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カテゴリー ダメダメ家庭の雰囲気
配信日 10年2月26日 (10年12月23日 記述を追加)
タイトル 覚悟不在としてのふつう
以前に、ダメダメ家庭には覚悟がないという文章を配信しております。
そもそも当事者意識がないから、自分で達成したい目標があるわけではない。
それに加えて、自分自身を抑圧し、現状認識から逃避しているんだから、危機意識もない。
だから、何かに取り掛かる際にも、「な〜んとなく」で取り掛かってしまうわけ。
そんな日々なんだから、覚悟なんてありませんよ。

周囲の人に合わせて、「て・き・と・う」や「なんとなく」で物事を始める。
そして「ダラぁ〜」と生きている。
そんなライフスタイルを、ダメダメな人は「ふつう」と呼称し、自ら賞賛する。

現実的には、自分では何も考えずに、周囲の人の行動に「て・き・と・う」合わせているだけ。
と言うか、周囲と違っている面を「ふつうじゃない!」と否定しているだけ。
そうやって、家庭の形ばかりを整え、家族の気持ちを無視する。
そして、そんな人たちは、「ワタシはふつうの家庭を築きたい!」と周囲に対しておっしゃったりするもの。しかし、そんな人たちは、周囲の人から「ふつうに見える家庭」という外見や称号がほしいだけ。「ふつうの家庭」の形を維持するために、家族が犠牲になっている。

しかし、「ふつうの家庭を築きたい。」と言っておけば、通りがいい。自分自身も騙せるし、周囲のボンクラな人たちも、それで納得してしまう。
この私のように「その『ふつう』って、どういう意味なの?」「ダメダメな人って、いつも『ふつう』という言葉を使うんだよな、アハハ。」などと突っ込んでくる人間は、まあ、いない。

結局は、誰からも指摘を受けずに、「まっ、人のやっていることに、とりあえず合わせておけばいいやぁ・・・」という自堕落さが進行するだけ。
そして、家庭の外見のほころびを、そのつど修正するだけ。
だからこそ、家庭の中身はどんどんと腐ってくる。

そして、実際にトラブルが発生して、「どうしてこんなことに?!」「ワタシは、ただふつうの家庭がほしかっただけなのに・・・」と嘆きの声を上げる・・・そんな流れは、まさに、ダメダメにお約束の流れです。しかし、外見だけを気にして、中身について何も考えないんだから、トラブルが発生するのは、誰でもわかること。

ちょっとした例で考えると、ギョーザを製造販売して、顧客から「このギョーザは、おいしくない!」とのクレームを受けたら、本来は、ギョーザの中身を充実させる方向に検討するものでしょ?
しかし、見た目重視のダメダメ家庭では、よりおいしく見えるように、ギョーザの皮を「改善」していくわけ。ヘンな話になりますが、中身にかける費用を削ってまで、ギョーザの皮に工夫を凝らす。その結果なんて、誰でもわかること。
ギョーザのたとえ話にすると、ギャグになりますが、実際のダメダメ家庭もそんなことをやっているもの。

最初に覚悟の問題を取り上げました。
覚悟を持って取り組んだ日々を、「ふつう」の日々とは言わないでしょ?
それこそ、大学時代に、弁護士になるために必死に勉強したとしましょうか?そんな大学時代を「『ふつう』の学生生活だった。」というでしょうか?
「ワタシは弁護士資格を取るために、毎日必死に勉強していたわ!結果としては、合格するまで7年かかったけど・・・」そんな言い方になるでしょ?
あるいは、スポーツだって同じこと。「陸上で駅伝大会に出場するために、毎日夜遅くまで走っていたよ。」とかの述懐になっても、「ふつうのクラブ活動だった。」とは言わないでしょ?

結果として、求める成果が得られたかどうかの問題はあっても、懸命に取り組んでいたら、そんな時間を「ふつう」とは表さないものなんですね。
つまり、「ふつう」と言っている時点で、懸命にやっていないということが推定できるわけ。

学生時代だったら、もともとモラトリアムな面もあるわけですから、自堕落さとか失敗も笑って済む問題と言えます。しかし、家庭問題だったら、自分だけの問題じゃないんだから、シャレでは済まない。
「ふつう」という呼称が持つ、覚悟のなさが、結果として出てきてしまうことになる。

「ふつうの家庭」ということは、家庭生活を維持するに当たって、懸命にやっていないんだから、逆に言うと、トラブルも起きやすくなるのは、当然のことでしょ?
学生時代の喩えだと、「ワタシはサークル活動も熱心ではなかった、勉強も熱心ではなかった、アルバイトもほどほどだった、友人との遊びも限度を超えなかった・・・なのに・・・どうしてこんな学生生活になってしまったの?ワタシはいつもほどほどにやっていただけなのに!」と嘆くようなもの。

