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カテゴリー ダメダメ家庭出身者の状況
配信日 09年12月30日 (10年8月16日 記述を追加)
タイトル 失われた不幸を求めて
以前に、このメールマガジンにおいて、ダメダメ家庭の人間はハンディキャップという考えが理解できない旨の文章を配信しております。当事者意識がなく、自分自身の目標を持っていなくて、被害者意識が強いダメダメ家庭においては、「ふつう」と違う面が、それすなわち「被害」と認識してしまうわけ。被害と認識してしまうので、それは「悪いのは全部、加害者の側のせい。」となり、だから「ワタシは悪くない。」から「加害者であるアナタたちの側が、対処してよ!」と周囲に丸投げしてしまう。

ハンディキャップと認識すれば、達成したい自分の目標と、困難な点、まさにハンディを具体的に、かつ、わかりやすく説明して、周囲に協力を求めることになるわけです。そして、その協力を得て、自分自身で努力していくことになる。しかし、当事者意識がなく、ハンディという発想がないので、不都合な点を、被害として認識し、周囲にクレームをつけるだけになってしまう。自分で考えなくて済んでいるそんな日々は、精神的にはラクなことこの上ない。しかし、そんなことだったら、クレームの技術ばかりが向上するばかりで、成果は得られないでしょ?

「ワタシは、かわいそうな被害者なんだ!」そんなことを説明するための理屈は実に見事になってくるけど、「じゃあ、アンタは今まで何を達成したの?今後は、どうしたいの?」なんて聞かれると、「どうして、そんなことを聞くのよ?!キーっ!」と逆上するだけ。まるで、有名なフェミニズムの闘士さんのようになってしまう。まあ、あんな感じでダメダメに徹すれば、生きるのもラクでしょう。

とは言え、ダメダメ家庭出身者の皆さんの全員がクレームを付けまくっているわけではない。その人なりに努力している人もやっぱりいますよ。
そうして自分なりに成果を挙げていく・・・そんな人も実際にいますよ。

とは言え、物事は簡単ではない。
今年09年の7月において、人間の心理的なベースに関する文章を集中的に配信しております。幼少時における養育者とのやり取りによって、認識なり、思考なり、行動なり、表現することについての「枠組み」のようなものが形成され、そしてその枠組みは成長後の可塑性が低いわけ。まさに「三つ子の魂、百まで。」というわけ。

ダメダメ家庭出身者にしてみれば、そんな枠組み・・・いわば、パソコンでいうと、基本ソフト(OS)のようなもの・・・のようなベーシックな問題ばかりではなく、その上に構築される一般社会常識なり、子供時代の体験も、一般のマトモ家庭出身者と違っている。あるいは、それこそ映画「マイ・フェア・レイディ」で描かれていましたが、言葉の発音とか、もちろん、教養とか審美眼とか学歴とかも、大きく違う。
たとえば、料理やお菓子などのちょっとした知識も大きく違っている。もちろん写真だってないし、おもちゃなども持っていないし、旅行などのレジャーもしていない。
そんな違いは、単に「これこれを持っていない。」という知識や持ち物の個別の違いというよりも、その違いを生み出すに至った心理ベースの違いが大きいわけ。

例えて言うならば、北朝鮮に生まれ育って、20歳になって、日本に移住した人のようなもの。多少の知識なり、あるいは、言語については修正は可能でも、相手とのやり取りの際の基本的な精神なり、言葉を受け止める心理的な土壌・・・そんな枠組み自体は、修正ができないわけ。やり取りにおいては、基本となる心理ベースの違いを認識しつつ、その都度、調整しながら進めていくしかない。

実際に、脱北者が日本のような社会で社会生活を営んでいくのは難しいものでしょ?
心理的なベースが違ってしまうと、やり取りをする際にも、心理的な修正をかけないといけない。それが心理的なストレスとなってしまう。たとえば外国と言っても、アメリカから日本に来た人は、その常識や言葉の違いに戸惑ったりはするでしょうが、心理ベースが大きく違っているわけではないでしょ?だから要は「慣れ」の問題。別の言い方をすると、言語的な修正なり、知識的な修正はかける必要はあっても、心理的なベースそのものへの大きな修正までは必要はない。だから慣れで対処できる。
しかし、心理ベースが大きく違っている場合には、慣れようがないわけ。むしろ、その違いによるひずみが拡大していくだけ。そして修正のためのエネルギーを使い果たしてしまう。だから、時間が経つほど、枠組みの違いが、修正できなくなってしまう。

