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配信日 10年8月7日
タイトル オンリーワン、ナンバーワン
 以前に宮城県知事をなさっておられた方が、「ナンバーワンではなく、オンリーワンを目指そう!」とかおっしゃっていました。
しかし、アメリカで野球をやっておられるイチローさんは、「オンリーワンを目指すなんてありえない!ボクはナンバーワンを目指す!」とか語っていました。
ナンバーワンということは、日本語で言うと「一番」ということであり、つまりは競争に勝ち抜かないといけないということ。
それに対し、オンリーワンだったら、日本語でいうと「唯一」ということだから、競争とは無縁なので、自分のペースでやっていける。

「だからこそ、自分なりに対処できるオンリーワンの方がいいのでは?」
「何もムリに競争しなくても・・・マイペースでやれるものを見つけていこうよ!」
そんな発想が出てくるもの当然でしょう。
しかし、一番になることで、それなりにメリットを受けられる分野だったら、スグに競合が発生してしまって、結局は、ナンバーワンを目指した苛烈な競争になってしまう・・・それがこの世の現実というもの。
そうなったら、また、別のオンリーワンになるために、別の分野を探しにでかけるの?

ここでちょっと思考実験をしてみましょう。
スポーツの陸上競技において、100m走のナンバーワンになるのは、とんでもなくタイヘンなことといえます。
だったら、100.2m走という競技を、自分で設立し、その競技における一番になることは、実際に可能でしょ?
100.2mを1分かけて走り抜けても、たぶん、その競技においては、世界で一番ですよ。
しかし、だからと言って、それが何なの?
そんな話になるでしょ?

ここで、もし、その100.2m走という競技に人気が出てきたら?
一番になると、賞金100万円がもらえるという大会が頻繁に開催されるようになったら?
そうなると、別の参加者も現れたりするでしょ?
だから、それまでは、100.2m走で一番だった人は、他の参加者の参入により、一番でなくなってしまう。
そうすると、今度は、100.215m走という競技を設立し、その分野において、一番となる方法をとることができる。
しかし、その100.215m走に人気が出てきてしまって、また、別の参加者が登場したら?

オンリーワンを目指すということは、本来は、他の人にはとてもできないような業績をあげるということでしょうが、現実的には、「他の人がやらないような、隙間を手掛ける。」という「競争を回避する。」という逃避的な心理に堕してしまうことも多い。真正面から問題に向き合わず、狭い隙間を探し回るようになってしまう。その点を、イチローさんは指摘していたんでしょうね。
「世界最高峰といえるアメリカの大リーグで一番を目指して戦うのか?」
「それとも、聞いたこともない小さな国で、悠然と一番になるのか?」
どっちがクリエイティヴなのか?
スポーツの分野だったら、やっぱりナンバーワンを目指すのがクリエイティヴなのでは?

これが芸術の分野だったら、聞いたこともない小さな国で、孤高の業績を上げるという考え方もあるでしょう。その業績も、後になって評価されたりする。それに芸術分野は、競争にはなじまない。しかし、現実世界では、そのような表現分野においても競争があったりするもの。

作品というものが、本質的にはオンリーワンを志向していることを踏まえて、「○○先生の作品が読めるのは、△△だけ!」なんて文句で、マンガ雑誌のキャッチコピーにすることもできるでしょう。しかし、その作家さんがそんなに人気があるのなら、高給で引き抜きをしようとする別のマンガ雑誌もでてきますよ。
だから、オンリーワンというのは、長続きしなかったり、広い対象を相手にすることはできないわけ。

都市なり地域の問題であっても、たとえば宮城県だったら、オンリーワンということを言うことができる。それこそ100.2m走の分野で一番になるようなもの。
しかし、たとえば首都の東京となると、そうはいかない。
東京ともなると、それこそニューヨークとか、ロンドンとか、北京とか、香港とかと、争っていかないといけない。

ナンバーワンは常に競争にさらされる覚悟を受け入れた心理を背景にしている。
オンリーワンは、マイペース志向。
どっちがいいのかという一般論ではなく、それぞれに特徴があるわけです。

今回の文章で、都市問題を考えているわけではありませんよ。
あくまで家庭について考えるための視点の問題です。

たとえば、結婚するような段を想定してしましょう。
最近では、結婚しない人も増えてきている。
じゃあ、「結婚という選択」は、「する」「しない」という自由度が、どの程度まで、その背景にあるの?

よく「結婚しない」男性が、「最近ではコンビニもあるんだから、無理に結婚しなくてもいいんじゃないの?」などと言ったりする人もいますよね?
その物言いからは、結婚することと、コンビニの間の比較競争状態になっている心理が見えてくるでしょ?
結婚することで、独身時代よりも、まさに便利になれば、結婚する価値もある・・・そんな判断となっているといえるでしょ?
あるいは、最近では楽しいゲームがあるから、「家庭を持つことで、そのような楽しみがなくなってしまうのがイヤだ。」という声もあったりしますよね?
それって、ゲームと結婚生活が同列で競争状態となっているということでしょ?

しかし、昔の人は、結婚生活と、ゲームやコンビニとは、そもそも同列での比較すらしなかったのでは?コンビニやゲームのようなものがあるなしの問題ではなく、そもそもが別次元のものだったわけでしょ?ゲームがあるから結婚しないという発想は、競馬やパチンコがあるから結婚しない・・・という発想とほとんど同じでしょ?

