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アップ日 10年9月4日
タイトル 悔しさの方向性
 「ダメダメ家庭の人間は『悔しい』という言葉をよく使う。」などと書くと、当然のこととして、突っ込みが入るでしょう。
「おい!おい!『くやしい』なんて言葉は、誰でもよく使う『ふつう』の言葉だろうが!それのどこがダメダメなんだ?」
あるいは「悔しさこそが、人を成長させるんじゃないか?オマエは、その悔しさを否定するのか?常に現状に満足していろとでも言うのか?」

その突っ込みは、全く持ってそのとおり。
それこそ、スポーツの試合で負けたら、悔しいと思うでしょう。
あるいは、学業の分野で、思うような成績を取れなかったら、悔しいと思うでしょう。
あるいは、それこそオークションのようなもので、「この商品を欲しいと思って、とりあえず、落札したけど、後になって、もっと安くていいものが出品された!ああ!もうちょっと待っていればよかったわ!ああ!悔しいわ!」と思った方もいらっしゃるかも?

そのような悔しさは、自分自身への不満と言えるでしょ?
スポーツの試合の前に、トレーニングをもっとしっかりやっておけば、あの相手には負けなかったのに・・・とか、試験前にもっと勉強しておけば、こんな無様な成績にはならなかったのに・・・とか、もっと忍耐があれば、あるいは、もっと情報があれば、あんな、しょうーもないものをつかむことはなかったのに・・・と、自分に腹が立つ状態・・・それを、「悔しい」と言ったりするものですよね?

しかし、ダメダメ家庭の人間が語る「悔しい」と言う言葉は、そのような「自分に対して腹が立つ」というニュアンスではないわけ。

そもそもダメダメ家庭の人間は、自己逃避である。
このことは、実に頻繁に書いています。
自分自身から逃避している人間が、自分自身に対して腹を立てることはないということは、論理的に実に自然なことでしょ?

当事者意識があるマトモな人間が、自分自身の「至らなさ」を自覚して、「悔しい」と思うのはいいとして、じゃあ、自己逃避のダメダメ人間が「悔しい」という言葉を使ったら、何に対しての不満を表明しているの?

ダメダメ家庭の人間とのやり取りの体験が、幸か不幸か実に多い私としては、そのような人からの文章の中に頻繁に登場する「悔しい」という言葉に接すると、ちょっと途方に暮れることになります。

文章というのは、主語があって、述語があって、目的語があるもの。
目的語も、対象とする人間を指し示すパターンや、事物などを指し示すパターンもある。

「悔しい」という言葉は、文章中の役割としては、述語に近いといえるでしょう。
では、その文章の主語は?
日本語は主語を省略することも多いわけですが、たぶん、「ワタシは」という一人称を暗黙的に主語としているのでしょうね。

では、目的語は?
「悔しい」という言葉を述語とする文の目的語は?
いったい、誰に対して、どんなことを、「悔しく」思うの?

そのように、緻密に考えてみると、わからないことが多いわけ。
学業の分野で、試験の成績が悪くて、悔しく思うというパターンだったら、自分自身に対して、試験の成績の悪さなり、自分の努力不足を、不満に思っているということが予想しやすい。

しかし、自己逃避のダメダメ人間は、自分自身の問題なり、自分自身への視点がずっぽり抜けているので、誰に対して、そして、どんなことを悔しく思っているのかが、文章からはわかりにくいわけ。

たとえば、「そんなふうに、このワタシが思われているなんて・・・悔しいです。」なる文が登場してきたりする。
では、上記の文って、どんな意味になるの?

ダメダメ家庭の人間は当事者意識がなく、自分自身で達成したものがない。
だから、周囲からの評価が気になり、いわば自意識過剰の状態になってしまう。
周囲からの自分への評価が、よいものではなかったら、まあ、誰だって、いい気分がしない。
しかし、そのような不満を、「悔しい」という言葉で表現してしまうわけ。

悔しいのはいいとして、誰に対して、どんなことを悔しく思っているの?
周囲の人が、自分を正当に評価しないことを、悔しく思うというわけなの?

しかし、評価能力なり判断能力のないアホなどは、放っておけばいいだけ。
正当に評価できないことは、相手の側の洞察力なり知的な能力の不足なんだから、相手方自身が悔しく思うことはあっても、あるいは、不当に評価された側が、不快に思うことはあっても、悔しく思うことではないでしょ?
それこそ試験の成績が悪かった当人が悔しく思うのは自然ですが、試験の成績が悪い人を見て、「ああ!あの人の成績はすごく悪いわ!ああ!ワタシは悔しい!」とコメントしたら意味不明でしょ?
「残念に思う」という記述ならわかりますが、「悔しく思う」という記述だと、わからないでしょ?

