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カテゴリー | ダメダメ家庭が持っていない発想 |
配信日 | 10年3月3日 (10年9月18日 記述を追加) |
タイトル | 帰属意識 |
1960年代に活躍したイギリスのロックバンドにビートルズというバンドがあって、その曲に「Get Back」という曲があります。 「♪ Get Back to where you once belonged ♪」(オマエが昔いたところに戻って来いよ!)なんて、サビの部分で歌われる曲です。ちなみに歌詞の細部が違っているかも?その時はご連絡いただけると幸いです。 この曲はメンバーのポール・マッカートニーによる曲。 メンバーのジョン・レノンが、彼女であるオノ・ヨーコのところに入り浸りで、本来の仕事である音楽活動がおろそかになっている状態を踏まえ、「オマエも、前みたいに、オレたちと、ちゃんと仕事せんかい!こら!」と歌った曲と言えます。 オノ・ヨーコに入れ込んでしまっていた、ジョン・レノンは態度が改まらずに、我慢の限界を超えたポール・マッカートニーは、そのビートルズを脱退することになる。 ・・・なんて60年代の音楽シーンの話です。 まあ、その手の本にはよく書いてある話。 何もこのメールマガジンで音楽の話を語りたいわけではありませんヨ。まあ、ムダ話が多いのはいつものこと。 この曲というか、歌詞でおもしろいのは、「belong(=属する)」というところ。 「belong」であって、「live」でも「stay」でもない。 「belong」と言った以上は、ある種の「帰属」のニュアンスがあるでしょ? たまたまそこに滞留しているのではなく、もっと精神的な結びつきがイメージされますよね?そしてその精神的な結びつきも、本人が率先して、本人の判断の元に結びついた結果と言えるでしょ? それこそ、最初にあげたビートルズだったら、4人のメンバーが一緒に曲を作り、一緒にコンサートをして、一緒にレコーディングをして、まあ、一緒に遊んだり、悪いこともやったり・・・と、実に濃密な関係。 だからこそ、belongとなる。 レコーディングにおける、たまたまの、アシスタント・ミュージシャンとか、あるいは、コンサートでのお客さんとかは、belongと言うよりも、stayに近いでしょう。 「once belonged」も、「前の活動なり、精神的な結びつきがあった状態に帰って来いよ!」となるわけで、「once stayed」だったら、「そのまま前に進むと、コケてしまうから、ちょっと立ち止まって、とりあえず戻って来い!」くらいのニュアンスになる。stayだったら、前の状態でも精神的な結びつきがあったわけではない。 あるいは、こんな言い方もできるでしょう。belongだったものは、missionを共有していて、stayだったものは、jobを共有している。 前述の「Get Back」という曲だったら、パウロがヨハネに対してmissionへの回帰を呼びかけたと言えるでしょうね。 前にも書きましたが、belongというか帰属意識となると、当人の判断が前提として存在するでしょ?当人が好き好んで、その精神的な結びつきを得ている・・・そうなりますよね? 判断のないところは、精神的な帰属ではなく、単なるカテゴリー分類に過ぎないわけ。 それこそ、男女の問題でも、男性の方も女性の方も、その性別に帰属しているのではなく、単にカテゴリー分類としてそうなっているだけ。だって、判断してそうなったわけではないんですからね。 まあ、男女の問題は、基本的には、選択の余地がない。 しかし、たとえば学校だったら、選択の余地が出てくる。 学校も、わざわざ受験して合格して、その結果として入学すれば、それは当人の選択なり判断の結果と言えるわけですから、ある種の帰属意識も持てるでしょう。よく言う言い方ですと、愛校心なる言葉がありますよね?しかし、公立の学校で地域で決められた学校にそのまま行っただけだったら、それは地域カテゴリー分類の延長であって、当人の判断が伴っているわけではないでしょ?当人が、「私立はイヤだ!どうしても地元の公立に行きたい!」