それこそパソコンのOSでも、不具合な点は修正バッチをあてて対応しますが、それにも限度があるでしょ?やっぱり、ちゃんと動くOSをきっちり入れないと、フリーズが多くなってしまうだけ。人間だって、同じなんですね。最初に適切な枠組みを作っておかないと、それを後で修正するにも限度があるわけ。パソコンのOSで、現時点で最新版といえるWindows7 の英語版から日本語版に変更するくらいなら、大きなトラブルにはならない。しかし、昔あったWindows95 の日本語版からWindows7の日本語版にそのまま変更しようとしても無理があるでしょ?
Windows95に修正バッチを当てれば問題なく動くというものではないでしょ? 

以前にあった中国残留孤児の問題でも、似たことが発生しているでしょ?中国で育ってしまうと、たとえ後になって日本語を習得したとしても、その人の心理の枠組み自体が変わったわけではないので、常に枠組みの違いによる心理的なストレスにさらされることになってしまう。

あるいは、北朝鮮からの脱北者は、韓国で生きるのにも苦労しているでしょ?韓国と北朝鮮では、言語的なり、習慣的には大きな違いはないのに、今となっては心理ベースでは大きく違っている。だから、やり取りにおける調整に疲れてしまうわけ。

よく書いていますが、ダブルスタンダード状態になってしまう。
たとえば北朝鮮から脱出した脱北者が、日本において、気を許して、北朝鮮の「流儀」でやり取りをすれば、周囲から総スカンとなるでしょう。マナーが違うとか、常識が違うとか、人の接する際の共通の話題がないと言うよりも、人の接する際の基本的な精神が全くできていない状態に近い。やり取りにおいて、的確な説明によって、相手を納得させるという方法ではなく、スグに命令と服従の関係に持って行ってしまい、相手に対し強圧的に命令するだけ。だから相手が反発し、ますます強圧的に要求し、ますます嫌われる。そして主張することと言えば、自分の被害だけ。ダメダメ家庭の出身者も、何も考えずに気を許してしまえば、自分の育ったダメダメ家庭の「流儀」を繰り返してしまう。そして、周囲から総スカン。

だから、そうならないように、周囲をうかがい「人に合わせて」ばかり。そんなことだから、ますますストレスがたまり、そんなマイナス面ばかりに注意するので、自分なりの成果を得ることもできない。
これでは生きている実感どころではありませんよ。
以前に滋賀県で中国から来たお嫁さんが、近所の子供を殺傷してしまった事件がありましたが、まさに、そんな事態になってしまうわけ。

そんな困難な状況の中でも、まさに成果を上げようと必死でもがくダメダメ家庭出身者もいる。そして、ダメダメ家庭出身者が持っていることが多い「鉄の意志」で持って、実際に成果を上げる人もいるわけ。

その成果が周囲の人から認められる。
そうして、やっとのこと、このワタシも、マトモな社会の一員になる!

言葉としては、すばらしいこと。
しかし、実際はどうなの?

「ワタシは過去の苦悩を克服して、マトモな人間になった!」
「毎日が充実しているわ!」

聞かれてもいないのに、そんな言葉を、周囲の人に先制的に語る人もいたりするでしょ?
まあ、そんな人は、居酒屋さんで「オレは酔っていないぞぉ!」と絡み回るヨッパライのようなもの。マトモになったという妄想が進化しただけ。実際にその手の人に対して、「アナタは、自身がマトモになったと言っているけど、じゃあ、アナタは、実際にどんな日々なの?どんな感じで充実しているの?どんな成果を出したの?」なんて聞いて御覧なさいな。

「もう、すっごく幸せなの!今までの日々がウソみたい!」
そんな漠然とした言葉が出てくるだけ。しかし、それって、アル中患者が酒を飲んだ時のセリフとどう違うの?あるいは、まさに北朝鮮の人が「天国にいるように幸せ!」なんて、「あの顔」で言うこととどう違うの?

