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カテゴリー ダメダメ家庭の人間の行動
配信日 10年3月26日 (11年2月14日 記述を追加)
タイトル 言葉による自己洗脳
以前に「正当化への欲求」というタイトルで、洗脳について取り上げております。
洗脳というのは、周囲の人間が、その人に対して「このように思え!」「こんな価値観に従え!」と要求して、その結果として、当人がその考えに「染まって行く」ものではありません。
むしろ、自分自身が自分自身を洗脳していくものなんですね。
人間というものは、自分が言ったことなり、やったことを、正しいことだと思いたい。だから、たとえば「アメリカにはこんな悪いところがある。」「金将軍はこんなにすばらしい人だ!」そんな文章を自分で書いてしまったら、自分が書いたその文章なり、その文章を書いた過去の自分自身を正当化したいと思ってしまう。

そんな心情を持っているので、自分が書いたその文章と相反するような情報なり考え方を、受け入れないようになってしまう。見ようとしないし、知ろうとしなくなる。相反する考えを認識段階で拒絶してしまうんだから、自分がとりあえず書いたその主張を、正しいものと認定してしまい、その心理的認定によって、相反したり齟齬があるものをますます受け入れなくなってしまい・・・と、自分が書いたその言葉に、自分自身がスパイラル的に縛られていくわけです。

『試しに、あの○○のすばらしさを書いてごらん!』という他愛のない要求に従って、「まあ、あの○○にも、確かに少しはいいところもあるよな!そのいいところを、オレなりに文章にまとめてみるか・・・」そんな軽い気持ちで、そんな文章をまとめてしまったら、あとは、その自分が書いた文章に縛られ、そして、その縛られた状態で、周囲を認識し、その状態で、また何かを書くと、以前よりより突っ込んだ状態で、そのすばらしさを書いてしまい・・・となっていく。

自分の言葉は、自分を縛るわけです。だてに「言霊」なる物言いがあるわけではないんですね。
そして、いったん、「縛られてしまったら」、ある意味において、心理的にラクになる。
だって、もう自分では考えなくてもいいわけですからね。
このメールマガジンで頻繁に言及しておりますマゾヒズム状態になる。
自分の書いた言葉によって、別の言い方をすると、自己表現によって、自分の認識なり、思考が縛られ、結果的に自己否定となってしまう・・・そんな逆説が、まさに洗脳といえるでしょう。

宗教団体や政治団体のように、そのような洗脳を組織的に遂行していく場合もあるわけですが、そのつもりがなくても、自分で自分を洗脳していく場合もあります。
実は、購読者さんからのご指摘で、そんなことに気がついたんですね。

かなり以前の04年において、「人の気持ちが分からない」というタイトルの文章を配信しております。その文章中でフランスの映画作家のロベール・ブレッソンの「田舎司祭の日記」という映画作品について言及しております。その作品の主人公の司祭さんが、まさに「人の気持ちが分からない」人間。本人もそれを自覚して、そして苦しんでいる。
そして、その苦悩を、日記に書いたりする。

日記に自分の思いを書くのはいいとして、それがヘタすると、自己洗脳に陥る危険もある。
それこそ「ワタシはこんな悪い点がある。」「こんなところがダメだ!」なんて書いてしまうと、自分が書いたその言葉に縛られてしまう。
登場人物のその点を指摘してくれた購読者さんは、その問題点を、「内省」という言葉で表現しておられました。
本来は、自分を向上させることに有効なはずのその内省も、方向を間違ってしまうと、悪い方向にしか向かわない。

このメールマガジンでは、以前に「自分との対話」というタイトルの文章を配信しております。抑圧的なダメダメ家庭の人間は、自分自身の心の声を聞くことから逃避してしまい、「ふつう」というお題目を掲げ、周囲の人の言動に盲目的に合わせたり、権威者の声に盲目的に従うというスタイルに逃げ込んだりする。
そうして、第3者的な権威者の言葉を散々と語っても、自分の希望は何も言えない状態になってしまう。

日記を書くという行為も、本来は「自分との対話」が目的のもの。
自分が自分自身なり現状を認識し、文章にまとめ上げ、日記に書き込み、そして、その直後なり、ちょっと後になって、その日記の文章を読み直す・・・そんなものでしょ?
私個人は、日記はやったことがありません。まあ、最近では日記もどきとして、インターネット上のブログがあるのかもしれませんが、私はブログもやらないし・・・

