トップページに戻る | 配信日分類の総目次に戻る |
カテゴリー分類の総目次に戻る | タイトル50音分類の総目次へ |
カテゴリー | ダメダメ家庭は立派な言葉が好き |
配信日 | 09年12月21日 (11年1月6日 記述を追加) |
タイトル | 格言によるダメダメ進行 「子孫に美田を残さず」とか「働かざるもの、食うべからず」とかの立派な格言について |
世の中には格言と称される言葉があります。エライ人が言ったとされる、ありがた〜い言葉というヤツ。 たとえば明治の元勲である西郷隆盛は「子孫に美田を残さず。」とおっしゃったそうですよね?まあ、巷で販売されている格言集にも入っているんじゃないのかな? 実際の西郷がどうだったかは、私も知りませんが・・・子孫はともかく、弟には美田を残したと言えるのではないかな?だから、この「美田を残さず」という精神は、実際の西郷よりもむしろダメダメ家庭で実践されていると言えるわけです。 「子孫に美田を残さず。」 この文言の細かな解釈は別として、親がこの言葉を子供の前で使うことによって、子供への金銭的なサポートについては、「当てにするな!」という考えは十分伝わることでしょう?食卓等の何かの会話の中で、この西郷の言葉が出てくる場合もあるでしょうが、ダメダメ家庭においては、子供が「何かおねだり」をした場合に、お気軽にそんな言葉が出て来るわけです。 西郷というエライ人も言っているぞ!「子孫に美田を残さず」と・・・ しかし、西郷の言う「美田」という言葉は、そのどちらを重視するのかによって全然意味が違って来るでしょ?「美田」の「美」を重視するのか?「田」を重視するのか? 多分、西郷は「美」を重視してこの言葉を残したのでは?「努力もせずに、収益が上がる状態に子孫を残してはならない。」という意味じゃないの? しかし、子供はそこまでは考えられませんよ。あるいは言葉の解釈は人それぞれです。 存在するのは「西郷というエライ人間がのたまった『子孫に美田を残さず。』と言う言葉。」のみです。 「美田」の「美」を重視する解釈もありますが、「田」を重視する解釈も可能です。 この場合は「親たるものは子孫に微塵も財産を残してはいけない。」と言うような意味になるでしょう。 親からの経済的サポートは一切当てにしてはならない。そのようなことは西郷隆盛の教えに反しているのだ!西郷の教えに背いてはならない!オマエは西郷を愚弄するのか?! これから「人生の荒波?」に、サポートなしに、経済的にも自分一人で立ち向かっていく覚悟を要求されても、子供にとっては大変なストレスでしょう。 子供がこれからの将来を思い、気が滅入る状態になると同時に、実際に自分一人でつまり「美田」抜きで生き抜いた後で、残っているのは「燃え尽きた」自分だけでしょう。 たとえば、イングマル・ベルイマン監督の映画作品「野いちご」での主人公の息子さんが、まさにそのような「燃え尽きた」状態でした。 そんな「燃え尽きた」「生きる屍」の人間なんて、社会で活躍するだけの気力も残っていませんよ。まあ、唯一の使い道が「田んぼ」の肥料になるくらいでしょう? まあ、美田を作るには役にたつわけですね。 そして、そんな家庭で育ってしまうと、どうしても「不幸自慢」や「苦労自慢」をするような人間になってしまう。だって、達成したものよりも、苦労したものの方に実感があるわけですからね。ということで、周囲に苦労話ばかりして、結局は、周囲からジャマに思われてしまうだけ。 西郷さんがどのようなつもりで「美田を残さず」と語ったのかは、今となっては分かりませんが、ダメダメ家庭の親がありがたがる、ダメダメな格言として利用されてしまう・・・それが現実なんですね。 そしてダメダメな親は、西郷の教えを実践して子供に何も残さなかったことについての感謝を、子供に要求する始末。 「オイオイ!私は西郷の教えを守って、オマエに美田を残さなかったぞ!感謝しろ!!」 「子供に何もサポートしなかったワタシは、なんと立派な親なんだ!」 これがダメダメ家庭というもの。西郷さんはどう思っているのやら? あるいは、似た言葉で、「働かざるもの食うべからず。」なる立派な言葉もあります。 この言葉はかのマルクスが言ったのかは知りませんが、頻繁に使われたりするものでしょ? 元々は「働きもせず」に、人民から搾取したお金で「のうのう」と暮らしている貴族階級の人間の問題を指摘するが本意なんでしょうが、今の日本では、ニートというかブータローをしている人間に、よく言われる言葉ですよね? と言うことで、ダメダメ家庭では「家庭内プータロー」である子供に対して、説教に使われる言葉になっています。 