ダメダメ家庭の人が語る「ワタシは幸せ!」って、要は、「ワタシは困ったことは見ていない。」という二重否定的な意味になっている。つまり「○○を達成した。」という肯定的なものではないわけ。結局は「見ないための」技術が進化しただけ。そもそも本当にマトモになったのなら、「ワタシは幸せ!」なんてことを、聞かれもしていないのに語ったりしないのがマトモというもの。

しかし、ダメダメ家庭出身者の中にも、具体的な成果をあげる人だって、実際にいるもの。
「ワタシは、○○というものを作り上げた。」そんな形で、具体的で客観的な説明ができる人だっている。

その「○○」が、政治家とか官僚だったら、法律のケースもあるでしょうし、何かの行政機関のケースもあるでしょう。一般の会社員だったら、会社の業績を○○%上げたとか、どこかの会社から契約を取ったとか、それこそ△△の発明をしたとか・・・具体的に言えるでしょ?あるいは、それこそダメダメ家庭出身者にフィットした職業といえる芸能界などだったら、「☆☆大賞受賞」とか、「CDを○○枚販売」とかの成果が示しやすい。

「ワタシは幸福になった!」と漠然としたスタイルで先制的に主張するのは、所詮は妄想に過ぎないわけですが、達成したものを個別に具体的に説明できる人もいるわけ。
そして、その成果がマトモな人たちから認められ、マトモな人々の一員に迎え入れられることになる。

それは誇らしいことであり、喜ばしいことであり、しかし、残念ながら、更なるストレスにつながることでもある。

だって、前にも書いたように、マトモな社会で生きていくためには、マトモな社会の常識を持っていることが必要ですよ。単に知識の面だけでなく、ものの考え方もマトモな社会のものに適用させないといけない。
子育ては親がこうむった被害・・・そんなダメダメ家庭の大前提は通じない・・・それがマトモな社会というもの。しかし、ダメダメ家庭においては、「子育ては親が背負わされた被害」という認識であり、そんな家庭で育ったものは、あらゆることを被害を基準として認識し考える習慣の中で成長し、そんな枠組みで心理的なベースができてしまっている。そして人間関係も対等な関係はなく、あるのは支配と被支配の関係のみ。

何度も例示しますが、北朝鮮の出身者が日本語を話せるようになっても、北朝鮮における考え方の枠組みとの齟齬で苦悩するようなもの。

そして、その齟齬や乖離は、自分の育ったダメダメな状況から離れて、マトモな社会になればなるほど、大きくなっていくわけ。成果を出して、マトモな人に認められれば認められるほど、逆に言えば、自分を偽る必要がある。

成果というプラスの方向は周囲からも認めてもらいやすい。
しかし、その背後には、ダブルスタンダードに警戒し続けるという心理的な負担が増大していってしまう。
いわば、大きな達成感の中で、苦悩も大きくなっていくわけ。
成果が認められただけでは、心の中の乾きは癒されない。
だから、その欠落部分にフィットした人が出てくると、「入れ込んで」しまう。
それこそ、ちょっと前に話題になった、芸能人の酒井法子さんなんて、そのパターンなのでは?

ダメダメ家庭は抑圧的であり、子供に対し、自分の希望などを持たせないようにしてしまう。そんな家庭の出身者は、現実逃避であり、自己逃避であり、思考から逃避している。
だから、自分が陥っているダブルスタンダード状態を的確に認識し、説明できない。「何となく満たされない・・・」そんな漠然とした不満のまま。だからこそ、ある人と「心の中の乾き」が共鳴すると、あっさり入れ込んでしまうわけ。

自分の心の中の乾きに共鳴する人が現れ、意気投合して一緒になり、その結果として、楽しい家庭になる・・・わけがない。
結局は、どろ沼の修羅場になるだけ。
成果を上げるような能力がある人は、たとえダメダメ家庭出身者であっても、冷静に考えさえすれば、それくらいのことはわかるもの。しかし、そんな冷静な思考ができないほどに「乾いて」しまったわけ。ダブルスタンダードによるひずみも、ある意味において、修正可能な臨界点のようなものがあるわけ。