と選択した上での公立なら、そんな帰属意識もあるでしょうが、ただ、地域で決まっているからしょうがなく・・・というスタンスだったら、帰属意識なんて持ちようがないでしょ? そこに属することに当人の判断のない場合には、帰属意識なんて起きようがなく、あるのはカテゴリー分類の確認だけ。 何もすべての集団に対して帰属意識を持つ必要もないでしょ?やらなければならないjobのすべてが、果たさなければならないmissionであるというわけではない。 当人が選択したものに対して、当人自身の責任を自覚すること・・・それが帰属意識の別の言い方でしょ? さて、人間が最初に属する集団は、いうまでも家庭。 しかし、子供にとってみれば、それは自分の判断の結果ではない。 親にしてみれば、家族と言う集団なり、子供という存在は、判断の結果といえるでしょう。それに、そもそも夫婦になるにあたっては、判断が伴っている。 つまり、心理的な観点をみれば、家庭においては、親は家庭に帰属(=belong)し、子供は滞留(=stay)に近いわけ。 子供としては、親の意識を見ながら、帰属意識というものを習得していくことになる。 逆に言うと、親の側が帰属意識を持っていないのなら、子供としては帰属意識を習得しようがないわけ。 しかし、ダメダメ家庭を作る親は、自分の家庭に帰属意識を持っていない。というか、そもそも帰属意識そのものがない。 前にも書きましたが、帰属意識は当人の判断の結果であり、自分で判断したことに対しての責任を意識するという意味を持っている。しかし、ダメダメな人間は、抑圧的で、判断の場から逃避している。判断せずに、ダラぁ〜と流れるままに生きている。そして、そんな「てきとう」に流れる日々を、「ふつう」と言って肯定する。 判断そのものがないがゆえに、判断に対する責任も存在せず、それに類する帰属意識も存在しない・・・それがダメダメ人間。そして、そんな人間が作った家庭がダメダメ家庭。 つまりダメダメ家庭の子供は、帰属意識を持つ人を見ていないし、帰属意識の原体験をしていないわけ。 原体験がないんだから、そんな精神的な土壌の上に、帰属意識を打ちたてようとしても無理ですよ。たとえば、受験して私立の小学校に入学したら、そこで、帰属デビューができるわけですが、ダメダメ家庭の人間は、そんな教育的な選択は滅多にしないもの。 子供を学校に通わせる際にも、結局は、ダラぁ〜と流れるまま。判断や選択とは無縁のカテゴリー分類に従っているだけ。 帰属意識とは無縁のままでも将来的にOKということなら、大きな問題も発生しない。 しかし、社会というものは、子供たちが、家庭内で帰属意識の原体験をしているという前提で、その後の教育システムも整備されている。帰属意識の枠組みをゼロから形成するという発想は、学校においては、前提として持っていないわけ。何も考えずに、決められたまま地域の公立の学校に入学したダメダメ家庭の生徒も、それこそクラブ活動とかの選択のシチュエーションがあったりする。そのクラブに選択して入ったのなら、それなりの帰属意識が持てることになるし、持つことが要求されたりする。 しかし、小学校くらいならまだしも、中学校レヴェルともなると、その歳で帰属意識デビューとなると無理がでますよ。 結局は、必死で自分を騙しながら、その集団にいることになる。 しかし、自分を騙すことを要求されるんだから、精神的ストレスを感じ、結局は憎悪に転化するのは誰でもわかること。 一緒に活動し、汗を流し、成果を勝ち取ることによる連帯感も、最初の段階でボタンの掛け違いをやっていると、汗を流すことも、強制された感覚になってしまい、まるで罰として強制労働を課せられているように認識してしまう。連帯感を持つためには、最初に、自分の判断が必要になるわけですし、自分の判断から始まったことだから、自分で責任も持てることになる。一緒に汗を流す行為も、同じ判断をして来た者同士、同じような帰属意識を持つ者同士という共通のベースがあれば、その共通のベースの上に共通の体験や共有された感情が積み重なっていくことになる。それこそが連帯感でしょ? しかし、判断とは無縁で、帰属意識の原体験をしていなくて、カテゴリー分類しか分からない人間にしてみれば、帰属意識を要求されることは、自分を騙すことであり、自分自身の希望や感情を抑圧することになるわけ。だから、帰属意識を要求されることによって、その集団への敵対心に繋がってしまう。 