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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない体験,境遇
配信日 10年3月17日 (10年11月5日,10年12月6日 記述を追加)
タイトル 安息の原体験
昨年09年の7月に様々な心理的なベースについての文章を配信いたしました。
その中で「信頼・安心の心理的ベース」についての文章があります。
「自分が相手に対して要請すれば、相手が対応してくれる。」
幼児の時代に体験した、養育者との、そのような関係を通じて、信頼とか安心の心理的なベースとなるわけ。

しかし、ダメダメ家庭を作る親は、被害者意識が強く、子育てだって、親である自分が押しつけられた被害として認識している。
そんな親にしてみれば、子供からの要請があっても、それに対応するつもりなんてありませんよ。子供が泣き止まないから親として対応するという状況においても、子供がうるさいという自分の被害に反応するのであって、「子供の意向はなんだろう?」「子供の希望をかなえてあげたい!」という発想を持っていないわけ。

そんな養育者なので、子供が要望を出さないように指導することになる。
子供の要望に対処することで、泣き止むようにするのではなく、まさに子供が泣かないように押さえつけるわけ。
まさに「子供が泣くから殴った!」との、児童虐待の現場における、お約束の文句になるわけです。

そんな状況で育った子供としては、親に対して要望を出せば、事態が悪くなるという原体験をしている。それこそ、泣けば殴られるわけですからね。
頻繁に引用しておりますが、「この門より入るもの、希望を捨てよ!」の心頭滅却の境地になるしかない。
ダメダメな親としては、子供がそんな状態になれば、まさに手がかからなくなって、喜ぶことになる。しかし、子供としてみれば、養育者に対して要望を出しても対処してもらえないわけだから、親に対して信頼を持つことはない。
自分の親を、「逆らうことが出来ない」支配者として認めても、「自分を守ってくれる」養育者とか保護者としては認めていないわけ。自分の親の価値を肯定しているのではなく、二重否定なんですね。

だから、信頼の原体験ができない。
相互に信頼していない人たちが集まっている家庭なんだから、そんな家庭において安心感を持つこともない。
むしろ、家庭にいると、緊張感を持ってしまう。
つまり、ダメダメ家庭においては、安心感なり安息感の原体験ができないわけ。

子供がトラブル状態になっても、親が自分の子供を守るわけでもない。
ダメダメな親は「また、コイツのせいで、メンドウなことに・・・」「いったい、いつになったら手がかからなくなるのやら?」と冷たい視線で子供を見つめるだけ。
あるいは、経済的な問題を、子供の前で話し、子供にその配慮や負担を負わせることになる。
それこそ「オレの会社は、もうスグ倒産からも?」
「そのうち、オレも首を切られるかも?」
「あ〜あ、1年後はどうなってしまっているのかなぁ・・・」

そんな嘆き節が子供の前で飛び交っている。
子供としては「明日は自分はどうなっているのか?」と不安になって、安息なんて状態とは程遠い。

ダメダメ家庭とはそんなものなんだから、子供としてはどうしようもない。子供は親を選べないわけですからね。
しかし、子供時代に、家庭において、信頼とか安心の原体験をしていない人間が、長じた後になって、信頼とか安心の状態を作れるの?と言うか、どういう状態だと信頼感とか安心感を持つのか分かっているの?

一般社会においては、人間というものは、子供時代に、育った家庭において信頼とか安心の原体験をしていて、その基本的な枠組みを持っていることを前提として、人間関係の構築を行うもの。
やり取りの最初において、「この人とやり取りする前に、まずは、信頼とか安心とは何を意味するのか?そのことを先に説明しておかないと・・・」なんて考える人はいないでしょ?

