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カテゴリー | ダメダメ家庭をめぐる環境 |
配信日 | 10年2月3日 |
タイトル | パラレル形式の割れ窓理論 |
「割れ窓理論」という言葉をご存知でしょうか?町の治安の問題で出てくる言葉ですね。 一つの割れた窓があると、次の割れた窓を誘発し、その地域の治安が悪くなっていく・・・そんな考えです。 割れた窓が放置されたままだったら、そこを通りかかる人も、「オレも一枚割っちゃおうか!・・・どうせ、もう割れているし・・・」などと石を投げたりして、割れた窓がどんどんと増えていくことになる。そうなると、風景全体が殺伐としてきて、そんな殺伐とした雰囲気に合わない人は出て行ってしまって、そんな雰囲気になじむ人間が集まってきて、ますます殺伐化が進んでしまう。結局は、凶悪事件が発生してしまう。 だからこそ、一枚の割れ窓があった時点で、早期に対応することが必要なんだ! このような考え方は、街の割れた窓だけでなく、たとえば地下鉄の落書きなどでも適用されたりしますよね?ちょっとした落書きを放置すると、新たな落書きを誘発してしまうもの。 だからちょっとした落書きの段階で、キチっと対応しなくてはならない。 まあ、そんな考え方です。 この考え方を取り入れて、ニューヨークでは、犯罪を減少させたとか、あるいは、日本の東京の足立区でも、そんな考えを取り入れて犯罪を減らそう・・・そんな報道があったりします。 一つの割れ窓が、次なる割れ窓を誘発してしまう・・・その点については、皆様も異存がないでしょう。最初の割れ窓を放置することにより、2番目の割れ窓を生んでしまう。 つまり、因果の流れを考えれば、最初の割れ窓は原因で、2番目の割れ窓は結果と言えるでしょう。 しかし、最初の割れ窓だって、ガラスが経年劣化で自然に割れたわけではないでしょ? 誰かが石を故意にぶつけたケースもあるでしょうし、道に落ちていた石が何かの拍子に飛んで、窓のガラスに当たってしまって割れてしまった・・・そんな偶然に近いケースもあるでしょう。しかし、そんな偶然に近いケースにおいても、道端に石が落ちていて、その石が放置されていたということになるでしょ? 最初の割れ窓は、2番目の割れ窓の原因であるだけでなく、その地域の雰囲気の結果とも言えるでしょ?あるいは、割れ窓だって、一日で修復されるケースと、1週間以上放置されるケースでは全然違っているでしょ?誰もウォッチされていない・・・そんな雰囲気が問題なのであって、ガラスが割れたかどうかは、二の次の問題ともいえる。 何となくの雰囲気の悪化が、割れ窓という目に見える形で、周囲の人にも分かるようになった・・・そうとも言えるでしょ? だから、最初に割れ窓を見つけたら、その割れ窓に処置をすることも必要ですが、それこそ道の掃除でもして、転がっている石を片付ける必要もあるでしょ? 一枚目の割れ窓に処置をすれば、2枚目の割れ窓を防げるというものではなく、1枚目の割れ窓を生むことになった土壌にも目を向ける必要があるはずです。 別の言い方をすると、1枚目の割れ窓は、その地域にとっては、「炭鉱のカナリア」のようなもの。カナリアは身をもって、その地域の雰囲気の悪さを知らせてくれている。 炭鉱のカナリアの1匹目が死んだからと言って、その死んだカナリアを手厚く葬って、一緒に連れてきている生き残っているカナリアに「しっかり生きろよ!」と励ましの言葉をかけても意味はないでしょ? そんな場所からさっさと避難して、その空気を入れ替えること・・・それが死んだカナリアに報いることですよ。 1枚の割れ窓は、次の割れ窓を生む原因であると同時に、その場所の雰囲気の結果と言える。 道端に数多くの石が転がっている状態だったら、単に割れた窓を修繕すればいいという問題ではない。 トラブルが連鎖する場合でも、シリアルな連鎖もあれば、共通の土壌を背景としたパラレルな連鎖のパターンもある。 