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カテゴリー | このメールマガジンそれ自体について |
配信日 | 10年3月29日 (11年1月7日 記述を追加) |
タイトル | 一粒の麦 |
冬になると、登山の事故のニュースが報道されることもあります。 そもそもわざわざ危険なところに出かけているんだから、事故もあったりするでしょう。 「そんなトラブルは、自己責任だ!」という声が、周囲の人から出てくるのは当然のこと。 もちろん、いい加減な気持ちで山に登った人はどうしようもない。しかし、それなりの準備をしても、天候の急変とか判断ミスとかで、事故も起こったりするもの。 と言うことで、救援隊が登場することになる。 以前に登山愛好家の人と話をしたことがありますが、登山仲間は結束が異常に強いんだそう。会社の仕事など放っておいて、仲間の救助に駆け付けるのが当然ということらしい。 登山と言うのはちょっと特殊な面がある。身体を動かすと言っても、野球とかサッカーとは趣が違う。ルールを持ってお互いが競い合うわけではない。登山をスポーツとみなすのかは、人それぞれでしょう。かと言って、登山はもっとも危険なスポーツと言えるでしょう。 あのお相撲でさえ、死者はほとんど出ない。ところが登山は、毎年必ず死者が出ている。 登山の何が楽しいかは、部外者の私には分かりかねますが、魅せられるものがあるんでしょうね。 たまに電車で登山帰りの人たちを見ることがありますが、いかにも心地よい疲労感という雰囲気を漂わせていて、「その人たちにしてみれば、たまらないんだろうなぁ・・・」と見て取れるもの。 それに、登山だと、それ相応のレヴェルに合わせて行動できるので、歳を取っても、あるいは、男女一緒でもできる・・・そう言うのが楽しいんでしょうね。 山に登ることそのものよりも、誰かと一緒に何かを達成するのが楽しいのでは? 達成するというよりも、一緒に危機を潜り抜けるのが楽しいのかも? わざわざの雪山登山なんて、危機体験こそを目的としない限り、理解できませんよ。 死線を共有しているんだから、結束も強くなるんでしょうね。 だからこそ、仲間の危機に、すべてを投げ打って、駆けつけるのかな? ちなみに、その雪山登山ですが・・・ 以前に別の登山愛好家の人と話をしたことがありますが、その人いわく、 「冬山の新雪はフカフカで、その上を歩くことができないから、パーティの内の誰かが、前にバタンと倒れて、雪を固めてから、その上を行くんだよ!そして、前に進んだら、今度は別の人間がバタンと倒れて、やっぱり雪を固めて・・・と、そうやって進んで行くんだ!」との話を聞いたことがあります。 そんな話を聞かされると、「スッゲー!」と思うしかありませんよ。 まあ、とんでもない世界があるもんだねぇ・・・と絶句。 まあ、「そうまでして雪山登山なんてしなければいいじゃないの?」というのは合理的な発想ですが、逆に言うと、そんな阿呆が許され、必要とされる状況こそが楽しいんでしょうね。 その雪山の話は、かなり以前に聞いた話です。 ただ、あまりに衝撃的だったので、ずっと記憶に残っていました。 雪山で前に進むには、そんな覚悟も必要なのかぁ・・・ とは言え、最前線というのは、往々にしてそんなもの。 以前にもちょっと言及したしましたが、イタリアの映画監督のセルジオ・レオーネの「ウェスタン」という映画では、開拓時代のアメリカ西部に鉄道を引くために、必死になって仕事をし、多くの人がその地で倒れ、その屍の上に鉄道が引かれ、その上を列車が通っていく・・・そんなラストでした。 最前線を1mmでも前に進めるためには、身を投げ出し命を捨てるような覚悟も必要なもの。 監督のセルジオ・レオーネは、映画のドラマ自体としては、西部の開拓の場を描いているわけですが、創作者の心情としては、まさに芸術創作の活動の最前線の状況を描いているわけです。 芸術の創作の現場こそ、多くの人の屍の上に、創作された作品が通っていくもの。 そして、それが次の創作を生み出すことになる。 以前に言及しましたが、「ソ連」の作曲家であるドミトリ・ショスタコーヴィッチは、「私の交響曲は墓碑銘である。」と言っていたそうですが、その言葉は、ソ連の独裁体制下での命がけの創作活動を踏まえているのと同時に、いつの時代もそんなものなんですね。 ショスタコーヴィッチだけでなく、ベートーヴェンだって、シューベルトだって、あるいは、作曲家だけでなく、画家も文筆家もそんなもの。創作への障害は何も政治ばかりではない。芸術的な理想を追求すれば、経済的な問題の方が大きいもの。いずれにせよ、命懸けでやらないと、創作なんてできないでしょう。雪山だって、新雪に倒れこむ覚悟がない限り、前に進まないわけですし、毎回毎回倒れ込んでいれば、そのうちに死んでしまいますよ。 何も無理に雪山に行く必要はないでしょう。 しかし、我々の目の前には、身近なところに最前線があったりするもの。 