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カテゴリー | 弁解と謝罪 |
配信日 | 09年12月9日 |
タイトル | とりあえず言い訳 (言い訳と非難) |
ダメダメ家庭の人間は当事者意識がないので、達成したいものそれ自体がない。 だから、周囲の人に語ることと言えば、自分の被害の話ばかり。 そして上手く行かない理由を語ることになる。 「ワタシは悪くないわ!」 「あの○○が悪いのよ!」 この「ワタシは悪くない。」という主張は、いわゆる「言い訳」。 ダメダメな人間は、この言い訳ばかり。このようなことは、このメールマガジンで頻繁に触れております。 本来なら、上手く行かない事態になったら、まず、「自分自身の希望は何なのか?」「現状はどうなっているのか?」そして、「上手く行かない理由は何なんだろうか?」 そんなことを考える必要があるでしょ?そして、必要に応じ、誰かに相談すればいいだけ。 しかし、ダメダメ人間は、周囲に相談するような場面になっても、そんな合理的な発想はしない。 そもそも、自分自身の希望を言わないし、 現状を正確に伝えようとしない。 と言うか、そんなものを、そもそも自分でも分かっていない。 しかし、「うまくいかない理由」だけは登場してくる。 まさに「あの○○のせいで・・・うまく行かない!」と、真っ先に言い出すことになる。 以前に取り上げたエーリッヒ・フロム流に言うと「○○からの自由はあっても、○○をする自由を持とうとしない」状態と言えます。 だから、そんな話を聞かされても、「上手く行かないはいいとして・・・そもそも、アンタの考える『上手く行っている』状態って、具体的にどんな状態なの?」とか、「現状は実際のところ、どんな事態になっているの?」と疑問に思って、途方に暮れるだけ。 しかし、相談してくる側は、「どうすればいいでしょうか?」などと言葉の上では言ってくる。 そんな感じで質問されても、その人の希望がわからないし、現状もわからないんだから、何とも答えようがないでしょ? で、やっぱり『結局は、アンタ自身はどうしたいの?』と聞くしかない。 そうなると、「どうして、そんなことを聞くのよ!キーっ!」と逆上されるだけ。 まあ、皆さんはそんな事態になったことはないのかもしれませんが、それこそインターネットの掲示板だったら、結構見られる光景でしょ? ダメダメ人間が言いたいことは「ワタシが悪くないことを認めて欲しい。」ただそれだけ。 つまり言い訳しか言うことがないんですね。 逆に言うと、言い訳を言いやすいように日頃から行動することになる。トラブルの原因を誰かから指摘されないように何事も減点法で考える。だから、何も達成できず、結局はトラブルになって、ますます言い訳が必要になってしまう。 そして、物事を認識する段においても、「言い訳」をしやすいように認識する。 物事の見方が「誰のせいで、ワタシはこんな目に?」そんな犯人探しの見方しかできない。そんな見方しかできないがゆえに、ますます周囲の人のレヴェルが落ちて行ってしまって、ますますトラブルが発生し、ますます言い訳が必要になってしまう。 以前にも文章を配信しておりますが、ダメダメ人間は当事者意識がなく、物事の最後を締める発想がない。何かを手がけても、最終的な結論を出すことはしない。 結論をまとめ上げるのではなく、「なんとなく」「とりあえず」という「テンテンテン(・・・)」でオシマイになるだけ。トラブルになったら、見ないという対処を取るだけ。 それこそ、ケガをしたら、消毒して絆創膏を貼っておくものでしょ? しかし、抑圧的な人間は、キズを見ないという対処をとることになる。 だからこそ、そのキズから病原菌が侵入して、体中を回ってしまう。 あるいは「あの○○のせいで、ケガをした!」と誰かを恨むことになる。 恨むのはともかく、キズの処置をするのが先でしょ? しかし、「あの○○のせいで・・・ワタシは、こんなことに!ああ!なんてかわいそう!」と言うばかりで、キズに対しては何も処置をしない。ギャグを書いていると思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、キズへの対処はともかく、トラブル対応としては、ダメダメ家庭の周辺では、実際に起こっていることでしょ? 「あの○○のせいで・・・」そんな言葉がスグに出てきても、「自分はこうするつもりだった。」