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カテゴリー | ダメダメ家庭問題の考え方 | |
アップ日 | 10年10月23日 (10年12月2日,11年1月10日 記述を追加) | |
タイトル | 知識と教養 | |
以前のことになりますが、このサイトの一連の文章をお読みになられた方からのお便りにこんな文言があったことがあります。 「アナタはものすごく知識がありますねぇ。」 お便りの中のその記述を見た私は、ちょっと納得しがたい思いをいたしました。 その言葉は、何も私を揶揄したのではなく、本気でおっしゃっているんでしょう。 基本的には賛辞の言葉なんでしょうね。 それに、そんな「知識をいっぱい持っている。」という感想は、不自然ではない。 この文章をお読みになっておられる皆さんだって、否定はしないでしょう。 そんな自然な褒め言葉に対して、納得しがたい思いをこの私が持つことの方に、怪訝な思いを抱かれる方もいらっしゃるかも? では、どうしてこの私が怪訝な思いをしたかというと、「知識がいっぱいある」という感想の言葉は、常識的には「知識」ではなく、「教養」とするのが自然なのでは? そんな思いがあったからです。 まあ、そのお便りの内容の問題と言うよりも、どっちかと言うと、日本語的な問題ですね。 このサイトは、感情に任せて書き殴っているのではなく、言葉のニュアンスの違いに注意しながら書いています。それについては、文章を読み慣れた方であれば納得されるでしょ? 私は内容についてうるさいというよりも、言葉に対してうるさいタイプなんですよ。 どんな考えを持っていてもいいわけですが、それを公表する際には、相応の表現能力が要求されるというだけです。まあ、一生懸命にやっても、未熟なのはしょうがない。今後は勉強しましょうね。 それはいいとして、「知識」と「教養」という言葉の間のニュアンスの違いも実際にありますよ。 じゃあ、どんな点が違っているの? このサイトでは、色々なジャンルの作品なり、人物に言及しております。 小説なり、映画なり、音楽なり、現代哲学なり、自然科学なりに言及しております。 まあ、そんな分野における知識は、一般的には「教養」という文言を使うものでしょ? だから、お便りの文言としては、「広範囲の教養をお持ちですね。」となるのが、まあ、自然と言うもの。 そんな分野を指し示す際には、「知識」という文言は、一般的とは言えない。 そのお便りの方は、マンガとかアニメがお好きの方のようで、「教養」という言葉ではなく、「知識」という言葉になじんでいるんでしょうね。 実際に、マンガとかアニメに関する知識は、「教養」と呼ばれることはない。 それに対し、クラシック音楽とか哲学に関する知識は、「教養」と呼ばれたりする。 だから、私としては、いただいたお便りの中の「知識」という文言の問題を指摘して、「ここは、『教養』という言葉の方が適切なのでは?」と「指導?」してもよかったのですが、そんなことはしませんでした。 私は国語教師でもありませんし、このサイトはそんな意図を持って運営しているわけでもありませんしね。 と同時に、私としては、「じゃあ、『知識』と、『教養』は、どのように違っているのか?」それについて、私なりに明確に説明できる自信がなかったわけです。 一般的に見て高尚なジャンルだったら教養であり、身近な娯楽だったら知識となる・・・ 「知識」と「教養」に関する常識的な分類は、そんなものでしょ? しかし、この私はそんなジャンル分けのパターンで、「知識」と「教養」を使い分ける人間ではありません。だからこそ、他者に対して説明するためには、私なりのコンセプトの説明が必要になる・・・お便りをいただいて以降、そんな感じの問題意識を持っておりました。 クラシック音楽と、マンガとかアニメの違いというジャンル分けで、「知識」と「教養」を分ける発想は、一般の人にとっては理解しやすい。 しかし、この私はこのサイトの文章において、小説やオペラのような分野だけでなく、マンガとかアニメなどの商品性の高い作品からも作者の問題意識を抽出して、そこからダメダメ家庭を考える視点を広げていくことをしております。音楽だって、クラシック音楽だけでなく、ロックに言及することもある。 逆に言うと、クラシック音楽に言及する際にも、たまに「演奏家どまり」なる荒っぽい言葉を使うことがありますし、文学作品に言及する際にも、「翻訳者どまり」なる差しさわりのある言葉を使ったりしております。 いくら高尚なジャンルであっても、出来上がった作品を、翻訳したり、演奏するだけだったら、その行為に創造性はあるの? 私としては、「知識」と「教養」の問題は、ジャンル分けに対応しているのではなく、むしろ、ゼロから作っていく創造性の視点につながっているんです。 ジャンルという「縦割り」ではなく、ゼロ状態との関りという「横割り」で、「知識」と「教養」を分けているんです。 たとえば、「知識」と「教養」では、それに「くっつく」言葉で差があるでしょ? 「正しい知識を学びましょう。」なる文言はありますが、 「正しい教養を学びましょう。」なる文言は、まあ、ない。 