いずれにせよ、日記を書くことは、その文章を自分で読むことと不即不離といえます。
書いて、読む・・・その往復運動の中に、まさに「自分との対話」のきっかけがあるのでは?
自分の心の声を聞き、文章にし、書いた折の自分の考えや行動を、キャラクターが時間的に変化したり、書いた時とは別の視点を持つ自分が見つめる・・・それが自分との対話でしょ?
視点が一つだけだったら、対話にはなりませんよ。たとえ、自分との対話という文言であっても、視点は複数なんですね。だからこそ、対話と言える。

映画「田舎司祭の日記」における司祭さんは、視点が一つになっている。だから自分の考えを深めることもできないし、広げることができない。
自分自身の文章の最大の読み手は、自分自身のはず。
自分が書いた文章を、別の視点で読み直すことで、自分自身について、新たに発見することもあるわけでしょ?その発見は、自分の至らなさだったり、あるいは問題の解決の可能性なり、それこそ出口だったり・・・色々とありますよ。
しかし、それはあくまで視点が複数だからこそのもの。

視点が一つだけだったら、日記などの自己省察も、結局は、自己洗脳になってしまう。
「田舎司祭の日記」における司祭さんは、そんな自己洗脳によって、自分の出口を、自分で塞いでしまっている。

このメールマガジンの文章を書いている私は、何と言っても、「書く」ということには、実に慣れているので、自分が行っている「書く」のスタイルを、別の方向から見ることができませんでした。購読者さんからの指摘によって「書く」ということも、自己洗脳の危険があることも分かってきたんですよ。

私個人は、視点が実に多彩な人間で、単一の視点で物事を考え、文章にしたりする人間ではありません。その点は、皆さんも納得されるでしょ?様々なヘンテコな視点から、物事を見たりする人間です。
たまに書きますが、絵描きで例えるならキュビズム時代のピカソに近いパターンと言えます。多くの方向からの見え方を、一つにまとめた文章なんですね。それに、まがりなりにも客観的な文章として配信するわけですから、自分でまとめた文章を校正もしなくてはならない。それは単に語句などの文法的な問題ではなく、「このようなキャラクターを持った人間は、このような表現を、想定外の別の方向で読み取ってしまうのでは?」そのような視点の多彩さに対応したチェックをしています。
逆に言うと、そんなチェックによって、自分の文章によって、自己洗脳されてしまうことを防いでいるんでしょうし、結果的に、多彩な視点による自分との対話となっているんでしょうね。私は当たり前のようにそんなことをしているわけですが、そうでないパターンの「書く」もあるわけです。

日記だったら、客観的な文章でないにせよ、書いた当人自身がその日記の文章を読むことになる。そして、時間をおいて読み直すことによって、複数の立場からの自己省察ができることになる。日記の文章の読者は書き手自身であることは当然のこと。
メールマガジンなどの客観的な文章においても、やっぱり書いた当人が、一番の読者となる。
そんなパターンだったら、自己省察として機能しても、自己洗脳には陥らないのでは?
しかし、日記でも、自分の書いた文章を、読み直さない場合もあるのでは?
まさに自分で書いて、それで終了してしまうケースです。
それこそ日記にグチを書き込むようなパターンもあったりするのでは?
そんなグチは、後になっても、読み直さないでしょ?

そうなってくると、「アイツのせいで・・・ワタシはこんなヒドイ目に!」と書き込んだ言葉によって、自己洗脳されてしまう。そんなグチの言葉だって、時間を置いて読み直せば、「この時はこんなことを書いているけど、よく考えてみたら、その前には、あんな状況があって、その状況での可能性を生かせば、あんなトラブルにはならなかったよねぇ・・・ああ!今度はもっとちゃんとしなきゃ!」なんて、自分で反省することもあるでしょ?
しかし、書きっぱなしで、読み直さないと、そんな自己省察には至らない。
むしろ、「アイツのせいで・・・ワタシはこんなヒドイ目に!」という自分が書いた論理が心理的に残り、まさに自己洗脳となってしまう。