という言葉が出てこない。 以前に面白い実例がありました。 福田内閣当時の民主党の小沢さんの辞任騒動です。当時の自民党の福田さんと連立しようとしてコケた事件です。小沢さんの考えに対して、民主党の一般議員からの同意が得られなかったので、結果としては頓挫いたしましたが、小沢さんは言い訳のオンパレードでしたよね?小沢さんが考えた大連立に対して賛成が得られなかったと言っても、別に言い訳をする必要はないじゃないの?「自分はこのような政策を実行したいので、このように考えて行動した。」と明確に言えればそれでOKでしょ? 逆に言うと、そのように明確に言えないがゆえに、「○○のせいで・・・」と日頃から主張することになる。そして、いわば犯人となるその「○○」に自分が当てはまりそうだったら、急いで言い訳を始める。 とりあえずの言い訳をするような人は、所詮は会話の能力が欠如した人。だから、そんな人の話を聞いても、「で、アンタは何が言いたいの?」と思ってしまうだけ。 「自分は悪くない!」と真っ先に言い出す人の話を聞くと、むしろ、『この人は・・・いつもこんな感じなんだろなぁ・・・だからトラブルになっちゃうんだよ!』と思ってしまう。このようなことは、皆さんも感じたことがあるのでは? その言い訳も、自分の考えに根ざしていないので、言葉が安っぽい。 一本筋の通った発想なり信念があるわけではなく、ただ相手や状況に合わせているだけ。ただ、人から嫌われたくないだけ。だからその言葉に一貫性がなく、だからこそ信頼をなくし、ますます嫌われることになる。必死で言い訳を並べると、「それはそもそもアンタの問題じゃないの!」と相手から怒られたりする。 しかし、「許してくれ!ワタシを許して!」と相手に対して弁解をすることによって、「その弁解を受けるかどうか?」という相手の判断の問題になってしまう。当事者意識がないので、当人の判断の問題がなくなっている。 たとえば以前に略字の問題を取り上げたことがありますが、略字を指摘してその人から弁解をされた場合には、弁解を受けても怪訝な思いをするだけ。だって、「この私が許すも何も、今後も、アンタは、そんな略字を続けるの?」その問題が重要でしょ?それは、その人当人の判断ですよ。 もし、私が許したのなら、また続けるの? しかし、自己逃避の人間は、自分で判断することがイヤ。 だから自分が今後どうするのかの問題ではなく、相手が許すかどうかの問題になってしまう。判断を投げたいわけです。 しかし、そんな人とやり取りをする側は、「自分自身が、そのマターについてどのように判断するのか?」という問題を放っておいて、いきなり「ワタシを許してくれ!」「こんな事情があるんだよ!」なんて言われても・・・途方に暮れるだけになってしまう。 弁解することで、相手方の判断の問題になってしまうので、最後には相手方を批判して、終了となるもの。 「ワタシは悪くない!悪いのは○○の方だ!」「一生懸命に説明したのに、どうしてわかってくれないんだ?!」そう言いたいわけです。 いわば犯人認定としての批判なり非難を行うようになってしまう。 何かを非難することで、犯人認定の確定の儀式とする。そうして自分自身の問題から逃避してしまう。 言い訳と非難は、結びつきやすいもの。 言い訳が通用しなかったら、即、相手を非難・・・ダメダメ家庭の人間はそんな流れになることが多い。 そもそも、ダメダメ家庭の人間は、常に否定形。 誰かの行動なり発言を否定することしか能がない。 「自分自身ではどうしたいのか?」 そんなことを考えることから逃避している。 そして「あれは気に入らない!」「これも気に入らない!」そんなことばかり。 普段から、そんなことばかり言っているから、周囲の人間も同類ばかり。 そうして、「あれってイヤねぇ・・」「そうそう、これもイヤだわ!」と否定形で盛り上がることになる。 何も人のやることすべてを気に入る必要もありませんよ。 重要なことは「自分はどうしたいのか?」でしょ? 人の行動を見て、それに賛同できないのなら、「じゃあ、自分だったらこうしよう!」って思って行動すればいいじゃないの? しかし、自己から逃避しているダメダメ人間は、「自分だったらこうしよう。」という発想に行くことはない。常に誰かや何かを否定しているだけ。 そんな否定大好きのダメダメ人間は、批判とか非難とかの言葉が多くなってしまう。 