。
だから何をするに当たっても、常に逃げ場を確保するようになってしまう。

「常に逃げ場を意識する。」って、スパイ映画に出てくるスパイみたいですね。何かオドオドしちゃっている状態。
たとえば、人と相談するにあたっても、「いざとなったらスグに逃げられるような相手」に相談することになる。だって、逃げることができる相手だったら、厳しいことを言われたら、もう2度と相談しなきゃいいわけでしょ?あるいは、この手の人は、相談にあたって、情報を小出しにする。それだったら、相談相手から厳しいことを言われたら、「実は、こんな事情もあって・・・」って、言えるでしょ?

しかし、そんな気構えで、事態が解決されるわけがありませんよね?本来なら何がしかのプラスを獲得するために、相談なりのアクションを起こしたわけでしょ?そんな逃げ腰の相談で何がプラスになったの?結局は、グチを言っているだけでしょ?

あるいは、夫婦に深刻な不和が顕在化した場合には、この手の人間は本気で離婚しようとは考えていないのに、「離婚したい。」なんて、配偶者なり周囲の人に対して言い出す。
そして、到底のめないような条件を相手に対して要求する。
自分がつけた条件が相手からのまれないので、「とりあえず」一緒に暮らす・・・そして相変わらずブチブチとグチばかり。
「ああ、本当は離婚したいなぁ・・・」
「あの人が、ワタシの条件をのんでくれたらなぁ・・・」
いわば逃げ場を意識した中途半端な立ち位置を、自分で作っている状態。そして判断するのは自分自身ではなく常に相手側。

それはそれで勝手ですが、そんな安全圏から何を言っても、説得力ゼロですよ。だって、結局は現状維持でしょ?
何かことを起こす場合には、退路を絶って「ルビコンを渡る」ことも必要でしょ?

「自分は常に逃げ場を意識している」ということを自覚していれば、まだしも、往々にしてそんな人は自己逃避であって、その意識すらない場合が多い。
アッチコッチに相談を持ちかけたりして、「内容を小出しにして」「都合が悪くなるとスグに逃げ出し」たりして、ますます自分の立場を悪くする。
「自分がしたいこと」が意識できているのなら、安全圏から抜け出して勝負することも必要なんですね。そうすれば、その真剣な姿に共感してサポートしてくれる人も出てきますよ。しかし、ふんぎりのないその手の人は安全圏から出ようとしない。

本当に安全圏にいたいのなら、それはそれでいいわけですが、じゃあ、子供なんて作っちゃダメでしょ?
しかし、何も考えずに「てきとう」に作ってしまって、「子供のせいで離婚できない。」「子供がいるから自由になれない。」「ワタシって、なんてかわいそうなの?!」とグチる。そして子供に対し「こんなに苦労して育ててやっているんだから、後々には、その補償をせよ!」と、まるで韓国人のようなセリフを言うばかり。

そんな人にとっては、子供というのは、イザと言う時の逃げ口上として、実に便利になっている。つまり、決断力があるから子供を作ったのではなく、避妊という判断ができなかったから、子供ができただけと言えますし、自分で決断しないための理由として、子供を作ったとも言えるわけです。そして子供に対して「オマエを育ててやっている。」という持ち出しを意識した恩着せがましい態度を取る。
恵んでやる、育ててやるという意識の根底には被害者意識がある。
そして、その被害が相手から認定されないと、逆上するだけ。
逆に言うと、いざとなったら逆上すれば、それでオシマイという相手とのやり取りをしようとする。

「ふんぎり」という発想は、覚悟と通じているわけです。
「失うものもあるかもしれないけど、これだけは得たい!」
そのように考えるから、退路を断って、進むわけでしょ?

逆に言うと、「ふんぎり」とは無縁な人は、覚悟を持っていない。
だから、覚悟をもって全身全霊をかけて取り組むのではなく、「関わらないとマズイ」くらいの、二重否定的なニュアンスとなる。
だから、スタンスとしては、受け身であり、実に傍観者のスタンスなんですね。
そんな傍観者然とした態度なんだから、結局はトラブルになってしまう。
しかし、当人としては、まさに「ふんぎり」という主体的な判断をしていないがゆえに、自身を純然たる被害者の立場においてしまって、「どうして、こんなことになってしまったの?」と大仰に嘆くばかり。

確かに、間違った判断はしていないわけですが、現実的には何も判断はしていないとも言える。だから、結果としてトラブルになるのは当然のこと。
自身の「ふんぎり」を元に、事態に飛び込んで、結果的にうまくいかなかったらそれは失敗となる。
「ふんぎり」もなしに流れているままで、うまくいかなかったら、それは被害となる。
被害という立ち位置の方が当人にしてみれば、都合がいいわけですが、逆に言うと、その居心地の良さ故に、同じ様なトラブルを繰り返す。
そうして「どうして、ワタシはいつもこうなってしまうの?」と、さらに大仰な嘆きになってしまう。

「ふんぎり」って、たぶん、「踏ん切り」なんでしょうが、もしかすると「糞切り」なのかな?新しい道に進めば、まあ、犬のウンコくらい踏むこともあるでしょ?それを恐れていたら、何もできませんよ。
ヘンなものを踏んでしまって靴が汚れたら、それこそ洗えば済む話。
しかし、そんな「ふんぎり」の訓練をしていないがゆえに、大きなドツボにはまってしまって抜け出せない。そんなダメダメ人間の姿を、皆様も見たこともあるのでは?

(終了)
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発信後記

本文とはほとんど関係のない話ですが・・・
今、政府で、予算のムダをなくすとかで「仕分け」をやっていますよね?
それでスーパー・コンピューターの予算が削られてしまって、議論噴出でした。
昨日24日には、旧帝国大学と、早稲田,慶応大学の9大学のトップが学士会館に集まって、緊急アピールがあったようです。

このメールマガジンではダメダメの問題を考えるにあたっては、「言っていること」や「していること」よりも、「言おうとしないこと」「しようとしないこと」に着目する必要があると、頻繁に書いています。
前述の大学トップの緊急アピールですが・・・9大学はともかく、「入っていない」大学があるわけ。
東京工業大学です。まあ、民主党の管さんの母校でもあるわけですが・・・

どうして入っていないの?
逆に言うと、今回のアピールは総合大学限定となっているわけ。
つまり、スーパー・コンピューターなどの科学技術の問題は、単に科学技術の問題ではなく、日本の「総合力」に関わる問題なんだよ!というメッセージが、その参加者の構成だけで読み取れるわけ。東京工業大学を入れてしまうと、その面が弱くなってしまう。あるいは、旧帝国大学に限定すると、逆に、閉鎖的に見えてしまう可能性もある。だからこそ、私立大学も参加してもらったということなんでしょうね。国民の広い声・・・という雰囲気を出したかったんでしょう。まあ、アタマのいい人の思考は読みやすい。

しかし、まあ、エゲツない構成になっていますが・・・
旧帝国大学はともかく、早稲田と慶応以外の私立大学は、内心ではどう思っているんだろう?参加していない大学の考えを聞いて見たいと思っているのは、私だけではないはずですが、たぶん、一言も言えないでしょうね。逆に言うと、今回のアピールは見事なシナリオというわけ。

こんな見事なシーンは、研究者などの大学関係者では作れませんよ。たぶん、文部科学省の中の切れ者が、シナリオを書き、コーディネイトしたんでしょうね。学士会館という場所も含めて、乾坤一擲の「帝国の逆襲」の雰囲気ですが、文部科学省の中にフォースを使いこなす人がいるのかな?
R.11/1/19