成果を上げて、マトモな人に認められ、受け入れられるほど、自分を偽る必要がでてきて、心が乾くことになる。そんな「受け入れられ方」って、本質的に矛盾。そのようなアンビバレンツな心情はマトモ家庭出身の人には理解できるわけがない。マトモ家庭出身者が理解できないのは当然として、成果とは無縁の向上心のない怠惰なダメダメ家庭出身者にも、クレームばかり言っているダメダメ人間にも、そしてダメダメに安住する実家の親にも理解できないわけ。ダメダメとマトモという2つの世界をまたいでいるがゆえに、そのダブルスタンダードに苦悩することになる。

マトモな人はダメダメの苦悩なんてわからないのは当然ですが、ダメダメに浸りきっている人にはわからないダメダメの苦悩もあるわけ。いわば、向上心に伴う苦しみと言えるもの。ダメダメな状況からの向上心は、最初からマトモな状態だったら、必要ありませんし、ダメダメのままに安住していても必要ないもの。2つの世界を知っているからこそ抱くもの。だからほんの一部の人しか理解できない。

このようなことは、何もダメダメの領域ばかりではなく、表現の世界では頻繁に起こっていること。伝統に安住することなく、新たなる表現の開拓を目指す創作者の意欲も苦悩も、伝統に安住している人にはわからない。「アイツ・・・なんか変わったことをやっているぞ!」と傍らで笑っているだけ。しかし、新たなる表現を開拓しない限り、そのジャンル自体の生命も枯渇してしまう。表現の開拓者というものは、その分野の価値を一番わかっているがゆえに、その先を行こうとしているわけ。そのジャンルに愛想が尽きたのなら、開拓ではなく、全然別のことをやりますよ。最先端と、従来からの伝統・・・その2つの世界をまたいでいるがゆえに、引き裂かれ、苦悩を味わうことになる。

表現の世界の問題は、ちょっと特殊な事例でしょう。しかし、どんな領域においても、2つの世界をまたいでいるがゆえに大きくなる苦悩がある。
表現の分野においては、それなりの覚悟と自覚を持って苦悩している。しかし、その自覚がないのがダメダメの領域。だから、そんな状況の中、どんどんとストレスが増大していってしまう。
そのストレスが誰かと共鳴して人に入れ込むケースもあるわけですが、結局は、そんなダブルスタンダード的な状況から目をそらす技術を求めるようになってしまう。

目をそらすために麻薬や覚せい剤に入れ込むようなケースは、極端にせよ、まさにそのパターン。もっと一般的な方法だと、人の問題に首を突っ込んだりして、その人にアドヴァイスしたり、ボランティアをして、自分より下の状況を見て、「ああ!下には下があるんだ!」と自分を納得させたりする。
この手の人が、特に注目するのが、自分と似た状況にあるケース。
それこそ、問答無用の強圧的な父親の家庭で育った女の子が、成長後にドメスティック・ヴァイオレンスのボランティアになって、自分の父親と同じキャラクターといえる「強圧的で問答無用の」オトコをつるし上げたりするわけ。
そうやって、子供時代の屈辱を晴らすことになる。
・・・しかし、そうやって、自分が気に入らないオトコをつるし上げて喜ぶ様は、結局は、まさに自分の父親譲りそのものでしょ?

自分自身から目をそらすための行為であるがゆえに、結局は、自分のもっとも見たくないものを、見ていることになる。もっとも嫌いな姿を、自分がしてしまうことになる。

そして、そのことを誰かから指摘されたら?
まさに、ものの見事に逆上するものですよ。イヤ、ホント。
まあ、指摘し、逆上されてしまう「誰かさん」が言うんだから間違いないよ。

目を背けているがゆえに、自覚から逃避しているがゆえに、都合の悪い指摘に対しては、思考停止状態を求めて逆上するしかない。逆上しないようにするためには、日頃から自覚していればいいだけ。ドメスティック・ヴァイオレンスの「被害者」の女性を「救済」するに当たっても、自分自身が持っている父親への不満が、ちゃんと顕在化、意識化されていればいいわけ。
しかし、実質的には、自分のケースを考えたくないがために、「人の問題に首を突っ込んでいる」だけなので、自分の問題に話を振られると逆上してしまうわけ。