まあ、家庭内のプータローも18歳以上だったらしょうがないところもありますが、ダメダメ家庭では10歳の子供に「働かざるもの食うべからず。」と言ったありがたい言葉を使ったりするんですね。 食事を取りながら、 「オマエは『働かざるもの食うべからず。』という言葉を知っているか?」 「オマエは働きもせず、食事なんて取って・・・」 言われた10歳の子供にしてみれば、『じゃあ、一体どうすればいいの?』と思うのは自明なんですが、子育てを被害と考えているダメダメな親としては言いたくもなるんでしょう。 それこそ「働かざるもの食うべからず。」という言葉を食事中に話されても、子供にしてみれば、『では、食事をやめればいいの?』『生きるのをやめればいいの?』と親に問い合わせるくらいしかない。しかし、そんな問い合わせに対して、親からの明確な返答はない。 ただ「働かざるもの食うべからずだ。」「いったい誰のおかげで食事ができると思っているだ?!」と言うだけ。 それこそ自分の中学生の娘を売春させたりする親がいますが、そんな親の行為も、この「働かざるもの食うべからず。」の観点からすれば、実に「倫理的」でしょ?たまたま自分は売春をさせられなくても、そんな家庭で育ってた人間が親になり、自分の子供を売春させてしまうようになってしまうのも、当然といえば当然でしょ?それこそが、その人の親から受け継いだ道徳なんですからね。 まあ、いくらダメダメな親でも、子供に売春させるレヴェルまで行ってしまっている例は多くはありません。しかし、行動はともかく、メンタル的には、共通しているわけです。だから、親としては、「売春をさせない代わり」に、「私たちが歳を取ったら、私たちの面倒を見るんだ!」となる。 負担を、というか被害への補償を先送りしているだけ。 さすがに、家庭内のプータロー生活をしている10歳の子供としては、その「親の老後の面倒」の要求に対して表向きには同意せざるを得ない。 ただ、子供が心の中で思うのは「アンタが老人になったら、奄美大島の老人ホームに放り込んで、残飯を食わしてやるからな!文句を言ってきたら、『働かざるもの食うべからず。』と言ってやる!」・・・こんなところですよね?以前に配信いたしましたが臥薪嘗胆となるわけです。 ダメダメ家庭での食卓風景は、言葉で交わされている会話と、心の中で展開されているドラマ?は全然違っているわけです。 しかし、「働かざるもの食うべからず。」という言葉を食事中に散々聞かされ、深層心理にまで刷り込まれると、一種の強迫観念になってしまう。 大人になっても、「働かないと生きる資格がない。」・・・そのように強迫的に思ってしまう。 あるいは、よくホームレスの方で、「失業したから家族の元には帰れない。」と答えて、ホームレス生活を続けていらっしゃる方もいますが、本来は家族というものは、失業とかのピンチにこそ支えあっていける存在であるはずでしょ? しかし、働いてお金を入れない人間は生きる価値がない。そのような家庭だからこそ、息が詰まる家庭より、テントで一人でいる方を選んでしまうことになる。 本当に助け合えるのは血のつながった家族だけ・・・なんて言葉がありますが、ダメダメ家庭においては、家族という存在は、本当に困った時には助けにならないだけでなく、心理的な負担になっている。まさに「晴れた日に傘を貸す」存在でしかない。 あるいは、過労死の問題も同じ。 死ぬくらいなら途中でやめればいいのに、死ぬまで仕事を続けるのは、仕事を失ったら「生きる価値がない。」という強迫観念があるからでしょ? 過労死したのは馬や牛ではないわけでしょ?ちゃんと判断できる人間が死んだんですからね。よく「仕事への責任感云々」が言われますが、責任感ではなく、強迫観念ですよ。ホームレスと同じなんですね。家族に対して「敷居」が高い状態であるわけです。 「働かざるもの食うべからず。」という言葉を言っていれば、子供がマトモに働く人間になるの?そんなものじゃないでしょ?子供をちゃんと働く人間にしたければ、それなりの技能を身に付けさせる方がマトモですよ。あるいは、何かあったら、サポートする旨を伝えて、トラブル発生時に、実際にサポートすれば、子供だって安心してチャレンジできるでしょ?そんなチャレンジをするから、意欲的に働くこともできるわけでしょ?