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カテゴリー | ダメダメ家庭の親のキャラクター |
配信日 | 10年8月14日 (10年11月2日 記述を追加) |
タイトル | 三女会員 |
追記 | この文章には購読者さんより補足文章があります。(10年10月22日) |
?先日、読者さんよりの投稿文章を、このサイトにアップいたしました。その方のご母堂が兄弟姉妹の中で、3番目の女の子・・・つまり、三女の方でした。 三女と言っても、三人姉妹での三女のパターンと、もっと子沢山な家庭での三女のパターンでは趣が違います。 三人姉妹での三女だったら、三人姉妹の末っ子という表現の方が、より的確な言い方でしょ?末っ子だったら、それなりに存在感はありますよ。 しかし、子沢山の家庭での三女で、下に弟とか妹がいる場合には、その三女さんは、実に影の薄い存在になってしまうでしょ? 長男でも長女でも、そして、末っ子でもない女の子は、親からどのように見られ、扱われるの? それに、下に弟か妹とかがいる場合には、こんな想定ができるでしょ? 「ウチは女の子ばかりだから、今度こそは男の子がほしい。」 そんな希望や期待を元に、子供を持ったら、今度もやっぱり女の子だった・・・ 「ああ!残念!」 「じゃあ、また、次の子供を作ろうか!よし!今度こそ、男の子が生まれるといいな!」 そうして、スグに子作りに取り掛かるのはいいとして、じゃあ、生まれてしまった女の子はどうなるの? 現実的には、期待はずれで産まれてしまった子供として、育てられるわけでしょ? 多くの兄弟姉妹の中で、出生の段階から、その他大勢の扱いになってしまう。 その子供の固有性が親から認められないままで成長することになる。 いわば、「その他大勢」の「ふつう」感覚に浸った形で成長することになる。 その三女さんは、その家族の主要な構成員というよりも、シャレでもなく、賛助会員くらいの扱いになってしまう。 このサイトではダメダメ家庭と呼称しておりますが、より正式な名称となると機能不全家族となります。では、その機能不全家族における不全な機能はどんなものなのか? ダメダメな親は、子供を一人前にするという発想・・・別の言い方をすると、子供に対する親としての機能は何も考えていない。むしろ、子供の側が、親の面倒を見るという子供の側の機能ばかりを考えている。 まさに「使い物になる」「機能十全の」子供を、親として求めている。 そういう意味では、機能不全家族というものは、実に「機能重視」の家族と言えます。 子供の側が親に対して果たす機能は常に意識している。 だからこそ、子沢山になれたりする。 親が子供に果たす機能を意識していたら、子供を多く持つということはなかなか難しい。 しかし、子供が親に果たす機能しか意識していないんだから、子供なんていくらでも持てるでしょ? それに子供が親に果たす機能を重視しているのだから、どちらかと言うと、女の子よりも男の子の方が、機能としてみた場合には性能がいいことは、まあ、考えられること。 逆に言うと、妹なり弟がいる三女さんの存在からは、男尊女卑なり、子供が親に尽くすことが当然という封建的で機能重視の心理が見えてくる。 さて、私が個人的に存じ上げている三女さん以外で、下に妹なり弟がいる三女さんの有名人というと、以前に話題になった高級料亭の吉兆の「ささやき女将」さんがいらっしゃいます。彼女も下に妹がいる三女です。 あの女将さんは、トラブルが発覚すると、みえみえのウソで逃げようとしたり、「父親に対して申し訳がない。」と、問題になった使いまわしの料理も食べていない父親に対して謝罪をしておりましたが、逆に言うと、それだけ父親に認めてもらうことを切望していたわけでしょ? 生まれた時から、期待はずれで、その他大勢の扱いなんだから、何もしないままだと、親からは相手にされない。だから、「何とかして、自分をアピールしていきたい!」と切羽詰った思いを持つことになる。 