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カテゴリー | 信頼と好意の諸相 |
アップ日 | 10年5月29日 (10年6月14日 記述を大幅に追加) |
タイトル | 信頼関係と支配関係 (田園の憂鬱) |
以前より、このサイトにおいて、ダメダメ家庭の人間は、「信頼と好意の区別がつかない」ことについて頻繁に言及しております。何回も書きますが、信頼というものを心理的に認識できないわけです。 他者との結びつきにおいても、相手を肯定的に認識している場合には、「好意」という感情次元であって、認識や判断を伴った信頼のレヴェルまでには行くことはない。 相手をしっかり認識し、そして自分なりに判断することによってはじめて、信頼という状態に到達できることは、誰でも合意されることでしょう? しかし、現状認識から逃避し、そして会話の能力がなく、そして判断から逃避しているのがダメダメ人間なんだから、相手を信頼するどころではない。信頼を認識する心理的なベースを持っていないないわけです。 そもそも、お互いが信頼するという関係を成立させる前提として、相互理解が不可欠でしょ? 相互理解の無い信頼関係なんて、本来はあり得ませんよね? 会話などを積み重ねることによって、相手について理解し、そして自分の考えを相手に説明することで、自分について理解してもらう。 それによって、相互理解が図られ、お互いが信頼し合う・・・信頼関係とは、そんなものでしょ? だからこそ、信頼関係を成立させる前提として、お互いが会話の能力なり意欲、そして説明能力を持っていることが必要になるのは当然のこと。 逆に言うと、自分のことを何とかして分かってもらうための意欲とか、相手の意向をちゃんと聞き取ろうとする意欲そのものがない場合には、信頼どころではないでしょ? そのようなコミュニケーションの意欲については、ちょっとやり取りをすれば、見えてくるでしょ? そもそも自分の言葉に対して取り合おうとしない人に対して、信頼を持つわけが無いじゃないの?だって、それだけ、相互理解とは無縁な関係ということなんですからね。 意欲があっても能力が伴わない場合には、しょうがない面もあるでしょう。 しかし、それこそ手を変え品を変えて、必死に伝えようとしているのか?それとも、「とりあえず、これくらいを言っておけばいいじゃないか・・・」くらいのズボラな態度なのか? 言葉使いがヘタなのなら、それこそ、事前に添付資料でも用意すればいいだけ。 そんな意欲の問題はスグに見えてくるでしょ? その意欲があれば、少しずつでも、コミュニケーションの能力もついてきますよ。 しかし、ダメダメ家庭の人間は、会話の能力も意欲もないし、説明能力もない。 つまり、たとえ一緒にいても、相互理解はできていない。お互いについて何も知らないまま、一緒にいる状態。 その手の人たちが「ワタシたちは信頼関係ができている。」と言っていても、本当の意味での信頼ではない場合も多い。本当に信頼関係ができているのなら「どうして、その人を信頼しているの?」と誰かから聞かれたら、客観的に説明できないとダメでしょ? 何も難しい説明でなくても、「過去にこんなやり取りがあり、そのやり取りを通じて、あの○○さんを信頼するようになった。」・・・信頼についての説明なんて、それで十分ですよ。 しかし、抑圧的なダメダメ人間は、そんな客観的な説明ができない。 それこそ「ワタシたちは親子だから。」とかの法律的だったり生物的な論拠だったり、「ワタシたちは出身地や現住所が同じ地域だから。」という地理的な論拠だったり、「ワタシたちは同じ学校の出身だから。」という経歴的なものだったり、「ワタシたちは前世からの付き合いだから・・・」とかのオカルト系だったりのヴァリエーションはあっても、やり取りの積み重ねによって、相互理解を達成し、信頼感に到達したというスタイルの説明ではないんですね。 そんな人は、相手のことについて知らないのに、言葉だけは信頼という言葉を使ってしまう。そもそも信頼というものが理解できないがゆえに、そのようなシチュエーションにおいて信頼という言葉を使うことが不適切であることもわからない。 ただ、通りのいい言葉として、信頼という言葉を使っているだけ。 相手について知らないのに、一緒にいる・・・そんな関係は、実質的には支配関係に近いといえる。 何回も書きますが、本来は、相互理解もない状況だったら、相手のことを信頼しようがない。 