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カテゴリー 「入れ込み」「入れ込まれ」問題
配信日 10年9月18日
タイトル 執着の諸相
「で、結局は、アンタは、何が言いたいの?」「何をしたいの?」「ワタシは何を分ればいいの?」
ダメダメ人間の周囲では、そんな問い掛けが頻発している。
ダメダメ人間による「あーでもない。こーでもない」という感じの話を聞かされても、誰でもそう思ってしまいますよ。
まあ、単に説明能力が低くて、そんな質問が発生しているのなら、もっと上手に説明すればいいだけだし、説明方法も、一通りではなく、何種類も用意すればいいだけ。
説明だって、質でダメなら量で勝負ですよ。

相手に対して分かってほしいことが明確になっていたら、そのように、様々な方法が取れるわけですが、分かってほしいことが明確になっていなかったり、あるいは、相手に対して分かってほしいことそれ自体がないのにやり取りをしているのがダメダメ人間というもの。
だからこそ、自立性を持った行動をすることができず、自分の価値なり行動の目的を、他者に依存することになる。

それこそ、特定のブランドに依存するブランド信者になってしまうこともある。
価値のあるブランドに自分の価値を依存してしまうわけです。
まあ、バックとか服を集めるくらいなら、シャレというか趣味の一環とも言えるでしょう。
しかし、依存する対象が人間になってしまうとシャレにならない。

「ワタシにはこの人が必要なんだ!」と思ってしまったり、あるいは「この人には、このワタシがついていないとダメなんだ!」と共依存状態になってしまう。
自分の価値を、その人へのサポートという形としてしまっているので、その人から離れない。まさに執着することになってしまう。
そもそも、「この人には、このワタシがついていないとダメなんだ!」と認定してしまうということは、対象となっている人間は、まあ、一人ではやっていけない人間であることが多い。
だから、サポートが必要になるわけですが、自己逃避の人間は、他者をサポートすることに、自分の価値を見出すことになる。

何かを非常に気に入るという、単純な肯定の場合には、たとえ、その対象がちょっとヘンテコなものであっても、人に説明する際にも、比較的落ち着いた対応がとれるもの。
しかし、抑圧的な人間は、肯定しているものがない。
だから、一見は、その対象を賞賛していても、単純な肯定ではなく、二重否定に近い状況になっている。

それこそ、人に入れ込むような場合においては、対象のマイナス面に反応し、それに執着している。
「あの人の、この苦しみをわかって上げられるのは、このワタシだけだ!」
「あまり理解されていない、この作品の価値を理解しているのは、このオレだけだ!」
そんな感じで、相手への理解という形で自分の価値を認定し、その関係性によって、自分の価値としている。

しかし、その本質として否定形の精神であるので、対象とする相手の価値そのものについては、何も語れない。
それこそ、ブランドに執着するような場合でも、そのブランドのよさについて、客観的な形で説明できない。
何も、客観的な説明まではできなくてもいいわけですが、その対象としているものとの個人的な思い出でも、落ち着いた形で語ることができればいいわけでしょ?
「この品物には、昔に、こんな思い出があって・・・」「この作品を読んで、こんな点に目を開かされた。」とかの話だったら、聞いていても分かりやすい。
しかし、ダメダメ人間には、そんなこともできない。
ダメダメ人間ができるのは、反対者を攻撃するという二重否定だけ。

だからこそ、聞いていてもサッパリ分からないし、理解されないがゆえに、周囲から孤立し、孤立しているがゆえに自分のアイデンティティを求めて、ますます何かに執着するようになってしまう。
執着の本質は、自己逃避であり、自分自身の価値を、自覚もしていないし、客観的な形で説明できないこと。
自分自身を見つめることが怖いので、別のものを凝視してしまう。

客観的に伝える能力がないがゆえに、他者に執着せざるを得ない。
言いたいことや分かってほしいことを、自分が納得するまで言い尽くして、それでも誤解するような人は、放っておけばいいし、それしかないでしょ?
「人は人、自分は自分。」ですよ。しかし、自己逃避であるがゆえに、「自分は自分」という感覚を持っていない。
だからこそ、別の人に執着することになる。

現状認識から逃避しているので、いったん決めた関係性を変更できない。
たとえば、いったん決めた序列関係を後になって変更できないので、「アルファ症候群」のようなことを引き起こす。
あるいは、いったん「アイツとオレは恋人関係だ!」と認定してしまうと、それを修正できないので、ストーキングするようになってしまう。
あるいは、「オレはアイツから被害を受けた。」と認定してしまうと、その「被害者vs加害者」という関係性を維持するために、クレーマーになってしまう。

自分自身でやりたいことがないので、周囲に対して過剰に期待してしまう。
それこそ、被害者主張をして、周囲に対して同情を求めることになる。あるいは、よく言う物言いで「理解を求める」という言葉もありますよね?理解を求めるのはいいとして、じゃあ、どんなことへの理解を求めているの?あまり、お気軽に「理解を求めている」と、安っぽくなってしまうでしょ?
どうせなら、自分のやりたいことを客観的に説明して、理解ではなく、協力を求めた方がいいのでは?まずは、自分で自分を理解する必要があるでしょ?
当事者意識があって、自分がやりたいことが自覚できていれば、周囲に対して、協力を求めることも簡単だし、必要なことですよ。