そこに真っ先に倒れこむのも勇気でしょうし、そんな人をサポートすることで、メンバーが前に進むのに役に立つことに徹している人もいるでしょう。 しかし、そんな人たちを横で見て、ヘラヘラ笑っているだけの人もいる・・・それがこの世というもの。 世界の生成の参加者になるのか?傍観者になるのか?それはその人の自由。 登山仲間が、すべてを捨てて、仲間の救援に駆けつけるというのは、いわば前に進むもの同士の参加者意識の共有があるんでしょうね。 最前線を進むものが持つ意義と喜びは、それだけ、すべてを捨てるに値するということなのでは? 他のすべてを捨てて、そのことに取り組む・・・そんなことを、ちょっと違った言い方をすると「使命感」などと言ったりしますよね? 以前にその使命感について質問を受けたことがあり、私としては、その質問に対して途方に暮れたことがあるんです。 まあ、その質問というのが、こんな感じ。 「あのぉ〜、アンタが言っている使命感って、ちょぉカッコイイんだけど、それ、オレもほしいんだよね。ねぇ?どうやったらゲットできるの?教えてよぉ〜。」 「言い回し」はこんな感じではありませんでしたが、言葉の論理としては、まさにこんな感じ。 「使命感をどうやったらゲットできるのか?」 そんな質問でした。 そして、そんな質問に私としては途方に暮れたわけ。 まあ、人というものは、その人によって、対象への視点が違っているもの。 この点について、以前に、有名な「フランダースの犬」を題材にして考えてみた文章を配信しております。 同じものを見ていても、注目するポイントも人それぞれ。 その点について、強く実感したことが以前にあります。かなり以前になりますが、「夜になる前に」という映画を映画館で見ようとした時でした。その映画は、中南米のキューバでゲイの詩人が、当局の迫害にも関わらず必死で創作活動を続ける姿を描いた作品です。基本的には実話とのこと。まあ、政治が変われば世の中がよくなるだろう・・・と思っていたら、逆に、トンデモナイ管理社会になってしまった・・・なんて、どこでもありますよ。 その映画を見るために、並んでいたら、私のチョット前に、「短髪、色黒、タンクトップ、皮パン」のいでたちの男性も並んでいました。その男性の姿に「うわぁ〜、いかにもだなぁ・・・」とビックリ、そして納得したわけです。当時は私はメールマガジンを発行していませんでしたが、迫害にもめげず創作活動するゲイの詩人の話を見て、私としては、「迫害にもめげず、創作活動を続ける。」という点に注目することになる。しかし、別の人は、「ゲイの詩人」と言うか、詩人以外の面に注目する人もいるんでしょうね。 まあ、私としては当局の迫害を受けながら創作活動する姿が印象に残って、そんな印象は、逆上メールを食らっても、それを乗り越え、文章を配信し続ける自分自身につながっていくことになる。 皮パンさんは・・・どうなったのかな?いい出会いがあったかな? キューバの詩人だって、まさに使命感を持って、命がけで創作活動をしたわけでしょう。 その詩人に対して、「使命感って、どうやってゲットできるの?」なんて質問したら、回答してくれるの? ちなみに、皆さんだったら、使命感についてのその質問に対して、どのように回答いたしますか? 「どうやったら、使命感をゲットできるのか?入手先はどこにあるの?」 ・・・というか、質問自体が意味不明でしょ? それこそバックとか靴とか、あるいは電気製品とか・・・そんなものだったら、入手方法を教えることも簡単ですよ。しかし、使命感なんて、そもそも入手という発想と結びつかないでしょ?だから質問されても途方に暮れるだけになってしまう。 質問自体が意味不明となると、以前に配信した「積み重ね」という文章において、「ねぇ?ねぇ?どうやったら、アンタのような教養をゲットできるの?教えてよ!」なる質問の例を提示したことがあります。 そんな質問に対して、『まずは、こんな本でも読んだら?』などとアドヴァイスすると、「いや、そんなことではなく、教養をゲットできる方法を聞いているんだよ!」との反論になってしまうもの。 教養というものが、知識の「積み重ね」であることを前提として持っていないと、教養も、何かのブランド品のように、朝から並んで買うとか、ネットオークションで買うとか・・・そんな次元の話になってしまう。 「積み重ね」という発想そのものを理解できないダメダメ人間は、その「積み重ね」を前提として獲得できるものも、積み重ねという過程を外して考えるので、どうしてもトンチンカンなものになってしまうわけです。 だから、「教養をゲットできる方法を教えてほしい!」なる質問になってしまう。 それと同じように、「使命感をゲットできる方法を教えてほしい!」なる質問も、前提となっているものがおかしいんですね。 ダメダメ家庭の人間は抑圧的であり、現状認識から逃避し、自分自身からも逃避している。 