そもそも「ふつうの家庭を築く」ために、毎日懸命に行動している人っていますか?というか、具体的にはどんな行動をするの?何もしようがないでしょ?その手の人は、具体的な達成イメージのなさを、「ふつう」と言い換えているだけでしょ?結局は、自分自身の目標について、自分で考えることから逃避しているわけ。達成目標自体が存在しないから、プラス方向では物事を認識しない。「ふつう」を掲げる人は、目立つ行動を「それは、ふつうじゃないからダメ!」と否定しているだけになってしまう。否定しているだけだから、肯定的な覚悟とか強い意欲とますます無縁になる。
「ふつう」という言葉と、当人の覚悟は、相反するものなんですね。

そもそも「ふつうの家庭を築きたい。」とおっしゃるその人自身は「ふつうの人間」なの?あるいは、「子供にとってのふつうの親なの?」
現実的には違っているでしょ?
以前も書いておりますが、「ふつう」という言葉を気軽に使ってしまうということは、その「ふつう」を外から見ているということ。
せめて、「ふつうの家庭を築きたい。」とか、「ふつうの子供になれ!」という言葉を発した段階で、「じゃあ、自分はふつうなのか?」という点について考えてみれば、それなりに有効と言えるわけですが、ダメダメ人間は自己逃避であり、そんなことはしない。

強い覚悟を持って、「家族のためには、死んでもいい。」と言えるくらいの尋常でない思いがないと、マトモな家庭は築けないのでは?子供のためには死んでもいいという普通ならざる覚悟があるからこそ、最終的には「ふつうの親」になるものでしょ?
「ふつうの家庭を築きたいだけ。」と言っている人は、そんな強い気持ちも覚悟もない。
「ふつう」ということで、何事も覚悟がない自分を肯定しているだけ。
その他大勢の親を目標とすることで、自分で考えることを否定しているだけ。

「ふつうの親になりたい。」という言葉は、親としての自分を肯定したものではない
「自分がどう思うのか?」「何をしたいのか?」「子供がどう思うのか?」よりも、「周囲の人がどう思うのか?」「周囲との違いがないか?」が重要になっている状態。
だから、結果的に「ふつう」ではない家庭、まさにダメダメ家庭となってしまうわけです。

覚悟を否定するということは、まさに「強い気持ち」を否定していることだから、いわば自己否定と言えます。
その他大勢状態を積極的に肯定することで、間接的に自己否定するわけです。
そして、自己否定であれば、他者を肯定できるわけがない。
「ふつうの家庭を築きたい。」という名目で、すべての覚悟を否定する。

覚悟を持って自分からことを始め、自分で考え行動し、結果としてうまくいかなかったら、自分のせいになってしまう。
そんな自分への責任を回避するためにも、ダラぁ〜と、何となく事を始めるわけ。
そうしてうまく行かない事態になっても、「ワタシは悪くない!」「ワタシはミンナと同じようにやっていただけだわ!」と弁解する。

「家族のために死んでもいい。」そんな強い思いを語る人は、「ワタシはふつうの家庭を築きたい。」とは言わないもの。まあ、歳をとって、孫とかひ孫とかがやってきたら、「何だかんだと言っても、オレたちは、ふつうの家庭だなぁ・・・」と、しみじみ思うだけ。いつも書いていますが、「ふつう」は結果であって、目的ではないわけ。

家族のために命を張る覚悟のない人間は、じゃあ、結婚相手を選択する際には、どんな人間と結婚するの?やっぱり自分と同類の、強い覚悟のない人間になってしまうでしょ?

前にも書きましたが、強い気持ちの積み重ねが、結果として「ふつう」の家庭を作るんじゃないの?周囲に合わせているだけの「ふつうの姿」の積み重ねだと、ダメダメ家庭を作ってしまう。別の言い方をすると、周囲から、ふつうに見えることに腐心するがゆえに、「ふつう」でない家庭となるわけ。

以前に、「その人にとって居場所とは、死に場所と同じである。」と書いたことがあります。
この場所でだったら死んでもいい・・・それくらいの覚悟を持ち、実践できる場所こそが、その人にとっての居場所でしょ?
単に「ダラぁ〜」とノンビリできるというだけだったら、所詮は一時的な休養所ですよ。
そんな休養所も必要ですが、本当の意味での安寧につながる居場所ではないわけ。
この場所でだったら死んでもいいという感情がもたらす、絶対的な安寧こそが、別の言い方をすると、充足につながる安寧こそが居場所の条件なのでは?
あるいは、その人のアイデンティティがもっとも発現できる場所・・・それこそが居場所であり、そのような場所は、以前も書きましたが、戦いの場所でもありますよ。
何をするにせよ、死ぬ気でやらないと、何もできませんよ。

