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カテゴリー | ダメダメ家庭問題の考え方 | |
配信日 | 10年10月16日 (10年10月26日 記述を追加) | |
タイトル | 不在の存在 | |
以前にヴィデオで映画をみていたらビックリしたことがあります。有名なスティーヴン・スピルバーグ監督のSF映画である「未知との遭遇」という作品です。 その映画の主演の一人は、以前にメールマガジンで取り上げましたが、本来は映画監督であるフランスのフランソワ・トリュフォーです。 その映画の中にビックリするようなセリフがあるんですね。 そのセリフとは、「危ないから25m以上離れて!」と言うもの。 ヴィデオで見ていた私は、そのセリフにビックリしたので、テープを巻き戻して、その部分を見直したほどです。 そのシーンは、アメリカの、ワイオミングの、つまり「ど田舎」でのシーンです。 だから、本来は、「80フィート以上離れて!」となるのが自然。 ニューヨークなら、25mというセリフもありえますが、ど田舎のワイオミングでは「メートルって何?」と言われるだけですよ。 どうして、わざわざ25mという不自然な単語を使ったの? もしかしたら、字幕担当者が間違ってしまったの?それとも、日本人の視聴者に配慮したの? そう思ったので、あわててテープを巻き戻したんですよ。 しかし、音声でも、「25メートル」と言っていました。 つまり、そのワイオミングのシーンでの登場人物は、アメリカ人以外の人も多いということを表現しているわけ。アメリカの片田舎における、それだけ国際的な事件という意味なんですね。 「多くの国から人が来ているなぁ・・・」という直接的なセリフの場合もあるでしょうが、「25m」という「ふつう」の表記を使うことで、その集団の異質性を表現する手法もあるわけ。 しかし、そんなことを瞬時に認識できる人は、まあ、滅多にいない。 しかし、頻繁に言及しておりますが、ダメダメ家庭の問題を考えるに当たって、直接的な表現からだけで考えても、考察は進まないんですね。 頻繁に言及しておりますが、このサイトで使用しているネーミングであるダメダメ家庭という言葉は、正式な呼称だと「機能不全家族」となります。 機能不全の問題を、従来からの機能的な手法で考えても、何も見出せませんよ。 むしろ、「どうして、もっと簡単で効果的な方法を取らないのか?」 そんな「最適な方法を取る」機能の不全を見出していくことが必要になるわけ。 それこそ、家庭内暴力の問題だって、「被害者の女性は、どうして、実家に助けを求められないのか?」そんな点に注目すると、そのような状況に陥る心理もよく見えてくるわけです。自分の子供をネグレクトする事件だって、「どうして、実家のサポートを得ようとしないのか?」あるいは、「後になって、ネグレクトするような子供を、どうして作ってしまったのか?」「どうして、避妊しなかったのか?」その点から見えてくるわけです。 あるいは、離婚を考えるに当たって、「離婚したのに、どうして実家に戻らないのか?」「どうして苗字を戻さないのか?」そんな点から離婚の原因も見えてくることも多いわけ。 しかし、不在を認識することは難しい。 その方法論として、万人が納得する客観的なものがあるわけでもない。 「我思う、ゆえに、我あり。」とは言えて、そして、多くの人によって共通の認識とすることができても、「ワタシは考えたくない、ゆえに、ダメダメになっている。」というロジックは、現実のダメダメを的確に表現したロジックとしては成立していても、「考えたくない」という状態を、当人自身として認識することは難しいし、多くの人による共通の理解とすることは難しい。 「考えたくない」という心理を認識し、考えていくことは、論理的にも心理的にも、難しいことですし、今現在がダメダメな状況になっているということを、認識することも難しい。 認識から逃避しているからこそ、ダメダメになっているわけで、だからこそ、自分がダメダメであるという認識は、実に不自然なもの。 ダメダメ家庭は、別の言い方をすると、不幸な家庭と言えるわけですが、「不幸な家庭は、幸福な家庭を目指さない人たちによって作られる。」と言っても、そんな視点なり見解に合意する人は少ないでしょう。