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カテゴリー 当事者意識の欠如
配信日 09年12月23日 (11年2月8日 記述を追加)
タイトル 無関係大前提 (あの人を変えたい)
ダメダメ家庭の人間は、当事者意識がなく、被害者意識だけがある・・・って、いつもの書き出しですが・・・
マンネリの書き出しと言えますが、実際にダメダメ家庭の問題は、その点が分かっていれば、ほとんど見えてくるもの。

ダメダメ家庭の人間は、子育てだって、親である自分がこうむった被害として認識し、自分が子供を育てるという当事者意識を持っていない。子供を育てているという意識ではなく、子育てという被害を押し付けられているという感覚を持っている。子育てという面倒を自分に押し付けた側の存在としては、夫だったり、あるいは政府だったり、あるいは、実家だったりのヴァリエーションはあっても、「子供を押し付けられた、かわいそうなワタシ。」という認識は変わらない。
常に純然たる被害者の位置づけに自分を置いている。

あるいは、別のヴァリエーションとして、自分の子供が、妊娠し、出産してしまった。そして、産まれてしまったその子供の世話を押し付けられてしまったケースもあります。ジジババに自分の子供の面倒を押し付けた側は、さっさとトンズラしてしまう。だから、祖父母が孫を「しぶしぶ」養育する・・・そんなケースも実際にあったりします。山口県の祖父を殺害した高校生がいましたが、そのパターンでしょう。あの祖父母も、「子供を押し付けられた、かわいそうなワタシたち。」という認識だったわけでしょ?
そんなジジババが、孫をかわいがるわけがないじゃないの?

いずれにせよ、誰かから子育てを押し付けられたと、当人自身では考えている。
子育てに対してまったく当事者意識がないので、子供が問題行動を起こしても、親というか養育者の側が、真っ先に自分の被害を語ることになる。
「オマエのために、また、面倒なことを!」
「いったい、いつになったら、手がかからなくなるのやら?!」
そんな親に対して、周囲が「もっと子供のことをちゃんと見てください。」と注意しても、逆効果なんですね。そのような周囲からの注意を「自分が受けた迷惑」と捉え、ますます被害者感情を募らせるだけ。
このようなことは、以前に「問題のすりかえ」というお題で配信しております。

トラブルになったら、自分の役割をしっかり認識し、それを果たせるように、自分なりに考えていく必要があるわけですが、当事者意識が全くないので、「悪いのは全部、○○のせい。」となってしまう。そして、その「○○」を、何とかしようと考えることになる。
以前に取り上げたエーリッヒ・フロム流にいうと、「○○からの自由は意識するけど、△△をする自由は持っていない状態。」となっている。

そんな状況でよく出てくる言葉が、「あの人を、変えないと!」という言葉です。

「子育てに非協力的な夫の態度を変えないと!」
「夫婦でもっと話し合いをするように、夫を変えていかないと!」
あるいは、もっとシリアスなケースだと、
「子供を虐待しないように、夫を更生させないと!」なんてケースも、実際にありました。
そして、嘆くことになる。
「ああ!こんなヒドイ夫に当たってしまったワタシって、何てかわいそうなの?!」

このように文章で書くと、『あれれ?』と思われる方も多いでしょう。
だって、そんな嘆きの言葉に対しては、『つーか・・・どうして、そんなオトコと結婚してしまったの?あるいは、どうして子供まで作ってしまったの?』とツッコミを入れたくなるでしょ?

