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カテゴリー 認識からの逃避
アップ日 10年6月26日
タイトル 見えなくなることを、見ようとしない (読者投稿の文章を中心とした文章です。)
今回は、視覚に障害がある読者さんからの投稿の文章です。
今回の文章においては、その障害の問題と、ダメダメ家庭の問題との関わりを考えております。
投稿の文章の後で、このサイトの管理者による追加文章があります。

***投稿はここから****

私が小学校5年生の時に、右目が「網膜剥離」という病気にかかり、入退院を何度か繰り返することになった。
無事退院できて通常の授業に戻ったある日、たぶん自習の時間だったと思うが、斜め後ろに座っていた男子生徒と些細なことで言い争いになり、それがエスカレートして殴り合いになってしまった。

私の記憶が確かだったならば、まず最初に手を挙げたのは相手の方だったと思う。
その喧嘩が原因かどうかは今となってはよくわからないが、その後、網膜剥離を再発してしまった。予後はかなり悪く、視力が相当下がってしまった。というより、右眼がほとんど見えなくなってしまった。
その時、私の父は激怒したらしく、相手の親を訴えることにしたそうである。
周囲の人、特に当時のPTA会長などは父をなだめ、説得にかかった。訴訟沙汰になると、その後で、この私がクラスでやりにくくなるから、なるべく穏便に済ませようとのことらしかった。

しかし、父は逆上し、「もし、あんたの子供がうちの子供のような目にあったら、それでもあんたは黙っているのか!」と食ってかかったそうである。そして訴訟となったらしいのだが、結局は和解という形で解決した。
その後、周囲の人の予想通り、私はクラスでもやりにくくなり、「あいつの親はすぐに訴えるから、あいつは危ないヤツだ!」というレッテルを貼られてしまった。

そして、そのトラブルにおいて、私の両親、とくに父親が受け取った「和解金」は、当時住んでいた家の住宅ローンの支払いに回されたということを、大人になって母から聞かされた。
おそらく「息子のため」として受け取られた和解金ではないかと思うのだが、それはほとんど息子である私のために使われることはなかったようである。そして成人となった私は、ほぼ全盲となってしまった。

ちなみに、父は弱視(右眼は義眼)で、母は健常者で、その上、父は地元の障害者団体の役員を、母はPTAの活動をしていた。
父は自宅の1階を鍼灸院として開業し、鍼灸マッサージ師として仕事をしていた。夫婦仲良くとは言えなかった母も、愚痴をこぼしつつ、父と同じ仕事をし、家事をしていた。
また、親戚としては、父の異父姉である叔母は、私が生まれる前に網膜剥離を発病し、その後に弱視となった。
その叔母の長男(3人兄弟、弟1人、妹1人)は、私と同時期に網膜剥離を発病、その後に重度の弱視となった。

私の両親については、私が入院中も「金がない、金がない・・・」とよく愚痴っていたことを覚えている。
ある時は、「治療院を改装したのでお金がないから、知人から借金をすることになった。」とか、「人を雇ったのでお金がない」とかいうことを入院中の私、その当時小学生だった私にそれとなしに言うのである。
ちなみに、「人を雇った」とは、父が、おそらく福祉関係者として、視覚障害者を「救済」するために、マッサージ師として雇ったということである。
また、母は家の仕事が忙しいからといって、入院中の私の付き添いをあまりしてくれなかった。

母は言う、「これだけ手術をしてもあまり良くならないねぇ・・・。」と。あと、父か母か誰が言ったかよく覚えていないが、ある日の手術後、「この点滴は1本数千円するんだって。」と言っていた。その時、お金を使うのが非常に申し訳ないような気がした私は、その点滴を受けることをしばらくの間、拒否し続けたことがある。

また、私が十代半ばの頃、「どうせ高いお金を使って、しかも苦痛な手術を受けても病気が良くならないのなら、俺は手術を受けない!」と父に言ったことがある。
その時、父は「お前がそうしたければそうすればいいじゃないか。」と私と目を合わせることもなく言っていたのを記憶している。

中学2年の段階では、診察を受けても左目に異常は見つからず、ただ弱視・・・というより、ただ視力が低いというだけで、眼鏡で矯正をすれば、ほぼ日常生活には支障がないといった状態であった。

中学3年に硝子体剥離を発症し、通院治療を受けていたが、ある日の朝、目覚めると左目の視野が半分見えなくなっており、自分でも網膜が剥がれたなとわかり、しかも、これまで経験したことがないほどの重い症状で、すぐにでも手術が必要だとわかった。
多分長期の入院になるだろうし、相当お金がかかるだろうと思ったので、父に対して「手術は受けない」と言った。