「論理的にはそうだろうけど、そんな言葉に意味があるの?」と思われてしまうだけでしょう。 マトモな人は、不幸な家庭について、考える必要はない。 むしろ、目の前にある自分の家庭を、そして、発生してしまう様々な問題に対して真摯に考えているからこそ、マトモな家庭になっているわけであって、不幸な家庭について色々と語れること自体が、ある種の胡散臭さを伴うもの。そんなことは、この私が言うんだから、間違いはありませんよ。 不幸な家庭について、わざわざ考える意義としては、「自分の状況を、これ以上は悪くならないようにしたい・・・」それくらいですよ。あるいは、止むに止まれぬ衝動があるとかくらいでしょう。あくまで自分自身を向いているもの。 あえて不幸な家庭について考えても、自分の目標が達成できるわけでもないし、尊厳につながるわけでもない。あくまで、予防とか対処法として意味があるわけ。 病気にならなかったからと言って、その人に何も達成したものがないのなら、そんな人にはどんな意味なり、尊厳があるの? 「不幸な人たちを助けたい!」 なんて熱くご高説を語っているだけ、その手の人は、胡散臭く、ヘタをすれば、自分の目の前の問題から逃避している可能性も高いわけ。 自分の家庭をマトモなものにするためには、自分の家庭についてしっかり見ないといけないのは当然のこと。 しかし、自分の家庭を、「ふつう」に「見える」ようにするためには、自分の家庭ではなく、周囲の家庭を見る必要があるでしょ? 逆に言うと、「ふつう」という大義名分を掲げることによって、眼前にある自分の家庭から逃避できるわけ。 そんな人は、「ワタシはふつうの家庭を作りたい!」と周囲に主張することになる。 逆に言うと、その言葉は、自分の家庭が、「周囲と同じように見える」家庭にしたいということでしょ? つまり、とにもかくにも、「人に合わせるだけ」で、つまり自分では考えなくてもいいわけ。 逆に言うと、自分では考えて、判断していないんだから、トラブルとなったら、被害者意識を持ちやすい。 実際の状況そのものよりも、「周囲と同じように見える」「違いが見いだせない」ことが優先されるので、結局は、「トラブルを見ようとしない」という認識段階からの逃避をするようになる。 あるいは、不幸な状況を、言わせない家庭を作ろうとするわけ。 まさに北朝鮮のように、「ワタシたちは、この家庭に生まれて幸せよ!」と強引に言わせることになる。 その言葉を子供に言わせて、「ワタシたちは上手く行っている!」「何も問題がない。」「ワタシたちは、ふつうの家庭だ!」と周囲に対して語ることになる。 自分に対する絶賛の声を言わせて、ますます悦に浸っていく。 話は変わりますが、世の中の人の考え方に、「人間原理」という発想があるそうです。 『この世の宇宙的な物理法則も、何もかも、我々人間によって決められたものだ・・・』 そんな考え方なんだそう。 そんなことを申し上げると、「何をバカなことを言っているんだ?宇宙の生成とかの物理法則は、人間の存在とは関係ないに決まっているじゃないか!」そのようにおっしゃられる方も多いでしょう。 しかし、そうは単純には行かない。 そもそも、宇宙生成の原理とやらも、いわば人間がそのように、認識し、言語化して、記述している宇宙の原理であって、概念の段階から、人間の認識なり思考が入っている。 宇宙生成の原理を議論している段階で、それは人間によって作られ、共有化されている概念でしょ? 宇宙生成の原理という概念そのものが、人間によって作られ、認識されているものなんだから、「人間によって宇宙が作られた。」という主張も、それなりに合理性があるわけ。 人間によって、認識できない概念なり実体は、どの道、認識できないわけですからね。 人間は、人間が認識できないものを、認識することができない・・・ あまりに当然と思われる方も多いでしょうが、物事をしっかり考える際には、注意しておく必要があるわけです。見えているものだけを議論しても、それがすべてではないわけ。しかし、当然のこととして、人は見えているものしか議論できない。 