ボタンの掛け違いを修正する方法の鉄則としては、最初のボタンまで全部取り外すこと。 しかし、それが帰属意識というものについてのボタンの掛け違いだとわからないダメダメな学校は、ただひたすら、生徒に愛校心を強要するし、ダメダメ家庭も、「親を敬え!」と強要することになる。 ということで、子供にとっては、ますます精神的な抑圧が進行してしまう。 前にも書きましたが、マトモ家庭の人間は、そもそも最初に属した組織といえる家族において、帰属意識の原体験をするもの。しかし、ダメダメ家庭では、「支配・被支配の構図」なので、集団への参加については、自分の家庭の「所属=被支配」というスタイルの延長で認識している。 集団に属すると言っても、ダメダメ家庭においては、所属はあっても、帰属はないわけ。当人の判断が伴った帰属ではなく、自分が支配され、抑圧される方法論として「集団に所属を強制される」となっている。だからこそ、集団に属することに警戒感をもったり、恐怖感を持ったりすることになる。だから一般的には、集団とか組織というものそのものに敵対的になってしまう。所属する集団について判断したり、選択することが心理的に負担になるだけではなく、属することも心理的に負担。 だから、集団について考えること、それ自体に心理的な恐怖を感じ、何も考えずに、てきとうに会社に入って、スグに辞めてしまったり、あるいは、てきとうに結婚して、新しい家庭に属して、やっぱりスグに離婚ということになる。 てきとうに結婚して、てきとうに離婚するのは当人の勝手ですが、何も考えない人なんだから、避妊もせずに、「てきとう」に妊娠してしまう。そして、そのまま「てきとう」に出産。 その結果がどうなるの? そんな家庭の子供は、どうやって帰属意識の原体験をするの? 帰属意識の原体験ができないどころか、そんな家庭の親は、「支配・被支配の構図」でのみ集団の統治を理解しているんだから、その構図をそのまま自分の子供に適用することになる。これでは児童虐待が起こるのも当然でしょ? あるいは、夫婦間でやれば、ドメスティック・ヴァイオレンスになってしまう。 そして、支配によって集団を維持している人間を、逆に支配しようとボランティアが参入して、屋上屋を重なるスタイルで、より「支配・被支配の構図」が強化される。 ボランティアも帰属意識がなく、支配・被支配の構図で物事を見る人たち。 だから、つるし上げのような暴力的な方法を取ったり、逆に、「恵んであげる!」というジェントルな方法を取ったりしても、相手を支配下におきたいというサディズム的な心理は共通しているわけ。 そんな集団のメンバーは、その内部において、共通の目的なり、共通の感覚や感情を基にしてその集団に帰属しているのではなく、共通の敵によって集団化して、そこに参加している状態。価値を肯定的に認めた帰属ではなく、二重否定的な所属なんですね。 それこそ、日本の社民党なんて、国家に対する敵対心を共有している集団でしょ? だからと言って、内部への帰属意識はありませんよね? だからこそ、敵がなくなれば瓦解するもの。 逆に言うと、そんな集団は、組織を維持するために、敵を探し回り、周囲のあら探しをし続けているもの。 そして、その結果がどうなるの? まさに敵がないと生きていけない状態。 生きていることすべてが、敵へのクレームになってしまう。 逆に言うと、それだけ敵という存在に依存してしまっているわけ。 帰属意識の原体験をしていないダメダメ家庭出身者が、無理に集団をまとめようとしたり、集団の中にいようとしても難しい。 そんな人は「belong」という帰属感覚を得ようと無理をしても、その手のダメダメな集団が掲げる共通の敵への対抗心に蝕まれるだけ。 そうなったら、開き直って、集団への「belong」を捨てるしかないわけ。 別の言い方をすると「stay」であり続けることに、属するしかないわけです。 以前に話題になったフランスの哲学者ジル・ドゥルーズが言うように遊牧民的に生きるしかないわけ。それこそが敵対心なり対抗心に陥らずに、自らの尊厳を守る、別の言い方をすると、ミシェル・フーコー流の倫理的な方法なんですね。 たとえ、その場所にいても、その集団にいても、それはあくまでstayである。 そんな覚悟を持って生きるしかないわけ。 それこそ、日本だと旅に生きた江戸時代の芭蕉がそんな感じでしょ? 