死に場所と言っても、実際にその場所で自殺したり殺人事件を起こすということではありませんよ。ただ、強い覚悟は必要でしょ?
その覚悟は子供に伝わるものなんですね。
ダメダメ家庭の親は、そんな覚悟がないがゆえに、子供は親に対して信頼感を持っていない。ダメダメ家庭の子供は、親に対して信頼感がなく、まさに「自分の身は自分で守るしかない!」と切羽詰った状態となっている。力の弱いものが、自分の身は自分で守るしかないと思いつめながら、警戒心を持って周囲をビクビク見渡している状態。そんな場所を、居場所とは言いませんよ。

だからこそ、そんな家庭の出身者は、自分探しや居場所探しに方々を巡ることになる。
「こんなのはホントウの自分じゃない!」「ああ!ホントウの居場所はどこなんだ?」と大騒ぎすることになる。
しかし、そんな人は、自分が育ったダメダメ家庭が持っている覚悟のないメンタリティーのまま。
まさに自分自身を見つめる覚悟がないがゆえに、方々を巡っているだけ。

せめて、結果として、その自分自身の覚悟のなさを自覚すれば、そんな自分探しなり居場所探しも意味があるわけですが、覚悟のないままの旅なので、結局は、ダラぁ〜と始まり、いつのまにか終わっている。

そして周囲の人に合わせて、型どおりのものにすがりつく。
ありきたりの「ふつう」の論理や考え方にすがってしまう。
ふつうの論理や考え方って、別の言い方をすると、とおりのいい言い訳の言葉。

「ワタシたちは『ふつう』の家庭だから、うまくいくだろう・・・」そんな漠然とした論理とか、「ふつうの家庭だから、うまく行くべきだ!」という願望なり主張があるだけになってしまう。
しかし、その根拠も、周囲の人がそう言っているから・・・という漠然としたもの。
あるいは、そんな発想を周囲に対して「べき論」を使って、相手から反論を許さないスタイルで主張したりする。
それこそ某政党党首のように「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき!」などと、意味不明の要求をするようになってしまう。

そんな主張はいいとして、じゃあ、具体的にはどんな社会になってほしいの?
そんな社会で何をしたいの?
あるいは、逆に言うと、そんな人が語る「ワタシたちは、ふつうの家庭だから、うまく行くはずだ!」というロジックに、その人は命を懸けられるの?その覚悟や信念があるの?
そんな第3者的なロジックに何の意味があるの?
そんなロジックは周囲に対して説明しやすいというだけで、自分の家庭や自分の希望を説明したものではないでしょ?
ただ、根拠のない願望を語って、自分の家庭の現実から目をそらしているだけ。

「ふつうの学生生活」という言葉が、「取り立てて何もない学生生活」という意味であるように、「ふつうの家庭」という言葉も「取り立てて何もない家庭」という意味になるでしょ?
当人としては「取り立てて何もない家庭」と言う言葉の意味は、顕著な欠点がないという意味なんでしょう。そんな発想は、いわば「悪くはない」という二重否定の発想。表現はともかく、現実的には何もアクションをしていない家庭、つまり肯定的なことも何もしていないわけ。

色々とやってみて、結果として、顕著な成果が得られないのはしょうがない。
しかし、ダメダメな人間は、まさに「ふつうの家庭を築きたい!」と豪語して、「取り立てて何もない家庭」つまり「成果が何もないという成果」を目標にしてしまうわけです。
そして、「ふつうの形さえ整っていれば、それでOK!」となってしまう。
逆に言うと、形の維持を目的化することで、自己逃避ができるし、家族と会話もしなくてもいい。

それどころか、肯定的な覚悟がないがゆえに、恐怖感によって強迫的に行動することになる。以前にも書きましたが「ふつうになるべき!」と「べき論」を自分自身に要求し、「ふつうの形」を達成するために、眦(まなじり)を決して取り組もうとする。
そんな「ふつうの外見」の積み重ねが、ダメダメ家庭となり、
「ふつう」ならざる強い覚悟の積み重ねが、マトモな家庭となる・・・って、言われてみれば当然のことでしょ?

何も考えずに、何も目標もなく、学生生活を送り
何も考えずに、何も覚悟もなく、結婚し、
何も考えずに、何も覚悟もなく、妊娠し、
何も考えずに、何も覚悟もなく、子育てをする

それは、確かに「ふつう」の生活と言える。

自分が「ふつう」に見えるように、
外見的に「ふつう」にみえる家庭生活を達成するために、
いわば、強迫的に「ふつう」を目指そうとするわけ。

そんなスタイルは、某政治家の言い方を使えば、まさに「ふつうの人が、ふつうに働いて・・・」の姿と言えるかも?
しかし、そんな「ふつう」をしていたら、「ふつうの家庭」にならないことは、「ふつう」の知能の人だったらわかること。

「この人と一緒に暮らして、こんなことをして見たい。」
そんな発想が微塵もなく、ただ「ふつう」の外見がほしいというだけで結婚してしまうんだから、それこそ、埼玉県の事件のように結婚詐欺師の女性にダマされて、殺されてしまいますよ。殺された方はお気の毒ですが、あの女性のどこがそんなにいいの?
殺された人も、ただ、周囲から「ふつう」に見えることがほしかっただけでしょ?
「ふつうになれ!」と言われたので、その要求に自分をフィットさせようとしただけでしょ?

