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カテゴリー | このメールマガジンそれ自体について | |
配信日 | 10年2月20日 (10年11月1日 記述を追加) | |
タイトル | 空気を見る | |
突然になりますが、皆様に質問です。 今このメールマガジンの文章をお読みになっておられる方の、目の前にはどんなものがありますか? 「そんなプライヴェートなことは関係あるの?」 そんなご意見はあるでしょう。 あるいは、「そんなことは決まっているじゃないの?パソコンの画面があるわよ!」そんな回答もあるかも? このメールマガジンをプリントアウトしてお読みになられる方もいらっしゃるかもしれませんが、少数派でしょう。ですから、皆さんの目の前には、パソコンの画面なり、あるいは携帯電話のディスプレイがある・・・これは実際にそのとおり。 しかし、別の回答もあります。 「その質問に対する答えは・・・メールマガジンのサブタイトルに書いてあるわよ!『空気』でしょ?」 この私の流儀になれた購読者さんなら、そんな回答をされる方もいらっしゃるかも? 別に目の前にパソコンのディスプレイがあるという回答を間違いだと申し上げるつもりはありませんよ。ただ、目とディスプレイの間には空気があるでしょ? だから、現実的には、目の前にあるものは、空気なんですね。 ここで何も、室町時代の一休さんのようなトンチ話をしようというわけではありませんヨ。 このメールマガジンで頻繁に言及しております、「見えているものを、見えるようにする。」というミシェル・フーコーの考えを、もう一度確認したいと思っているだけです。 パソコンなり携帯電話のディスプレイがなければ文章が読めないのは現実的にそのとおり。 しかし、そのディスプレイと皆さんの目の間に空気がなければやっぱり読むことはできないでしょ?文章を読む読まない以前に、死んでしまいますよ。 しかし、人間は、その空気というものを意識することはない。 しかし、空気がなくなったら、文章を読むどころではないし、空気が汚れていれば、死なないまでも、文章を読むどころではないでしょ? パソコンのディスプレイの調子が多少悪くても、文章は読めますが、空気の調子が悪ければ、文章なんて読めませんよ。 順調に行っている場合には何も意識しないわけですが、実際的には、その空気の問題が極めて大きいわけ。 それに空気というのは、いつの時代にも存在するもの。 それこそソクラテスの目の前にも、イエス・キリストの目の前も、空気があったわけでしょ? 逆に言うと、そんな偉大な人たちと、21世紀に生きている我々は、「見ているもの」は、実は同じなんですね。だって目の前にあるものが共通しているんだから、見えているものは同じですよ。 ただ、実際に目の前にあるのだけど、それを見て、認識し、描写し、記述し、表現し、考えていくのが難しい・・・それが空気というもの。 だから、「その空気をどのように認識し、表現していくのか?」 昔からそんな悪戦苦闘があったわけ。 それこそ、このメールマガジンで言及いたします「炭鉱のカナリア」の例ですが、まさに「空気というものをどのように認識していくのか?」そんなことのための方法論でしょ? そして、そんなカナリアの目の前にはやっぱり空気があって、その空気が炭鉱で働いている人と共通しているからこそ意味があるわけでしょ? 空気そのものを表現しても、一般人はピンと来ない。 そんなことをヘタに熱く語っても「あの人・・・ヘンな人だ!」と言われてしまうだけですよ。空気について、酸素が約20%で、窒素が約80%でできていて・・・と、そんな自然科学的な説明だけでは、描写したことにはならないでしょう。聞かされても何かが納得できるというものではない。納得できるような説明となると難しい。 だから結局は、空気の向こうにあるエンピツとか本とかパソコンとかの「姿」「形」を描写することで、間接的な形で、空気を描写することになる。 しかし、それはあくまで、ある種の代替であって、本質的に描きたいのは、我々を取り巻く空気の方。 そして、その空気は、いつだって我々の目の前にあるし、昔から変わらないし、何か事件があった際にも、事件後も、事件前も変わってはいないもの。 変わってはいないがゆえに、認識しにくいわけ。 事件が起こったりすると、何か目新しいものが犯人認定されたりするものです。それこそ、時代の流れとか、インターネットなどのテクノロジーの問題がスグに言われたりするもの。 あるいは、以前は、ロックとか、新しい前衛的な美術の問題が云々されたりする。しかし、事件の方法論は多少の変化はあっても、その心理はいつの時代も同じじゃないの? それこそ古典的な芸術作品で描写されている、その種の事件と今現在で我々の目の前で起こっている事件では、道具が違っているだけ。逆に言うと、思考から逃避する人間は、道具の問題にしてしまって、心理の問題を考えることから逃避する。 