しかし、ダメダメ家庭の周囲は、やっぱり環境自体もダメダメ。
マトモな環境だったら誰でも不思議に思うような点について、誰からも突っ込まれずに、そんな嘆きの声が通ってしまうことになる。
そして、そんな嘆きの声を「素直に」受け止める、ボンクラな相談相手がいたりする。
それこそ、神父とか、神主とか、僧侶とかのオカルト系の人たちとか、暇を持て余している有閑マダムとか、あるいは、そんな人たちの集団といえるボランティアの連中とか。
そうして、「まあ!何てお気の毒なの!」「アナタも辛いでしょうが、夫を変えるためにガンバッテね!」と同情の声を寄せる。

何と言っても、「夫を更生させる。」という言葉は、見方を変えると当事者意識に見えたりする。しかし、それって、要は自分の被害を語るための方便なんですね。自分は被害者の側なんだから、つまり「ワタシは悪くない」んだから、変えるのは相手方の側だ・・・そう言いたいわけです。結局は当事者意識が何もない状態のまま。
ダメなオトコによる被害を語るための、レトリックとして「夫を更生させる。」という言い回しになっているだけ。この手のレトリックだと、以前に「反面教師」という言葉を取り上げております。反面教師という言葉を多用する人は、「反面教師とする○○によって、ワタシは被害を受けた・・・」実質的にはそんな意味になっている。本当に当事者意識があったら、反面教師について語るよりも、「正面」教師というか、自分が尊敬している人について語りますよ。
「反面教師」とか「夫を変える。」という言い回しは、結局は、自分の被害を語ることが目的となっている。だからこそ、「夫を変える。」とは言っても、「離婚する。」という判断はしない。だって、今のダメダメな夫と一緒にいると、存分に被害が語れるでしょ?

トラブルがあった後になって、「相手を変えたい!」なんて言い出すような人間だからこそ、最初の認識や判断もいい加減で、実際にトラブルになってしまう。最初にきっちりと相手について観察し、「この人とだったら大きなトラブルは起きないだろう・・・」「何か問題が起こっても、話し合いをして解決していける。」そんな判断のもとに一緒になったわけではない。そもそも「あの人を変えたい。」も何も、どのように変えるのかは、その言葉を言っている当人にも明確ではない。もし、明確だったら、一緒になった後で「変えたい。」と言うよりも、最初からそんなキャラクターの人間と一緒になりますよ。その手の人は、何も考えずに、「てきとう」に一緒になって、実際にトラブルになったら、「ああ!困ったことになったわ!じゃあ、あの人の行いを直さないと!」と安直に考えるだけ。
あるいは、トラブルが起こってしまったら、「相手を変えたい!」なんて言うよりも、自分の対処方法に協力してくれる人間を探した方がマシでしょ?
しかし、当事者意識が欠如しているから、自分なりの対処方法自体が存在しない。

当事者意識が欠如しているから、結局は、被害者意識と結びつく。
被害者意識を持っているから、周囲の人間への配慮もない。
結局は、「子育てに協力的になるように夫を変える。」と言いながら、家庭不和のしわ寄せが子供に集約してしまっている。
そうして、やがては「変えようとしてもダメだった!」と更なる被害感情になってしまう。

以前に、このメールマガジンで「蟲師」というアニメ作品を紹介いたしました。
その中で、「彼らは、そのありようとして、そうあるだけ。だから、知恵ある我々が対処すればいいだけ。」そんな感じのセリフがありました。
まあ、その作品に出てくる蟲(むし)は、思考もほとんどないような原生動物のような存在です。そんな存在によって発生するトラブルに対しては、その特性を分かって上で、判断できる能力を持ったものが、その対処をするしかない。

「どっちが悪いのか?」ダメダメの周囲では、そんな議論が飛び交っているものです。
しかし、現実を考えれば、「どっちが対処する能力があるのか?」そんな視点が有効でしょ?
そうして、対処できる側が、しっかり対処するしかないじゃないの?
たとえば、人が癌によって、お亡くなりになった際に、その癌細胞を悪認定して、その癌細胞を倫理的に糾弾するの?その癌細胞に対して「これからは、もうこんな悪さをするなよ!」と注意するの?「ああ!もっと正しい行いができるように、癌細胞の行いを変えないと!」と思ったりするの?そして、「癌細胞くん」に「これからはこんな悪さをするんじゃないぞ!」と注意するの?そんな「注意」は、やりたければ勝手にやっていればいいでしょうが、そんなことに意味はないでしょ?
病気であれ、その他のトラブルであれ、対処できる能力のあるものが、対処するしかないわけです。自分の知恵の向上は何とかなるけど、相手は、ただそのありようであるだけ。相手の知恵は何ともなりませんよ。