しかし、支配だったら、支配する側は、相手のことを何も知る必要がない。 相手のことを認識し、理解した上で、そして相手の能力やキャラクターを肯定して、信頼となっていく・・・それが本来の形でしょ? それに対し、支配というものは、相手を逆らえない状況にすることでしょ? つまり、相手を否定していることですよね? 「逆らうことができない」のは、二重否定的な状況であり、「肯定」からは、二重に遠くなっている。 信頼と支配は、相手を肯定しているのか、それとも否定から見ているのかという点で大きく違っている。 しかし、信頼というものが理解できないがゆえに、そして、単純な肯定と二重否定の区別がつかないがゆえに、支配と信頼の区別もつかなくなってしまう。 そんな人がよく言ったりするのが、 「アイツを信頼していたのに・・・」というもの。 何かトラブルが発覚すると、ダメダメな人からは、お約束のように出てくるものでしょ? しかし、その「信頼していた」という言葉はいいとして、どのような論拠で信頼していたの?今まで、その人とどんなやり取りがあったの?その「信頼していた」とされる人をどんな人だと考えていたの? 「アイツを信頼していたのに・・・」という言葉を語る人は、「アイツはオレに逆らうことができないはずなのに・・・」という心理でしょ? そして、「どうして、こんなことをしやがったんだ?!ケシカラン!」「どうして、このオレに逆らったんだ?!」 そんな意味が「アイツを信頼していたのに・・・」という、後になっての嘆きの言葉でしょ? あるいは、そのような「支配と信頼」の区別がつかない心理がアタマに入っていると理解しやすい言葉が「オマエを信頼しているぞ!」という言葉です。 なんとなくトラブルが起こりそうな雰囲気になると、トラブル発生や発覚前に、そんな言葉を投げつける人がいるでしょ? しかし、「オマエを信頼しているぞ!」という言葉はいいとして、どんな根拠で信頼しているの? 何回も書きますが、信頼というのは、その前提として相手に対しての理解が必要になっている。しかし、「オマエを信頼しているぞ!」という言葉を投げつけた側が、どんな感じで相手側を理解しているの? 結局は、「アイツはオレに逆らうはずがない。逆らえるはずがない。」「オレに迷惑をかけられる立場ではないはずだ。」そのような理解でしょ? それって、まさに支配関係そのもの。 つまり、「オマエを信頼しているぞ!」という言葉は、「オレはオマエの支配者なんだ!」という確認を意味する言葉なんですね。「支配・被支配の関係」を、「信じている」という言葉を使って確認しているだけ。 だから、その「オマエを信頼しているぞ!」という言葉を言われた側は、非常に不快になるものでしょ?だって、「オマエはオレに支配されているんだぞ!」という心理が相手から感じられるんだから不快になりますよ。 お互いが相互に尊重し合っている間柄だったら、「オマエを信頼しているぞ!」という言葉を投げつけるのではなく、「困ったことがあったら、早めに言ってくれ。」と言いますよ。「オマエを信頼しているぞ!」を投げつける側には、相手方から事案を持ち込まれては困る・・・無意識的には、そんな心情になっている。 そんな状況で、どこが信頼関係なんだか? 信頼の無い支配関係であるがゆえに、支配されている側は、面従腹背状態。 それどころか、臥薪嘗胆を決め込んでいる可能性だってある。 しかし、現実から逃避するダメダメ人間は、そんな状況を見ようともせずに、上の立場から「オマエを信じているぞ!」と言い放つばかり。 何回も書きますが、信頼の背景には、相互理解があるわけですし、相手に対する敬意もあるもの。敬意と信頼が不即不離なのは、言うまでもないことでしょ? それこそ、「ワタシは、自分の子供を信頼している。」と語る親の言葉でも、「ウチの子は、学校の成績はサッパリだし、運動も苦手だけど、自分が決めた約束は、絶対に破らない子供だ。」そんな表現だったら、それこそ「自分の子供を信頼している。」と言えるでしょ?だって、「約束は絶対に守る人間」という形で、自分の子供への敬意を表現しているわけですからね。 しかし、「ワタシは親として、ウチの子に色々としてやった。大学にも進学させてやったし、お小遣いもあげた。だから、ウチの子は信頼できる。」そんな言葉だったら、その心理として敬意はないでしょ?だから、そこの言葉の中にある「信頼できる」と言う言葉は、「逆らうことができないはずだ。」という支配関係を確認する意味に近い。 そんな「育ててやったから、恵んでやったから、信頼できる。」