まるで、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」のようになってしまっていますが、難しいことを申し上げているわけではなく、言語化され、議論されている背景には、言語化されていない、そして、認識されていない、意識されていない広大な領域があり、その影響を考える必要があるというだけです。 何も宇宙生成などの壮大なマターでなくても、似たようなことがあるもの。たとえば、ある人から、「歴史の本に書いてあるけど、ヨーロッパの人は○○の傾向を持つようだ・・・」なる物言いをされたことがあります。 しかし、それは、歴史の本に記載されているようなヨーロッパの人であって、歴史的な業績とは無縁の一般のヨーロッパ人がそうであったとは言えないでしょ? 今までに存在したほとんどのヨーロッパの人の行動は、歴史の本には記載されておりませんよ。しかし、そのような「語られない」状況を背景にして、「語られ」「記述された」業績も生まれたわけでしょ? 見えているものや語られているものばかりを注目しても、本質は見出せないわけ。 逆に言うと、「どうやって、より認識できるようにしていくのか?」そんな視点も重要なんですね。 逆に言うと、最近になって「見える」ようになったと言っても、それが最近になって「見える」ようになっただけで、最近になって初めて「起こるようになった」とは言えないわけ。 それこそ、このダメダメ家庭・・・より正式な名称とすると、機能不全家族の問題だって、特に最近になって大きくクローズアップされたわけですが、この問題は人類の歴史とともにあるもの。 ただ、機能不全家族の子供は、そもそも生存のための能力が低いし、まさに親もサポートしないので、生き残らない。 それに説明能力が低いので、機能不全家族の現状を説明することができず、つまり記録に残ることが少ない。 だから、結果的に「見えない」わけですが、だからと言って「起こっていない」とは言えないわけ。 だって、機能不全家族の出身者の芸術家が残した作品なんて、そんな出身家庭の問題を実に的確に表現していますし、その実態なり空気感は、21世紀の機能不全家族とまったく変わらないわけ。 21世紀になって、それこそ医療技術なり、最低限の福祉なりが充実してきたので、機能不全家族の子供も、それなりには生き残ることができる。そして、表現能力が低いその手の人も、それこそインターネットの掲示板程度だったら、自分の不満を書き込むことができる。 あるいは、この手の家庭の出身者が起こした事件も、報道されるようになってきている。 だから「見えやすく」なったわけですが、これは単に「見えやすく」なっているだけで、「起こりやすく」なったとは言えないわけです。 「見にくかったものが、それなりに、見えやすくなった」だけなんですね。 しかし、「見えていないものを、見えるようにしていく」という視点なり作業は、客観性がない。 つまり、学術的とは言えない。だから、多くの人の共通理解とはならない。 誰もが否定しないことを、誰もが否定しない手法で組み立てていくことが、周囲から賞賛を浴びたりする。 しかし、それで人類の知見が広がったの? 種をまいた人間は、周囲から軽視され、刈り取った人間は、もてはやされる。 まあ、人類の知的な活動の歴史は、現実的には、そんなもの。 ヴェルレーヌ研究家は、国家から勲章をもらったりしても、 ヴェルレーヌ本人は、刑務所行き。 ヴェルレーヌ研究家は、本や文章を読むことから始める。 しかし、ヴェルネーヌ本人は、自分自身や現実を直視することから始めているわけ。 あるいは、キリスト教会のお偉方は、ローマなどでふんぞり返っていても、 キリスト本人は、磔。 キリスト教会のお偉方は、聖書を読むことから始める。 しかし、キリスト本人は、神の言葉に従っただけでしょ? ゴッホの絵の売買では巨万の富が動くけど、 ゴッホ本人は、貧困そのもの。 絵のバイヤーはゴッホの絵を見ることから始める。 しかし、ゴッホ本人は、ひたすら内面の声に耳を澄ましたわけでしょ? 目の前の現実や、神からの言葉や、内面の声は、誰でも納得できるものではないがゆえに、権威筋からは、非難をされたりするわけですが、誰もが否定しないような段階になってしまったら、もうその活動の価値は、創造的な観点からすると、終焉していたりするわけ。 権威筋認定の正論は、個々の認識能力とは無縁であるがゆえに、客観と認識されてしまう。 