社会の問題を批判するとか、 あの○○を非難するとか・・・ あるいは、もっと強い調子だと、 あの△△を糾弾する! ・・・そんな物言いが多く登場したりするもの。 そして「このワタシは、あの○○を批判している!まあ、ワタシって、なんてすばらしいの?!」と自画自賛。 実は、かなり以前に典型的な文章がありました。以前に起こった福岡県での飲酒運転によって3人の子供がお亡くなりになった事件でのことです。なんでも被害者の夫婦が、また子供を出産して、それを報道陣に公表したんだそう。 まあ、それはそれでいいとして・・・とある文章の書き手は、その夫婦の行動を「気に入らない!」と書いている。「その夫婦に自分がどんなにかわいそうな人間なのか、分かってほしいという気持ちがあるのではないのか?悲劇の主人公を気取りやがって!」そんな感じの文章でした。そしてその自分の文章を「社会批判」と、のたまっている。 気に入らないと思う気持ちは分からないわけでもありませんが、ただ否定的な感情を書き綴っただけの文章を「社会批判」とはねぇ・・・ このワタシたちがどんなにかわいそうな被害者なのか分かってほしい・・・という心情を、そのご夫婦が持ってしまっている・・・それは確かでしょう。しかし、それを「批判」したその文章の書き手も、負けず劣らず、そんな心情なんですね。 そして、「どっちがかわいそうな被害者なのか?」という被害者競争を、自分の心の中でやっているわけです。以前に書いた「被害者への対抗心」を持ってしまっている。 ちなみに・・・ 「批判云々というと、このメールマガジンの文章がそうではないのか?」 「オマエが言うな!」 ・・・と、思う人もいらっしゃるかもしれません。 書いている私個人は、人を批判しているつもりは毛頭ありません。ただ、購読者さんからのお便りの中に、そんな表現があったりすることもあります。 大阪を批判しているとか、韓国人を批判しているとか・・・ 私としては、自分たちの目の前の問題を顕在化、意識化するために、色々な事例を参考にしようと思っているだけです。価値判断をしているわけではありません。 ただ、私の文章は、かなり「詰めた」スタイルなので、批判とか非難とかにとられてしまう・・・そんなこともあるんでしょうネ。 くだけた表現ですが、論理的には、実に詰まった文章でしょ? 人の行動を否定するよりも、問題点を顕在化する方が意味があるのでは? 漠然とした違和感があるような場合には、それを文章化することで意識化、客観化できるでしょ?そうなれば、他の人にも考えやすいじゃないの? 幸か不幸か、この私には漠然とした違和感を、感知する能力も、指摘する能力も、文章化する能力もありますからね。私としてはそれをやっているだけですよ。 まあ、人を批判したり、非難したりして、喜んでいる人間は、無視すればいい。 そもそも、他者への批判なんて、聞いていても楽しいわけでもないし、有意義でもないでしょ? 人を納得させるような力がある批判は、自分自身に対する洞察が基本ですよ。 自分自身から目をそらした人間の批判は力がないだけでなく、失笑のモト。 あるいは、力のある批判には歴史的な洞察力が必要なもの。 しかし、ダメダメ人間がする批判は、単に感情論ばかり・・・「かわいそう!」とか「バカじゃないの?」とか「くだらない!」とか・・・ そんな「批判」の言葉は、自分を安くしているだけ。 そして相手を非難してオシマイとする。 自分の問題なり、一般的な問題に還元したりはしない。 自分の被害者意識が満足すればそれでオシマイ。 オシマイなら逆に言うと、「じゃあ、サヨナラ!」で済むわけですが、ことは単純ではない。 人を批判して喜んでいる人間は、あらゆる物事を批判と受け取りやすい。 その人へ寄せられたちょっとした言葉も、批判と受け取って大騒ぎしてしまう。 「このオレを非難するのか!このヤロー!」 と、スグに逆上することになる。 なにも「アンタの行動は間違っている!」なんて物言いではなくて、「こんな考え方を取り入れた形で、一度くらい、考えて直して見たら?」なんてちょっとしたアドヴァイスに対しても、それを非難と受け取って、逆上することになる。 あるいは、弁解ばかりしている人は、相手から説明されると、それを弁解と受け取り、自分に判断を投げられてしまったと逆上することになる。抑圧的な人間は、選択なり判断を恐怖するので、逆上しやすいわけです。 あるいは、相手から言い訳を投げられると、自分で考える必要があり、パニックになってしまう。