そして、都合が悪い指摘に対してスグに逆上するそんな姿も、結局は、親譲りでしょ?
親の問題に目を背けているがゆえに、親と同じことをしているわけ。
逆に言うと、自分の問題に話を振られて、過剰反応する人は、必死に目を背けている人。
だからこそ、自分の代替品を救済しようとし、そして、親の代替品を攻撃しようとするわけ。

何度も書きますが、それを意識して、分かっていてやっているのなら、そんな方法もあるでしょう。ちょっとしたリハビリのようなものですよ。しかし、自覚がないんだから、結局は、親譲りそのものになってしまい、それが悪化するだけ。

単に日頃の行動が親譲りになってしまうだけでなく、結婚においても、自分の親と同じような夫婦を作ったりするもの。その場合は、大嫌いだった自分の父親と、実によく似たキャラクターの男性と結婚してしまって、その夫に対してグチグチと言い出す。しかし、そのグチの言葉は、そのまま父親への抗議の言葉となっているわけ。自分の父親に直接的には文句を言えないので、父親と似た人間とわざわざ結婚し、グチることになる。

あるいは、自分の両親と男女のキャラクターが逆転するケースもあります。自分の意向に何も反対しない影の薄い男性と結婚し、妻の側が強圧的に家庭を支配するわけ。
男女が逆転したからと言って、その家庭が楽しいものになるわけがない。妻の側が、自分の一番キライだった父親の姿そのものをやっているだけ。そんな親を持ったら、子供は自分の意向を抑圧するようになってしまう。まさに子供時代の自分がそうであったように。

そして、そんな女性は、「絵に描いたようなすばらしい家庭」を作るために、わき目も振らず突進してしまう。「完璧な家庭を作り上げること」で、いわば、自分の親への意趣返しをしようとするわけ。しかし、その完璧なすばらしさは、別の言い方をすると、人間疎外の家庭。他の家族は、その完璧な家庭の姿の中で、気を緩めることができない状態。

家庭というものは、本来は気を緩め、リラックスする場所でしょ?
しかし、自分の育ったダメダメ家庭に不満を持ち、「そうなりたくない!」「そうしてはならない!」と強烈な思いを持ち続けているがゆえに、手を抜くことができないし、気を緩めることができない。

実家に対する不満は不満でいいわけですが、抑圧的であるがゆえに、問題点を具体的に認識しておらず、何も考えようとしなかったり、単に「反面教師としている!」と概括的に豪語しているだけ。
だから、「実家の何が問題だったのか?」自分では何も分かっていないわけ。
ただ、イヤだった、不快だった・・・そんな感情を思い出すだけ。そして、そんな感情がちょっとでも出てくると、もう思考停止になってしまう。

上手に、気を緩めるためには、その「気の緩め方」の実例を知っていないと、現実的には無理。
しかし、ダメダメ家庭出身者は、そもそも自分が育った家庭では気を使ってばかりだから、気の緩め方を知らない。そして、抑圧的であるがゆえに、自分の過去を具体的に思い出すこともできないので、自分自身のリラックス体験も出てこない。それにダメダメ家庭の周囲は、その周囲の環境自体がダメダメの吹き溜まり状態なので、子供時代の周囲の家庭も参考にならない。
そんな状態では、気の緩め方なんてわかりませんよ。

結局は、そんな自分自身や家庭から目をそらしてしまう。
しかし、目をそらし、考えることをやめているんだから、結局は、何も考えなくても自然に出てきてしまう自分の実家の流儀そのままになってしまうわけ。
現在の自分から目をそらしているがゆえに、実家の問題や過去の自分の問題から目をそらしているがゆえに、かつての子供時代の自分とそっくりの状態の子供が目の前にいることになる。

そんな自分の子供の状態を発見したら、まさにパニックになって、その子供を虐待したり、別の人のトラブルに首を突っ込んで逃避したりと・・・やっぱり親譲り。

自分の都合の悪いところを見たくないという逃避的な心情や、周囲から自分の問題を指摘されたくないという心情なので、子供の心配をする際にも、子供本人のことは考えない。
子供のことを心配するのではなく、子供のトラブルによって、親としての自分が被る迷惑を警戒しているだけ。