失敗したら、その時点で、「食うべからず」となるのだったら、新しいことは何もできませんよ。失敗へのサポートがあるからこそ、働くこともできるわけ。 しかし、ダメダメな親はそんなことは何もしない。だって、西郷さんがおっしゃるように、美田を残してはいけないんだから。何もサポートをしない親こそよい親というのが、ダメダメ家庭の倫理となっている。前にも書きましたが、ダメダメ家庭においては、「赤ちゃんポスト」に投げ入れるのがデフォルトになっている。それ以上は、親にとって、オプショナルなサービス、つまり美田を残すと認識しているわけです。 ダメダメ家庭では、いわばグチのようにご立派な正論を言うだけ。だから、子供が長じて、「働かない」人間になってしまうわけです。「働くか?」「もう食べないか?」という選択において、結局は「食べない」方を取ってしまう。「働かざるもの食うべからず」という言葉から「食うために、働く。」となるのではなく「働かないから、もう食べるべきではない。」その方向の論理に展開されるわけです。働いていない10歳の子供にしてみれば、いつ何時、親からの「食うべからず」命令が執行されてもいいように、心理的に準備してしまっているわけです。 物心付いた頃からそんな日常なんだから、以前にも書きましたが、「生きる意欲」なんてなくなってしまう。生きる意欲をヘタに持っていたら、そんな家庭では、生きられませんよ。心頭滅却した枯れた境地にならないと、とてもじゃないけど、やってられませんよ。 大人に適用する論理を子供に適用する。そんなことは、本来は無理があるわけですが、そんなことをするダメダメ人間が唯一相手になってくれるのは、自分の子供だけ。 「子供に美田を残さず」「働かざるもの、食うべからず」に徹すれば、2010年に大阪で起こったネグレクト事件の母親なんて、実に倫理的と言えるでしょ?あるいは、巣鴨の置き去り事件の母親も、まったく同じでしょ?まさに西郷の教えに沿った行動じゃないの? あの母親たちだって、「西郷はこう言っているじゃないか!ワタシは子供の主体性を尊重しているんだ!子供の独立心を伸ばしたいんだ!」「アンタたちは『働かざるもの、食うべからず』という言葉を知っているのか?ワタシはそれに従っただけだ!」と言い出したら、どうするの? 逆に言うと、西郷の言葉は、ネグレクトの言い訳に使えるわけです。 あるいは、ダメダメな親は、この手の格言だけでなく、立派で倫理的な言葉により、自らのダメダメを正当化したりするもの。その家庭がダメダメであるほど、やたら、「親孝行」なる文言が登場したりするんですね。 「私が死んだら、盛大に葬式をやって、頻繁に供養しろ!」 「親の供養をしない子供は、親不孝だ!」などと子供に対して説教したりする。 通常は、子供が親に対して愛情を持っていれば、「親の供養」などは、要求されなくても、「やる」話ですので、あえて「供養を要求する。」必要はないわけです。 そこを「敢えて」要求する状態は、子供が親に対する愛情がないことを無意識的には自覚していることになるでしょ? 「念を押さない限り供養なんてしないだろうな・・・」 「葬式だって、サボるんじゃないのかな?」 と無意識的に思っている。 だから子供に念を押す。 しかし、念を押すような状態なら、念を押したってダメですよね?それこそ、「死人に口なし。」なんて立派な格言があるくらいなんですからね。しかし、ダメダメな親は子供に自分の供養を要求する。結局は、自分が納得できればそれでいいわけです。子供に対し念を押した親は、それで勝手に納得しているわけですが、子供としては「親の死後」も親への奉仕を要求され暗鬱な気分になるものです。 「親の死」は、ダメダメ家庭の子供にとっては慶賀に値するインデペンデンス・デイなんですが、それ以降も親への奉仕活動が続くとわかったら、子供は将来も解放感が得られないでしょ?せめて、死んだ後くらいは、解放してあげればいいわけですが、解放もせずに、死後も酷使しようとする。そんなことだから、結局は葬式もやらないまま。 あと、宗教的な道徳を持ち出すケースもあります。 敬虔な仏教徒として天国というか極楽浄土に入るためには、お金がかかりますよね? 居士とか信女とかの称号を買う必要があるでしょ? お金が有り余っている家庭なら、そのような散財も一種の道楽でしょう。 しかし、子供の進学や家族旅行をケチるようなダメダメ家庭の人が、居士や信女の称号を購入したりするもの。子供の要求には「もったいない。