その時は、父も付き添ったのだが、私に入院して手術を受けるように説得する医師の前で父は「だから前から息子を説得しているのですけど、息子が頑固で言うことをきかないのですよ。」と医師に言い訳をしていた。その時に私は父親が相当なウソつきであるということを衝撃とともにようやく理解することができた。

その時は仕方なく手術を受けたのだが、予後はかなり悪かった。その後、白内障も併発したのだが、私はその手術を受けなかった。その結果、時が経つにつれ眼がだんだん見えなくなっていった。そして、ついに治療が困難な状態になってしまった。

私には2歳年上の兄がいて、彼は、私が中学2年生の時に、私と同じ「網膜剥離」を発病し、わずか半年の間に両目を失明してしまった。兄の話によると、柔道の練習中に頭をぶつけたことが原因だったらしい。

その発病以前に、弟である私が「網膜剥離」を発病し入退院を繰り返していたのだから、両親にも、そして兄自身にだって、その病気の発病のリスクは事前に分かっていたはずで、もしかすると柔道さえしなければ、失明は避けられたかもしれない。

そもそも兄が柔道を始めた理由として、どうやら父にけしかけられたからということだったらしい。
父は学生の頃、柔道をしていたらしく、それで何かの賞をもらったらしく、そのことを私たち兄弟に自慢し、「お前たちも何かやってみろ!」と、よく私たちをあおったものだった。
兄は父に認められたいという気持ちが強く、それで柔道を始めたと兄は語っていた。
それなのに、父は、さも自分には全く責任がないといった感じで、弟の私に対し、「全盲者に対しては、いろいろと介護しなければならないし、それがお前の義務だ。」と言うような「指導」をしてくれた。

そのようなこともあり、私たち兄弟の間は、私は兄に対しては「介助者」であり、同じ視覚に障害のある、いわば「同志」であり、兄は私のことを「友人」か、または「手下」と言った扱いになった。

失明後の兄はやむを得ず盲学校への転校を余儀なくされた。そこでも彼は、父にあおられたのか柔道部を立ち上げてしまった。
私も兄の影響で、中学1年の秋に盲学校に転校することになった。それは、兄が盲学校での出来事をあまりにも楽しそうに話すからであった。
でも、本当の私の気持ちとしては、学校になんか行きたくはなかった。いわゆる不登校状態である。「俺は盲学校に転校したい!」とでも言えば、両親はあわてて、体裁もあるからそのまま普通学校へ通うように説得するだろう、そしてしばらくの間は学校を休むことを認めてくれるだろうと思ったからである。

その当時、私は学校に行くのが辛かった。私はクラスでも身長が高い方だったので席は一番後ろだった。黒板の文字はあまりというか、ほとんど見えなかった。でも、成績が悪いというほどではなかったと思う。

でも、先生方は「○○君、黒板は見えるかね?」と私に授業中何度も尋ねるのであった。そして、挙句の果てには私は一番前の席に座らされたのである。
後ろの生徒からは嫌な顔をされ、授業を受けるのが苦痛だった。どうやら、証拠はないが、父が父親というより、障害者団体の役員という立場で「弱視者」についての扱いについて、学校にクレームをつけていたらしい。そのことは母は知らないようだったし、一切、知ろうともしなかった。

その理由として母は、「子供たちは障害者なのだから、私は障害者のことは全くわからないので、子供たちのことは障害者のことに詳しいお父さんに任せることにした。」というようなことを言っていたような覚えがある。彼女なりには「餅は餅屋」ということか・・・。
そう言えば、父は障害者の相談員というボランティア活動もしていた。

そう、いつ頃からかは覚えていないが、母は私たち兄弟を「子供たち」と言うようになり、その後には、「息子たち」と言うようになった。
話は戻るが、たぶん、父は兄のことで「親」という立場で学校に相談という形で出向いていたので、それで、私のため(?)に職員室へ行くのも抵抗がなかったのだろう。

先生方による、私にとっては有難迷惑な配慮と、父の威張った態度のせいもあっただろうが、これは一種のいじめだろうか、私は学級委員長にさせられてしまった。
クラスの責任のほとんどを私すべてに押し付けるような形になってしまった。
もちろん、私の当時の振る舞いもいけなかったことはたくさんあった。でも、私にはとても耐えられない重荷だった。どこか別の学校・・・というより学校になんか行きたくなかった。だから両親に「盲学校に行きたい!」と言ってしまったのである。