しかし、当事者意識がなく、自己逃避のダメダメ人間は、あらゆることを、他者の問題にしてしまう。そして「あの○○を変えたい!」と語る。あるいは、「いい子」としての要素が入ると「あの○○さんを救いたい!」となったりする。
逆に言うと、「相手を変えたい。」という言葉は、自分なりの対処方法を考えたくない、考えるのが怖いという自己逃避的な心理なんですね。
考えることを相手に投げるための方便になっているわけです。

ドメスティック・ヴァイオレンスでも、児童虐待でも、一見良心的な妻は夫を変えようと努力する。
しかし、逆に言うと、その名目で自分では何も対処しない。それに、暴力的な人間と一緒になってしまった自分自身の問題も何も考えない。
視点が夫を向いているだけで、だからこそ、その暴力オトコから離れるという自分の判断もしない。やがて、結局は、「子供のせいで離婚できなかった。」と子供を責めることになる。
しかし、『じゃあ、アンタ自身はどうしたいの?』と聞かれても何も答えられない。

倫理的な主張を持ち出し「あの人を変える。」という名目で、離れるという判断から逃避するのは、家庭内暴力の双方とも同じ。「アナタが悪い。」『オマエが悪い。』という「倫理的な」応酬をすることで、双方とも、自己逃避をする。
本来なら、妻を殴っても妻が利口になるわけもない。そんな夫に対して文句を言っても変わらない。しかし、お互いがお互いを見ることで自己逃避ができてしまう。

そんな状態を正当化するために、倫理的な視点が必要になってしまう。
倫理を持ち出すことにより、「あの人を変えたい!」という主張を正当化する。別の言い方をすると、「どっちが悪いのか?」という議論を重ねることで、「自分はどうしたいのか?」ということを考えることから逃避してしまう。やがては、自分の掲げた倫理に自分が縛られてしまう。
「アイツは倫理的に見て、問題がある。」→「だからアイツを変えないといけない!」と言い出しクレーマーになったり、ストーカーになったりする。
そうやって、「離れない」「付きまとう」あるいは「攻撃する」理由を作ってしまう。あるいは、「こんな困ったことを根絶させるんだ!」という名目で、ダメダメな人間に関わり続けようとする。

議論のための議論を重ねることで、最重要な問題や、対処可能な現実に「覆い」をかぶせることができ、それが自己逃避人間にはラクになる。
議論や本質への覆いだけでなく、ボランティアのようなオプショナルな人間がやってきて、人間としても覆いができて、ますます本質が見えなくなる。「そうよ!そうよ!アイツが悪いんだ!アナタは悪くないわ!」と言い出し、その言葉に従ってしまって、せっかくの自分のアクションのチャンスを失ってしまう。しかし、それが、自己逃避人間には心地いい。

本来は、自分の知恵を向上させて、適切な距離を取ればいいだけ。
あるいは、自分の本来の目標を踏まえて、自分を改善していくようにすればいいだけ。
「あの人を変えたい!」という言葉は、「自分の問題を考えることが怖い。」「自分を見つめるのが怖い。」という自己逃避の心理と表裏一体のものなんですね。

「アナタのために言っているのよ!」「だからワタシに従いなさい!」なんて言葉は、エーリッヒ・フロムによると、サディズムのお約束用語なんだそう。倫理的な視点を持ち出すことにより、相手への支配欲を正当化するわけです。本来なら、「アナタのために・・・」も何も、自身の目標を明確にして、お互いが利用し合えばいいだけ。「あの人を変えたい!」という言葉は、いわば支配欲が発現した言葉とみると、理解しやすいでしょ?