もったいない。」「子孫に美田を残さずだ!」と拒否し続けて来た人が、自分には散財する。 ケチって、ケチって、家族を泣かせて居士の称号を買う。 「子孫に美田を残さずに、本人には居士という称号を残す。」それが仏教の教え。 まあ、因業ジイサンや性悪バアサンには仏の慈悲があるんでしょう。仏教は偉大だなぁ・・・ その居士や信女の葬儀に、子供たちや孫たちの多くが出席拒否という事態になったりする。 ダメダメ家庭の周辺では、現実的に結構ありますよね?こんなお葬式。しかし「居士」とか「信女」の称号があれば、仏教的にはいいことなんでしょ? 勿論、限られたお金を、家族のために使うのも、自分が極楽に行くために使うのも本人の自由なんですが・・・ 西郷隆盛も、カール・マルクスも、ゴータマ・シッダールタも、ダメダメ人間にかかれば、ダメダメを進行させるためのネタにしかならないわけ。 逆に言うと、ダメダメ家庭では、その手のエライ人の言葉は聞いても、目の前にいる子供の話は聞こうともしない。そんな家庭は、まさに見た目には立派に見えても、カタストロフへ確実に進行しているものです。 そして、そんな家庭では、以前にも書きましたが「子供のために離婚しない。」なる立派な言葉が飛び交っていたりするもの。「子供のため」という言葉はともかく、そんな家庭状態を見続けた子供は、結婚しないケースも多いし、結婚してもスグに離婚したりする。だって、結婚生活について考えただけで不快な気分になってしまうんだから、将来について何も考えずに結婚してしまいますよ。だからどうしてもトラブルが発生してしまう。「子供のために離婚しない家庭」の子供は、そんな親のせいで離婚することになってしまう。そんな状態で、いったいどこが子供のためなんだか? あるいは、ちょっと前にも触れましたが「人間は生きているだけですばらしい存在なんだ。」なる歯の浮くような美辞麗句がありますよね?そんな美辞麗句は、登校拒否の家庭では頻発しているもの。 ダメダメ家庭においては、「生きているだけですばらしいんだから、余計なことをして親に迷惑をかけるな!」そんな意味になっている。 別のところでも書いていますが、「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす。」とか言われたりしますが、それまでの子育てによって、意味が違ってくるでしょ? 子供ライオンに対して十分にケアーしていて、そして、試練を与える目的で千尋の谷に突き落としたのか?それとも、落とす前には、食料も与えず、何もサポートもしていなかったのか?それまで食料も与えない子供ライオンを千尋の谷に突き落としたら、それは単に、「間引き」でしかないでしょ? 単に、「千尋の谷に突き落とす」という事件を見ただけでは、その意味付けが理解できないわけです。 哲学者のルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインが言うように、それまでの体験によって形成される認識の枠組みが言語の受け取り方に反映されるもの。その家庭における体験を理解できない部外者が何を言ってもムダになるだけ。単にムダになるというだけではなく、ダメダメを進行させる方向に活用されてしまう。ダメダメ家庭の親は、「親は子育てという被害を背負ったかわいそうな被害者」という基本認識なんだから、あらゆる格言も、それを補強するように受け取られ、そんな被害感情がどんどんと積み重なってしまう。 結局は、そのしわ寄せが、子供に集約することになる。 そして、そんな環境にいる子供が周囲の誰かに相談すると、「自分の子供を愛さない親はいない。」と、やっぱり立派な格言で門前払いを食らってしまう。 その結果がどうなるか? そんな流れは、お約束でしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 今週は、ダメダメ家庭の親の当事者意識の欠如や、現実逃避の心理についての文章を集中的に配信いたします。 どんな立派な言葉でも、ダメダメにかかると、ダメダメを進行させる方向にしかならないわけ。ちなみに今回の文章の第一次ドラフトは、なんと04年の3月です。 なんとなく、そんな初期の文章の匂いがするでしょ? と言っても、その頃から購読しているベテランさんは、ほとんどいないでしょうが・・・ もし、いらっしゃったら・・・お互い歳を取っちゃったねぇ・・・ |
|
R.11/1/6 |