たとえば、自分の娘がオトコと付き合うような場合でも、「自分の娘が傷つかないだろうか?」「幸せになれるだろうか?」などとは考えない。親としての体面を考えているだけ。
いわば、心配しているのではなく、警戒しているだけ。

あるいは、自分の子供がニートとか引き篭もりになることが問題なのではなく、ニートになってしまったのが、親である自分のせいではないと主張することばかりに熱心になってしまう。
まさに「ワタシは悪くはない!」「時代が悪い!」「あの○○が悪い!」「ああ!ヘンな子供に当たってしまったワタシって、なんてかわいそうなの?!」
子供の前で、そして、周囲の人の前で、そのように嘆き、「ワタシこそが、被害者。」という関係性を主張する。

そのような行動パターンは、子供が自殺した際の対応に典型的に見られるでしょ?
子供が自殺するような家庭の親ほど、事件の後になって、「あの○○が悪いんだ!」と裁判を起こしたりするもの。しかし、そんなに、その○○が悪いのなら、本来は事前に対処する必要があるでしょ?
しかし、「見たくない」という逃避的な心理なので、事件前には何も対処しないわけ。
事件が起こってしまったら、「ワタシは悪くない!」と主張するだけ。

「悪くない」となれば、それでいいわけだから、別の言い方をすると、ちょっとしたトラブル状態になっても、周囲にバレなければいい・・・そうなってしまうし、あるいは、親である自分が知っていなければそれでいいとなってしまう。だから、子供に対して、「親に相談を持ち込むな!」と無言で要求することになる。
そうして、実際にトラブルが発生しても、「ワタシはそんなことは知らなかった。」と周囲に主張し、「ワタシたちは、ふつうの家庭だった。」「ワタシは悪くない!」と弁解する。
まあ、その「ふつう」主張も、親譲りでしょ?

その手の人は、叱り方も「オマエのために、こんな迷惑を!」と子供に叱る。「こんなことをすると、オマエも将来は困ることになるよ。」という子供のことを考えたスタイルではないわけ。そんな叱り方が、その親の当事者意識の不在や被害者意識を証明しているでしょ?そんな親に対して、子供は、何を相談するの?そして、そのように当事者意識が欠落した親の姿は、その親の親と同じ。

自分で考えることから逃避しているので、「ふつうになるべき!」などと掲げ、「ふつう」の達成に眦(まなじり)を決することになる。とにもかくにも「人に合わせる」ことを「ふつう」と言い換えるわけ。しかし、「ふつうになるべき!」と切羽詰った心情のどこがふつうなんだか??
必死に、ふつうを目指す姿は、ふつうの人間の姿ではないでしょ?
しかし、必死に人に合わせてばかりで、自分の家庭を見ようとはしない。
結局は、親譲りの、自分にとって「なじみ」のダメダメ家庭がまた出来上がるだけ。

気を許すと、実家と同じような怠惰なダメダメ家庭を築き、
気を張りすぎると、緊張に満ちたダメダメ家庭を作ってしまう。

マトモ家庭出身者だったら、特に考えなければ、自分の親と同じようなことをやっていて、それでマトモ家庭をまた築ける。時代等の変遷はあっても、「思いやり」とか「会話の精神」とか「責任感」は、いつの時代でも変わらないでしょ?
しかし、根本の心理ベースが違っているダメダメ家庭においては、常に意識しないといけないわけですし、そのダブルスタンダードを意識する精神的ストレスはいつまでも続くわけ。

あるいは、ダメダメ家庭においては、このようなダブルスタンダード状態が、スタンダード化している。それこそ、学校で教えられる物事と、自分の周囲の現実の物事のリンクが全くできていないことがスタンダードとなっている。あるいは、テレビの中でのキレイごとと、自分の目の前の現実の世界との結びつきが全然できていない。そんなダブルスタンダード状態なのに、周囲から、「正しい考えを学びなさい!」と要求され、さらに習得しなくてはならないスタンダードが増えていく。本音と建前が程度問題としてアナログ的につながっているわけではなく、もはやデジタル的に完全に別々のスタンダードとなっているわけ。
やり取りする相手によって、自分の人格を完全に変えないといけない状態。
こんなことだから、事件を起こした後になって、「多重人格」とか言われるのは当然でしょ?

