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カテゴリー ダメダメ家庭出身者の活躍分野
配信日 09年11月30日 (10年10月24日 記述を追加)
タイトル ネット信者
このメールマガジンでは、逆上メールにたびたび言及しております。強い被害者意識と、会話不全というダメダメ家庭の基本精神を発現させた文章といえる逆上メールは、例題としては、まさにうってつけ。
ほんの数行の逆上メールの文章からは、まさに黄金が眠っているわけ。まさにネタの宝庫なんですね。

さて、以前に取り上げた逆上メールの中にこんな表現がありました。
「もうネットなんてやらない方がいいよ!」なる表現。覚えていますか?

これって、不思議でしょ?
まあ、逆上メールなんて、そもそもが支離滅裂なんだから、無意味に満ちていると言えますが、これはやっぱりヘンだ!

このメールマガジンは、私が書いた文章を、メールマガジンのシステムを使って購読者の皆様に配信しております。そして配信した文章をバックナンバーのサイトに適宜アップしております。
まあ、まさにインターネットのシステムを活用しているわけです。
「ネットをやってはダメ」ということになったら、この文章だって配信できないし、バックナンバーも収録できないし公開もできない。

そうなんですが、ネットのシステムを活用はしておりますが、それはあくまでメディアというか道具として使っているだけ。ネットに意味があるのではなく、文章に意味があるわけでしょ?
だから、私にクレームをつけるにせよ、「もう、ネットなんてやらない方がいいよ!」なんて表現を使うのではなく、「もう、こんな文章なんて、書かない方がいいよ!」というクレームの方が適切なのでは?

「この文章をネットで配信したらケシカランけど、パンフレットとして配布するのはOKだ!」
そう言いたいの?
たぶん・・・そうではないでしょうね。
だったら、やっぱり、「もうこんな文章なんて、書かない方がいいよ!」というクレームの文言にした方がいいですよ。

じゃあ、どうして、「もうネットなんてやらない方がいいよ!」なんてクレームの文言になってしまったの?

たぶん・・・その人は・・・「ネットは私たちのものだ!」・・・そのように思っているのでは?我々と価値を共有する人間だけが、ネットにいてほしい!
そう思っていないと、「もうネットなんてやらない方がいいよ!」というクレームの文言にはなりませんよ。

じゃあ、どんな価値を共有したいの?価値を共有しているワタシたちって、どんな人たちなの?

ダメダメ家庭の人間は、対抗心が強い。そもそも被害者意識が強いので、スグに何かを犯人認定して、その犯人認定した対象を恨み、対抗心を募らせることになる。「あの○○のせいで・・・うまくいかない!」「その○○をやっつけろ!」と言い出すことになる。
ネットに価値を感じている人は、ネット以外のものに対して対抗心を持っている・・・だからネットの価値を評価する・・・そうなりますよね?
だからこそ、ネットの世界では、やたら関西弁を使う人が多いでしょ?
それだけ、対抗心や被害者意識とネットの世界がつながりやすいわけ。

ネットじゃないもの・・・となると、テレビとか新聞とかの旧式のメディアになるでしょう。実際にネットの世界では、テレビとか新聞に対して敵愾心を持っている人って、結構いたりするでしょ?まあ、逆も真なりで、旧式のメディアは、ネットに対して敵愾心をもっているようですが。

ネットに愛着を持つのはいいとして、テレビも新聞も、本来なら、敵愾心を持つ対象ではないでしょう。自分がほしい情報を得るのに役に立つかどうかというプラグマティックな問題があるだけ。新聞は自分がほしい情報が載っていないから見ない・・・それでいいんじゃないの?そのメディアを評価しないにせよ、この新聞に載っている情報は知的レヴェルが低い・・・そんな評価スタイルが適切なのでは?
敵愾心を持つということは、自分と同格なり自分より上と思っているわけでしょ?
しかし、新聞もテレビも、そしてネットも、所詮はメディアですよ。メディアに価値があるわけではなく、その中の情報なり文章に価値があるわけでしょ?ガラス瓶に入っていようが、ペットボトルに入っていようが、紙ケースに入っていようが、オレンジジュースならオレンジジュース。

しかし、対抗心が強いダメダメ人間は、旧式のメディアに対して、不必要な敵愾心を持っていたりする。だからこそ、インターネットの世界に、期待してしまう。
ちょっとした「約束の地」状態。
「ネットの世界だけが、私たちを救ってくれる!」
「ネットの中だけに、真実の情報がある!」

それはいいとして、そこまで入れ込むことはないじゃないの?
いったい、どんな真実の情報があるの?
いったい、何が知りたいの?
どんな感じで、救われたいの?