このようなことは文章にする際だけでなく、口に出して語る際にも同じこと。
「オマエが生まれたせいで、ワタシたちはうまく行かないんだ!」とか、「あ〜あ、悪い時代だなぁ・・・」あるいは、「政治が悪い!社会が悪い!」そんな、いわば犯人認定の言葉を語ることによって、自己暗示というか、自己洗脳してしまう。
文章だったら、まだ後になって読み返す可能性もありますが、口に出しただけだったら、後になって、その言葉に接しようがないでしょ?
だから、その折に発した言葉が、心理的なイメージとなって、心を縛ってしまう。

それこそ、政治の場においては、単純なスローガンを繰り返すパターンがありますが、そのような状況だと、聞くこと以上に、語ることによって、自己洗脳されてしまうわけです。
11年時点において見ることができる典型的な事例となると、以前に総理をされた鳩山さんが、首相を辞めた後になっても、意固地なほどに「友愛」と叫んでいるでしょ?
あの意固地さは、洗脳状態の特徴といえます。まさに「自分がやったことが間違いだったとは思いたくない。」「ボクは悪くない。」と自分に言い聞かせ、自身を正当化する行為なんですね。
「友愛」と叫ぶことによって、自己洗脳しているわけです。それ以外の視点を必死になって排除しているわけです。

文章などの言葉にする際に、第3者の視点を常に取り入れる姿勢がなければ、自分の言葉が硬直化してしまい、その硬直化した言葉によって、自分の精神が硬直化し、そんな硬直化した精神の人間が文章を書くことで、ますます硬直化した言葉になり・・・と、どんどんとドツボにハマってしまう。まさに洗脳状態になってしまう。
抑圧的なダメダメ人間は、第3者の視点を取り入れると言っても、それこそ権威主義的であって、結局は「従う」だけで、それ以外の視点で自分の文章を読み直したりはしない。
つまり、ダメダメ家庭の人間は自分で文章をまとめることで、自分との対話から逃避してしまう。そして、現状認識からも逃避する。
だって、権威者に従っているだけなんだから、自分の目の前の状況を自分の目で見なくても済むことになる。それが抑圧的な人間にしてみれば、心理的にラクになる。

自己省察とは、自分自身を別の視点で見直すこと。
自分自身をしっかり持つことは重要でも、自分を見つめる別の自分については、柔軟さも必要になってくる。あるいは、色々と逡巡するのはいいとして、そんな逡巡する自分自身を見つめる確たる視点がなければ、結局は、「自分がいったい何をやっているのか?」当人自身が分からなくなってしまう。

それこそ、映画「田舎司祭の日記」における司祭さんは、日記に陰々滅々とした文章を書き込むのはいいとして、別のシチュエーションでその文章を読み直してみて、そんな状況からの脱却の可能性について考えてもいいのでは?それこそが日記の趣旨でしょ?
部屋にこもって日記を書くこともいいわけですが、それこそ花壇で花を栽培してみるとかしてみれば、新たな視点も得られますよ。あるいは、自然とのふれあいによって、神の意思を考えるくらいのことをしてもいいのでは?司祭さんなんだし・・・
感覚的なものを軽んじていると、どうしても論理が暴走してしまう。その結論も、論理的な視点のみの考察で得られた結論なので、現実性なり実体性がなくなってしまう。だから、陰謀史観のようなものに走ってしまいやすい。

このようなことに関しては、以前に「不思議の国のアリス」を取り上げた際に「意味と論理の乖離」の問題について考えてみました。
本来は論理には意味が付随しているもの。しかし、視点が単一化してしまうと、意味が抜け落ちやすい。だからとんでもない論理が暴走してしまうことになる。

カルト宗教って、感覚的なものを軽視する傾向があるでしょ?だからこそ、教祖様の言葉や論理が暴走してしまって、歯止めが効かない。そんな点はカルトな政治団体も同じ。
論理が暴走しないようにするには、実体としての意味というものを常に持っておく必要があるわけです。そのために、芸術家による作品などに接することによって、そんな芸術家の感覚なり視点なり自己省察を参考にしてもいいのでは?
自分の視点を増やす努力がないと、自己省察にはならないわけです。
「自分との対話」だって、過去の偉大な人間が行った「自分との対話」のスタイルや成果を参考にしてもいいのでは?
抑圧的な人は、視点を増やす努力をせず、むしろ視点を減らしていき、どんどんと自己洗脳してしまう。
自分の文章を読み直す行為だって、読む際の視点が、書いた時点と何も変わらないと、自己洗脳になるだけ。