しかし、ダメダメ人間が周囲に求めるのは、「ワタシを分かって!」というもの。周囲に対して、「ワタシがかわいそうな人間だと分かってほしい!」と言い続ける。
あるいは、暇つぶしを求めて、「ワタシに構って!」などと要求する始末。
かと言って、「ワタシに協力して。」とは、やっぱり言えない。
協力してとなると、当事者意識が必要となるわけですが、単に「ワタシを分かって!」となると、当事者意識がなくてもいいでしょ?それどころか「ワタシに構って!」となると、当事者意識が完全に抜けた状態となってしまう。

それだからこそ、ますます他者に執着することになってしまう。
逆に言うと、他者への執着は、当事者意識の欠如の諸相のようなもの。
何回も書きますが、執着の本質は自己逃避であって、一見、愛情に見えたりすることがあっても、対象を肯定したものではない。自分以外のものに執着することで、自己逃避をしているだけ。

だからこそ、「離れる」という対処が取れない。
肯定ではなく、二重否定で止まっている。
まさに、「気に入らない」からこそ、その「気に入らないもの」を否定しようと、執拗に絡むようになってしまう。
それこそ、「根絶」なる大義名分を掲げて、執拗に絡むことになる。
ナチがやったユダヤ人の根絶とか、あるいはエロティックなものへの過激な反対運動とか、あるいは、日の丸,君が代への過激な反対が発生することになる。

その手の、「気に入らない」からこそ、執拗に絡む人が多く見られるのは、インターネットの掲示板の世界でしょう。
それこそ「熱い」口調で、非難の言葉を書き込んでいる人もいますよね?
しかし、その書き込んでいる人が、本当に伝えたいことがあるのなら、あんな場で、熱く書き込んだりはしないでしょ?
だって、自分の考えが明確に自覚できているのなら、その見解を理解できるだけの知能と、そして理解しようとする意欲を持つ人を限定して対象とするでしょ?
掲示板のように、対象が不特定ということは、とどのつまり、その人の見解とやらも、明確になっていないし、本当の意味で「伝えたいこと」でもないということでしょ?

自分の伝えたいことが明確になっていないからこそ、客観的で独立した形の文章としてまとめることができず、形の上では対象者が存在する掲示板のような場所で発言することになってしまう。
それこそ、この「ダメダメ家庭」のサイトにもありますが、購読者さんによる投稿の文章のようなものは、対象者がない分だけ、別の言い方をすると、返事というスタイルではないだけ、その文章の書き手自身の内面に負担がかかることになる。やり取りの相手ではなく、自分自身を見る必要がでてくる。その心理的な負担ゆえに、自己逃避状態だと、自立性の高い文章が制作できない。自己逃避であるがゆえに、形の上では対象者が必要になるわけです。

頻繁に書いておりますが、「言いたいこと」と、「わかってほしいこと」は違うもの。
分かってもらうためには、
「何を」、「どんな人に」、分かってほしいのか?

その点について、自問自答し、明確にする必要があるわけですが、自己逃避のダメダメ人間には、それができないんですね。
だから、とりあえず対象者が存在する掲示板のような領域しか、活動できない。何かの書き込みに対するレスポンスという形だと、心理的にラクになる。
だから、どうしてもそんな場所に執着してしまう。
あるいは、「言いたいこと」はあっても、「分かってほしいこと」がないという点においては、インターネットの掲示板だけでなく、新聞も、そんな様相でしょ?
分かってほしいことが、自分なりに明確になっていれば、「こんな程度の人間には言うだけムダ。」という判断も成立しますが、当人の中で明確になっていないんだから、結局は、言葉をばら撒くことしかできない。
しかし、本当の意味で「伝えたいこと」それ自体が存在しないんだから、言葉が空回りするだけ。表現力と伝達力は違うものでしょ?
たとえば、「バカ」と表現するのは簡単でしょう。
しかし、相手に対し「自分はバカなんだ!」と納得させるのは簡単ではない。
あるいは、周囲の人に「彼はバカだ!」と説明するのも簡単ではない。

「○○氏はオバカだ。」という見解を相手に納得させるためには、「アナタは、このようなシチュエーションでこのようなことをしたけど、別の観点から見ると、このような行動の方が効果的である。だからアナタはアタマが悪い。」そんな論旨による客観的な説明が必要になる。まあ、そんな文章表現ができる人なら、逆に言うと、インターネットの掲示板などには入り浸ったりはしませんよ。

インターネットの掲示板では、簡潔な表現とかの制約があるのかもしれませんが、その制約を守ったとしても、その意図が伝達されたか?というと別問題でしょ?
そもそも、インターネット掲示板は否定形の表現ばかり。
「くだらない」とか、「つまらない」とか、「偏っている」とか、「役に立たない」とかの否定情報なり評価を、簡潔に表現しているだけ。
まあ、そんな内容だったら、確かに簡潔に表現できるでしょう。
しかし、それで何が伝わったの?どんな合意があったの?
しかし、何も伝わらないがゆえに、そんな場所に執着する。
何度も書きますが、執着があるということは、その背景の精神が否定形となっている。