しかし、ダメダメ家庭出身者は、信頼とか安心というものが分かっていないわけ。国語辞典的には説明できても、心理的な実感を持っていない。
このメールマガジンでは、ダメダメ家庭の人間は、信頼というものが理解できず、たとえ相手に対する肯定的な認識であっても、好意という感情次元で認識していると頻繁に書いています。
信頼と言うものは、ある種の反応に由来するもの。
こちらからのアクションに対して、想定の範囲内でリ・アクションしてくるようなら、信頼となるわけでしょ?それに対して、好意というのは、相手からの情報なりアクションをどのように評価するのかと言う、いわば当人だけで完結できる問題と言えます。
信頼は、やり取りにおける認識と判断が必要となるわけです。だからこそ、その認識と判断の心理的ベースがないと、信頼というものも認識できないわけ。

幼少時における、自分の要望とそれに対するリ・アクションの原体験、そしてその積み重ねをしていないと、後々になっても、信頼というものは理解できない。
そして、信頼というものを理解できないがゆえに、安心も理解できない。

安心の原体験をしていなくて、その枠組みも持っていないわけだから、そんな人が作った集団なり組織に安心感が出てくるわけがないでしょ?
「この集団のメンバーが、どうやったら、安心感を持って活動できるのか?」そんな発想は微塵もなく、ただ、自分の意向を問答無用に主張することになる。
相手から合意を取るという発想がなく、相手が反対意見を言わないようにするという二重否定的な状況を作るだけ。

まさに会話不全のダメダメ家庭が、家庭以外の領域で再現されることになる。
それこそ市民運動なんて、そんなスタイルでしょ?
あるいは、昨今話題のブラック企業の経営者もそのパターンと言えるのでは?
あるいは、政治の領域だと、民主党の小沢さんなんて、その典型と言えるのでは?
合意を取るという発想を持っていれば、双方の意向に配慮するわけですから、結果的に相互の信頼につながることになる。しかし、要望を発しないように押さえつけられても、そんな強圧的な人間を信頼しませんし、そんな状況では安心とは無縁でしょ?

安心感とは無縁なので、ある種の飢餓的な状況になってしまう。
今これを逃したら、次はいつあるのかわからない状態になる。まさに強迫的な状態でガツガツしている。
それこそ、必要もないのに、ものをもらおうとしたり、「隙あらばアノものを取ってしまおう!」なんて、周囲をうかがうことになる。あるいは、いったん手に入れたものを捨てることができないようになってしまう。溜め込むことが目的化してしまい、一回溜め込んだことによる、かりそめの精神的な安定に執りつかれてしまうわけ。

いわば、心理状態の基本ベースとして、飢餓状態となる。

以前に京都の予備校の講師が、教えている小学生の女の子を殺害した事件がありましたよね?その犯人の大学生は、以前に財布を盗んだことがあったとの報道がありました。
よっぽどの金額ならともかく、どうしてリスクを犯してまで、財布を盗むの?
つまり、その犯人が心理的に飢餓ベースを持っていたことが推定できるわけ。

それだけ、自分の親を頼りにしていないし、まさに信頼感を持っていないわけ。頼れるものがお金だけ、そして、お金を得ると、心が落ち着く・・・そんな心情だったら、財布も盗みますよ。
安心感の基本ベースがあって、今現在はお金がない・・・そんな状況だったら、アルバイトを増やすとかの対応を取ればいいだけ。しかし、そもそも安心という状態と無縁な人だったら、とにもかくにも、お金を求めてしまうわけ。必要とする分を自分で稼ぐ・・・そんな発想にならないわけ。
「とにもかくにも溜め込まないと!」と必死なんですね。
お金の経済的な価値と言うよりも、溜め込むことによる心理的な救済に近いわけ。
だから、溜め込むものが、お金ではなく、極端な話にすると、ゴミでもいいわけ。
こうなると、まさに、ゴミ屋敷の誕生でしょ?
ゴミ屋敷を理解するには、その心理的な飢餓感を理解すれば、意外にも理解しやすいもの。