ダブルスタンダードがスタンダード化すると、やがては多重人格的になってしまうなんて、理屈の上ではマトモ家庭の出身の方でもわかることでしょう。
そして、ダメダメ家庭においては、現実に起こっているわけです。

そんな人にとって、幸福というものは、幸福という類型を演じる義務のようなもの。
多くのスタンダードのうちで、一般的には幸福とされるスタンダードをその時は採用する・・・ただそれだけ。実感としての幸福というよりも、単なるセットメニューの一つなんですね。

しかし、だからこそ精神的に疲れてしまうのは誰でもわかること。
幸福という姿を周囲に見せることは、不幸になるよりも、その幸福の姿を演じる行為により、より大きな心理的ストレスを呼び起こすわけ。
それに対して、不幸だったら、普段着のままでいい。
つまり「不幸はリラックスできて、幸福は緊張をもたらす。」わけ。

「何をギャグのようなことを書いているんだ?」
と思われる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、以前より言及しております「不幸への憧れ」って、そんな心理につながっているわけです。
幸福への嗅覚がなく、幸福の実感がわからないし、もともと幸福そのものを求めていないし、求め方がわからない。そんな人に対して、「幸福になれ!」「アナタがやりたいようにやったら?」と要求されることは、心理的にストレスになってしまうわけ。

何も無理に幸福を求める必要はないでしょう。無理に求めると、まさに「幸福の姿」を演じるだけになってしまう。周囲に向けて演じることよりも、一人で何かをやった方がいい。しかし、当事者意識がないので、自分一人でできることをやるということにはならない。
むしろ「人に合わせる」習慣から、幸福を求める自分の姿を、幸福であるという自分の姿を周囲に見せようと努力する。結局は、幸福のふりをするのが加速するだけ。
いわば、「幸福という形での不幸」状態。自分のダメダメなスタンダードの上に、「ふつう」の覆いを被せただけ。そんな覆いは風が吹くとすぐに飛んで行ってしまう。だから必死でその覆いを押さえ続けることになる。

ダメダメとマトモとの間のダブルスタンダードの問題は、死ぬまで続くわけです。ほんの一瞬の澄み渡った安寧はあっても、長続きしないもの。すぐに荒々しい現実の中で、ダブルスタンダードによる軋みが唸りをあげる。

ダブルスタンダードの軋みの中で、マトモなスタンダードとは無縁だったかつてのダメダメな日々の安寧が、そして、マトモな社会から自分が忘れ去られることによる安逸が、幻影のように立ち上ってくる。ダブルスタンダードに疲れ果てたダメダメ家庭出身者はその甘美さに抗しきれない。そして、吸い寄せられるように、なじみのダメダメの流儀に戻ってしまう。不幸な状況がもたらす安寧を求めてしまう。嘆くだけで済んでいた、かつての怠惰な日々に惹かれてしまう。

ダメダメ家庭出身でも能力の高い人は、この問題に直面することになる。
マトモな社会に受け入れられる能力を持っているがゆえに、2つのスタンダードの間の乖離も大きいわけ。その乖離によるストレスに疲れ果てると、結局は、自分の「なじみ」のダメダメな状況に戻ってしまう。実家を嫌っているがゆえに、そのダメダメについて具体的には考えることができない。だからこそ、「身についていて」自然にできてしまうそんなダメダメの流儀に戻ってしまって、それにより、ダブルスタンダードによるストレスを回避してしまうわけ。

独裁的な政治体制を嫌って亡命した人が、結局は、その独裁的な母国にも戻ってしまうという事例も、実際にあるでしょ?それこそ命辛々北朝鮮から脱出しても、結局は、戻ってしまう人もいますよね?抑圧的な体制の中で心理的に適応してしまうと、マトモな社会においては、ダブルスタンダード状態の中で心理的に疲れてしまうわけ。
命辛々逃げないといけないような体制だからこそ、精神的には逃げられないわけ。ちょっと油断をすると、染み付いてしまったその発想のスタイルが顔を出す。

