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カテゴリー 信頼と好意の諸相
アップ日 10年5月15日
タイトル 好きになりたい、好かれたい
 ダメダメ家庭の人間は、信頼と好意の区別がつかない。
と言うよりも、信頼というものが理解できない。
このことについては、メールマガジンにおいて執拗に記述してきました。

信頼というものが理解できないんだから、逆に言うと、過剰なまでに「好意」にこだわってしまう。
それこそ、「ワタシを好いてよ!」と周囲の人に要求するようなことになってしまう。
しかし、信頼とは無縁のダメダメな人に対して好意を持つ人なんているわけもなく・・・
結局は、自分への好意を要求すればするほど、周囲の人から嫌われてしまう。
そして、周囲の人から嫌われているという「被害」を主張し、「かわいそうなワタシ!」とアピールすることで、別の人から好意を得ようとする。

とりあえず現時点では、被害をアピールするレヴェルまでは行っていなくても、信頼ではなく、好意の面に目を向けるのがダメダメ人間というもの。
逆に言うと、好意を前面に押し出している人なり集団はダメダメと見て間違いはないでしょう。

なんでも、とある公立の小学校で「自分自身を好きになろう!」なんてモットーを掲げている学校があるんだとか・・・
校長が得意気に、そんなことを言っているらしい・・・

いや、まあ、何と言うか・・・
絵に描いたようなダメダメ小学校だなぁ・・・
そのうちに事件が起こるだろうなぁ・・・
そんな学校に子供を通わせている親についても、何と言ったらいいのやら?

「自分自身を好きになる。」という言葉はいいとして、じゃあ、「その校長は、自分自身を好きなの?」
あるいは、その校長が自分自身を好きなのはいいとして、それがどんな成果につながったの?
あるいは、自分自身を好きになることが何故に必要なの?
「好きになれ!」と命令されたら、簡単に自分自身を好きになれるものなの?
その学校の教職員は、「自分自身を好きなの?」
あるいは、生徒の親は自分自身が好きなの?

そんな点について、ちょっとは自分自身を見つめてみたら?

「好き」などという感情は周囲から強制するものではないでしょ?
学校を好きということにおいても、生徒にとって、学校内で、リラックスでき、知的好奇心が満たされ、楽しい付き合いができれば、結果的に学校を好きになるという流れでしょ?
学校を好きになるために、授業や遊びがあるわけではないのでは?

よく書いていますが「自分は幸せだ!」と周囲に主張するのは、ヘンですよ。
それとよく似ている言葉である「この学校が大好き!」と主張している子供って、見方を変えると北朝鮮状態と言えるでしょ?
幸福というものは、まさにリラックスにつながっているわけだから実感し続けることはありえないもの。そんなことはちょっと考えてみれば誰でもわかること。

歴史的に見ると、人類が体系的に物事を考えるようになったのは古代ギリシャの時代からと言えます。そして、それ以降も、多くの人が人間の幸福について考えてきましたし、語っています。しかし、言っていることは、ほとんど同じなんですね。言葉などの表現の細部には違いがあっても、人間が幸福になるための基本は、「自分を知る。」ということです。

自分が何をしたいのか?
現時点で、自分は何をできるのか?
自分は何がイヤなのか?
今まで何をやってきたのか?
現状では何ができないのか?
当面においては何をしなければならないのか?

そんなことを知るのが、最初に必要なことなんですね。
それについては、この文章をお読みになっておられる方も合意されるでしょ?

それが分かっていなければ、自分を好きになるも何もないじゃないの?
自分を知っていないのに、どうやって自分を好きになるの?

皆様の周囲にいる大人が、「オレは自分のことを大好きだ!」なんて言っていますか?
そんな人がいたとしても、そんな大人が、どんな成果を出しているの?
皆様は、そんな人と一緒にやり取りをしたいと思いますか?
まあ、なんとなく、胡散臭い・・・そのように思うでしょ?