ダメダメ家庭の人間は、、当事者意識がなく、自己逃避であるがゆえに、自分自身で自分を判断することがない。だから、どうしても、他者からの評価が気になってしまう。
気になってしまうというよりも、それがすべてになってしまうわけ。
まさに自分のアイデンティティを、他者に依存している状態。
だからこそ、「あの人がワタシにしている間違った評価を正そう!」などと考え、行動することになる。

それこそ、「ワタシは、あの人たちから、まるでクレーマーのように思われてしまっている。とんでもない誤解だ!ホントに悔しい!ワタシはクレーマーなんかじゃないわ!ああ!悔しい!ワタシをクレーマー呼ばわりする人たちに対しては、断固抗議してやる!」なんてことになってしまう。

そんなことを書くと、「また、また・・・この人は、ギャグを書いて・・・」と思われる方も多いでしょうが、まあ、この私が実際にいただいたメールのコレクションを「不当に評価」してもらっては困りますよ。スッゴイものがいっぱいありますからね。

その文章で記述し、語っている不満は、自分自身の「至らなさ」ではなく、他者の「至らなさ」に対してでしょ?
本来なら、自分とは別の人物に「至らなさ」があれば、そんな「至らない」人から離れるなり、上手に距離を取るなりすることが的確な対応でしょ?
クレーマーと「誤解」されてしまっているのなら、そのような誤解をしている人とは関わらないことが、お互いにとって有効なことですよ。
しかし、他者の至らなさを「悔しい」と表現し、その至らなさを正そうなどと考えるので、逆に言うと、距離を縮めることになる。

他者からの間違った評価となると、上記のクレーマーのようなパターンばかりではなく、ストーカーのようなパターンもあるでしょ?
「あの人は、ボクのことを誤解しているんだ!ああ!悔しい!ボクはこんなにいい人で、あの人のことを大切に思っているのに・・・ああ!悔しいよ!あの人からのボクへの評価を、なんとしても正さないと!」と、思いつめて行動に移したらシャレにならない。

人からの評価を気にする人ほど、自分自身でやりたいことが何もない人でしょ?
そんな人とやり取りをしても、何も楽しいわけでもないし、ちょっとでも気に障ることを言ったりすると、まさに逆上したりするもの。
そのような人は、相手からの評価を受けて悔しく思うことがあっても、自分の目標が達成できないことを悔しく思うことはない
というか、自分の希望なり目標自体が明確ではない。
そんな人は、それこそインターネットの掲示板にいっぱいいるのでは?

言葉としては「悔しい」という言葉を使っても、そこに自分への不満という面は存在しない。悪いのは全部人のせい・・・そのように思い、他者への不満を「くやしい」という言葉に託し、行動に移すことになる。

あるいは、最近(10年夏)において、そのような意味不明の「悔しい」が、登場していた事例がありました。何でも梨元さんという有名な芸能レポーターの方が癌でお亡くなりになり、その報を聞いた、芸能レポーター仲間の女性が、「悔しい」と発言したんだそう。
しっかし、知人がお亡くなりになって、「悔しい」という言葉を発するのはいいとして、何に対して「悔しい」の?
知人が癌でお亡くなりになったことが、悔しいの?
しかし、それだったら、日本語能力がある人だったら、「悔しい」というよりも、「残念だ」という日本語にするのでは?
それとも、結果的に癌でお亡くなりになったわけだから、医療技術の問題を指摘しているの? 医療技術の未発達が「悔しい」の?
しかし、それも、「残念だ!」という表記の方が適切な日本語ですよ。

「悔しい」という表記を使った以上は、「彼を助けられなかった、自分の情けなさ」という点に視点が行っている・・・一般的にはそのように受け止めますよね?
しかし、自殺ならいざ知らず、癌なら、いささかどうしようもないでしょ?
その芸能レポーターの女性は、医療技術についてそんなに詳しいの?関心があるの?
「その芸能レポーターの女性が、何に対して悔しいと思っているのか?」そのコメントだけではわからない。

まあ、逆に言うと、そんな意味不明のコメントを発するような人間だからこそ、他人の詮索ばかりをする仕事をしているのでは?
意味不明な形での「悔しい」という言葉と、詮索好きとかあら探しは、まさに自己逃避という点において、結びついているわけです。

悔しいという言葉自体は、「ふつう」の言葉といえるわけですが、マトモとダメダメではその方向性が違っているわけ。マトモな人は、自分自身への不満につながり、ダメダメな人は、他者への不満となっている。
だからこそ、マトモな人は「悔しさが人を成長させる。」となるわけで、ダメダメにおいては、「悔しさがダメダメを成長?させる。」ことになる。

不快という言葉なら、自己完結した感情といえるわけですが、「悔しい」という言葉は、対象の存在を前提としているので、微妙に関係性が入っている。
自分自身に対しての「悔しい」なら、自分自身での対処となるわけですが、「アイツの誤解が悔しい。」となると、その「アイツ」への対処となってしまい、結局は、当人自身の問題は無視されたまま。

そして、「悔しい!悔しい!」と言いながら、付きまとう行為によって、周囲からの評価がますます下がってしまうことは、本来なら誰でもわかること。
しかし、ダメダメ人間は、周囲からの評価が下がったことを、悔しがり、ますます絡むようになってしまう。

不適切な形で使われる「悔しい」という言葉は、別の言い方をすると、自分と他者との境界線が、実に曖昧になっている状態といえるでしょう。感情においても、自分自身に対して持つ感情と、他者に対して抱く感情は違っているもの。その違いがないということは、感情だけでなく、認識の面からして、自者と他者の区別がない状態といえるわけでしょ?

自分を正当に評価しないことなど、本来は他者の領域における至らなさについて、悔しいという言葉で表現するようになってしまったら、ダメダメもかなり重症といえるわけ。
それだけ、「人のせいにする」気がマンマンということでしょ?
人のせいなんだから、当人自身は何も対処せず、周囲の人に対して「悔しい!悔しい!」と言い続けるばかり。
そして、対象となっている人に対して、抗議をして、抗議してばかりなので、周囲からクレーマー扱いされて、「クレーマー扱いにされて悔しい!」と更に抗議する。
それがギャグではなく、現実に起こっている・・・それがダメダメ家庭の周辺なんですね。