経済的な不安は、子供の心理上の不安や飢餓感に直結してしまう。
経済的なことは、子供に荷が重い問題でしょ?
子供が何とかできるものではありませんよ。
鉄棒の逆上がりをするわけではないんですからね。
だから、経済的なことばかりが話題になっていれば、安心感とは無縁になるのは、誰でもわかること。
明日どうなるかわからないという不安が習慣化されて、いわば不安感や飢餓感が心理的なデフォルト状態になるわけ。テンポラリーな形で不安定になっているのではなく、不安定状態こそがデフォルトになっており、安定状態こそが「かりそめ」なんですね。

経済的な不安のパターンではありませんが、民主党の小沢さんがあれほど選挙にこだわるのは、「彼の父親が選挙における落選の不安を、息子の一郎さんに対し常に語っていた。」と見ると、意外にも見えてくるでしょ?一郎さんはそんな不安感が子供時代の原風景となって刷り込まれたのでは?

何も心理的な飢餓感だけでなく、それこそ「幼少時に栄養不足の子供は、肥満傾向にある。」とかの報告が実際にあったりするでしょ?まさに、「とにもかくにも溜め込んでおかないと、明日はどうなるかわからない。」そんな心理に身体が順応してしまうわけ。

実際に、あまり風紀がよくない地域では、ビックリするような肥満な人がいたりするもの。その横ではガリガリにやせている人もいたりする。
中間的な、別の言い方をすると、「ふつう」の体格の人が少ないわけ。
それに比べて、比較的風紀がいい地域では、体型的な面でのバラツキは小さいもの。
不健康なレヴェルまでの肥満も、ガリガリなまでの痩せも、結局は、心理的な不安定が発現したものでしょ?
現状というものに、そこそこ満足している人は、歳を取ればそれなりに太り出すもの。食は生きることの基本ですよ。ダメダメ家庭はまずその食から壊れていることは、以前より頻繁に触れております。
ダメダメ人間の太り方は、現状に満足というよりも、だらしなさや、不満からの太り方、別の言い方をすると、尊厳のない太り方。
そんな尊厳のなさは、身体つきだけでなく、顔がだらしなかったり、不満いっぱいの顔なので、そんな要素と体型を合わせてみれば、わかってくるもの。
ニコニコしているおばさんは、あんな感じには太っていないでしょ?
ふくよかかもしれませんが、タプタプと脂肪が揺れるような太り方ではありませんよ。
健康的な感じで太るためには、やっぱり安心感を持っていないと無理でしょ?

しかし、被害者意識が強く、常に見返りを求めるダメダメ家庭では、その子供は、子育てへの見返りを常に親から要求されている。いわば子供時代に、成果主義で上司に評価されていたわけ。これでは安心とかリラックスどころではありませんよ。成果を出し続けないと・・・と常に切羽詰まっている状態。

逆に言うと、相手から「見返り」を要求されるという警戒感があるので、お金が絡まない関係が存在しない。社会学者のテンニースが言うようなゲマインシャフト的(友愛的)な集団だと、逆に居心地が悪くなってしまう。見返りの程度が分からないので、心の準備ができないわけ。見返りが不明確な集団だと、より大きな恐怖感なり警戒感なり不安感を持ってしまうことになる。

不安感を持ったら、その不安な状況を改善するのがスジというもの。
しかし、抑圧的な人間は、「不安感」の「感」の部分に対応することになる。
自分の感情を抑圧してしまって、何も感じなくしてしまう。
だから、ますます「なんとなく」で「ボンヤリ」とした心理状況が進んでしまう。
それこそ、何も考えずに「なんとなく」で結婚してしまう。しかし、信頼とか安心とかを理解できない人なんだから、そんな人と結婚する相手も、心理的には同類であって、結局は、安心とは無縁のダメダメ家庭が再現されるだけ。

飢餓ベースの人間の周囲にいる人間は、精神的に疲れてしまう。
心理的な飢餓感を抱えて、周囲に対して常に要求し続けるので、何かを与え続けないといけない。与えないと被害者意識が刺激され、逆上する始末。
ものを要求するだけではなく、「ワタシに構って!」と、要求したりもする。そして、それが心理的な飢餓感から来ているので、際限がない。