結果的に自分を好きになるのはいいとして、それを目的とするのは無理があるんですね。
自分を好きになることを目的としてしまうと、むしろ逆効果になってしまう。

人間は誰でも、ポジティヴな面とネガティヴな面があるでしょ?
それこそ学業成績がいいとか、歌がうまいとか、スポーツができるとかのポジティヴなものも持っているでしょう。
しかし、やっぱりネガティヴな面もあるでしょ?
それこそ、運動が苦手でも、勉強が苦手でも、容姿が特徴的・・・とか・・・

「自分自身を好きになれ!」と厳命されてしまうと、そんな自分自身のネガティヴな面との付き合いができなくなってしまう。だって、ネガティヴなものをどうやって好きになるの?運動が嫌いなことを好きにならなければいけないの?
だから、そんなネガティヴな面から目をそらすという方法論を取るようになってしまう。
ポジティヴな面を見て、その面について自分を好きになるのは結構なこと。しかし、ネガティヴな面との付き合い方も必要になってくるわけです。

しかし、「自分を好きにならなければいけない!」と要求されてしまうから、自分のマイナス面から目をそらすばかり。目をそらしているから何も対処しないで先送りばかり。
何も自分の欠点ばかりを注視する必要はないでしょう。
欠点を認め、その距離感を確定しておけばいいだけ。運動が苦手で嫌いなら、ここまではできるようにしよう、それ以上は積極的には対処しない・・・そんな距離感で十分ですよ。
学業成績だって、それこそ「落第しなければいいや。」くらいに、自分なりに判断していれば、それでいいわけ。

あるいは、ちょっと苦手な人とのやり取りだったら、「あの人との付き合いにおいては、ビジネスライクな付き合いではワタシ自身で対処して、それ以上の突っ込んだやり取りのケースは、間に人を入れるようにしよう。」そんな対処でいいわけ。
しかし、距離感がつかめないと、マイナスがあったら、スグにトンズラするようになってしまう。まさに「見たくない!」という恐怖感を伴った感情だけで生きるようになってしまう。

あるいは、それこそ夫婦の不和のような事態が発生した場合においても、マイナス面との距離感を確定させることは重要なことでしょ?
それこそ、関係の改善のために必至に努力するのか?あるいは、さっさと離婚するのか?あるいは、いっそのこと仮面夫婦に徹するのか?
それは、その夫婦の判断でしょう。
しかし、距離感を確定することから逃避してしまうと、何も見ないし、考えないという「対処?」になってしまう。
だからこそ、子供ができてしまう。
仮面夫婦に徹するという対処ならまだ救いがある。それが自覚できていれば、子供を作ることは回避するでしょ?

しかし、「何も見ない」「何も考えない」という対処だからこそ、避妊という判断もせずに、そのまま「な〜んとなく」で妊娠してしまう。
そうなると、その家庭に新しく加入した存在といえるその子供が、夫婦の不和のツケを背負わされてしまうことは自明のこと。
個人のレヴェルで逃避したり、トンズラするくらいならまだしも、人との関係性が加わるので、現実的にはもっとシリアスになってしまう。
欠点との距離感がつかめないので、欠点なりネガティヴな面に直面するとパニックになってしまう。そして、「ボクに欠点があるのは、あの○○のせいだ!」と他者を犯人認定することで、自分の側が被害者であるという状況にしてしまう。

「ボクにこんな欠点があるのは、あの○○のせいだ!」としておけば、まさに「ボクは悪くない!」となり、相変わらず「自分を大好き!」と言えるでしょ?
他者を犯人認定し、それを確定する儀式となると、まさに「イジメ」となる。
犯人認定したものをイジメることで、「自分は被害を受けた側だ。」という関係性を、自分に確定させる。報復行為をすることで、自分自身を被害者だと主張し確定するわけです。
「ぼくには欠点があったぞ!ああ、どうしよう?ボクは自分を嫌いになりそうだ!」→「アイツにはこんな欠点があるぞ!」→「アイツのせいで、ボクがこんな目に!」→「だからボクは悪くない!」→「だから、ぼくはいい子なんだ!」→「だから、ボクは自分が大好き!」という心理的な流れになるわけです。

そして、「アイツのせい」といつでも言えるように、日頃から「あら探し」ばかりの人間になる。そうやって他者を凝視し、ますます自分自身から逃避してしまう。

今まで書いてきたように、「自分自身を好きになれ!」という要求は、学校ではイジメにつながりやすいことになってしまう。何も「ためにする理論」ではなく、実際に皆様が「自分自身を好きになれ!」と要求されたら、途方に暮れるでしょ?
大人でも難しいんだから、子供だったら、もっとタイヘンですよ。

以前に「自由からの逃走」を取り上げた社会心理学者のエーリッヒ・フロムは、「愛は対象を肯定すること。」と書いておりますが、「愛」は肯定と直結していても、「好き」という感情は、必ずしも肯定ばかりではありません。
いやなものが無い・・・という二重否定のケースも多い。だからこそ、不快なものから目を背けることで、「いやなものがない」と言う状況を作り出し「ワタシはワタシが大好き!」と豪語するようになってしまう。
「ワタシは悪くないから、ワタシはワタシ自身が大好き!」という二重否定的なロジックになってしまう。
そして「悪くない」と言えるために、自分の「悪い面」から目をそらし続け、もっと極端になると、自分自身から目をそらし続けることになる。