このようなことは、割れ窓のようなマターだったら、多くの人にとっても、心理的な抵抗なく受け入れることができる。 しかし、人間そのものの失敗に関わるようなことだと、まず持って心理的に受け入れられない。 それこそ、夫婦の離婚なんて、そのパターンの典型でしょう。 このメールマガジンでは、以前に「離婚の連鎖」というお題で配信しております。 ダメダメ家庭においては、離婚が多く、それこそ親子連鎖だったり、一人で何回も離婚するような例が多い。こんなことを書くと、ボランティアや市民運動をやっているような正論オバンがやってきて「それは偏見だ!」などと大騒ぎするもの。 しかし、離婚の連鎖って、現実に多いでしょ? 本来なら、最初の離婚で、もっとしっかり考えておく必要があるでしょ? 「どうして、あんな人に好意を持ってしまったのか?」 「どうして、あんな人とそのまま結婚してしまったのか?」 「どうして、周囲の人はアドヴァイスをくれなかったのか?」 その問題を解決しておかないと、結局は人間の土壌はそのままなんだから、同じ失敗をやってしまいますよ。正式に離婚して、相手から慰謝料をもらったからOKと言うものではないでしょ?当人が何回も同じ失敗をするのは勝手ですが、そんな人間が親になってしまったら、その子供だって、まさに土壌を共有しているんだから、同じ失敗をしてしまいますよ。 家族の中だけで連鎖するだけではありません。 それこそ地域全体だったり、親戚中で、そんな連鎖が起こったりするもの。 だって、離婚をするということは、人を見る目がなかったり、会話の能力がなかったり、自分の将来設計から逃避していたりの結果でしょ?そんな人間同士が一緒にやれている・・・そのことから見えてくるでしょ?そもそも、離婚するくらいに人を見る目がない人と一緒にやれているということは、それだけ同類ということですよ。 それこそ、ある家庭で離婚があった場合は、その場所で次々と離婚が起こったりする。 同じような環境で育ったわけだから、同じような考え方をしていたり、共通認識をもっていたりする。別の言い方をすると、同じ点で欠落があったりする。そんな人を見て、「ちょっとヘン。」と思ってしまう人は、そんな場所からトンズラする。引越し費用は多少かかるかもしれませんが、費用の問題どころではないでしょ?そんな環境に染まってしまって、後になって離婚で大騒動なんて、もっと出費ですよ。人生がメチャクチャになってしまいますよ。 よく「向こう三軒両隣」なる言葉がありますが、それこそ「向こう三軒両隣」で、合計6回の離婚なんて事例もあったりします。 右の家・・・娘、2回の離婚。 真ん中の家・・・娘、1回の離婚。 左の家・・・母、1回。娘は2回の離婚。 で、合計6回の離婚となる・・・まあ、現時点では・・・ 近くにいて日頃からやり取りしているわけだから、あまりに異質な考え方だと、居心地が悪いでしょ?逆に言うと、居心地が悪くないと言うことは、同質性が高いということ。 つまり、同じような失敗をしやすいということ。 このようなことは、向こう三軒両隣のようなパターンだけでなく、親戚でも同じ。同じ祖父母に育てられたんだから、親の兄弟も似た考えですし、その子供たちも同じような考え方をしていますよ。あるいは、学校でも同じ。 同じ教育をやっていて、教員だって同じで、クラスの中で一緒にやっているんだから、大きな差はありませんよ。学校だとイジメ問題があったりしますが、イジメる側も、逆に言うと「ヘタをすれば自分がイジメられてしまう!」と恐怖心を持っているから、誰かをイジメているわけでしょ?結局は同質なんですね。 学校でのイジメ事件だって、発生したイジメ事件そのものに対処するだけではなく、その土壌に目を向けないと意味はない。「イジメをやめろ!」と強圧的に命令しても、トラブルが潜在化するだけ。逆に言うと、その手のダメダメな学校側がとる、そんな「とりあえず見えなくなれば、それでいい・・・」そんな発想そのものが、トラブルを生む土壌を示しているでしょ? だから、次なるトラブルを誘発してしまう。 