ダメダメ家庭の人は、ネットに対しての期待が強い方が実際に多いようで、私のサイトに対する感想でも、「ネットのおかげで面白い文章に出会えた!」という声も実際にあったりします。
しかし、それだってネットが主ではなく、私の文章が主じゃないの?
私の文章をけなすにせよ、ほめるにせよ、ダメダメ家庭の、というかダメダメ家庭出身の人は、ネットの問題と無理に絡めてしまうこともあったりするわけ。

ネットのいいところは、規制が少ないこと・・・も、あるでしょうが、私が思うには、文章を出すのに際し、費用負担がない・・・その点になります。
昔だったら、自費出版なんて手法しかありませんでした。これだと費用がかかる。
メールマガジンだと、無料でできる。これは大きい!

費用がかかるということは、どうしても「モトを取る」必要があるわけで、どうしても「あたりさわり」のない文章が求められる。まあ、実際問題として、現在出版されている書籍なんて、まさにマルグリット・デュラスがいう「面白くない本」・・・つまり「感じがよくて、何も残らず、夜がなく、沈黙がなく、真の作者がなく、昼間向きで、時間つぶしに最適で、よき旅行のお供・・・ 」そのものでしょ?
しかし、出版社としても営利でやっているわけだから、これはしょうがない。
確実に売れる本しか、出版できませんよ。

私の文章のように「差し障り」がテンコ盛りの文章は、まあ、50年くらい経たないと書籍にはならいでしょう。ただ、その頃には書籍の形態も、今とはかなり違っているでしょうが。

費用の問題でネットを使って文章を配信している私のような人間もいれば、規制が少ないからという理由で、ネットに入り浸っている人もいますよね?あるいは、対抗心を共有できるという理由で、ネットに入れ込んでいる人もいる。
そして、テレビや新聞などの旧式のメディアに対しての対抗心を膨らませながら、グチ大会。

そんなグチ大会の会場に、「で、アンタ自身は、結局どうしたいの?」などと言う私の文章が出てきたら、腹の立つ人もいるでしょう。
そんなシーンはインターネットの領域以外にも、それこそグチばかりの井戸端会議の周辺でも起こっていること。
私の文章に腹を立てたり、旧式のメディアに対して不満を持つのはいいわけですが、だからと言って、ネットに入り浸れば解決するという問題ではないでしょ?

旧式のメディアに対して不必要に敵愾心を持っている人って、結局は、自分は被害者だと説明できればそれでいい・・・そんなスタンスの人が多いもの。
だから一貫した論理も何もない。
たとえば、テレビ番組において、放送された内容が虚偽の場合がありますよね?そんな虚偽放送に対して、「免許停止にすべきだ!」なんてネット上で息巻いている。しかし、そんな人は、以前にあった「こんにゃくゼリー」の問題では、「購入者の自己責任だ!」などと平気で言っていたりするもの。

「こんにゃくゼリー」も自己責任なんだから、虚偽放送を見るもの、見ないもの自己責任ですよ。
わざわざヘンテコな番組を見て、「ああ!この番組はウソばっかりだ!ああ!こんな番組を見せられて、オレたちって、なんてかわいそうなんだ?!」そう言っているだけでしょ?それって、わざわざ「こんにゃくゼリー」を買って、のどに詰まらせている人とどう違うの?

どんなメディアも、自分で判断して上手に付き合えばいいだけ。しかし、ダメダメ家庭出身の人は、まさに入れ込み、入り浸ってしまう。旧式のメディアに対して敵愾心を持ち続けるわけ。従来からのメディアというものは、技術的に見て旧式という問題以上に、その「あり方」が旧式でしょ?

問答無用で、権威主義。

そんな存在をなぜに嫌うのか?
それって、その人の親を思い出すからじゃないの?
旧式のメディアに敵愾心を持ち、ネットに期待する人は、その人の親への敵愾心を、別のものに転化しているだけでしょ?
自分の親に対して不満を持っているのなら、逆に言うと、どんな点が不満なのか?
ちゃんと自分自身で理解する必要があるんじゃないの?