方々を巡るという旅自体の価値もありますが、ヘタに一箇所に定住すると、自分を偽る必要が生じてしまう。旅に帰属するという感覚が、自らを解放するわけ。 もちろん、「私の王国はこの世のものではない。」というヨハネが伝える言葉だって、「私はこの世においてはstayである。」という意識のようなもの。 だからこそ、「カエサルのものはカエサルに。」と言えるわけ。 子供時代に帰属意識の原体験を得ていて、その後において自然に帰属意識を持てるような人は、集団に帰属することで安心感を得ることができる。帰属は穏やかな依存と近い。それは甘えの一種とも言える。 それは「支配・被支配の構図」のダメダメ家庭では、とてもじゃないけど習得できない心理。 ダメダメ家庭の人間は、いわゆる田舎には住みにくい。 田舎に特有の言葉に「ふるさと」と言う言葉がありますよね? まあ、その田舎の人が、その場所に精神的に帰属しているのなら、それはそれで結構なこと。逆にいうと、そんな自然な帰属意識を臆面もなく言える世界では住み難い・・・それがダメダメ家庭の出身者。 そんな「ふるさと」なり「ふるさと」という言葉を連呼する人には無理に関わらない・・・そんな知恵も必要になるわけです。 「私のふるさとは、旅をし続けることである。」 芭蕉なんて、そんなところがあるでしょ? そんな発想では、たしかにジル・ドゥルーズのような最後となってしまうかもしれませんが、対抗心の中で自らの尊厳をすり減らしていくよりも、はるかにマシなのでは? よく「根無し草になるな!」などと言った物言いがありますが、その根っこが、何かへの対抗心や敵対心だったら、その根っこも腐っていますよ。そんな根っこだったら、茎の部分も腐ってくるし、花を咲かせたり、実をつけることにはならない。 最近話題の外国人参政権の問題ですが、stayでもbelongでもどっちでもいいわけですが、それ相応の違いはありますよ。stayであれば、belongの人よりも権利は制限されるのも当然でしょう。漂泊し続けるのも、その人なりの考えであって、その漂泊の中で何を達成するのか?という点が重要でしょ? しかし、抑圧的な人間は、自分がどんな人間なのか?何をしたいのか?何に属しているのか?そんなことを考えることから逃避する。 そして、対抗心や敵対心を根にして、恨みの心を膨らませてしまう。 何もその手の外国人だけでなく、ダメダメ家庭の人でそんな人は多いでしょ? そんな人たちの行動も、その人たちが、「帰属意識」というのが理解できていないとして見ると、実に理解しやすくなるものでしょ? さて、「私の王国はこの世のものではない。」という、よりにもよって、ジョンさんが伝える言葉を提示いたしました。 ポールさんから「いい加減にして、帰って来いよ!」と、怒られたジョンさんは、まさに帰属意識が希薄な人だったのでは? 彼は、この世においては、居場所がなさげで、どうも、落ち着きに欠ける。 そして、挙句には年上の女性に入れ込んでしまう。 何もお師匠さんから、その女性の世話を頼まれたわけではないでしょうが、ずいぶんと入れ込んでいましたよね? まあ、20世紀のジョンさんは、いかにもなダメダメ家庭出身者といえるでしょう。 じゃあ、2000年前のジョンさんは、どうだったのかな? ビートルズの音楽の、特に歌詞の部分で、ジョンさんが担当していたものも多くありますが・・・ 彼にしてみれば、始めに言葉ありき・・・というわけなのかな? (終了) *************************************************** 発信後記 本文中で言及しております、チョット前に活躍した哲学者ジル・ドゥルーズについては、それこそウィキペディアなどでお調べくださいな。 いつも書いていますが、私の理解はあくまで素人的な理解です。 ただ、私としては、その人の言葉と言うよりも、問題意識を共有したいと思っております。 だからその分野の学者さんの解説とは趣が違っていますが、結構本質を突いたものだと思っております。 対抗心を根っこにしてしまうと、当人にとっても、周囲にとっても不幸となってしまう。 だからこそ、むしろ自分の欲望に忠実になった方がいい・・・それは、倫理的といえるでしょ? |
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R.10/9/18 |