しかし、現実は私の予想に反し、父も母も私を説得することも、私の話を聞くこともなく、すんなりと盲学校への転校が決まってしまった。
ただ、叶った望みと言えば、地元の中学校へはもう二度と行く必要がなくなったということと、転校するまでの数ヶ月間は学校を休むことができただけだった。

盲学校へ転校した後の私は、しばらくして、兄が立ち上げた柔道部へ入部した。
というより実は、兄弟で柔道部を立ち上げることになってしまったのである。
兄は私が柔道を始めることを止めるどころか、むしろ「一緒にやろう!」と持ちかけたのである。
逆に当時の担任の先生や顧問の先生が「失明したら大変だ!」と言わんばかりに私に柔道を止めるように説得するほどだった。でも、兄は何も言わなかった。結局は、私は兄に従ってしまった。
その時の父と母は私に対して無関心だった。なぜなら、私たち兄弟を「寄宿舎」に半ば強制的に入れたので、学校で私たち兄弟が一体何をしているのか知らないし、知ろうともしなかったからである。

その後、中学3年の時に、柔道が原因かはよく分からないが、私の残された左目の調子が悪くなり、その数ヵ月後に網膜剥離を発病してしまった。
それから私の目はどうなったかは、先に述べた通りだが、学校へはとりあえず通ったが、ほとんど勉強はしなかった。そして、だんだんと学校も休みがちになった。将来に対する夢も希望もなく、進路についても何も決めずにいた。
そして、なんとか盲学校を卒業し、鍼灸と按摩マッサージの資格を取ることができた。

その頃になると、視力はかなり落ちており、就職するのもめんどうなので、先に資格を取って父の治療院で仕事というか手伝いをしていた兄と一緒に働くことにした。

でも、以前から父と兄は仲が悪く、度々口喧嘩をしていた。まれに取っ組み合いの喧嘩になることもあった。
よって兄と父は折り合いよく仕事をすることができずに、しばらく後で、兄は仕事をほとんどせずに、ラジオのそばでラジオを聞いたり、居眠りをするようになった。
そこで仕方がないので、私が兄に代わって父の助手のようなことをしていた。
その頃には、母は手の腱鞘炎がひどくなり、ほとんど仕事ができなくなっていた。

兄の仕事を奪ってしまったので、私は心の中で、兄を追い込んでしまったのではないかと罪の意識を少し抱きながら働いていた。
ただ私は、就職という形をとっていないという後ろめたさから、収入の少なくとも半分を家に納めるようにしたし、食費も払うよう心がけた。このままずっと家に居続けることが「許しがたい罪」であり、だから非常に親に対しては申し訳ないように感じたからだった。

周囲の人は私が長男だと思ったらしい。つまり私が父の後継ぎだと。しかし、父は長男だろうが次男だろうが、息子に後を継がせる気は全くなかったらしい。
その頃、父は地元の障害者団体の会長になっていた。そして父の夢というか野望は、いずれは何らかの法人の理事長か会長、それか市議会議員になることだったらしかった。

私の仕事の量が増えると兄は私を妬んだ。私だって、この仕事が好きというわけではない、というよりも、むしろ嫌いである。
だから、兄に配慮するという目的もあり、仕事を減らすようにすると、今度は父から「仕事をしないのなら家から出て行け!」と言われるのだった。ある時は、親戚の前で「仕事をしない」ということでつるしあげられたこともある。

父と兄の間で折り合いよくやっていけなくなり、心身のバランスを崩してしまった私は、心療内科に通うようになってしまった。父は兄に私のことを「あいつは仮病だ」と言っていたそうである。

あれから時は過ぎ、「目が見えなくなっても、それなりに生きていけるさ。」というようなことを言っていた父も、今から10年前、おそらく飲み屋通いによる酒の飲みすぎであろうか、末期の胃癌と肝癌で亡くなった。
父の死後、母は、運営していた治療院に関して、後は「息子たち」に任せたと言った感じで、ほとんど現役から退いたような状態になり、兄は「長子だから」という理由で地元の人たちの説得で、治療院を含めた「家」を継ぐことになった。

それから3年の後、兄は立ち退きによる保証金で同市内に市の土地を購入し、3階建で1階が治療院というビルのような家を建てた。これはすべて兄の財産である。
そして今、兄は仕事をほとんどすることもなく、3階をアパートとして貸したことによる家賃収入と、障害年金で暮らしており、母も65歳を超え、年金生活者となった。

そして私は中年になり、「次男だから」という理由で財産もなく、兄からの扶養という形で、ほぼ無職の全盲で障害年金を頼りに暮らしている。
これから先、たとえ兄弟仲が悪くても、この家族と暮らしていかなければならないと思うと憂鬱である。