物事をしっかり考える習慣がない地域だったら、トラブルも起きますよ。 そもそも、そんな地域での話題は誰かの悪口くらいでしょ? お互いが自己逃避で、現実逃避状態。そして犯人探しばかりをやっている。 現状認識から逃避し、判断から逃避しているからこそ、いい加減で「てきとう」に結婚して、てきとうに妊娠し、てきとうに子育てすることになる。これでうまくいったらそれこそ奇跡ですよ。 逆に言うと、人の悪口で盛り上がっているような状態の段階で対処すればいいわけです。 最初の割れ窓への対処は、割れ窓に綴じ蓋?をすればいいというものではなく、その割れ窓の原因まで目を向けないと意味がない。 割れ窓を迅速に処理していても、その土壌が変わらなければ、別のトラブルを誘発するだけ。それこそ、離婚が連鎖したりすることになる。 それこそ、最初の結婚生活の失敗を受けて、スグに離婚して、スグに再婚しても、同じことの繰り返しですよ。 離婚だって、顔が知っている人が離婚したのだったら、その原因を考えないとダメなんですね。だって、今までやり取りをしてきている人ということは、自分でもその人との同質性を持っているということ。いわば自分も同じ危険性があるということ。 その危険性を自覚すれば、少なくとも自分の直接的な関係者の離婚は防げることになる。 離婚くらいならまだしも、それこそ自殺も連鎖したりするもの。 以前にも書きましたが、思考停止のダメダメな環境だと、誰かが自殺しても「あの子は弱い子だった・・・」そんな一言でオシマイになってしまう。結局は、その周囲の子供たちが持っている同質性に目を向けることがないので、また別のところで「弱い子」が発生してしまう。まさに「あのガラスは弱いガラスだった・・・今度はもっと丈夫なガラス窓にしよう!」と割れ窓を前に語り合っているようなもの。 そんな状態になったら、それこそボランティアのような連中がやってきて「アナタたちは何も悪くないのよ!」「ああ!悪い時代だわ!」「みんなで、あの○○をやっつけましょうよ!」と呼びかけてくる。自己逃避のダメダメ人間は、そんな甘言にコロっと乗っかってしまって、自分では何も対処しない。しかし、だからこそ、ますます同じトラブルが発生してしまうのは、本来なら誰でも分かること。 ダメダメな人間は、当事者意識がなく、自分で達成したいものがなく、だからこそ現実認識から逃避している。だから本当の意味での問題意識はない。 と言うよりも、トラブルがあっても、それを「見ない」という対処を取ることになる。 トラブルを解決するという発想ではなく、「見なくて済む」状況を獲得できればそれでいい・・・そう思っている。とりあえずは見ないで済んでいるだけで、当然のこととして解決したわけではないんだから、トラブルを生み出す土壌は、ますます腐ってくる。 そうなると、ますます大きなトラブルになり、「見ない」ための行動もエキセントリックなものになってしまう。 だから、誰かを犯人認定して、その犯人をつるし上げして喜んだり、自分が判断しなくても済むように「根絶すべきだ!」と過激な主張を繰り広げる。 当人たちが思考停止であるがゆえに、思考停止状態を作り出す人間と一緒になりたがる。 それこそ1枚の割れ窓だって、判断から逃避するダメダメ人間にしてみれば、「ガラス窓があるから悪いんだ!」「この地域からガラスを根絶すべきだ!」なんて主張になってしまう。 そうして、本当に、窓をなくして、全部を壁にしてしまう・・・ まあ、そんなたとえ話にすると、ちょっと極端でしょうが、実際にそんなパターンの対処をしていたりするでしょ? それこそ「こんにゃくゼリー」を根絶すべきだ!なんて主張が、現実にあるくらいなんだから、自分で認識や判断をしなくて済むようにしたいわけです。 しかし、ガラス窓をなくして、全部を壁にしてしまったら、確かに割れ窓はなくなるでしょうが、その中に住む人は、ますます殺伐としてくるのは、本来なら誰でも分かること。 しかし、ダメダメ家庭の周囲でやっているトラブル対応は、まさに「割れ窓がなくなるように、全部を壁にしてしまう。」