あるいは、よく言う、 「お婆さんの豆知識」なる物言いはあっても、 「お婆さんの豆教養」なる物言いはない。 そのように考えてみると、「知識」と「教養」は、意外と、違っているものなんですね。 「教養」の元になっているのは、「どうしても分かりたい!」「どうしても解決したい!」という問題意識があるのでは? 芸術音楽や文学作品などの、いわゆる教養の対象となる作品を作る側にしても、受け取る側にしても、そのような切実な問題意識が前提となっているのでは? 「知識」は、学ぶものと言えるわけで、それがまさに「正しい知識を学びましょう。」という物言いになるわけですが、「教養」は、考えることの集積によって得られるのでは? 「どうしても知りたい。」という気持ちそのものに教養は対応していて、そこで「知ったこと」が知識に対応しているとも言えるのでは? 教養は往々にして文化と繋がっているわけですが、文化というのは英語にするとカルチャーであって、まさに「耕すこと」となる。 「心を耕すことこそが教養である。」・・・私が「教養」と言うものをそのように定義すると、多くの人は賛同していただけるでしょう。 逆に言うと、いくら知識があっても、その人の心が耕されていないのなら、それは教養とは言えず、豆知識が多いというだけ。 よくオタクの方々が、自分たちのオタク知識を自慢なさったりするようですが、人に対して自慢するようなものは、逆に言うと、教養にはなっていないと言える。 たとえ、マンガとかアニメからであろうと、その作品を通じて、受け手の心が耕されたのなら、それは教養に繋がったと言えるでしょ? ゼロから作品を作る人・・・と言うか、作らざるを得ない人は、それだけ問題意識があるわけで、だからこそ、そんな人が作った作品を考え、その問題意識にまで目を向け、その問題意識によって、我々自身の問題を顕在化したり、改善のための方法論とすることもできるのでは? しかし、形の上ではゼロから作った作品と言っても、それこそ既存の表現のいいとこ取りのコピー&ペーストで作ったような作品も現実に多い。 それはマンガとかアニメのような商業志向の強いジャンルだけでなく、クラシック音楽とか、小説のような、高尚とされるジャンルにおいても、その手のコピー&ペーストのパッチワーク作品は多いもの。 そんな作品は、本質的な意味でゼロから作った作品とは言えないでしょ? まあ、作り手としては、まさに、受け手が喜ぶ要素を上手に組み合わせてまとめあげれば、受け手も確実に喜ぶ事が見えてしまうので、どうしてもそんな方法に走ってしまう人もいたりする。 そして、そんなパッチワーク作品でも大喜びする受け手が実際に多いのも事実。 しかし、当然のことですが、そんなコピー&ペーストのパッチワーク作品で、受け手の心が耕されたわけではないでしょう。商品性の点ではすばらしいと言えるでしょうが、作品性はないと言えるでしょ? 芸術などの表現分野での作品を受容する問題に限らず、知識と教養を明確に区別することで見えてくるものも多いわけです。たとえば、インターネット掲示板に入れ込んでいる人は、自分たちを「情報強者」と自称していたりしますよね? 確かに、その手の人たちは「知識が豊富」でしょう。 しかし、教養からは程遠い存在でしょ? それは、インターネット掲示板がいささかアングラな要素を持ち、高尚な領域から外れているということではなく、その情報で自分の心を耕していないからでしょ? 人に対して自分を情報強者などと自慢するのではなく、耕された心に種を植え、そこから成果を得るために、思考し行動することが、心を耕すことですよ。得体の知れない相手に対して、自慢をしなくてもいい状態こそが、心が耕された状態と言うこと。 頻繁に書いておりますが、情報強者は、断じて「知の巨人」ではない。 情報強者と言うものは、まさに、知識志向であって、「知の巨人」は教養を向いている。 情報強者なんて、人のやっていることを覗いているだけの「出歯亀の達人」にすぎないものでしょ? だから、そんな情報強者さんは、インターネットの掲示板とか相談サイトのようなところでしか活動できない。現実的でシリアスで個別的な事案に対しては、何の回答も持ち合わせていない。だって、既製品的な回答が通用しない世界でしか使えない情報しか持っていないわけですからね。 知識と教養において、別の言葉をくっつけると、その違いが見えてくることは前に書いたとおりですが、たとえば、「商品知識」という言葉はポピュラーですが、「商品教養」とは言わない。 教養という限りは、作品なり作者の問題意識まで説明できるくらいまで分かっているとみなせるでしょ? と同時に、商品という「ありきたり」で「既製品的」ではない状態・・・そんな一回性にまで繋がっていないと教養とは言えないのでは? 知識が豊富でありながら、それが心を耕すようなレヴェルになっていないその手の人は、議論のための議論が大好き。 最前線の後方において、「べき論」を持ち出し、政治論議や芸術論議を戦わせることになる。 しかし、心を耕したのなら、つまり本当の教養になっているのなら、耕した上での成果を作ろうとするでしょ?芸術論議を100回するよりも、自分で作品を作るのが自然なのでは? 