しかし、何度も書きますが、自己洗脳は、いわば「縛られることによる自己逃避」というマゾヒズムにつながり、それゆえに、心理的にラクとなる。
だから、まさに洗脳の流れに乗って、どんどんと自分で洗脳を加速させてしまう。
日記の文章も、後になって読み返しもせず、ただひたすら不満の文章を書き込むことになる。
あるいは、その手の不満ばかりの文章だと、最近はインターネットの掲示板がその代表でしょ?

あのような場に書き込んでいる人は、自分が書き込んだ文章を、後になって読み直しているの?あるいは、自分とは別の人間の書き込みを、真摯に読んでいるの?
以前にも書きましたが、インターネットの掲示板のような場は、「言いたい」ことはあっても「分かってほしい」ことはない・・・そんな人にはちょうどいいシチュエーションでしょ?あんな場に参加している人は、「分かりたい」とは思っていないでしょ?「分かりたいこと」が明確だったら、掲示板の文章ではなく、その分野の本でも読んでいますよ。
まあ、「覗き見をしたい!」くらいの人はいるかもしれませんが、何かを分かりたいとは思っていないでしょ?そんな人に対して、何を言うの?何を分かってほしいの?
当人自身に本当に伝えたいことがあるのなら、それこそ自分なりにサイトを立ち上げ、客観的な文章をまとめ上げますよ。サイトを立ち上げることなんて、費用的にかかるわけではないし、今だったら技術的にも簡単なこと。掲示板という場は、客観的な文章を公表する場ではないでしょ?

しかし、客観的な文章と言うものは、まさに多彩な視点に対応したものにする必要がある。
だから、自己洗脳による安逸に安住している人間にしてみれば、厄介なこと。
掲示板だったら、単純なコメントなり感想だけでいいでしょ?
つまり、書く際の視点が単一のものでもいい。
おまけに、掲示板の文章は、書き込むだけで、まともには読んだりはしないでしょ?
まずもって、書き込んだ当人が、自分の文章をじっくり読んでいないでしょ?
だから、洗脳が進んでいる人間にはフィットしやすい。

だから掲示板のような場所に、「熱く」自分の言葉を書き込むことになる。一方的で問答無用のスタイルで、自分の言葉を書き込むことになる。
そんな「熱い」言葉は、書いている当人を「縛る」ためのものであり、洗脳の道具なんですね。そんな視点で見ると、あのような場での「熱さ」も、実に理解しやすいでしょ?
自分を縛るための言葉なので、反論されては困るし、もし反論があったりすると、過剰に反応することになる。本来は、自分とは別の視点を聞いてみたいからこその、そんな場での文章じゃないの?

しかし、自己洗脳状態の人間は、その場に言葉を書き込むことにより、逆に言うと、自分から逃避しているわけです。日記に書き込むと、それこそ自分で読み直さないといけない。だって、日記だったら読み手は自分自身だけでしょ?自分が読まなきゃ、誰が読むの?
あるいは、個人宛のメールの文章だったら、相手先の視点で、文章を読み直す必要がある。だから少なくとも視点は2つ以上はあるといえる。しかし、個人宛のメールだったら、相手から反論されたり、説明されたりすることも多い。そうなると、抑圧的な人間には対応できない。自分宛に言葉が返ってくるのが怖い。
しかし、掲示板だったら、読み手は形の上では自分以外でしょ?だから書いた当人は自分が書き込んだ文章を読まなくてもいい。それにレスポンスが返ってきても無視すればいい。それが自己逃避人間にはラク。

そして、掲示板において、敵についての話題に熱くなり、反論してきた人間を敵認定し、更に熱くなり、結局は、その熱さによって、我を忘れる自己逃避状態となる。
ヘタをすれば「オマエのためにわざわざ言ってやっているのに・・・」などと、上からの被害者意識となってしまう。しかし、そんな姿はまさに親譲りじゃないの?自分の文章を自分で読み返してみれば、そんなことに気がつく可能性もあるのでは?
自分の書いた文章を、自分でも読み返せない・・・まあ、感情が昂ぶると、誰だってそんな事態になったりすることもあるでしょう。
それだったら、そんな状態であること自体を、後でもいいから、自分で認識しないとね。
後になって、そんな事態を反省する・・・それこそが自己省察でしょ?