自分の前の現状がどうなっているのか認識することを恐怖し、自分がどうしたいのか自分で考えることもしない。 だから、自分の目標を達成するための、困難とか障害も認識しない。 と言うか、自分自身の目標そのものがないんだから、困難も障害も存在しませんよ。 だから、「たとえ、どんな困難があっても、自分の目標を達成しよう!」なんて発想とは無縁となっている。 当人が、そんな発想とは無縁なのはいいとして、そんなダメダメな人の周囲に、その人なりの使命感を持って、困難に立ち向かっている人がいたりする。 そんな姿は、傍目にはカッコよく見えたりする。 ああ!オレも、あんな感じでカッコよく生きたいものだよ! どうやったら、そんなカッコいい生き方をゲットできるんだろうか? えっ?使命感を持っていると、カッコよく生きられるの? ヨシっ!オレもあの人に聞いてみよう! と言うことで、「ねぇ?ねぇ?どうやったら、使命感をゲットできるの?」 との質問になってしまうのでは? しかし、当人なりの目標と、現状認識があってこその、そしてそのギャップをつなぐものとしての使命感であって、使命感とは、グッチとかエルメスとかの「持っているとカッコいい」「人に自慢できる」類のブランドではないでしょ? しかし、抑圧的な人間は、持っているとカッコいい・・・その点しか認識できないわけです。 雪山登山のパーティが、新雪の上に倒れこみながら前に進む行為だって、フカフカの新雪という状況認識と、どうしても前に進みたいという目的があってこその行為でしょ? そんな行為はカッコがいいものではありませんよ。 他に仕方がないから、そんな不器用なことをやっているだけ。 そんなことをしても前に進みたいという強い気持ちがあるから、そうしているだけ。 その強い気持ちが、傍目にはカッコよく見えるのかもしれませんが、当人たちは、傍目のことなど考えていませんよ。傍目など考えていない強い気持ちこそが使命感というもの。 逆に言うと、前に進むということは、実に困難を伴うものであって、多くの犠牲を払う覚悟のないものには達成できないものなんですね。 そして、その覚悟があるからこそ、他者の覚悟も理解できることになる。 登山仲間の連帯なり、創作の最前線での連帯なり・・・それは見た目の問題ではなく、覚悟の問題なんですよ。 最前線の状況は、その分野によってそれぞれの形があるでしょうが、最前線と向き合うものの気持ちはどんな分野でも同じもの。様々な分野での最善線の光景は、その心理としては共通している。一つの最前線を理解していれば、別の分野の最前線も理解できますよ。 だからこそ、映画監督のセルジオ・レオーネは、芸術創作の開拓をアメリカ西部の開拓を舞台にして描いたわけです。 最前線に向き合う覚悟が、結果的に次に続くことになるかもしれませんが、それはあくまで結果論。 重要なことは、当人の覚悟と、現状認識だけ。 しかし、何度も書きますが抑圧的な人間は、覚悟もないし、現状認識もない。 そして、傍目から、誰かの行動を揶揄しているだけ。揶揄はしなくても、あくまで傍観者。 そんな人間ができるのは子作りだけ。覚悟がないがゆえに、親としての資質は考えない。だから、「何も考えずに」、子供もできてしまう。 しかし、そんな「な〜んとなく」「て・き・と・う」「ふつうでいいや!」という人間が親になっても、次には続かない・・・そんなことは自明のことでしょ?次に続くためには、命懸けの覚悟を持ってやり続けるしかありませんよ。 どんな分野においても、最前線では、常軌を逸した天才が、夢を持ち、のた打ち回り、苦悩し、狂乱し、そして屍になっていく。 その次に、そこそこ能力のある人がやってきて、道を指し示す。 ある程度、道ができた段階で、偉大なる凡人が、屍によってできた道を進んでいく。 人類の歴史は、常にそのようなものであり、今後もそのままでしょう。 偉大なる凡人は、今現在、歩いている道が、天才の苦闘の結果であることに思いをはせることはない。しかし、それはそれでいいわけです。だって、天才たちは、一般人のことではなく、心の声を聞き、自分のしなければならないことをしただけなんですからね。 そして、そのような決意や覚悟が、まさに使命感というものなんでしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 「カプライト」自体が終了するので、今回で「カプライト」での配信は終了です。 このメールマガジンも、3月中には終わらせたいなぁ・・・とは思っていたのですが、あとストックが10数本ありますので、もうしばらく配信をしていきます。 5月には絶対に突入しない予定。 今回のお題は、シーズンにちなんでのお題です。 復活祭の近くだし、それに、このメールマガジンも終了しますしね。 では、もうしばらくの間、よろしくお願いいたします。 |
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R.11/1/7 |