実際に、「自分自身を好きになる努力」と、「自分自身を知る努力」は、その方向性が違っているでしょ?
現在(10年)において、その乖離の典型を示しているのが、日本の首相をされている鳩山由紀夫さんでしょう。

彼は、ある意味において「自分自身を好き」なタイプでしょ?
あるいは、「自分を好きになりたい!」と思っているし、あるいは、「人に好かれたい!」と思っている。
それこそ、ゴールデンウィーク中に沖縄を訪問する際に、沖縄のローカル衣装である「かりゆし」ウェアを着ていったそうですが、そんな発想は、沖縄の人に好意を持ってもらいたいという発想から来ているといえるでしょう。

かと言って、彼は自分自身を知っているの?
彼は信頼というものが理解できているの?
彼は自分を知っていないから、信念もない。人から嫌われてもやり遂げたいものがない。
だからこそ、とにもかくにも、人の気持ちを害さないように、人に合わせてばかりとなってしまう。
鳩山さんの事例は、「自分を知る」ということと、「自分を好きになる」ということの乖離としては、見事なまでの事例ですよ。

鳩山さんはお金持ちだから、自分を知らないままでも、お金をばら撒けば、相応に、人からは好意を持ってもらえる。逆に言うと、彼は、お金などを「恵んでアゲル」という状況を作りたいと心理的に切羽詰っている。お金をばら撒くことによって、人から好意を得ようとしているわけです。
「恵んでアゲル」という行為は、「信頼のない」人間が、人から「好意を求める」際の行為としては典型的ものですよ。
それこそ、鳩山さんは、日本という国を、「周囲から好かれる国」にしたいと思っていて、「周囲から信頼される国」にしようとは考えていない・・・そのように見ると、鳩山さんの行動も理解しやすいでしょ?

そんな人は、自分を好きになるために、過度に「いい子ちゃん志向」が強い。
だからますます減点面への対処ができず、誰かを傷つけるような判断ができず、ますます先送りばかり。
そんな人のアタマの中では「こんないい子ちゃんなボクなんだから、ボクちゃん自身は、ボクちゃんを大好き!」そんなロジックになっていて、そこから抜け出せない。

だから何も達成できない。
と言うか、もともと達成したいこと自体が存在しない。自分を知らないんだから、「どうしてもやり遂げたいもの」などは、存在しないわけ。
「いい子ちゃん」としての自分を確立し維持するために、人に恵むことが目的化されている状態。
誰かに恵む行為により、自分を「いい子」と認定し、そして恵むことにより、相手からの反論なり指摘から回避し、判断を迫られる状況に陥るのを回避しようとする。

有名な映画である「ニュー・シネマ・パラダイス」の中で「自分の仕事を愛せ!」という言葉が出てきました。あるいは、有名な哲学者のニーツェは「自分の運命を愛せ!」と言っていますよね?しかし、愛しているからと言って、「好き」とは限らないでしょ?
ニーツェのいう「運命愛」は、「自分の運命を好き!」ということでは断じてありませんよね?あるいは、それこそ、鳩山さんは、自分の仕事を愛しているの?

自分を知らないがゆえに、もっと極端にいうと、自分を愛していないがゆえに、自分を肯定するには、「自分を好き」という感情次元になるしかない。
別の言い方をすると、「自分を好き!」ということは、自分自身からの逃避の便法なんですね。
「自分を好き!」ということは、自分を肯定したものではない。「それ以上」自分について考えることから逃避するための方法なんですね。

自分自身を知り、その結果として、自分自身を好きになるという流れならアリでしょう。
しかし、まず最初に「自分を好きになる」ことを掲げてしまうと、ネガティヴな面を見るのが怖く、自己逃避になってしまうだけ。
そんな自己逃避人間は、周囲に合わせるだけになってしまって、何も達成できない。
だから本当の意味での自信がなく、内心ではコンプレックスを持ち、だからこそますます人からの好意を求めることになる。

自分で自分を知る努力は、次につながるし、成果にもつながる。
しかし、自分を好きになる努力は、何につながるの?
結果的には、他者を犯人認定することになるばかりでしょ?