しかし、ダメダメ家庭の人間は自己逃避であり、自分で考えることから逃避する。
おまけに、ダメダメな親は子供に対し「親に迷惑を掛けるな!」と厳命し続けたので、自分の親の問題はアンタッチャブル。だから、以前に書いたように親の代替品に対して敵愾心を持ってしまう。

結局は、「悪いのは全部○○のせいだ!」なんてネットで盛り上がる。
しかし、それって、まさにその人の親がやっていたことと同じなんですね。
ネットに過大な期待を持っているようだったら、ちょっと自分の親の問題を考えてみる・・・そうすると、見えてくるものもあるのでは?

インターネットも、あるいは旧式のメディアも、そこにある言葉などの情報が主であって、場所はあくまで従。
本来は、まずは主である言葉なり情報などに着目する必要があるでしょ?

しかし、インターネットに入り浸っている人は、まさに「もうネットなんてやらない方がいいよ!」なんて感じで、場の雰囲気の維持が目的化されている。「こんな人に対して、このようなことをわかってほしい。」・・・そのように明確な形で意識しているわけではない。だから、その文章も独りよがり。

たとえば、インターネットの掲示板などの書き込みには「www」なる表記があったりしますが、そんな表記を使っている人は、どんな人に対して、何を伝えたいの?
あるいは、その「www」なる表記を書き込んで悦に浸っているオバカさんはともかく、そんな表記が付いた文章を読んでいる人もいるわけでしょ?何が楽しくて、そんな表記付の文章を読んでいるの?未だかつて、そんな文章に内容があったためしがあるの?
内容があるのなら、そんな表記はしないのでは?
わかってほしいことがあるのなら、あるいは対象としている人が明確になっているとしたら、文章自体をもっと的確な表現をするのでは?
結局は、書く人間と同時に、入り浸る人間も吹きだまり状態になっているんですね。

結局は、何かを伝えたいのではなく、「ワタシは悪くない!」「ボクは被害者なんだ!」という自己弁護しているだけ。そんな人と一緒になっても、結局はトラブルになって、真っ先に「ボクは悪くない!」と言われてしまって、「ボクじゃなく、オマエが悪いんだ!」と犯人認定されるだけですよ。

文章を書いている人に「これを伝えたい」という思いがないので、単なる情報の羅列になっている。だから、そんな場所に入り浸っている人で、「自分は情報に強い人間、いわば情報強者だ!」と自画自賛したりする人もいますよね?まあ、そんな自称情報強者さんは、旧式のメディアからしか情報を得ない人を、「情報弱者」と言って揶揄していたりするでしょ?

情報弱者という言葉で誰かを揶揄するのはいいとして、その人は、そんなご立派な情報収集能力で何をするの?どんな判断をするの?どんな知見にまとめ上げるの?
そっちの方が重要でしょ?そんな自称情報強者さんは、ただ、時の政府にケチをつけて、興奮しているだけ。いわば、夜の公園でカップルを覗いている出歯亀のスーパーエリートのようなもの。
覗きのテクニックを持った人間よりも、覗かれる方が、まだマシなのでは?
「オレは情報強者だ。」という自慢は、「オレはすばらしい出歯亀だ!」と自慢しているようなものじゃないの?

情報の場所に意味があるのではなく、情報そのものに意味があるのであって、そしてそれを使いこなす人間にこそ意味があるわけでしょ?
ところが、いわゆる情報強者は、その人間自体がダメダメ。
だから多くの情報があっても使いこなせない。
情報をいっぱい持っていることくらいしか自慢できるものがない。しかし、だからと言って、何も達成するわけではない。その人に達成したことがあるのなら、持っている情報を自慢するのではなく、自分が達成した成果を自慢するに決まっていますよ。
ソクラテスもキリストも、情報をいっぱい持っていた情報強者ではないでしょ?
彼らの持っていた情報なんて、今の小学生以下ですよ。
しかし、彼らは、まごうことなき知の巨人でしょ?