だからこそ、相手より早く言い訳を投げて、相手に判断させたいと思っている。いわば言い訳競争をやっていたりするもの。 できるだけ、相手の側が考えるようにしておきたい。 「ワタシは悪くない!」という言い訳をしたいがために、逆に言うと「悪いのは全部○○のせいだ!」としたい。だから、犯人確定の儀式として、誰かや何かを非難するようになる。 だから、その手の人は非難という言葉が頻発することになる 「この人の言っていることは、ちょっと違うんじゃないの?」と思ったら、そこから自分なりに考えればいい話でしょ?他人を非難してもしょうがない。そもそも非難の言葉を投げつければ、その相手はその人自身の考えを変えるの? 人を非難して喜んでいる人間は、他人も「自分と同じように」人を非難して喜ぶものだと思ってしまっている。だから、ちょっとしたアドヴァイスも非難と認定し、そしてアドヴァイスしてきた人を敵認定してしまう。 シュールなギャグのような光景ですが、非難とか批判とかの文言を、自分から使うような人間は、単に会話の精神がないだけでなく、強い被害者意識を持っているもの。だからスグに誰かを敵認定して、「いやがらせ」に精を出すようになってしまう。 本来は非難するより避難した方がいいわけ。 たとえばギョーザ事件などで話題になった中国と付き合うのなら、中国のやり方を非難するよりも、距離を置くことの方が効果的でしょ?あるいは付き合うのだったら、覚悟を持ったり、保険をかけたり、引当金を積んだりする必要がある。中国を非難しても、しょうがありませんよ。非難という行為は、他者を犯人認定するという意味で、思考停止につながりやすいわけです。 言い訳をされたら、その言い訳について検討する必要などはないわけです。 「自分はこのように考えていた。」と明確に説明してきたら、相手をすればいいだけ。 あるいは、非難という言葉を聞いたら、避難するしかない・・・しょうもないダジャレではなく、ほんとうにそうなんですよ。 (終了) *************************************************** 発信後記 本文中で書きましたが、思考や判断から逃避するダメダメ人間は、弁解や言い訳を相手に投げることで、その言い訳を受けるか受けないのかという相手方の問題にしてしまったりするもの。 まあ、今現在そのパターンを驀進中なのが、現在の日本の総理の鳩山さんですね。 そんなことばかりだから、なんでも、先日、アメリカの駐日大使から大臣たちが怒られたとか・・・ アメリカ大使ともあろう人が、たとえ本気で怒っていても、顔を真っ赤にして怒鳴りつけるようなことは、通常はしないでしょう。 まあ、完全に逆上した状態だったら、逆に言うと、そんな芝居っ気のあるシーンは作れませんよ。 その手の行為をする発想としては、「コチラが怒っている。」ということを、面前の人間の背後に控えている人間にもわかるようにしたいわけ。面前の人間が慌てて上司の元に駆け込めるように、ストーリーを作ってあげたわけです。怒られた大臣にしてみれば、アメリカからの助け舟なんですね。 怒鳴った方としては、「どんなにバカな人間でも、これだけのシーンを作れば、ヤツラも少しは気合を入れるんじゃないか?」と考えているわけ。 とは言え、オバカというのは侮りがたいもの。 これほどのわかりやすいシーンを作ってあげているのに、バックにいる上司は、相変わらずのノホホーンだったりする。 そんな経験がある方もいらっしゃるのでは? その時には、やっぱりこのシーンが役に立つ。 このシーンは本国にも伝わるでしょうから、大使としても、本国に対するアピールにはなるでしょう。 たとえ、うまくいかなくても、本国としては「キミは一生懸命にやったよ。やっぱり、バカは死ななきゃ直らないな。」と納得してくれるでしょう。 大使さんとしては、感情的に怒っているだけではなく、ある種の、デッドエンドのラインを設定して、様々なシミュレーションをやっているところでしょうね。 やり取りの相手方が、感情的に怒っているだけだったら、後でリカヴァリーも可能ですが、デッドエンドを読み間違うと、シャレにならない事態になる・・・それくらいは、鳩山さんの周囲もわかっている・・・とは思いたいんですが・・・ |
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R.10/12/30 |