しかし、普段から相手にされていないので、適切な目立ち方が分らない。 目立つ方法だけでなく、たとえば、「受け入れられる言い訳」についても、よく分らない。 この手の人は、「目立つ」と「受け入れられる」との間の乖離が大きい人間といえます。 そんな心情は、カタギの世界では、扱いにくいものですが、それこそ芸能界では必要な資質と言えます。 芸能界におけるそんなキャラクターは、三女ではありませんが、以前に話題になった落語家の林家三平さんの次女である海老名泰葉さんが、典型的にそんなキャラクターだったでしょ? あの泰葉さんは、長女でも長男でも末っ子でもない女の子ということで、まさに生まれた時から「その他大勢」状態となっている。 これが、親からの干渉を受けずに、自分なりにノビノビやれる・・・という方向に向かえばいいわけですが、現実的にはそうはいかない。 子供が成果を出しても、親としては無視してしまう。 しかし、その子供がトラブルになってしまうと、親としてはそれなりにウォッチし、それなりにサポートしないといけない。 つまり、その手の三女さんの親は、トラブルの時しか、その三女の女の子に関わらない。 親からは、加点法的な関心は持ってもらえず、しかし、減点面だけをウォッチされることになる。 しかし、そもそもが期待はずれで産まれてしまった子供なんだから、トラブル状態の子供に対して、親として暖かいサポートをするわけもない。 「また、こんな面倒をかけて・・・」と、いかにも不満そうな雰囲気が親の顔に出ている。 そうなると、三女さんとしては、減点を恐れて周囲に合わせて何もしないという対処になったりする。 まさに「取り立てて何も悪いところがない」「ふつう」になろうとする。 いわば、多くの兄弟姉妹の中で埋没していた状態に帰ってきてしまう。 家族の中で埋没しているから、周囲から干渉を受けずに、当人としてやりたいことがやれるというものではない。 以前にも書きましたが、チャレンジして失敗してしまった場合のフォローなりサポートがまったく当てにできない場合には、チャレンジ精神というのは、持ちようがないものなんですね。 自分で色々とやってみて、うまく行かない状態になってしまったら、親からは散々と責められる・・・そんなことが予想できているんだから、何もチャレンジしないようになってしまいますよ。 成果を出しても認められないのだから、せめてトラブルを起こさないことに徹することになる。 取り立てて何もない、「ふつう」になろうとしてしまう。 取り立てて何もないことが理想となってしまっているので、「ふつう」からの逸脱に対する感覚・・・別の言い方をすると、「あら探し」をすることが得意になる。 自分の減点というか、「あら」を必死でなくすと同時に、人のあら探しをして、まさに「チクる」ことにより、自分の立場を獲得するようになる。 自分が肯定的な成果を出しても、親からは相手にされない。 しかし、兄弟姉妹の問題点を、親に報告すると、相対的に自分の立場が上に行くでしょ? 子供時代から、そんな功利的な発想をするようになるんですね。 それに、あら探しをすることによって、「やっぱり、あの○○がこんなことをするから、うまく行かないんだわ!ワタシは何も悪くないわ!全部あの○○が悪いのよ!」と勝手に納得することになる。 あるいは、減点面への過敏な反応があるので、その手の人は、教条的な傾向があったりする。自分で判断したことを、それすなわち減点と認識してしまうので、決められた決まりの字面どおりに行動することで、トラブルに際に「ワタシは書いてあったとおりにやっただけだわ!ワタシは悪くないわ!」と言えるようにする。 この手の人は、「ワタシは悪くない。」という言葉を、実によく言うものでしょ? 逆に言うと、その言葉を言えるように、自分では何も考えていないし、判断もしない。 このまま進んでしまうとクラッシュになってしまう・・・そんなことが明白な状況になっても、何も考えず、そのまま突っ走ってしまって、実際にクラッシュとなってしまう。 