逆に言うと、「ゲームがあるから・・・」とか、「コンビニがあるから・・・」とかの言葉を持ち出す人は、結婚生活をゲームやコンビニと同列に扱っていることでしょ?
それをケシカランと言ってもしょうがない。
その人は、そんな家庭しか想定できないんでしょうからね。
しかし、そもそも、結婚生活と、ゲームを同列においている時点で、ムリに結婚しない方がいいのでは?たとえ、ゲームよりも結婚生活の方が楽しそうだったり、あるいは駅前のコンビニよりも、嫁さんをもらった方が便利だ・・・そんな理由だったら、結婚しても、そのうちにモメますよ。
結婚生活は、本来は、ある種のオンリーワンに近いものでしょ?
他のものとは比較できないものでしょ?

結婚生活はオンリーワンに近いとしても、結婚相手は、むしろナンバーワンに近いものでしょ?
結婚する相手は、様々な候補者を比較検討して、選定するもの。
結婚相手がオンリーワンとなっている状態は、「ワタシにはこの人しかいない!」「結婚してくれないと死んじゃうわ!」という一種の入れ込み状態であり、外からは情熱的にも見えるわけですが、危険性が高いといえる。

まあ、結婚だったら、大人同士の問題。
しかし、子供ができると、そうはいかないでしょ?
親にとって、子供という存在は、ナンバーワンなの?オンリーワンなの?

子供という存在は、親に対して、テレビゲームよりも、面白い娯楽を提供する義務があるの?
あるいは、株式や年金などの金融商品や介護サービスよりも、高利回りで高配当なサービスを親に対して提供しなくてはならないの?
本来は、「子供の笑顔は何事にも代え難い。」そんなオンリーワンの発想に近いものでしょ?
ナンバーワンの発想だと、「家にいて、子供の顔をたまたま見たら、面白かった。」くらいになってしまう。テレビのチャンネルの一つのようなものになっている。

ゲームやコンビニや介護サービスがあるから結婚しないと言っている時点で、そもそも結婚や子供を、それらの市販のサービスと同じ地平として見ているということでしょ?
それは当人としてもそうだし、そんな言葉で納得している周囲のレヴェルも大問題なのでは?
しかし、ダメダメ家庭なりダメダメな環境においては、自分の親の結婚生活を見ていると、家族というものが、ゲームや金融商品と比較するレヴェルになっている。
ヘタをすると、「どっちがいいのか?」という加点法的な視点どころか、「家庭を持つことと、交通事故とどっちがイヤなのか?」という減点法的に見るくらい。

結婚相手についてはともかく、結婚することそれ自体なり、子供を持つことそれ自体について、周囲から色々と言われて悩むようなレヴェルではダメなのでは?
それだけ、当人にとって「かけがえのない」こととは捉えていないわけでしょ?
家庭を持つことについて、「のたれ死にしても、家庭を持つのがイヤだ。」と覚悟を決めるか、「どんなことがあっても、家族を持ちたい。」と覚悟を決めるかは、その人の問題でしょう。それは、ある種のオンリーの考え方でしょ?

しかし、ダメダメ家庭においては、その段階から他のものとの比較に入ってしまい、そして、その中にいる子供も「他の金融商品」なり「他の福祉商品」との比較競争にさらされてしまう。
それこそ、「子育て手当てがあるから、子供を作った。」なんてことになってしまう。
ヘタをすれば、子育て手当てが1万円だったら、子供を作らないけど、手当てが3万円だったら子供を作るということを考える。
そうなると、できてしまった子供は、3万円から1万円を引いた、2万円の価値ということでしょ?
そんな状況だったら、もし、子供手当てが廃止されてしまったら、子供は親に対して2万円分の「配当」を出していかないといけないでしょ?
そのような、毎日が株主総会のような家庭生活の中にいたら、子供はどうなってしまうの?

マトモな家庭を作る人は、結婚することはオンリーワンであって、結婚相手はナンバーワンであって、子供を持つことはオンリーワンとなる。
もちろん、前にも書きましたが、強い覚悟を持って、結婚しなかったり、子供を持たないという選択のケースもある。どんなに周囲から言われても、あるいは、子育てに対してどんなに有利な補助があったとしても、絶対にそのような選択をしない・・・そのようなオンリーの感覚を持っている。

しかし、ダメダメ家庭を作る人は違っている。
結婚したことは、「結婚すると、コンビニよりも、便利だろう。」「自分が働いて、自分でお金を稼ぐよりも、亭主の稼ぎで暮らして行った方がラクチンだ!」と言った形での、比較を踏まえたナンバーワンであって、結婚相手については、「この人くらいしかいないだろうなぁ・・・」「ワタシには、この人だけだわ!」という消去法的なオンリーワンであり、そして、「将来の年金だけでは、老後の生活が足りないだろうから。」「やっぱり子供が一番確実な老後の保障手段だよね。」とナンバーワン感覚で子供を作ることになる。

このサイトでは、商品性と一回性について、たまに取り上げております。
ナンバーワンというのは、まさに商品性を志向しているし、オンリーワンは一回性というか、作品性を志向している。

ダメダメ家庭においては、子供と言う存在は、家庭内で、オンリーのものではなく、「その他大勢」を志向した商品の一種となっている。
だから、コンビニよりも便利でなければならないし、他の金融商品よりも、高利回りを提供しなくてはならない。そして、親に迷惑をかけてはいけない。
そして、「その他大勢」として、「ふつう」であることが求められることになる。
逆に言うと「ふつう」と言う言葉は、まさに「一回性」とは対極の言葉でしょ?

ダメダメ家庭を作る人間は「ふつうの家庭を作りたい。」とよく言うことは、このサイトで頻繁に触れております。
まさに、「その他大勢」を目指している。
だからこそ、その中の子供は、自らの一回性を認められず、後になって暴発することになる。
そんな大きな事件は、一見は、その子供の一回性が発現されたように見えるかもしれませんが、その心理としては、むしろ一回性が消失しているがゆえのもの。
まさに、「ふつう」という商品性を求められ続けているがゆえに、爆発してしまうわけです。
 R.11/2/2