戦争での原爆の使用を非人道的とか議論される方がいらっしゃいますが、原爆が非人道的なのはともかく、じゃあ、銃殺は人道的なの?火炎放射器で焼き殺すのは、そんなに人道的なの?一斉射撃で銃殺された人は、「原爆じゃないから、人道的に殺してくれる!ああ!この人たちは、なんていい人たちなんだ?!」と思って殺されるの? 1808年5月3日にフランス軍に銃殺された人は、そんなにうれしかったの?描かれた人は、そんな楽しそうな表情はしていないでしょ? どんな道具で処刑されるかなんて、処刑される側には、重要なことではないのでは? 道具は所詮は道具であり効率性の問題。もっと重要なのは心理の問題。 重要なものは、いつも我々の前にある。しかし、ものが見えない人間ほど、目の前の空気が見えない。 よく「空気を読めよ!」なんて言い回しがありますし、以前に、その言葉を取り上げたこともあります。しかし、そんな言葉は、空気を読むという名目で、実際には空気を見ているのではなく、相手の顔の表情を見て、音声を聞いているだけ。だからこそ、その内面までは見通せない。別の言い方をすると、雰囲気は見ても、空気は見ないわけ。 逃避的な人間は、いつの時代にも変わらない空気の問題を見ることから目を逸らす。 それはいつの時代にも変わらない人間の本質を見ることからの逃避。 だから、逃避的な人間は、空気を汚すことで逃避をしたりする。空気をいじることで、空気を見ることから逃避するわけ。 以前にも書きましたが、カルトの人は、雰囲気でごまかすアロマが大好き。 その手の人たちは、現状認識や思考から逃避できる雰囲気づくりに工夫する。そして、自分と他者の境界線を消失させようとする。そんな自我境界線の消失は、いい言い方をすれば、ある種の「法悦の忘我」であり、別の言い方をすると、「我を忘れた逆上状態」とも言えるもの。 実際に、逆上メールを出した人にアロマの関係者もいたりするわけ。 あるいは、ボランティアの連中が気に入らない相手をつるし上げる場合には、その会場で、アロマを焚きこんで雰囲気を効果的にする・・・そんな方法があるそうで、それを自慢気に語っている人がいました。 抑圧的な人間は、自我の境界線を消失させたがっている。 「な〜となく」のボンヤリ状態に自分を置こうとする。そして直近の境界はボンヤリとさせて、遠くのものを敵認定して、自分から離れたところに境界線を置こうとする。 宗教的なカルトなり、市民運動、ボランティアなんて、そんな感じでしょ? 何回も書きますが、現実逃避にはアロマが有効。 それはトイレのような場所においては、実に意味があるでしょう。 あの場所は、どうしたって匂いが発生しますからね。 あるいは、フランスで香水が発達したのは、オフロに入らないから身体が匂う・・・そんな理由があったわけですが、香水でごまかすよりも、オフロに入るのが、本来の対処方。 まさに香水がそうであるように、自分の問題点が大きくなってくると、それをごまかすために、どんどんと強いごまかしが必要になってくる。 そして、その匂いに麻痺してしまうことになる。 そんな空気のところに初めて入った人は、「げっ!」と思うことに。 あるでしょ?そんなシーン。 目の前のものをしっかり見るためには、雰囲気でごまかさないようにする必要がある。 逆に言うと、その手の装飾的な雰囲気があったら、それは直視することから逃避しようとする心情が見えてくるわけです。まあ、ごまかしがなかったらトイレと同じような状態だと、自分たちで言っているようなもの。 使われているアロマが時代によって変化したり、空気の向こうにある事物が時代によって変化しても、空気そのものは時代によって変化はない。 それゆえ、空気を見ることは難しいんですね。 人はどうしてもハデな動きに目を奪われてしまう。 それにどうしても感情が入ってしまう。 このメールマガジンは、機能不全家庭の問題を考察しているわけですが、自分の出身家庭であるがゆえに、冷静に見ることができない。 それに、ダメダメな親ほど被害者意識が強く、「子育てを背負わされた被害」を認識し、「親に迷惑をかけるな!」と子供に厳命することになる。だから、そんな機能不全家庭の出身者ほど、自分の出身家庭の問題がアンタッチャブルになってしまう。 そんな家庭で育ってしまったので、感情次元の問題にしてしまって、その不快感の解消を持って解決としてしまう。以前にも書きましたが「ワタシは昔は親を恨んでいた。今は恨んでいない。」そんな物言いになってしまう。 恨んでいるとかいないとかの感情次元が問題なのではなく、機能不全家庭のその不全な機能はどんなものなのか?それが後になってどんな影響を及ぼすのか?それを冷静に記述しないと意味がないし、対処のしようがないでしょ? しかしそんな「恨んでいない」なる言葉を語る人は、「今は恨んでいない」わけだから、その問題は一件落着となってしまっていて、何も考えなくなってしまっていて、結局は「なじみ」の流儀であり、「何も考えなくても自然にできてしまう」自分のダメダメな出身家庭のスタイルを繰り返してしまうことになる。 