しかし、抑圧的な人間は、自分の書いた文章を、自分でも読み返せないことが恒常化してしまっている。それって、すでに洗脳されてしまっているということ。
きつく縛られることによって、いわば精神の固定化になっている。
それゆえに、生成感がなくなっている。
精神の固定化というと、別の言い方をすると「べき論」の押し付け。
そんな「べき論」を、掲示板で他者に対して押し付けたり、自分自身に課したりして、自己逃避。

精神が固定化すると、それゆえにラクになるわけですが、尊厳はないでしょ?
たまに言及いたしますゲーテの「ファウスト」には、有名なセリフがありますよね?
「時よ、止まれ!おまえは美しい!」そんなセリフです。
皆さんも、その言葉自体は聞いたことがあるでしょ?

実は、この言葉は2回出てきます。第1幕と第2幕です。
第1幕で、主人公のファウストが、悪魔であるメフィストと契約を交わすわけですが、そのファウストが「時よ、止まれ!おまえは美しい!」とオレが言ったら、オレの魂をお前にやるよ!という契約をします。
そして第2幕で、ファウストは、実際に、「時よ、止まれ!おまえは美しい!」と言う。
しかし、ファウストの魂はメフィストのものにはならない。

なぜ?
それは第1幕での「時よ、止まれ!おまえは美しい!」という言葉と、第2幕のその言葉は意味が違っているんですね。
第1幕では、「もうこれ以上はない。」という終止感を表明したもの。いわば世界を固定したもの。
それに対し、第2幕では、「生成し続ける自分」「変化し続ける世界」を肯定したもの。
生成し続ける自分、そして、生成し続ける時を肯定したものであるがゆえに、その魂はメフィストのものにはならなかったわけです。

言葉によって、自分を縛ってしまって、生成を止めてしまっている状態は、第1幕における「時よ、止まれ!おまえは美しい!」になる。
しかし、多くの視点を取り入れ、常に自己省察を続ける精神であれば、第2幕の「時よ、止まれ!おまえは美しい!」になる。だからこそ救済を得ることができる。

静止状態は魂の堕落・・・ゲーテでなくても、そう言えるわけですし、そんな静止状態の精神は、21世紀の日本でも多くのところで見られるものでしょ?
抑圧的な人間は、言葉によって、静止を作り出してしまう。
死んだ言葉が、死んだ人間を作り出すわけです。

(終了)
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発信後記

このメールマガジンも、なんと今回で通算1000回目の配信です。
意外にも思われるかもしれませんが、今回の文章は、かなり短時間で書き上げております。
最近は、新しいネタができても、新規の文章を起こすのではなく、既存の文章の改訂という形で取り込んでいくようにしております。
そうでないと、いつまでも終わりませんからね。何とかして、終わらせないといけない。
ということで、以前にメールマガジンで配信した文章については、改訂作業を行っております。

文章の改訂はいいとして、昔の文章だから、まさに本文中にあるように視点が違ってしまっている。文章のスタイルも時期的に変化している。
そんな点に苦労しながらの改訂作業となっています。
そんな改訂作業をしていると、ゲーテの生前最後の手紙の文章に出会いました。
その中にはこんな記述があります。
「こんなに長い年月を費やして考えたり書いたりしながら、いつまでも作品が完成しないことはよくありません。わたしは人々が古い部分と新しい部分をすぐに見分けはすまいかとか、以前に書いたものと最近に書いたものとの区別が一目で見抜かれるのではないか、とかいう心配はしておりません。わたしは将来の読者の理解ある洞察にすべてをまかせるつもりです。」(1832年3月17日付 ウィルヘルム・フォン・フンボルト宛の手紙より)

まあ、人間と言うのは、時代が変わっても、場所が変わっても、似たようなことで困ったり悩んだりする・・・上記の手紙の文章を読んで、私も笑ってしまったほど。
まあ、この私の一連の文章を読んで、あとの人も笑ったりするんでしょうね。
 R.11/2/14