という言葉には、「信頼できる」とされた対象のことは何も表現していないわけでしょ? ただ、「恵んでやった」から、「ワタシに、逆らうことができる立場ではない。」と認識しているだけ。 逆に言うと、信頼と支配の区別がつかない人間は、やたら人に恵もうとすることになる。相手が自分に対し「逆らうことができない状況」という支配関係を作ろうとする。 まさにエーリッヒ・フロムが指摘するサディズムの典型的な様相となってしまう。 支配と信頼の区別がつかないがゆえに、「オレを信頼しろ!」という一方的な命令でことを済まそうとする。 しかし、相手方の意向に配慮はしない。 この文章の最初に、ダメダメ家庭の人間にしてみれば、「信頼と好意」を区別できないことについて書きました。 それと同じように、「信頼関係と支配関係」も、本来は大きく違っているのに、ダメダメ家庭の人間にしてみれば、その区別が付けられないわけです。 だからこそ、ダメダメ人間が理解できない「信頼」を間に挟んだ「好意」と「支配」が結びついたりすることになる。 相手からの好意を、相手を支配することで得ようとすることになる。 そもそも「好意」というのは、「守ってあげたい」という心情にも近く、それは相手を肯定しているとは言え、序列的な観点から見ると、上からの目線であり、それは支配者が支配される者に向ける心理と共通している面もある。 好意と支配は、心理的に結びつきやすいわけです。 それこそ、ストーカーなんて、そんなパターンでしょ? そんなニュースに接したりすると、「そんな行為をしても、相手からは信頼されなくなるだろうに・・・どうして、そんなことをしたのかな?」と怪訝に思われる方も多いでしょう。 しかし、そもそも信頼というものが理解できないんだから、信頼を失うも何もありませんよ。 そんな行為をしても、結局は相手から嫌われてしまう。しかし、だからこそ、より一層、相手からの好意を求め、より一層、支配関係を強固にしようとする。 この手の人は、トラブルになればなるほど、相手に対して自分への好意を要求することになる。 しかし、自分なりの考えを、わかりやすい形で相手に説明することはない。 信頼というものを理解できない人は、そもそも説明するという発想自体を持っていないことも多い。 ダメダメとは直接的には関係ないでしょうが、それこそ、田舎に入った都会の人が、そんなことでモメたりしますよね? 田舎においては、言わなくてもわかるという同質性や閉鎖性があり、説明能力や意欲もない状態。まあ、実際に言わなくても、お互いが分かるんでしょう。だから、相互理解という発想自体がなくなってしまう。 そんな状況である田舎に、都会からの人間が入ったりすると、お互いがさっぱり分からない。 そうなったら、田舎の人も、自分なりの考えを、説明すればいいだけですが、説明と言う発想自体を持っていないのでそれもしない。結局は、「オレたちの流儀に従え!」と強圧的に命令するばかり。 そんな命令を受けた側は、好意も、信頼も持つわけも無く、結局はトラブルが拡大するばかり。 都会人が田舎の人をイヤがるのは、説明を土台にして相互理解に至り、そこから信頼を構築していく・・・そんな流れではなく、いきなり「好意」を要求してくることでしょ? あるいは、「空気を読めよ!」とかで曖昧に要求してきて、とりあえず対処すると、「そんなことも分からないのか?!」と文句を言い出すもの。 そんなやり取りが積み重なってしまうので、都会の人は、うんざりしてくる。 そんな状況で信頼も何もないでしょ? そうなってくると、田舎の人たちは、「オレたちを信頼しろよ!そうしないと、ただじゃおかないからな!」と更に強圧的に命令する。そのようなことは、たとえば児童虐待でのお約束の言葉である「懐かないから殴った。」という言葉と直結している。 別に田舎の人がダメダメだと申し上げているわけではないんですよ。 相互理解というものを通じて、信頼を構築していく・・・そんな発想がなくなってしまったら、それは地理的な問題ではなく、心理的な閉鎖性に陥ってしまう・・・そのような問題点を申し上げているだけです。 その閉鎖性を、好意によって、繕おうとしても、ますます嫌われるだけ。 ダメダメ人間にしてみれば、支配と好意が結びついていて、その間をつなぐはずの信頼というものがない・・・そんな観点をアタマに入れておくと、理解できる事例が多いわけです。 |
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R.11/1/28 |