パターンでしょ? 窓ガラスを全廃してしまって、「ウチは割れ窓が一枚もない!」「すばらしい管理だ!」と豪語するようなもの。 そうやって、トラブルを生み出す土壌はますます悪化して、割れ窓は連鎖しないまでも、離婚や自殺は連鎖してしまうわけです。 そうして「どうしてこんなことに?!」「ウチはいつも適切な対応を取っている!」「トラブルだって何もなかったじゃないか?!」「この周辺では割れ窓は一枚もないぞ!」とお約束のコメント。それこそ長崎県だったら、毎回そんなものでしょ? 一枚の割れ窓を、炭鉱のカナリアとみなせば、色々と対処ができるのに、割れ窓をなくすことが目的化され、結局はトラブルが多発することになる。 炭鉱のカナリアだって、一羽のカナリアが死んで大騒ぎとなったら、ダメダメな人間の対応としては、「次にはもっと丈夫なカナリアを連れてこよう!」とか、「死んでしまうと大騒ぎになってしまうから、今度は機械製のカナリアを連れてこよう!そうすればどんなに空気が悪くなっても、鳴いていてくれるぞ!」そんな対応になる。 そんな「善後策」は、ダメダメな環境ではお約束のようにやっているでしょ? 割れ窓理論だって、最初の割れ窓が2番目の割れ窓を生む・・・というシリアルなスタイルだけでなく、一枚の割れ窓はトラブルを生み出す土壌が発現したものと見る必要もあるわけです。 トラブルはシリアル形式で連鎖するだけでなく、同じ土壌から発生するというパラレル形式での連鎖のパターンも多いものなんですよ。そして、そのトラブルを生み出す土壌の問題は、常に目の前にあるがゆえに、認識しにくい。だからこそ、一枚の割れ窓が発生した時に真摯に対応する必要があるわけです。 (終了) *************************************************** 発信後記 最近このメールマガジンでは、ダメダメの実例として現在の日本の首相である鳩山由紀夫さんに注目しております。何も政治信条を問題にしているわけではありませんヨ。 むしろ、政治的な信念の不在を問題にしているだけです。 先日の国会での所信表明の演説では、「いのち」という言葉が頻繁に使われ、インドのガンジーさんの言葉が引用されたとか。 じゃあ、その演説における「いのち」って、どういう意味なの? 購読者の皆さんも考えてみてくださいな。 ちなみに、その演説の文章は、サイト上で読むことができます。 http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/200910/26syosin.html 私は、たとえば「尊厳」という言葉を頻繁に使ったりしますが、「いのち」なんて曖昧な表現は使いません。曖昧な表現は、その場の空気を乱さないには有効でも、相手にわかってもらうためには何の効果もない。心理的には、肯定ではなく、二重否定を向いているわけ。 しかし、曖昧であるがゆえに、「箔」をつける必要がある。そのためのガンジーなんですね。 それに、伝聞スタイルとなると、自分で考えなくてもいい。 それは抑圧的な人間にしてみれば、精神的にラク。 その演説において、もっとも中心とする「いのち」という言葉が意味不明なのはどうしたものだか?とりあえず、皆さんは、その「いのち」という言葉を、別の言葉で置き換えてみては?別の言葉に置き換えると、文章に論理的な矛盾が発生するのではなく、なんとなくの居心地が悪くなるんですね。 逆に言うと、それだけ明確なメッセージがないわけ。居心地の良さが優先されているわけ。 とおりのいい曖昧な言葉は、自分が分かっていないこと、それ自体から目を背けようとする人がよくやる方法です。逆に言うと、反論されたりすると、逆切れすることもあるもの。 そんな曖昧でとおりのいい言葉を聞いたら、さっさと避難するのが一番・・・なんですが、日本から避難するのは難しいなぁ・・・ |
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R.10/12/31 |