しかし、そんな客観的な考察などは、屋上屋を重ねているだけでしょ? ダメダメ家庭というか、不幸な家庭において、その不幸をどのように認識するのか? あるいは、正式名称である「機能不全家族」における不全な機能を、どのように認識していくのか? それは、簡単なものではないし、客観性も持ち得ないわけ。 それこそ、「25m以上離れて!」というセリフを、不自然と思わないような人には感知できない類のものなんですね。 「どうして『80フィート以上離れて!』と言わなかったのか?」 そんな疑問は客観性はありませんし、その疑問に対する回答も客観性を持ち得ないでしょ?あるいは、以前にオードリー・ヘップバーン主演の映画「麗しのサブリナ」において、母親の写真が出てこないという不自然な点を指摘いたしましたが、そんな不自然な点から見えてくるものは多いんですね。 しかし、その点に着目しない限り、その状況や言葉の意味は見えてこないわけ。 不幸な家庭は、語法的には「幸福ではない家庭」と言えるでしょう。 しかし、その「幸福ではない」という表現において、色々とヴァリエーションがあるわけです。 そもそも幸福と言っても、それこそ「不幸には見えない家庭」と二重否定的に展開することもできる。 そうなると、まさに不幸には見えないように、周囲に合わせて「ふつう」にしていればいいだけでしょ? あるいは、前にも書きましたが、不平を言わせないようにすればいいだけ。 と言うことで、立派な大義名分によって、その家庭のダメダメが加速することになる。 まさに、「ワタシは、幸福なんて、たいそうなものを求めてはいないわ!ただ、ふつうの家庭を作りたいだけ!」と周囲に対して嘆くことになる。 しかし、「ふつうの家庭」という名目によって、自分にとっての「幸福な家庭」を否定しているんだから、一般のマトモな人と違った結果になるのは当然でしょ? しかし、幸福を目指さないという点を認識することは難しい。 当人自身が「ワタシは、幸福なんてたいそうなものを求めてはいないわ!」と明確に言っているケースだったら、まだ扱いがラクでしょう。 しかし、現実のダメダメでは、そこまで明確には言わずに、上記の文章の後半部分の「ただ、ふつうの家庭を作りたいだけ!」だけのケースも多い。 となると、その人自身が、「幸福を目指さない」という点を、感知することも難しくなってしまう。 しかし、その「幸福を目指さない」ことは、そのダメダメ家庭の理解の重要な鍵でしょ? 当人自身の希望や事態への対処の不在こそが、ダメダメの実体そのものですよ。 このサイトの記述は、現象論ではなく、実体論が中心です。 実体論と言っても、ダメダメの問題に関しては、「何が不在なのか?」という実体論が必要となるわけ。 一般の、科学的な心理学は、実体が実体を生む・・・そのプロセスを認識し、考えて行き、記述することになる。しかし、ダメダメにおいては、不在がダメダメの実体を生んで、そのダメダメの実体というか不全な機能が組み合わさって、新たなダメダメの実体を生む・・・というプロセスを認識し、考察し、記述することが必要になるわけ。 そして、ダメダメの実体と言っても、やっぱり「当然のようにあるものの不在」だったりする。 壮大なダメダメの体系も、中心となっているのは「不在」であり、まずは、「不在がありき」なんですね。 しかし「不在がありき」という言葉は、絵に描いたような言語矛盾でしょ? そんなあいまいなものを、どうやって認識していくの? 憎しみの存在は認識できても、愛の不在は認識できない。 しかし、事件の土壌となっている本質は、憎しみがあることではなく、愛がないこと。 人間は誰でも憎しみの感情くらいは持っていますよ。 そんなことを問題視しても、何も理解できないし、解決できない。 不満を言わないからと言って、満足しているわけではない。 死にたくないと言っても、生きたいわけではない。 より根本的なものは、否定的な感情の存在の問題ではなく、肯定的な感情の不在の方。 人は、「あの人は、どうして自殺したのか?」「どんな問題を抱えていたのか?」と疑問を呈しても、「あの人には、もともと『生きる意欲』がなかった。」ということを認識しないし、議論もしない。 しかし、本質は、「生きる意欲」の不在の方でしょ? 生きる意欲がないがゆえに、ちょっとした困難でも死んでしまうわけ。 