求めることがいわばアイデンティティとなってしまっているので、その手の人は、何がしかを与えると、しばらくはおとなしくなる。「ものをもらう」「求め続ける」という自らのアイデンティティが、周囲の人から認められたわけですからね。
そんな状況なので、ボランティアがやってきて、「アナタに恵んでアゲルわ!」とやりだす。
しかし、ボランティア当人たちも、子供時代に安息の原体験をしていない。安心感というものを、心理的に理解できないわけ。
だからこそ、自分の価値を人助けという形で、必死で示そうとする。
成果主義で育った子供が、成長後になって、ボランティアという自分の成果を手っ取り早く作ろうとするわけです。
そうやって、誰かに恵んでやることによって、自分が「安心できる」居場所を自分で作ろうとする。
しかし、助けられる対象の人は、ボランティアの居場所のネタにされてしまい、そして飢餓的な現状を温存されてしまうだけ。

そもそもボランティアの連中は、自己逃避であり、「自分自身が、安息の原体験をしていないのに、他者に安心感を与えることができるのか?」そんな自問自答からも逃避している。
相手に安らぎを与えるという名目で、自分の居場所を作り、自分の安らぎを得ようとしているだけ。しかし、自己逃避で自問自答から遠いがゆえに、結局は自分の出身家庭の流儀を踏襲して、一緒にグチり、一緒になって何かを犯人認定して、共通の敵の話題で盛り上がり、つるし上げをするだけ。

かと言って、誰かや何かをつるし上げて得られる居場所など、自分の不安を別のものにぶつけているだけ。まさに、かりそめのものでしょ?当人に安心の原体験がないのに、長じた後でも安心感を作りようがない。
結婚しても、不安に満ちた家庭を作るだけだし、集団の一員になっても、常に某かの成果を出さないといけないと、切羽詰まっている。

人との結びつきも、「この人と一緒にいると安心感を持てるので、この人と一緒にいたい。」という単純な肯定形ではない。そもそも信頼とか安心を理解できないんだから、「この人と一緒にいると、安心感を持てる。」という状態にはならないわけ。むしろ、他の状態よりは、多少はマシと言った形で一緒にいることが多い。

誰かと一緒にいるという状況においても、
「一緒にいたくないわけではない。」という、思考逃避的な二重否定だったり、
「離れられない。」という依存関係の二重否定だったり、
「一緒にいなければならない。」という、義務を伴った、「べき論」を用いた二重否定にしかならない。

発達心理学的に見ると、もっとも身近な対象に対して好意や信頼を持っていないと、こうなってしまう。
縦線の世界しか知らない猫が、横線を認識できないようなもの。
不快の感情しか知らない人間は、好意というものを、本質的には認識できない。
人間の好意の背景には信頼感があるのが基本。しかし、ダメダメ家庭は、信頼というものを理解できないんだから、本質的には好意も理解できないわけ。
だからこそ、好意を持った人と一緒にいる楽しさも理解できないし、そんな状況が作り出す信頼感なり安心感も理解できない。

安心という状態は、何も考えなくてもいい状態と言える。
しかし、ダメダメ家庭では「ふつう」を掲げ、周囲の人の行動に必死で合わせることになる。だから、何も考えなくてもいいとは行かない。目立たないようにするために、必死で考えているのがダメダメ家庭の人間。
それこそ、昆虫が自らの保護色を必死で調整しているようなもの。いざ目立ってしまうと、命の危険となってしまう。
周囲から目立たないがゆえに、一時的には生きていられても、それが安息につながるというものではないでしょ?