自分のネガティヴな面を見るのが怖いので、むしろ人の話を聞かない人間になってしまう。
人の話を聴覚的に聞いていても、内容を聞き取ってはいない。
言語的に聞き取っていても、そこに自分のネガティヴな面への指摘に注目して聞いているだけ。自分の「欠点」を追求されていないか警戒しているだけで、全体の内容には関心がない。
相手が自分にとって都合が悪い指摘をしてきたら、即座に反論するような体勢をとっているだけ。そんな断片的なチェックをしているだけ。
あるいは、人からの指摘に過敏に反応するので、逆に言うと、周囲の人間が自分の欠点を指摘するような人だと困ってしまう。
だから、そんな人の周囲の人間は、「人に配慮する」いい人なり、あるいは、人の問題がまったく見えないようなボンクラな人ばかりになってしまう。

周囲がそんな状態なので、ますます自分の目で現実を見ることがなくなってしまい、ただ「いい子ちゃん」として、権威筋認定の一般論を連呼しているだけになる。
そして、そのご高説から外れた人や行動を攻撃することになる。
日頃からあら探ししてばかりなので、他者の「あら」はスグに言えてしまう。
しかし、自己逃避で、自分のことを分かっていないので、同じことを当人自身もやっていたりするもの。
まあ、こんな時によく出てくる言葉が、「オマエが言うな!」という言葉でしょう。

それこそ、学校などでは、教員が「何事も話し合いで解決していきましょう!暴力を使ってはダメですよ!」などと御正論を言ったりするものですが・・・
そんな教員が生徒たちと話し合いをしているのかというと、全く別でしょ?
そんなご高説を聞かされると、なおのこと途方に暮れてしまいますよね?
そのようなことを言う教員は別にバカというわけでも、狙ったギャグというわけでもないのでしょう。ただ当事者意識が無く自分自身が分かっていないだけ。そんな人が他者に対しては説教臭いのは、まさにダメダメのお約束。

上記のような教員の例は、皆様も実際に体験なさったでしょう?
あるいは、鳩山さんなんて、その典型でしょ?
鳩山さんは、人の「あら」を指摘してばかりですが、その「あら」を自分でもやっているでしょ?「自分を好き」といえるようにするためには、「他者のあら」に対しては鋭い感応をし、「自分のあら」には鈍くなってしまう。

まあ、ダメダメな人とのやり取りが一般よりはるかに多いこの私だと、そんな実例は、そりゃ色々とありますよ。
以前にも書きましたが、「平気でウソをつく人たち」という書籍を紹介してくれた人がいましたが、その紹介してくれた人自身が「平気でウソをつく」人で・・・
そんな本を得意気に紹介されても、「どう反応していいのか?」困惑するだけ。
いやぁ〜確かに、その本に書いてあるとおりだけど・・・と、目の前の人間をまざまざと見つめるだけ。

他者の問題を指摘するに当たっても、自分自身の問題が自覚していれば、その視点なり説明も、より現実的で実感的となる。だって、そんなトラブルを起こす人の心が実感できるわけでしょ?それは単に、人に配慮するという問題ではなく、その本質的なことが見えているといえる。
しかし、自分自身について何も分かっていないがゆえに、「悪いのは全部○○のせいだ!」なんて言っているのがダメダメ人間というもの。だから、「その『○○』とアンタは、全く同じことをしているじゃないの?」なんて言われると、まさに逆上することになる。

そんな人の言葉に説得力がないのは当然でしょ?
だって、聞かされた方は「ギャグかな?」なんて思っているくらいなんだから、説得力云々の問題ではありませんよ。だから事態は何も改善しない。
それこそ、「話し合いで解決しましょう。」という教員の例ですが、生徒に対して「何事も話し合いで解決しましょう!」なんて言っている教員の話を聞いた生徒が、「話し合いで解決する」ようになるの?
そんなわけないでしょ?と言うか、なかったでしょ?
あるいは、「イジメはやめましょう!」なんて正論を言うのはいいとして、周囲の大人たちは「生徒がイジメを起こすのは○○のせいだ!」なんて犯人認定の主張をし、それに対し抗議するだけ。しかし、その犯人認定した「○○」が、インターネットや、俗悪なテレビ番組じゃなくて、クラスの生徒の一人になったら、それこそがまさにイジメそのもの。
結局は、犯人認定の対象が変わっただけ。考え方や発想そのものは何も変わっていない。