そんな人は、誰かと議論をする際においても、「自分でやる。」という発想がまったくない。
11年に起ったタイガーマスク運動なる慈善運動について、誰かと議論するにも、「自分としては参加するのか?」という視点がまったくなく、「いいか?悪いのか?」という第3者的な視点だけで議論する。
逆に言うと、参加する発想がまったくないので、議論のための議論を楽しむことになる。
そんな人は、インターネットの掲示板にいっぱいいるでしょ?
そして、自分が参加するという発想がないので、現実離れした理想論や、カテゴリー分類ばかりが大手を振ることになる。

倫理的な、あるいは政治的な言葉が出てくる背景には、自分の問題に向き合い、自分で対処する意欲が欠如している点があります。
その欠如を、倫理的な言葉や、これみよがしの善意で覆い隠す。
逆に言えば、倫理的な視点をスグに持ち出しながら近寄ってくる人は、注意人物なんですね。
それこそ、ボランティアとか、韓国人もそのパターンでしょ?それは要は自己逃避なんですね。だから、そんな人たちとの間には相互理解も、協力関係も構築できない。
命令と服従の支配・被支配の関係ができるだけ。

あるいは、以前に取り上げたオペラ「カルメン」でのセリフの「オレはオマエを救いたいんだ!」も、結局は同じ。「このままじゃ、オマエはダメになってしまうから、オレが救いたいんだ!」・・・そんな言葉は一見は善意に見えるのでしょうが、『じゃあ、アンタ自身はどうしたいの?』という質問に答えられないでしょ?要はその質問からの逃避なんですね。

逃避の名目として善意なり倫理なりの言葉が登場しても、その実体としての自己逃避に目を向けないと、トラブルが連鎖したり、悪化するだけ。
ダメダメ家庭では、子育てに当事者意識がなく、まったく部外者として自分を認識している・・・いわば「子育ては自分は無関係」であることが大前提となっていることを分かった上で対処しないと、とんでもないことになってしまう。「子供の行いを変えたい!」という言葉も、ダメダメ家庭においては、単なるサディズム的な支配欲であり、その大元は親の自己逃避。
つまり、ダメダメ家庭においては、子育てに対して当事者意識がないからこそ、「子供の行いを変えたい!」なんて言葉になってしまう。本当に当事者意識があるのなら、「この○○を直さないと・・・」「親として自分の何が問題だったのか?」と、もっと個別の具体論で言えますよ。

ダメダメ家庭の親は子育てに当事者意識がないので、いわゆる美辞麗句も、逆方向に影響を与えることになる。このことについては、前回の文章でも触れております。たとえば、「子供は地域全体で育てましょう。」なんて美辞麗句がありますが、そんな言葉を聞いたダメダメな親は、「地域が育てるんだから、親であるワタシは子育てには関係ない。」と思ってしまう。それどころか、「本来は、地域全体で子育てをすべきものなのに、このワタシ一人に子供の世話を押し付けやがって!ああ!ワタシって、何てかわいそうなの?!」と被害者意識を膨らませるだけ。そんな被害者意識がどこに向かうの?そんなことは自明でしょ?「子供は地域全体で育てましょう。」なる美辞麗句のせいで、困った事態になるのは、弱い立場の子供なんですね。

あるいは、以前に取り上げましたが、「命の大切さを学校で教える。」なる美辞麗句もありますよね?そんな言葉を聞いたダメダメな親は、「命について、学校で教えるんだから、親は関係ない。」と確信してしまう。そんな家庭の子供が集まる学校だからこそ、事件が起こることになる。そして事件が起こった後で学校関係者が言う言葉は、まさにお約束。
そんな流れは、実に論理的な流れでしょ?それに、ダメダメにおいては現実的な流れ。