クラッシュしても、当人としては何も判断はしていないわけだから、やっぱり「ワタシは悪くない!」「ワタシこそが被害者なんだ!」と周囲に主張する。 周囲の人の行動に合わせて、「ふつう」に徹したり、あるいはドキュメントの字面どおりに行動したりと、当人が規範とし、従う対象にはヴァラエティはあっても、自身で判断することに恐怖心を持っていることは共通しております。 そんな三女さんは、「ふつう」ということで、結婚して子供を持った場合には、その子供が2人のケースが多い。 自分が家庭を持ち、親となって子供を持つにせよ、そもそも、子沢山な家庭には、心理的な抵抗が大きい。多くの子供たちを見ていると、自分が育った家庭の不快感がよみがえってしまう。 かと言って、子供を作らないと、「ふつう」ではなくなってしまう。 子供が1人となると、その一人の子供と向き合う必要があり、いわば逃げ道を残したい人間にしてみれば、それも心理的な抵抗につながってしまう。 以前に「ふつうの家庭」という文言は、実家に対する心理的な否定であることについてまとめた文章をアップしております。 もし、自分の実家を肯定しているのなら、「ふつうの家庭」という言い回しではなく、「実家のような家庭」という言い回しになるでしょ? 実家を心理的に否定しているんだから、実家のような子沢山家庭はイヤですよ。 と言うことで、「ふつう」という名目を使って、子供が2人となる。 かと言って、その2人の子供が、幸福かと言うと、そんなわけがない。 一人目の子供とのやり取りで上手く行かず、グチばかり言っていて、とても楽しそうには見えないのに、二人目の子供を作ってしまう。 そんな状態で、一緒にいる子供も親も楽しいわけがないじゃないの? 自分で考えない人間は、人の話なんて聞きはしない。聴覚的には聴いていても、内容を聞き取る姿勢はない。聞くとしたら、あら探しの観点でのみ。そんな親を持ったら、子供はどうなるの? そんな親が子供に対して言うのは、「ふつうの子供になれ!」というもの。 まさに、取り立てて「あら」がない、周囲と見分けがつかない「その他大勢」になれ!と要求することになる。 結局は、そんな家庭の2人の子供たちは、周囲をオドオドとうかがうような人間になってしまう。 あら探しばかりの親なので、子供も、親と同じように減点法になってしまう。 減点面ばかりに目を向ける親なので、子供としては、何をやっても親は認めてくれないという諦めの精神になってしまう。そして、言われたことに従うだけの人間になってしまう。まさに、その親である三女さんが、子供時代にそうであったように。 ということで、往々にして、その2人の子供には、次の世代・・・つまり子供がいなかったりするもの。 まあ、吉兆さんのケースでは、お金持ちだし、「跡取り」も必要でしょうから、あの「ささやかれた」息子さんにもお子さんがいらっしゃるかもしれませんが、私が知っている三女さんの子供には、その子供がいないものなんですよ。つまり、今回のテーマの三女さんは、孫がいないまま、世を去ることになる。 三女ではありませんが、海老名泰葉さんにも子供がいないでしょ?まあ、当然のこととして、年齢を重ねても、孫とは無縁になりますよ。 そもそも、その手の女性は、楽しい家庭生活の具体的なイメージを持っていないままで結婚するんだから、まあ、コケますよ。あの泰葉さんは、子供を作らないままで離婚したから、その点ではマシといえますが、現実の三女さんは、「ふつう」を実現しようとして、自分がリードできる男性とくっついて、子供を2人持ち、ますますドツボにはまってしまう。 自分で考えることへの恐怖があるので、いざ自分を表現する際には、加減がわからない。 それに、そもそもが、出る杭を打つという「ふつう」志向だったので、自分が達成した成果を語ることができず、自分が受けた被害ばかりを語ることになる。 そして、何かというと、「ワタシこそが被害者なんだ!」、「ワタシの方が、もっとかわいそうなのよ!」という主張に持っていく。 