生きていると常にそんな状態だから、結局は、死しか安息を見出せない。
当人が死に安息を見出すことは勝手だけど、そして、それを強く自覚しているのならまだしも、自覚することを抑圧しているので、なんとなく生きて、なんとなく結婚し、なんとなく出産して、子供を作ってしまう。
安心というかリラックスの仕方がわからないので、自分の不安感を子供に伝える。
不安でいっぱいの人間が、子育てしたらどうなるの?
結局は不安感に満ちたダメダメ家庭が連鎖するだけなんですね。

安心というか、リラックスという感覚そのものがわからないんだから、それこそ「アンタも、そんなに緊張しないで、リラックスしなよ。」などと、誰かから親切に言われたりすると、困ってしまう。「どうやって、リラックスすればいいんだ?」「リラックスしていると見えるように、どうやって振舞えばいいんだ?」とパニックになってしまう。
リラックスを要求され、それに対処しようとして、緊張するわけ。
こうなると、ギャグそのものですが、これがダメダメ家庭出身者の現実なんですね。

安息の原体験を持っていないが故に、どうしても、ある種の破壊衝動を持ってしまう。
いわば、「無」の境地に、安息を求めてしまうわけ。
自分自身を破壊するくらいならともかく、あるいは、民主党の小沢さんのように、自分の作った政党を破壊するくらいならともかく、その破壊衝動が自分を素通りして、別の誰かを破壊したりすることもある。

現実世界で、安息が見いだせず、その先にある無の境地を求めていると自覚しているのなら、それなりの折りあいを付けることもできるわけですが、自己逃避なので、その自覚が芽生えることがない。
内なる破壊衝動が対象を求めて動き回ることになってしまう。

よく「破滅型の人生」なる物言いがありますが、破滅こそが安息という心理も存在するわけです。不安感がデフォルトなんだから、それを解消するには、破滅し、「無」となるのが一番手っとり早いでしょ?それに、その「向こう」には絶対の安息があるわけですしね。

破滅型は、破滅を求めているのではない。
その先にある無という絶対の安息を求めている。
そして、それ以外の安息を実感できない。
まさに、自らの救いを求めて、破滅に突進していくことになる。

ちなみに、安息の原体験を持っていない代表例となると、以前にも取り上げましたが、子役など子供時代から芸能界で活動している人たちのケースです。
それこそ以前(09年)に、マイケル・ジャクソンさんがお亡くなりになった際にブルック・シールズさんの追悼の言葉なんて、実に印象深いものでした。マイケルに対する数多くの追悼コメントの中で一番に胸に染みるもの。

以下に引用してみましょう。
「マイケルはいつだって私のことを頼りにしていいと分かってくれていたはず。私たちの間には絆があって、それはたぶん、私たちが2人とも、すごく幼いうちからスポットライトを浴びるのがどういうことか知っていたから。
よくマイケルをからかって『私(の芸能活動)は11カ月のころからよ。あなたなんて怠け者よ。5歳くらいだったっけ?』なんて話していたわ。
私たちはとても早い時期に大人にならなくてはならなかったけど、2人きりの時はまるで小さな子供のように楽しかった。マイケル・ジャクソンの笑い声は、私が知る誰よりも甘く、純粋だった。 彼はキングと呼ばれるようになったけど、私にとっては『リトル・プリンス』だった。」

・・・ちなみに・・・じゃあ、なぜにマイケル・ジャクソンはブルック・シールズと結婚しなかったのか?なんて思われる方もいらっしゃるかもしれませんが・・・
二人は、結局はいつまで経っても子供同士の結びつき。だから恋愛関係にはならないわけ。
しかし、子供同士だからこそ、理解し合える。しかし、そんな結びつきは、現実世界では役に立たない。

ダメダメ家庭出身の人間も、程度問題は別として、そんなところがあるわけです。
同類同士が結びついても、現実世界ではやっていけないんですね。

ちなみに、ブルック・シールズさんは11ヶ月の頃から芸能活動をしていたそうですが、それこそ生後すぐの0ヶ月からスポットライトを浴びて活動してきている人がいます。
それこそリトル・プリンスどころか、本物のプリンスさん。今現在の日本の皇太子さんなんてそんなものでしょ?
その皇太子さんは、ブルック・シールズさんを好きとか・・・以前にそんな報道がありました。
上記のマイケルへの追悼コメントと合わせてみてみると、なんとなく味わい深いでしょ?