最後に、もし私たち兄弟が健常者として身体的に不自由がなかったとしても、心理的に健康に育つことは、まず不可能だっただろう。
とにかく、私の両親は子供一人育てるのが精一杯、と言うより限度一杯だったと思う。
恐れずに言えば、子供なんて作らない方が良かったのではないだろうか。

********* 投稿はここまで************

さて、メールマガジンを発行していた際に「ハンディキャップ」という文章を配信しております。当事者意識がなく、被害者意識が強いダメダメ人間は「ハンディキャップ」と「被害」の区別がつかないわけ。

身体的にハンディキャップがあるのは、当人にとっても、しょうがないところもある。
本来は、ハンディキャップがあったからと言って、「じゃあ、自分では何をするのか?」「その実現のためには、具体的にいうと、どんなサポートがほしいのか?」そんな話になるわけでしょ?

しかし、ダメダメ家庭では、ハンディキャップについては、それを「被害」として認識し、それゆえに、その対処を「加害者の側」である周囲の人にゆだねることになる。
自分で対処できる分は、自分で対処していくという発想がないので、逆に言えば、ダメダメ家庭においては、不都合な事態になっても、「オレたちには、こんなに苦しい状況になっている。」「あ〜あ、オレって、なんてかわいそうなんだ?!」と嘆いていればいいだけ。

嘆いているだけなので、ある意味において、ラクなもの。
ラクなものだから、そのハンディキャップを避けるという発想もない。
「このようなハンディがあると、こんなにも大変な思いをするのだから、できるだけそのような状況に陥らないようにしよう。」とは考えない。
むしろ「嘆くことができる」シチュエーションとして、有効に活用し、そして、「もっと、もっと嘆くことができるよう」に、自分自身なり関係者のハンディキャップを拡大させるようにしてしまう。
あるいは、周囲に対して、「補償を求めるための理由」として、有効に活用しようと考える。
逆に言うと、有効に活用することは考えても、それを避けるという発想はないわけ。

さて、今回の文章での読者さんの個人的な体験ですが・・・
この方ご自身が全盲になってしまったのは、この方のせいではない。両親だって、意識的には望んだわけではないでしょう。
しかし、自分の子供が全盲として日々を送るハメに「ならないよう」にするためには、親は何も考えていないわけ。

というよりも、現実的には、「同病相哀れむ」状態を、積極的に作ろうとしている。
周囲に対して自分の被害を語るためのネタとして自分の子供を活用しても、自分自身が親として自分の子供を育てていくという発想がなく、養育という点においてはネグレクトに近い。
たとえば、この家庭において、障害者の問題は同じ障害者である父親に任せるのはいいとして、障害者にならないようにするのは誰の役目なの?
それについて、父親も母親も、当事者意識がゼロになっている。
だからこそ、子供が障害者になってしまうわけ。

目が見えないことは、目が見えることよりも、不都合なことが多いでしょ?
何も、全盲の方は、生きる資格がないと申し上げているわけではありませんよ。
しかし、避けられるのなら、避けた方がいいのでは?

今回投稿された方が全盲となってしまった流れですが・・・
そもそも、この方のの両親は、どうして子供なんて作ったの?
何も視覚障害者が、子供を作ってはダメと申し上げているわけではないんですよ。
しかし、健常者が子供を作ること以上の、相当な覚悟が必要でしょ?

そんなに子供が欲しかったの?
子供を持つことで、どんな将来イメージを持っていたの?
それも、どうして2人目を作ってしまったの?
一人ではダメなんですか?二人じゃなきゃ、ダメなんですか?
自分たち自身の将来イメージに子供が必要なの?
そんなに子供がかわいいの?
もし、治療が必要な事態になったら、親としてどんなサポートをすることを考えていたの?
少なくとも、この家庭では、そんな事態になる可能性は、健常者の家庭よりも、かなり高いわけですしね。事前の想定が必要でしょ?

あるいは、もっと以前の問題まで見てみると、そもそもこの母親は、夫の何が魅力なの?
どんな理由で結婚したの?
あるいは、PTAの役員をする前に、自分の子供のケアに当たるのがスジなのでは?
このようなことは、父親も同じ。
障害者団体の役員をする前に、もっと自分の家族の問題に向き合ったら?