あるいは、自分自身では被害以外のネタとなると何もないので、自分の子供を道具にして、それを成果にしようとする。まさに見栄の道具として子供を使ったりする。しかし、ダメダメな親からそんな期待をされた子供としても、親から成果の出し方の見本を得られないんだから、結局は、上手く行きませんよ。 それどころか、自分の子供を被害者にさせて、その子供の被害を語る方向に向かうこともある。以前に取り上げた代理ミュンヒハウゼン症候群のようになるわけです。 21世紀の日本では、少子化も進行していますから、三女である子供さんは、まあ、滅多にいないでしょう。 しかし、お歳を召した方だったら、末っ子ではない三女のパターンも実際にあるでしょ? その三女さんが、孫に囲まれて幸福な表情をしている事例って、皆様はご存知ですか? あるいは、その手の三女さんは、往々にして兄弟姉妹仲が悪かったりするもの。 そもそも、子供時代を否定的に見ているんだから、子供時代を共通としている兄弟姉妹と仲が悪くなるのは当然のこと。 あるいは、愛情に欠乏した子供時代だったので、慈愛の精神がない。 慈愛の精神となると、ちょっと難しい言い方ですが、「キャー!かわいい!」なんて単純な感情は、ポピュラーでしょ? しかし、そんな単純な感情とも縁遠くなってしまう。 だから、その手の三女さんの家庭には、ペットはいないことが多い。 そもそも子供時代に親から保護されていないんだから、大人になって、わざわざ動物を飼って、保護するなんてことはしませんし、心理的な抵抗が大きい。 前にも書きましたが、子供が親に果たす機能には注目しても、親が子供に対する機能は何も考えない。当然のこととして、ペットのような機能不全なものは、まずもって心理的に対処不能ですよ。 何回も書いていますが、妹や弟がいる三女さんを白眼視しようと申し上げているわけではないんですよ。ただ、妹や弟がいる三女には、ダメダメ家庭のダメダメな面が、特に集約する可能性が高いというだけです。 「ふつう」になろうとして、流れに乗っかる形で、なんとなく結婚してしまい、なんとなく子供を作ってしまって、結果的に、にっちもさっちも行かなくなる前に、自分を見つめなおしてみた方がいいというだけです。 何よりも、当人が苦しむことになるわけですからね。 その手の三女さんの周辺の人も、その三女さんが、ペットがいなく、子供時代の写真もなく、他の兄弟姉妹とも疎遠で、その人の子供が2人だったら、ちょっと離れたところから様子を見た方がいいといえるでしょう。 あるいは、その三女さん自身の名前なり、子供に付けた名前から、色々と見えてくるもの。 当人自身は、いかにも「ぞんざい」な名前だったりするし、そして、自分の子供に対しては、やっぱり「ぞんざい」な名前だったり、あるいは、逆方向で、凝りすぎた名前だったりする。基本的に「加減」からずれているパターンが多い。 前にも書きましたが、「目立つこと」と「受け入れられる」こととの間の乖離が大きいわけです。 大勢の中で育ったので、埋没することに安住してしまうか、逆に、過剰に反発することになる。いずれにせよ、加減とは無縁なんですね。 多くの兄弟姉妹の中で、埋没に安住して、徹底的に「ふつう」にこだわるか? 逆に、埋没状態を恐怖し、「ふつう」とはまったく無縁になるか? この手の三女さんには、その中間がないものなんですね。 「ふつう」とはまったく無縁の方向での三女さんとなると、芸能人の中森明菜さんがその代表でしょう。彼女は下に妹がいる6人兄弟の三女さんです。 まさに、強迫的なまでの自己表現と、人や作品への強迫的なまでの入れ込みなど、彼女には加減というものがない。加減というのは、ある種の甘えの体験の成果であることは別のところで書いています。その加減の範囲内であれば、「なあ、なあ」のような形で許されて認めてもらえるという体験があるから、加減も身につけられる。 中森さんは、まあ、その明菜という名前も含めて、このサイトにある一連の文章のストライクゾーンのど真ん中に位置する方と言えるでしょうね。 