結果的に、事態が何も改善せず、結果的にトラブルが顕在化すると「あれほど、ちゃんと指導していたのに・・・ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と、お約束の嘆き節。
この流れは、事件が起こる学校では、まさに頻発していますよね?
まあ、そんな程度の教員の言葉は、それこそギャグと同じ。

逆に言うと、そんな人とのやり取りによって、成果が何もない。
やり取りをしても、「で、結局、なんだったのさ?」と怪訝な思いをするだけ。
「自分を好きになりたい。」と熱望する人間にとっての、「ワタシは、いい子」としてのアリバイとなっただけ。

「自分を好きになりたい。」という発想は、「いい子でいる必要があり、義務がある。」という発想と近い。減点法の精神であり、自分のネガティヴな面と向き合うのが怖い心理といえる。
しかし、そんな日々だからこそ、学校でイジメが起こったり、あるいは、成長後になって「いい子でいるのに疲れた。」と事件を起こしてしまう。
ネガティヴな面を直視することから逃避してばかりなので、出口を自分自身で塞いでいってしまうことになる。

人間はネガティヴなものがあってもいいわけでしょ?
それこそ、現実的には姦淫の心を持って女性を見てもいい。
要はその心との対処の仕方の問題でしょ?
逆に言うと、「姦淫の心を持っただけでダメ。」となると、姦淫の心との、現実的な付き合い方ができなくなってしまう。だからこそ、エッチな自分を発見しパニックになってしまったり、相手方のせいにして「誘った女の側が悪い!」という理屈に逃げ込んでしまう。結局は、女性の側を罰することで、事態の対処としてしまう。

抑圧的なところでは、べき論で押し付けるだけで現実的な対処はしないもの。
それこそ、「日本人は日本という国を愛するべきだ!」とかのご高説は熱心に語っても、「何も日本という国をキライなら嫌いで別の国にいけばいいじゃないの?」「国をキライならそれでいいとして、わざわざ国家公務員にならなくてもいいのでは?民間企業に勤めて、海外勤務すればいいじゃないの?」というスタイルの認識と判断を伴ったサジェストはしないもの。
まあ、国を好きとか嫌いとかだったらまだしも、もっとシリアスな事例となると、自分の子供を好きになるとか嫌いとかの問題のケースも起ったりする。

その手の人たちは、感情面ばかりに注目するので、議論の方向性自体がトンチンカンになってしまう。
「どうやったら、自分の子供を愛することができるのか?」
という問題ばかりを議論して、逆に言うと、現実的な解決策を考えることから逃避する。
だから、その状況はそのまま。

児童虐待があったりすると、「自分の子供を愛するべきだ!」と周囲から説教が入ったりするでしょ?しかし、「子供を嫌いなら養子に出したり、施設に入れればいいじゃないの?」というサジェストにはならないもの。
だからこそ、虐待する親も、子供を愛そうと必死になってしまって、より一層切羽詰ってしまったり、「ワタシが子供を愛せないのは、子供のせいだ!」と子供への報復行為を激化させてしまう。
そんな姿は、この文章で例示した、学校でのイジメ事件と同じ。
だって、そのメンタリティは共通しているんだから、行動も共通してきますよ。
フロムが、その著作の「自由からの逃走」で書く「○○からの自由」はあっても、「○○をする自由」を持とうとしない心理になっている。

宗教的とか倫理的に厳格なところほど、そして、感情を強制するところほど、自分の弱さとの付き合いを習得できず、一番弱い立場のものに、そのツケを集約させてしまうことになる。そんな姿は、何もイスラムだけでなく、ダメダメな学校やダメダメ家庭でもまったく同じでしょ?

子供であっても、自分自身を知り、自分の希望なり長所なり短所との付き合いを習得すればいいわけでしょ?勿論のこと、その習得度については、子供だったら、未熟のままでしょう。
しかし、「ワタシ自身を好きになる。」という方向性だったら、自己逃避に陥ってしまう。
習熟度の問題ではなく、方向性が間違っているんですね。

そうやって、人からの好意ばかりに注目してしまうので、自分自身を知ることがないし、だから信念もないままで、自分を信じることができない。
自分に信念のない人が、他者から信頼を得ることはない。

それを好意の不足と捉え、「ワタシ自身を好きになりたい!」と焦って、ますます自己逃避になったり、「ワタシを好きになってよ!」と周囲に絡んだり・・・
そうやって、ますます嫌われていく・・・
好意にこだわる人ほど、自分自身のことが見えていないもの。
何も鳩山首相だけでなく、ダメダメな人は、そんなパターンの人が多いでしょ?
R.11/1/26