情報強者を自称する人なんて、ワイドショーネタで頭をいっぱいにしているオバサン連中と質的には違わないでしょ?あるいは、そんな自称情報強者は、社会の負け組みでしょ?
今の社会で認められなくても結構ですが、その立派な情報とやらで、歴史の審判に値する知の巨人を目指したら?

ネットだって、そこにある情報から、自分自身の考えを纏め上げればいいだけ。
しかし、自己逃避で抑圧的なダメダメ人間は、ただグチで共鳴しているだけ。
しかし、そんなグチの共鳴だけでいられる・・・そんなぬるま湯的なところだからこそ価値を認めてしまう・・・だからこそ排他的になり、だからこそ入れ込んでしまう。

いわばlikeではなくneedの状態。
自分の価値を、「そこ」に依存しているわけ。だからこそ、部外者が闖入してくるのが許せない。
ネットだって、目標達成のための道具として上手に使えばいいだけ。しかし、達成したいものがないので、道具として使いようがない。だから入り浸ることが目的化されてしまう。

入れ込みとは、自己逃避であり、自分との距離感が不全となっている状態。
本質的には自分自身を肯定していないし、だからこそ、入れ込んでいる対象も肯定していない。「それ以外のものを、否定する。」という二重否定。
ネットに入り浸っている人は、ネットの価値そのものを高めようとはしていないでしょ?

ネットだろうと、旧式のメディアだろうと、そのメディアの価値は、その中にあるコンテンツですよ。
「価値のある、あるいは示唆的な内容を持つコンテンツをどうやって収録していき、アクセスしやすくしていくか?」
そんな問題意識が、そのメディアの価値を高めていくわけでしょ?
それこそが、そのメディアを肯定しているということ。

しかし、ネットに入り浸っている人は、「アンタはネットなんてやらない方がいいよ。」とクレームをつけるという「気に入らないものを、排除する。」という二重否定のパターンでしょ?「気に入らないものを、排除する。」という二重否定は、肯定からは二重に離れている。

だから、そんな人によって、ネットの価値は上がらない。
ネット信者が大きな声を上げれば上げるほど、ネットのコンテンツ発信力は落ちていってしまう。
人の文章にケチをつけるのではなく、せめて、豆知識を集めたものとか、ちょっとした小ネタを集めたサイトを作るくらいは誰でもできるでしょ?
そんな積み重ねこそが、ネットの価値を向上させるんでしょ?

ちなみに、06年からインフォシークの無料サービスを使って運営してきたこのバックナンバーのサイトですが、なんでも10年10月いっぱいでその無料ホームページサービスが終了となるとのこと。まあ、最近はブログとか、ツイッターの気軽な情報?発信が流行ですからね。ホームページを使って、まとまった形で発信していく人も少なくなってきているんでしょう。

無料ホームページサービスを終了するインフォシークに対しては、ビジネスだからそんな判断もありでしょうが、日頃からネットの価値を主張しているネット信者さんは、そのようなコンテンツ発信力がネットとして低下していることをどのように考えているんだろう?

結局は、同類たちと一緒になってグチっていられる場所があれば、それでいい・・・と思っているんでしょうね。
だからこそ「で、アンタは、いったいどうしたの?」と聞かれると逆上してしまうわけ。

(終了)
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発信後記

今回の文章は、以前に配信した「掲示板常駐者」という文章の親戚のようなものです。
本文中にも書いていますが、「情報強者」を自慢するよりも、「知の巨人」を目指した方がクリエイティヴでしょ?

逆に言うと、情報強者を自慢していれば、それでオシマイ・・・という世界にいれば、自分で考える必要がないので、精神的にラク。だからこそ、そんな場を過激な方法で守ろうとするわけ。
いわゆるカルトの人も、そのような集団的な自己逃避による安逸を守ろうと、周囲に過激なことをしたりするもの。

本当に自分が言いたいことがあるのなら、的確な表現で主張すればいいだけでしょ?
わかってほしいことを、わかってほしい相手に即した表現をすればいいだけ。
逆に言うと、抑圧的な人間はそれができないわけですし、それができる人ならば、その思考の方向性は別として、少なくとも抑圧的な人間ではないということになります。
まあ、情報強者なんて、自称している時点で、自分には考える能力がないと言っているようなもの。皆さんも、そんな観点で、その手の文章を、ちょっと見てみたら?
R.10/10/24