中森さんは、芸能界で色々とお騒がせをしたようですが、逆に言うと、芸能界にいなければとうの昔に死んでいたでしょう。そんなあやうい輝きこそ、芸能人オーラといえるのでは? 私が知っている人で、中森さんがオーディション番組にチャレンジした時から注目していた人がいました。何でも、「雰囲気の違いが一目で分った。」「その頃から、人と違うものを持っていた。」とのこと。 死の間際にある存在は、それゆえに美しいものなんですよ。もちろん、いつまでも続くわけがないんですが。しかし、そのあやうさは、芸能界においては、メリットになったりする。 一般人も、それなりに努力すれば、美しい人になれるでしょうが、「美しすぎる」存在というものは、まさに過ぎたるものが必要になってくる。これは、一般人では無理なんですね。 見た目が整っていることよりも、いわば危うさとか、はかなさが合わさっている状態。それが「美しすぎる」存在でしょ?そんな存在は、それゆえに死に近いものなんですよ。 そして、そんな「壊れる寸前」のあやうさこそが、まさに多くの人を引き付けることになる。 三女の方で、「埋没は絶対にイヤ!」との思いが常軌を逸している状態だと、そんな危ういオーラとなりやすいのでは? そのような三女的なキャラクターは、芸能界ではそれなりのメリットにはなっても、カタギの世界では、トラブルしか生みませんよ。 それこそ、最近になって「事情」が出てくる、秋葉原の通り魔事件の犯人の母親なんて、実際には何番目の子供なのかはわかりませんが、まさに、今回の考えております三女会員の姿そのものでしょ? もし、あの海老名泰葉さんが、子供を育てたら、まさに秋葉原の事件の犯人に対する子育てと同じようなことになってしまうことが、簡単に予想できるでしょ? あの秋葉原の犯人の母親は、絶対に一人っ子ではないでしょうね。 それに、兄弟の中で、一番上でも、一番下でもないのでは? 極度の減点法と、あら探しの雰囲気と、自分自身で何かをやって行くという主体性の欠如・・・ まさにダメダメな要素を集約したと言えるわけですが、それは、まさに当人自身でダメダメ家庭を作り、自分の子供を不幸にしてしまい、そして、子供の周囲も不幸にしてしまう。 秋葉原の事件こそ、「目立つこと」と「受け入れられる」こととの乖離の頂点のようなものでしょ? それは、まさにそんな家庭環境を元に生まれてきたわけです。 |
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この文章には購読者さんからの補足文章があります。(10年10月22日アップ,10年10月30日記述を修正)) | |
本文では三女の特徴を色々と書いておられるが、私の母も、三番目の女の子である。 母には妹が一人に弟が一人いる。そして母の上には兄が4人に姉が2人いる。 その母であるが、大阪の親戚の家で養女として育てられた。 また、母の弟は幼い頃に、母の父親の弟である伯父夫婦に養子としてもらわれた。私の祖父の弟にあたる伯父夫婦には子供がいなかったからである。 母の弟が、彼にとっての伯父の夫婦の家に養子に入るその前に、実は、まだほんの子供だった私の母が養女としてその夫婦の家に入ったそうだ。その夫婦は東京に住んでいたのだが、母はわずか数カ月で埼玉の実家に一人で帰ってしまった。 母の話では、養母の性格がきつく、口やかましかったから実家に戻ったらしい。 その数年後、母は、大阪に住む遠縁の親戚の家に養女として入った。よほど実家の生活が苦しかったからだろうか、それとも他の理由、つまり、もしかすると兄弟仲が悪かったからだろうか?あるいは、親の側は、子供を次々と養子に出すことに何の疑念もないのだろうか?養子に出さなければならないような状態だったら、どうしてこんなにも多くの子供を作ったのだろうか? それに関して言えば、今から10年前、私の父の葬式の日に、母の長兄夫婦が来てくれたのだが、その母の長兄である私の伯父が母の知人に母の身の上の話をした時に、伯父は母を養女に出したことを「口減らし」だと言ったそうである。