伝達力不全の表現力しかないわけだから、所詮は、同類で群れるしかない。
だって、色々と書いてあっても、マトモな人からは「で、結局は、何が言いたいの?」「何を分かればいいの?」と言われてしまうだけ。
相手に対して、自分の考えを伝達するにあたっては、「できるだけ、わかりやすく、そして誤解されないように・・・」
そんな配慮も必要でしょ?だから、現実的には簡潔というだけではダメになりますよ。
伝達とは他者に対して行うもの。だから、相手のキャラクターによって、表現を柔軟に変える対応も必要でしょ?
インターネットの掲示板は、受け手のキャラクターについての考察ができているの?
そんな場所は、結局は、会話ではなく、おしゃべりどまり。
分かってほしいことがなく、言いたいことがあるばかり。

それなりの表現力があって、それなりに文章がまとまっていても、伝達力がないと、何を言っているのか分からない。
そんな親に育てられたら、それこそアスベルガー症候群になってしまうのも当然でしょ?
だって、その手の伝達力のない文章は、文章読解力がある大人でもわからないんだから、子供はどう対処すればいいの?そんな戸惑いの中で、子供としては、心理的な混乱が積み重なるだけ。

言いたいことが、ますます肥大化して、相手に合意してほしいことなり、分かってほしいことが、ますますなくなってしまう。分かってほしいという感覚がないまま、言いたいことが暴走してしまうので、どんどんと二重否定的な執着が加速する。
関係性に依存することで、自己逃避する。
逆に言うと、関係性を維持できるように、他者に対して善意を語りたがる。
「アタナのためにしてやっているのよ!」という言葉に、いわば逃げ込んでしまう。
ということで、「気に入らないもの」に対して、ますます近づいていく。
相手に対して合意を求めているのなら、合意できる判断能力を持つ人に近づいて行くことになるでしょ?しかし、単に「言いたい」だけなので、逆に言うと、「言い放し」とか「あら探し」ができる場所に惹かれてしまう。
そうやって、不快なもの、気に入らないものに近づいていく。
それこそ、児童虐待の親がよく言う「懐かないから殴った。」なる文言ですが、そんなに懐かないのなら、養子に出せばいいだけでしょ?
しかし、逆に言うと、懐かないからこそ、身近に置こうとする。

あるいは、合意を取るという発想がなく、自分の見解を一方的に押し付けるだけの人となると、ボランティアとか市民運動などの人たちがその典型と言えますが、その手の人たちは、「断固糾弾せよ!」とか叫んで、気に入らない人をつるし上げることが好きでしょ?
被害者としてしか自分を語れないがゆえに、加害者たる他者が必要になり、執着することになる。
本来なら、糾弾するくらいに気に入らないのなら、距離を取ればいいじゃないの?
あるいは、離れた場所から、その「気に入らない」ものの問題点を、客観的な表現で説明すればいいだけ。
しかし、自己逃避の人は、気に入らないからこそ、近づいて行く。
あるいは、「この文章は読めば読むほどくだらない。」なる感想が実際にあったりするでしょ?しかし、そんなに「くだらない」と思ったのなら、もう2度と読まなければいいじゃないの?しかし、「気に入らないからこそ」何回も読んでしまう。

そうやって、どんどんと執着が加速する。
そんな人たちは、どこに執着しているかについては、散々と主張したりするものですが、執着そのものには、何も語らない。
しかし、どこに執着しているのかなんて、どうでもいいことですよ。だって、執着の大元は、自己からの逃避なんですからね。

特定の人に対して入れ込むのも、特定の団体に対して入れ込むのも、特定の作品に対して入れ込むのも、掲示板のような特定の場所に入れ込むのも、自分自身から逃避しているという点において変わらない。
いわば、約束の地に近い状況。
「こうなれば、今のワタシの苦境のすべてが解決される!」
「この問題さえ解決できれば、すべてがうまく行く!」
そうやって自分を騙しているだけ。
あるいは、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」での表現を借りれば「○○からの自由」に執着することで、「○○をする自由」の問題から逃避している状況となっている。
何かに執着することで、一番肝心な自分自身から逃避してしまい、自分自身の問題を見ないようにしているだけ。自分の問題が見えなくなれば、ある意味においては、「事態がよくなった・・・ように見える。」わけでしょ?
だから、それ以降も、そんなことを続けてしまう。

形の上では、入れ込み対象を賞賛していても、その価値を客観的に説明することができず、反論を許さないというスタイルしかできない。
だって、そこには当人自身の認識や思考がないわけですからね。

逆に言うと、反論を許さないというスタイルは、賞賛している対象を本当の意味で肯定していることを意味しない。ただ、自己から逃避している人間の、一時的な居場所になっているというだけ。
本当の居場所だったら、じっくりと落ち着いて、説明できるもの。
一時的な居場所だからこそ、二重否定的に執着する。
そうして、自分自身からどんどんと逃避してしまうものなんですね。 
 R.11/2/3