マイケルがその代表でしょうが、生まれてからずっと不安の中に生きていると、死の中にしか安息を見出せない。
シメオンが救い主を求めるように、そして、その心情に共感を持ち作品にしたバッハのように、生の向こうにある甘い安息を渇望している。
逆に言うと、安心のために努力しようとは思うことが難しいし、そもそも安心の原体験がないんだから、どんな状態が精神的な安心となるのか、さっぱりわからない。
だから、その状態を達成しようがない。
実体験としての安息がないから、問題から目をそらすことばかりする。
だから、問題に真摯に取り組む人ではなく、問題から一時的に目をそらすのが上手な人になんとなく惹かれてしまう。子役出身者が、お笑いの芸人さんと一緒にいたがるのも当然なんですね。しかし、目を逸らしているだけなんだから、問題が何も解決せずに、結局はカタストロフになってしまう。

あるいは、その安心を得ようと無理な行動をしてしまう。しかし、どんな状態が安心なのか具体的には分からないままなので、「こうじゃない!ああじゃない!」と否定してばかり。それこそトルーマン・カポーティ描く「ティファニーで朝食を」のホリー・ゴライトリーのようになってしまう。
ホリー・ゴライトリーと、マイケル・ジャクソンって、雰囲気が実に似ているでしょ?

安息の原体験を持っていない人は、無理に安息を求めると、あんな感じになってしまう。ヘタに求めると、否定形のドグマに陥ってしまうだけ。
そんな人は、ドイツの詩人のリュッケルトの詩にマーラーが音楽をつけた「私はこの世に忘れられ」なんて境地に入るのが一番なのでは?

ちなみに、その歌の歌詞はこんなもの。

♪ 私はこの世に忘れられた、
私はこの世で、多くの時をむだにしたが、
もう、世間では私の消息を聞かなくなっている、
私は死んでしまったのだ、と世間は思っているだろう。

世間が私を死んだ人と思っても、
私はどうでもいいことなのだ。
どうせ、それに反対することもできない、
私はこの世から本当に死んでしまったから。

世の喧騒から私は死んでしまい、
静かなところに安らいでいる。

私は一人生きている、
私の天国の中に、
私の愛の中に、
そして、私の歌の中に。 ♪

(終了)
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発信後記

ちなみに、最後に引用したリュッケルトの詩にマーラーが作曲した「私はこの世に忘れられ」という曲は、「リュッケルトによる5つの歌曲」というシリーズの一曲です。
ただ、「リュッケルトによる4つの歌曲」になっている場合もあります。5つのうちの一曲が女声専用の曲なので、男性歌手が歌う場合には、4つしか歌わないことになる。

この曲は比較的シンプルで耳になじみやすいので、覚えやすいでしょう。
あるいは映画などでも使われたりすることもあります。ベルギーの映画監督のジェラール・コルビオさんのデビュー作品では、いわばメインテーマとしてこの曲が使われましたし、以前にフランスの映画監督のレオス・カラックスの「ポン・ヌフの恋人」という作品で、ドイツ系のホームレスの人が、この「私はこの世に忘れられ」と鼻歌で歌っていました。そのシーンに映画館で大笑いした私ですが、残念ながら他の観客が笑っていなかったなぁ・・・明らかにウケを狙った鼻歌なんですが、フランス映画にドイツ語の歌はネタとしてキツイのかな?

いずれにせよ、シンプルな曲なので、鼻歌でも歌えるのでは?
CDは、図書館にはあるでしょうから、皆さんも聞いてみては?
疲れた精神には染みるものがある曲ですよ。
 R.10/12/13