感情の問題にしてしまって、その感情を無理に抑えようとして、抑圧的になり思考停止になってしまう。思考停止であるがゆえに、「我思う、ゆえに我あり」という言葉で言うと、「我思う」がなくなるわけだから、自我境界線の消失そのもの。 本来は、「疑い」そして「疑い続ける」ことこそが、自我そのものでしょ? もしかしたら、いわゆる懐疑主義と虚無主義を混同なさっておられる方もいらっしゃるかもしれませんが、懐疑とは創造に繋がっているもの。 懐疑主義とは、懐疑する自分を肯定したものなんですね。真に確かなものを見出す産みの苦しみのようなもの。 そして、懐疑する自分というものを一番確かなものとして、そして、別の確かなものを見つけ、それを積み上げていく・・・それがデカルトの方法でしょ? 逆に言うと、「正しい知識を学ぶ」と言っている人は、自分で見て自分で考えることを否定しているんだから、そんな人こそ虚無的な人じゃないの? 自分自身を否定して、自分の目の前にあるものを否定して、遠くにある客観的なご高説を信奉しているんだから、そんな人ほど、一番のニヒリストですよ。 疑うことを肯定することこそが、虚無から脱出する方法なのは、デカルトの時代でも言われていること。しかし、そのことが実に難しいことは、それこそ古代ギリシャのソクラテスも言っていること。 空気を見つめると言うことは、つまるところ、自我を見つめるということ。 空気を読むということは、自我を滅却し、雰囲気に合わせるということ。 空気を読み、雰囲気にこだわっているからこそ、自分自身が喪失してしまう。 その喪失が、まさに自己逃避そのもの。しかし、自己逃避しているがゆえに、なじみのダメダメから脱却できない。 子供時代のことを思い出したくないし、 自分が受けた子育てを思い出したくないし、 子育てについて考えたくない。 だからこそ、自分が親になることを考えないし、想定しないし、シミュレーションもしない。だからこそ、避妊もせずに、何も覚悟がないまま、親になってしまう。 そして当然のごとくにトラブルが発生してしまって「こんなはずではなかった!」「ワタシは、ただ、ふつうの・・・」と嘆くだけ。 「『こんなはず』も何も、じゃあ、どんな感じで自分が親になることを想定していたの?」 「親として子供に対してどんなことをするつもりだったの?」 「どんなハズにするつもりだったの?」 そう聞かれても、逆上するだけ。 ダメダメ家庭は、当事者意識がないので、思考力がない。 思考力がないので、判断力もない。 当事者意識がないので、認識力もない。 認識力も思考力もないので、会話力もない。 会話力がないし、認識力がないので、解決力もない。 解決力がないので、ますます現状認識から逃避して、お約束のドッカーンにいたる。 ドッカーンばかりなので、ますます自己逃避。 だからますます当事者意識がなくなってしまう。 そんなことをいつもやっているもの。 ダメダメというか機能不全というのは、ある種の病気なのであって、その病状なり原因なり対処法を記述し、理解しておくことが重要でしょ? そのためには、ダメダメ家庭の空気の中に充満している「感情」も、一度外して考える必要もあるわけ。表層の感情を見るよりも、その深層にある心理に目を向けないと何も理解できないわけです。 そして、その心理は、いつの時代も大きく変わるものではなく、そして常に自分の目の前にあり、いつでも見ているものなんですね。 逆に言うと、現在の状況を真摯に見つめれば、過去の問題も見えてくるわけ。 その心理的な底流なり、人間の目の前にある空気は、いつの時代も変わらないものなんですよ。しかし、見ることが難しく、その難しさを認識することも難しい・・・だから同じようなトラブルが続くわけ。 (終了) *************************************************** 発信後記 いつもは土曜日の文章は、過去に配信した文章とのリンクが取れるようなスタイルの文章ですが、本日の文章は、むしろ今週に集中的に配信した、このメールマガジンの解説の別ヴァージョンのようなものです。そして、明日配信する文章の事前の解説の面も兼ねております。 ちなみに、明日の日曜日は、番外編的に購読者さんからの投稿の文章を配信いたします。 明日の文章は、過去の文章とのリンクを貼った、いつもの土曜日のスタイルになっています。 ちなみに、文章のスタイルとしては、購読者さんの文章に、発行者の私が補足の文章を加えたスタイルです。 補足と言っても、補足の方が本文よりも5倍以上の分量があるという形になっています。 結構、おもしろく仕上がったとは思っております。 基本的なテーマとしては「・・・」というものです。 |
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R.10/11/1 |