ダメダメ人間の周囲は、同じようなダメダメ人間ばかりであることが多く、そんな「自称ふつう」の主張に違和感を呈せられることはない。
たから、何も考えない、覚悟を持たないという「ふつう」スタイルがそのまま通ってしまう。
そして案の定、トラブル発生となる。
しかし、ダメダメな人間は、実際にトラブルが発生すると「どうして、こんなことに?!」「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」「ワタシはただ、ふつうの生活をしたかっただけなのに・・・」と嘆くだけ。
そんな嘆き語る親の姿を、その子供が、呆れて見ている・・・それが自称「ふつうを目指している家庭」というものでしょ?

「ふつう」というのは、「目立つものがない」という意味で二重否定であって、その分、肯定からは二重に遠いわけ。肯定から遠い分だけ、「覚悟」からも遠く、自分自身から遠い。
そして、その覚悟のない「ふつう」のまま、死を迎える。

何でも最近は、無縁死が増えているとのことで、テレビ番組でやっていたとのことですが・・・
無縁死ではない、逆のパターンで、臨終の場に知人が多くいたとしても、生きることの目標がそんな賑やかな臨終の場を作ることではないでしょ?
人間ができるのは、充実した生にすることで、臨終の場にたくさんの人がいることが目的ではありませんよ。
「ふつう」しか望むものがない抑圧的な人間は、「ふつう」の臨終を達成するために、好きでもない人と結婚し、覚悟もなく子供を作り、その子供に対して「親の面倒をみろ!」「親の老後を見ろ!」「臨終の場には立ち会え!」と命令する。

まあ、確かに無縁死ではなくなるでしょうが、そんな臨終の場に出席させられる人間が考えていることは「やっと、くたばりやがった、このクソジジィ!」「ホント・・・コイツには迷惑を掛けられたよなぁ・・・」と言うことくらい。

まさに、外見的には「ふつう」に見えるけど、内面は「ふつう」とはとても言えない、そんなダメダメ家庭の日常風景が、臨終の場においても展開されるだけ。

まあ、そんな臨終で一生を終えるは、当人としては、それでOKなのかも?
よく「バカは死ななきゃ、直らない。」と言いますが、ダメダメな人は、臨終の場においてもダメダメなもの。
その点を自覚しないと、同じような「ふつう」のダメダメが繰り返されるだけなんですね。

(終了)
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発信後記

本文中にも書いていますが、「ふつう」というのは、覚悟や信念の不在とつながっているもの。眦(まなじり)を決して、「ふつう」を目指すなんて、ありえませんよ。
まあ、それは凡人の話。
天才ともなると、狂乱するように「ふつう」に憧れる人もいたりする。

以前の映画で、邦題が「本当のジャクリーヌ・デュ・プレ」という作品があります。
イギリスで60年代に活躍した、女流のチェロ奏者であるジャクリーヌ・デュ・プレを描いた作品です。ジャクリーヌの姉であるヒラリーが書いた本である「ヒラリーとジャッキー」を基にしています。

天才チェリストのジャクリーヌは、狂乱するように、「ふつう」を求める。
「ふつう」そのものである姉のヒラリーのようになりたいと渇望し、姉のものをほしがる。
しかし、心が焼け付くように、「ふつう」を求める行為が、「ふつう」から遠くしてしまう。
そんな精神状態なので、それが身体の不調となって、ジャクリーヌは若くして引退となる。
ちなみに、そのジャクリーヌさんは、現在は死去されておられます。

何でもできる天才が、唯一できないのは、「ふつう」になること。
だからこそ、いったんその「ふつう」に憧れてしまったら、達成しようがないし、だからこそ、抑えようがない。

たとえ、凡人であれ、たとえ、天才であれ、たとえ、覚悟がなくても、たとえ、求める情念が強くても、「ふつう」を求めた時点で、その「ふつう」は逃げていく。

ということで、その「本当のジャクリーヌ・デュ・プレ」という映画を、週末にでも見てみては?クラシック音楽をお好きな方は、非常に楽しめるでしょうが、そのテーマとしては音楽ではなく、「ふつう」への渇望に身を焦がす人。
まあ、天才の分際で、「ふつう」を求めることが、身の程知らずというわけなんでしょうね。
R.10/12/23