政治論議を100回するよりも、自分で政策を立案して、提案していったら? しかし、知識はあっても、教養はないダメダメ人間は、政治において、具体的な政策を打ち出せないし、あるいは、芸術分野においても作品を作れない。 結局は、知識どまりであって、自分の問題まで目が行っていないし、逆に言うと、自分の問題意識にフィットした知識を得ていないわけです。 問題意識がない人は、文章に接する際にも「読みやすい文章」を求めても、「分かりやすい文章」「内容が的確に記述されている文章」は求めない。「読みやすい」と「分かりやすい」の間の乖離に、問題意識の不在が見えてくることになる。 だって、問題意識があれば、それが解決することが重要なのであって、だから、その解決に役に立つ文章であることが重要でしょ?だからこそ、「内容が理解できる」ことが必要になりますよ。たとえ「読みやすくても」内容そのものがない文章だったら、その人の問題意識としては何も役に立っていないわけでしょ? 抑圧的なダメダメ人間は、問題意識がないがゆえに「斜め読みしやすい」文章を求め、「内容が的確に記述されている」文章には関心を持つことはない。そんな日々が積み重なっていくと、知識自慢の情報強者さんにもなりますよ。 最初に、このサイトの文章に対する感想を紹介いたしました。 もちろん、それ以外の感想もあったりする。 その中に面白いのもありました。なんでも「この私にヨーロッパコンプレックスがある。」とのご感想です。 もちろん、どのような感想をお持ちになってもご自由でしょう。 このサイトでは頻繁にヨーロッパの芸術作品、というか文化的な業績を参照しているわけですしね。しかし、その使い方は、私なりに分かった上で使っているのであって、知っているものをコピー&ペーストしているわけではありません。 だから、その感想に接して以来、不思議な思いを抱いておりました。 しかし、まさに「知識と教養」の差、別の言い方をすると「知ること」と「分かること」の差に注目する私のような人間ではなく、「知っていること」と「分かっていること」の違いを区別しない場合には、そんな感想もあり得るんだろうなぁ・・・と、「分かってきた」わけです。 「分かってもらうために」色々と、まさに手を変え品を変えて表現しても、それを知識自慢ととらえてしまうパターンもある・・・それについては、結構頻発するパターンなんですよ。 だって、そもそも問題意識や伝達の意欲というものも理解できないわけですから、その解決のための方法としての情報なり知見なり見解とも、本質的に無縁になってしまう。だから、単なる知識自慢を思ってしまうんでしょうね。 教養と知識の差、それに相応する、「分かること」と、「知ること」の差、その違いからダメダメの問題もよく見えてくることになる。 問題意識があるからこその教養であり、分かることになるわけです。 ありきたりで、類型的で・・・つまり、ダメダメにお約束と言える「ふつう」に安住するのには、知識は役に立つ。 「正しい知識を学びましょう。」と言っている時点で、ダメダメに安住したまま。 心を耕していないがゆえに、情報や知識を消費するだけで自分では何も生み出せない。 だからこそ、自分が消化できるようなムダ知識を求めて覗き見に明け暮れる。 だからこそ、自分自身が一つの作品として成立することはない。 一般の人が、「知識」と「教養」の違いを厳密に使い分けているとは言えないでしょう。それに、その必要も現実的にはないでしょう。 だから、重要なことは、心を耕すという文化の源流にまで目を向けること。 その目的に沿ったものであれば、マンガだろうがアニメだろうが、教養となるわけで、その目的を忘れてしまったら、たとえ高尚なジャンルであっても、心への覆いになってしまうだけ。 ムダ知識で覆われた大地に、いくら水を撒いても、その水も流れてしまうだけで、何も育ちませんよ。 しかし、そんなムダ知識自慢の人は、ダメダメ家庭の周辺には実に多いでしょ? そして、そんな状態の人は、大昔からいたりするもの。 2000年前の人がこのようなたとえ話をしています。 「種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、 日が昇ると、焼けて、根がないために、枯れてしまった。」 まあ、例え方が、この私とそっくりなのは笑ってしまうくらい。 知識なり言葉は、まさに、自分の心に根を下ろすことに意味があるもの。 しかし、多くの人は、言葉は聞いても、中身は分かろうとはしない。 挙げ句の果てに、「ヘンなことを言って、オレたちを不安にさせるヤツ!」などと言いだし、その言葉や、そんな言葉を語る人を弾劾する始末。 知識というものは時代に連れ、場所に連れ、変わったりしますが、自分の心を耕すことにつながる教養については、どんな時代も変わらない。 それこそ、ギリシャ以来より言われている「汝自身を知れ!」という言葉を知っていても、分かっていない人が多いもの。 必要もないムダ知識を集め、悦に浸っている人は、まさに、自分自身について何も知らない人でしょ? そんな人は、まさに2000年以上前からそんなものなんですね。 |
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R.11/1/10 |