私の兄はそれをはっきりと聞いてしまったそうである。 その時は母はその場にはいなかったのだが、そのことを数日後に兄が母に話すと、母は激怒した反面、内心では、うすうす分かっていたそうだ。それだけ母の長兄は、妹である私の母の面倒をみるのが嫌だったのだろう。 話は変わるが、母の養母はこの私が1歳の時に亡くなったそうである。肝臓がんだったそうだ。しかも、病院で誰にも看取られることもなく、孤独な最期だったそうだ。 母の養母が住んでいた大阪の家は、跡取りがいないこともあって、養母がまだ元気だった時には、すでに他人の手に渡っていたそうだ。どうやら口のうまい人にだまし取られたらしかった。とにかく母の養母の晩年は、とても幸福とは言えないものだったそうだ。 その養母は相当に頑固で、人の話を聞かないので、いつも最後は孤独になってしまうのだそうだ。 母の実の母親、つまり私の祖母が亡くなった時は、母はそれほど悲しくもなかったそうだが、母の養母が亡くなった時は、結果的に養母を裏切るようなことになり申し訳ないという罪の意識もあり、悲しくて泣いてしまったそうである。逆に言うと、私の祖母の側は、それだけ母に、子育ての際、愛情を注いでいないということになるのかもしれない。 そう言えば、母の話では、私の祖母は母よりも、次女の姉のほうを溺愛したそうだ。それが母には許せないと感じたらしく、母と祖母との折り合いの悪さを生み、東京の伯父夫婦の家、そして大阪の遠縁の親戚の家に養女として入るようになった要因になっているようだ。 その次女である母の姉が、以前に地方出身者の男性と結婚した際には、祖母や長兄の伯父はその次女のために実家の裏の土地に家を建ててやったそうである。どうやら、その次女である姉は実家のために、何らかの貢献をしたからというのが主な理由らしい。 しかし、その結婚生活も長続きはせず、離婚した後で、母の大阪の養母の家に、医療資格を取るためということで、引っ越してきたそうだ。母の話では、引っ越すというよりも、転がり込む感じに近いものだったそうだ。 その時は母は結婚したばかりなのだが、それなのに祖母も長兄の伯父も次女である姉を止めることはしなかったそうだ。また、母の養母の側は次女の姉が引っ越してくることを快く受け入れたそうだ。もちろん、その母の姉の医療資格取得のための学費は、実家が負担していたそうだ。 ちなみに、母が現在も電話などで連絡を取り合っている兄弟は長女である姉くらいで、他の兄弟姉妹とはここ数年会うことも、電話で連絡を取り合うこともない。 子沢山家庭の三女が、多くの子供の中で「その他大勢」に近い軽い扱いとなってしまうことについては、この本文で触れておられるが、私の母を見ていると、そんな「その他大勢」そのものと言った感じなのである。 子沢山家庭においても、いわゆる「末っ子」は、その他大勢扱いにはならず、親としても、それなりに配慮するのだろう。実際に母の兄弟姉妹の中で実質的には末っ子にあたる四女の方は、結構可愛がられたようである。 それがなおのこと三女である私の母の不満となったようだ。 母が、以前に、その四女である妹や私の祖母の話をした後で、「結局、あたしのことなんかどうでもよかったんでしょうよ。」と、ため息混じりの少し投げやりな言葉を発したことがあった。 その他大勢となってしまうのなら、そんな子供は作らなければいいのだろうが、その他大勢という軽い扱いが許されてしまうので、何も考えずに子供を作ってしまったのだろうか?しかし、その他大勢扱いになじんでしまっているがゆえに、「あたしのことなんかどうでもよかったんでしょうよ。」と嘆いた私の母その人も、結局は、自分の子供についてどうでもよく、いわば、その他大勢の扱いで子供を育てた人そのものなのではないだろうか? 母の投げやりなグチを聞きながら、聞かされた私がため息まじりとなってしまった。 |
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R.11/2/2 |