そんな学校だからこそ、登校拒否の問題も深刻になってしまう。
そして、そんな事態になっても、ダメダメな親は、子育てに対する当事者意識がなく、無関係が大前提となっている。
だから、「登校拒否の問題の解決は、学校や政府が責任をもってやるべきだ!」と主張することになる。
そんな物言いは途方もないように思われるでしょうが、「子供は地域全体で育てましょう!」といいう物言いは、ちょっと解釈を見直すと、「子供の養育は地域の責任だ!」となるでしょ?
ダメダメなダメダメなりに論理が通っているわけです。

あるいは、もっとシビアーな美辞麗句だと、「子供を愛さない親はいない。」なる美辞麗句もあります。この言葉についても、頻繁にこのメールマガジンで取り上げております。
子育という被害を押し付けられたと思っているダメダメな親は「子供を愛さない親はいない。」という言葉から、「子供を愛さない親はいないんだから、家庭内のトラブルは、愛され方が悪い子供のせいだ!」となってしまう。だからこそ「懐かないから殴った!」という言葉になる。
「懐かれ方が悪い」子供に対して、「正しい懐かれ方を教える」ために、「厳しく」指導するのは、当然のこと・・・
子育てに当事者意識がないダメダメな親にしてみれば、そのように考えるのは当然なんですね。

ダメダメ人間は、あらゆることに対して当事者意識がなく、「自分は無関係」と真っ先に考えることになる。
そんな心情まではスグにはわからないでしょうが、「夫を変える。」とか「○○のせい。」とか「△△を助ける。」とかの言葉が出てきたら、そんな言葉を語る人をかなり注意する必要があるわけです。それだけ、視点が自分以外を向いているんですね。
と同時に、そんな人にわざわざ寄っていく人にも注意する必要もあるでしょう。

当事者意識がなく、自己逃避であるがゆえに、本質的には責任感なんてものはない。
それこそ「あのご家庭は夫婦も揃っているし、お子さんもいる。ちゃんとした家庭だから信用できる。」なんて考え方もありますが、そんな言葉は、一般的には、「親になったのは、子供を育てる責任感を持っているから・・・」という発想が基本としてあるでしょ?しかし、ダメダメ家庭においては、「いざとなったら、子供を働かせればいいから、手っ取り早い金づるを持っている・・・だから、当てになる・・・」そんな意味になっている。信用の意味や方向性が違っているんですね。
逆に言うと、その家庭でのトラブルに子供が率先して対応することが大前提であって、親は、対応する意欲もない。ヘタに子供が対応しなかったら、「何のために、オマエを育てたと思っているんだ?!」と親が逆上するだけ。まるでボクシングの亀田親子のようなもの。

「子供がほしい。」という肯定形の発想なら、親としての責任感につながりますが、「避妊が面倒だったから、できてしまった。」、とか、「自分で将来のことを考えたくないから、子供に丸投げしよう。」・・・そんな発想を持っているのがダメダメ家庭なんだから、子供を持っているがゆえに、無責任となってしまう。ダメダメ家庭においては、親の無責任の結果として、「子供がいる『ふつう』の家庭の姿」となっているわけです。

外見の姿から判断するよりも、その心理的な構造を見ないと、その家庭の姿は分からない。そして、その心理的な構造は、ちょっとした言葉や、子供の行動から見えてくるものなんですよ。

(終了)
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発信後記

あっという間に年末になってしまって・・・
と言っても、このメールマガジンは年末年始も関係なく、配信いたします。
しかし、次回は25日なのでクリスマスですから、ちょっと宗教的な話が入った文章にいたします。

予定としては、来週の水曜日に長大で「悲劇的」な文章を予定しているんですが、精神的なバランスをとるために、大晦日に軽い文章を追加して配信しようと思っているところです。あと、お正月くらいは軽い文章の方がいいですから、軽い総集編を続けてみたいと思っているところです。
R.11/2/8