当事者意識がなく、ハンディキャップと「被害」の区別がつかないがゆえに、何も考えずに、「そのまま」突っ走ってしまう。
そして、事態が悪くなったら、「あ〜あ、オレたちは、なんてかわいそうなんだ?!」と、被害者意識に浸りきって嘆くだけ。
そして、自分の「被害」を声高に周囲に対して主張することになる。

逆に言うと、「被害」を声高に主張すれば、それによって、同情を受け、対処してもらえるという成功体験ができてしまうと、より大きな被害を作ろうとしてしまう。
家族を道具にして、「大きな被害」を、自分で作るわけ。

このようなことは、身体的なハンディキャップの問題だけではありません。
それこそ、シングルマザーのような境遇的なハンディキャップでも同じ。
シングルマザーの元で育った女性が、「てきとう」に結婚して、スグに妊娠し、スグに離婚して、当人自身がシングルマザーとなってしまう事例は、実に多いでしょ?

そんな人たちが主張する「苦境にあえぐシングルマザー家庭に対して、社会としてサポートをしてほしい!」という要求は、ある意味において、必要に迫られた面もあるでしょう。
しかし、そんな境遇を、「避けようとしない」人も多いわけ。
「避けようとしない」どころか、その方向に突っ走ってしまう人も実際にいるわけですし、自分の娘をそのように導いてしまう親もいるわけ。
実際にシングルマザーとして娘を育てた母親が、「シングルマザーにならないためのアドヴァイス」を娘にすればいいのに、何もしない。
むしろ、自分の娘を自分と同じようなシングルマザーにしてしまい、一緒になって嘆き、「親子の絆」を深めることになる。

このような、ハンディキャップを「避けようとしない」スタイルは、出身地の問題とか、まあ、民族の問題でも同様でしょ?
それに最近話題となっている貧困の問題もありますよね?
社会として、差別なりハンディキャップを是正していくのは当然として、子供を作る側にもそれなりの覚悟も要求されるのでは?
だって、周囲に対してクレームを付けたくなるぐらいに、苦労することを身をもってわかっているのなら、何らかの対策案を事前に用意した上で、子供を持つ必要があるでしょ?
周囲に対して要求することだけが対策案である・・・のではなく、その当事者なりの、二の手、三の手も準備していないとね。
ハンディキャップと認識していれば、そのような準備をするわけですが、「被害」として認識しているので、当人なりに準備するどころか、困難な事態を避けようとはしないわけ。

貧困の問題でも、定職があったのに、会社が倒産して、失業したのならわかりますが、そもそも、そんな確たる収入源がないのに子供を作ってしまう・・・そんなパターンも現実としてあるでしょ?そうして、「二極化の問題を政府が考えるべきだ!」と周囲にクレームを付けるだけ。

困難な境遇を作ってしまう、あるいは、避けようとしない親の問題を放置してしまうから、子供が犠牲になってしまう。
子供にツケが集約し、トラブル状況になってしまうから、なおのこと、周囲から構ってもらえることになる。
以前に、配信いたしましたが、「代理ミュンヒハウゼン症候群」に近い状態になるわけ。

子供が不幸な方が、親としては、無意識的にはうれしい・・・
ダメダメ家庭においては、現実にそんな面があるわけです。
そして、子供を救うためには、そんな親から引き離すしかないわけ。

しかし、そんなことをしようとすると、まさに今回投稿された方の父親のように、「訴えてやるぞ!」と気色ばむことになる。
あるいは、子供の側が親に気を使って、「一緒にいたい!」と言い出すことになる。
ダメダメ家庭を作る親は被害者意識が強く「子育ては親である自分が背負わされた被害」と考えている。だからこそ、その被害を子供の前で語り続ける。
そんな被害話ばかりを聞いているので、子供は常に親に配慮し、遠慮するわけ。
そして、ダメダメな親は、子供の遠慮に付け込んで、被害者主張を更に語っていくことになる。だからこそ、事態は何も改善しないし、実質的には悪くなるばかり。

このようなパターンは、ダメダメ家庭の親ばかりではなく、不幸な子供をダシにして、社会に対して要求し続けるボランティアなり市民運動も、その親に近いキャラクターが拡大し、集団化しただけ。結局は、被害を語ることすら許されない弱い立場である子供に、ひずみが集約してしまう。

そんな問題を今回の投稿者さんは指摘しているわけですし、周囲に対してクレームを付け続ける親の側ではなく、子供の側からの真摯な訴えこそ、周囲の人間は受け止める必要があるわけです。
この文章では、ダメダメ家庭が、身体的な障害を加速させることについて記述しておりますが、精神的な障害を加速させることについては、
10年3月15日 配信 加速要因としてのダメダメ家庭 」という文章があります。
 R.10/7/19