ちょっとトラブルになると、周囲にクレームを付けて、「あの○○のせいで困ったことに!ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と嘆く。かつては、そんな物言いを嫌い、自分なりの向上心を持っていて、自分で努力していたダメダメ家庭出身者も、結局は、そんな嘆きに回帰してしまう。嘆きを並べることは、実にラクなこと。だって自分を憐れんでいればいいだけですからね。そんな姿は、結局は、親譲りでしょ?

嘆きに安住するどころか対抗心まで行ってしまうケースも多い。かつて憧れていたマトモな社会を敵認定して「アイツらのせいで、ワタシたちはうまく行かないんだ!みんなアイツらが悪いんだ!」と恨みの心を向ける。参入してもなじめないがゆえに、マトモな社会を敵認定することで、自分を納得させるわけ。しかし、そんな敵認定のスタイルも親譲りでしょ?

そんな人たち同士が意気投合して、ボランティア集団になったり、市民運動の集団になって、どんどんと盛り上がってしまう。同類同士なので、実に自然に意気投合できてしまう。そんな結びつきは、結局は、出身家庭の雰囲気がレヴェルアップして再現されただけ。

そんなことを指摘されると、「ワタシは親を反面教師にしているわ!」と逆上するもの。
しかし、「親を反面教師にしている。」って、「親のせいで困ったことに!ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」ということでしょ?そんなスタイルこそが親譲りそのものですよ。嘆きや犯人認定も親譲りであるがゆえに、自然にでき、そして精神的にラク。その安逸に浸って、もう抜け出せない。

以前に取り上げたフランスの映画作家のフランソワ・トリュフォーの初期の作品に「ピアニストを撃て」というタイトルの作品があります。
シャルル・アズナブール演じる若いピアニストが、ダメダメな実家のメンタリティや家族たちから必死で逃げようとして、結局は実家のトラブルに巻き込まれ、すべてを失い、最後に場末の酒場で呆然とピアノを弾くシーンで終わる・・・そんな作品です。ピアニストとしての栄光が手に届く寸前に、それが手から滑り落ちてしまうわけ。

マトモな世界に近づけば近づくほど、ダメダメのメンタリティや境遇は、その影響力で、自らの心を蝕んでいく・・・封印しようとして、精魂尽き果ててしまう・・・現実にそんな状況を体験された方もいらっしゃるのでは?

ダメダメ家庭の人間は、子供時代は、周囲のマトモな子供が持っているスタンダードや学校で教えるスタンダードと、自分の家庭のスタンダードによるダブルスタンダードの調整で疲れてしまう。そして、社会に出てからも、マトモ家庭出身者が持っているスタンダードとの違いを必死で調整することになる。そんな疲労感が積み重なっているのに、さらに別のスタンダードも要求されてしまい、もう調整のエネルギーも残っていない。

精神的に疲れてしまって何も考えずに親になってしまうので、自分が必死で現実から目をそらしている分だけ、子供がその親の分だけ現実社会とやり取りする必要がある。だから子供だって疲れてしまう、だからトラブルの顕在化が子供の側から起こることになる。まるでかつての自分のように。
そうして「どうして、こんなことに?!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と、親譲りの嘆き。

ダメダメな境遇からの影響も、気力があれば、1回や2回くらいなら何とか持ちこたえることもできるでしょう。しかし、その打撃も3回目となると、どんな英雄でも倒れてしまう、そして、目の前の空虚な状況を呆然と見つめるだけ。
そんな悲劇的なシーンは、能力の高いダメダメ家庭出身者にはよく起こっていることなんですよ。

(終了)
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発信後記

この手のシリアスな文章は、読むよりも書く方が、心理的にはラクなんですよ。
書く側にしてみれば、文章構成とか、微妙な引用とか・・・内容だけでなく、表現手法について、色々と考える必要がありますからね。

ちなみに、この文章で今年の最後とするのはシリアスすぎるので、明日は、追加的に軽い文章を配信いたします。
R.10/8/16