だから、重要なのはちょっとした困難ではなく、大元の「生きる意欲」の問題になるわけ。 あるいは、一般常識の不在は直接的には認識されない。 ただ、常識ハズレの珍妙な行動が目に付くだけ。 一般常識の不在の問題まで認識できれば、それを習得していくプロセスまで考えることもできるわけですが、目のついた常識ハズレの行動を非難するだけなので、結局は、何も変わらない。 同じように「肉親の情の不在」なんて、認識できないもの。 ちょっとした「常軌を逸した厳しいしつけ」の問題になってしまう。 あるいは、良心の不在という点を理解することは難しい。 悪意は認識できても、「そもそも良心を持っていない。」ことは認識しにくいわけ。 いい子に見えるということと、実際に「いい子」であることは違う。 いい子にみせるために、気持ちが張り詰めているのがダメダメ家庭の子供。 そして、実際にドッカーンとなってしまって、「ふつうの家庭にみえたのに・・・」「あんないい子がどうして?」と、ボンクラご用達のコメントになるわけ。 「問題のないいい子」ということで、周囲としてはトラブルのあるなしは認識できても、その子供が抱えている安心感の欠如は認識できないわけ。 人は、不在ではなく、目立つものにしか反応しない。 しかし、目立つものは所詮は表象のもの。 その根底にある本質ではないわけ。ダメダメの根底にあるものが「不在という存在」であるがゆえに、認識されないし、議論もされない。だから、結局は何も変わらない。 幸福になろうとする意欲の欠如をどのように認識していくのか? そのためには、芸術的な洞察力が必要になってくるわけ。 学術的な手法でダメダメを考えても、持って回った議論になるばかり。 ちなみに、学術的と芸術的の比較となると、大まかには下記のように分類できるでしょう。 学術的な視点では、倫理的に物事を見て、芸術的な視点では、心理的に物事を見る。 学術的な視点では、集団的であり、芸術的な視点は、より個人的である。 学術的な視点では、制度的であり、芸術的な視点では、より内面的である。 学術的な視点では、大義にこだわるが、芸術的な視点では、原点にこだわることになる。 ダメダメ家庭を考えるに当たって、学術的な視点なり手法は、結局は、自己逃避に堕しているケースが多いわけ。 だって、その研究者さんにも、親があったわけでしょ?子供時代があったわけでしょ? 当人自身の子供時代はどうだったの? 本来は、その点が、思考の出発点とならなければいけないはずでしょ? それこそ「我思う、ゆえに、我あり。」ですよ。 その点から逃避しているんだから、その手の学者さんの議論が浮ついたものになってしまうのは当然でしょ? ダメダメ家庭というか、不幸な家庭において、何が不在なのか? 機能不全家族において、どんな機能が不全となっているのか? 特にダメダメ家庭においては、自己逃避であり、認識から逃避し、そして思考を抑圧しているで、当人自身の希望も持っていない。だから伝えたいという思いもない。 だから、表現力自体も、一般のマトモな家庭よりも低い。 そんな文章を読んで「どんなことが書いてあるのか?」という視点でも読んでも何も得られない。むしろ、「どんなことが書かれていないのか?」と注意する必要があるわけ。 不幸な家庭とは、不在な面が大きくて、多い家庭とも言えます。 家族が単に留守がちで不在となっているのではなく、その存在感が不在となっているわけ。 存在感が不在となっているものを、どうやって認識していくのか? そこには、誰もが納得する客観的な手法も回答もないわけ。 だから、せめてその点だけでも認識する必要があるわけです。 しかし、現実においては、事前にはその家庭の機能不全について何も対処せず、事件が起こってから「べき論」で説教するだけで終わってしまっているでしょ? そのような「べき論」は、まさに「聞く耳持たない」姿勢であり、そんな姿勢こそが、事件の原因だったりするもの。 ダメダメ家庭の問題は、そのように現実的には、「屋上屋を重ねる」ことばかり。 不在に対して、ありきたりな衣を着せるばかり。 だからこそ、ますます、その本質となっている「不在」が認識できなくなるわけです。 |
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R.10/10/26 |