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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない情報,スキル
アップ日 10年11月6日
タイトル 幸福のテンプレート
 皆さんが文章を新規に書く場合や、プレゼンテーションの資料を作る際、あるいは、年末の年賀状を作成する場合に、既存のテンプレートを利用する場合も多いでしょう。
慣れていない分野のものだと、ゼロから作るのは、大変なもの。
労力的に大変というよりも、全体の見通しというか、コツがわからない。
既存のテンプレートを基本にしながら、自分の希望なり趣味なり現状に合わせて、微調整していく・・・そんなパターンになることも多いでしょ?

使えるものは有効に使えばいいだけ。
特に初心者の場合には、そんなテンプレートがあると安心できるでしょ?
議論において、たたき台があると、議論も進みやすい。それと同じように、テンプレートがあると、色々と調整した結果として、最初のテンプレートと大きく違ってしまっても、作業を進めるにあたって、見通しもつけやすくなる。

さて、じゃあ、人が生きていく際には、そのテンプレートはどうなるの?
「テンプレートも何も、人はその人として自由に生きていけばいいだけ。」
という原則論はあるにせよ、やっぱりある種の見通しはあった方がいいでしょ?
何と言っても、人は生きることについては誰もが初心者であって、2回目とか3回目とかのベテランさんは存在しないわけですからね。
そして、生きていく上のテンプレートとしては、その人の親となることが自然なのは誰でもわかること。

親の生きてきたスタイルをテンプレートとして、時代に合わせて、あるいは、その人ならではの希望を踏まえて、テンプレートの中身を調整していけばいいだけ。
というか、現実的には、親がやっていた行動のスタイルは、子供にも「なじみ」のものなので、意識するしないに関わらず、親の行動が自然とテンプレートとなってしまうのは当然のことでしょ?

ここで、その親がマトモな親だったら、その親の行動がそのままテンプレートとして利用できる。子供としては、後は調整するだけ。まさに年賀状のテンプレートで干支だけを変えるようなもの。それで恰好のいい年賀状になってしまうんだから、ラクなものですよ。

しかし、子は親を選べない。
マトモ家庭のように、自分の親のやり方のスタイルをそのまま踏襲するわけにもいかない。
じゃあ、ダメダメ家庭においては、子供は生きていく上でのテンプレートをどうするの?
現実的には、ダメダメ家庭出身者は、生きていく上でのテンプレートというか、ひな形の設定において、多くの困難に直面することになる。

自分の親の行動をそのまま、自分のテンプレートとすると、自分の親と同じようにグチってばかりの人間になってしまう。そもそも、そんな親自身が「ああ!ワタシは、なんて不幸なんだ?!」と嘆いているわけだから、そんな行動スタイルをそのままテンプレートとして採用するわけにはいかない。
それこそ、仕事において、プレゼンテーションのために使うテンプレートを検討する際に、前回ダメ出しされたテンプレートを次にもそのまま使ったらバカでしょ?
あるいは、まったく方向違いのものを使ったらコケるだけ。暑中お見舞いのテンプレートを使って年賀状を作成するくらいならまだしも、病気お見舞いのテンプレートで年賀状を作成したらバカですよ。

じゃあ、子供はどうするの?生きていく上で、どんなテンプレートを使うの?

そんな状況でダメダメ家庭出身者がよく言うのが、「ワタシは親を反面教師としています。」というもの。この反面教師という言葉については、このサイトで頻繁に触れております。
反面教師とするのはいいとして、じゃあ、テンプレートの例に当てはめるとどうなるでしょうか?それって、失敗したテンプレートを色々と見せられて、その失敗例を参考にして、自分の指針を立案していくということになるでしょ?
しかし、テンプレートというものは、『標準的な成功例』であって、失敗例ではテンプレートにはなりませんよ。断片的な注意点は得ることができるでしょうが、トータルでの見通しにはつながりませんよ。

テンプレートがないと、全体的な見通しができない。
かと言って、自分の親のスタイルをテンプレートするわけにはいかない。

ここで、自分の親のスタイルをそのままテンプレートとするには不適である・・・と明確に自覚していれば、まだ可能性があるわけですが、現実的には、自分の親のスタイルが、自分のテンプレートとしてふさわしいのかという点について判断することから逃避してしまうことが多い。
親に迷惑をかけることを極端に恐怖するダメダメ家庭の人間は、実家に関するマターになると、思考停止になってしまう。
だから、自分の親をテンプレートにできないということ以上に、テンプレートそのものから逃避してしまう。

「ただ、ふつうに生きていきたいだけ。」と周囲に語り、テンプレートついては語らない。
「ふつうに生きる。」ということは、別の言い方をすると、テンプレートなしということでしょ?
しかし、ただでさえ、ハンディキャップが大きいダメダメ家庭出身者が、テンプレートもなしに対処できるの?
前にも書きましたが、テンプレートがあると、全体的な見通しがよくなるでしょ?
テンプレートなしだと全体的な見通しが悪くなり、危険を察知できずに、結局はトラブルになってしまう。
そうして、そんな状況になると「ワタシはただふつうの生活がしたかっただけなのに、どうしてこんなことに?!」とのお約束の嘆きの言葉になってしまう。
「ふつう」という言葉を使うのはいいとして、その言葉を語る人は、その人がもっとも良く知っている人物である自分の親については何も語れない。
一番よく知っている人物について語れないんだから、それ以外の具体的な人物についても考えることからも逃避してしまう。

「自分の子供時代は自分にとってどのようなものであったのか?」
その点について考えることから逃避してしまう。
自分の原点といえる自分の過去から逃避してしまうと、それこそ「自分探しの旅」と称して、世界を旅することになる。しかし、そんな人は、その人が一番よく知っていることからは目をそむけ続けるわけです。だから自分なりのテンプレートがないまま。

自分の子供時代が、自分なりに幸福だったのなら、親のスタイルをテンプレートとすればいいわけですし、不快だったら、やっぱり自分なりに考えないといけないでしょ?
もし、近くに尊敬に値する人がいたら、その人を参考にして、ものすごくラフな形ではあるでしょうが、テンプレートのようなものもできてくるのでは?

テンプレートがあれば、見通しがよくなるので、トラブルも避けやすい。
全体的な見通しを元に、目の前の課題を処理するという対処もできる。
だから対処する時期とか、結果も見えやすい。
しかし、テンプレートがないと、目の前に発生した不都合を慌てて除去することくらいしかできない。まるで地図もない状態で、知らない場所をドライブするようなもの。
しかし、目の前に発生した不都合を除去しても、それが成果につながるというものではないでしょ?
成果につなげるためには、その大まかな流れを踏まえて、それを微調整するのがラクでしょ?だからこそテンプレートが重宝されるわけですよね?
そのようなテンプレートがないと、成果の見通しやトラブルの見通しもないまま。

見通しがしっかりできていれば、そこからの逸脱も認識しやすいし、対処もしやすい。
「どんな時期に、どんなことが必要か?」
「どんなことをしなくてはならないのか?」
「どんな準備があった方がいいのか?」
あるいは、「こんな状況になってしまったら、かなり注意する必要があるんじゃないか?」
そのようなことがある程度まで予想できていれば、ラクですよ。
そして、マトモ家庭出身者にしてみれば、自分の親のスタイルをそのまま使えるんだからラクなもの。

しかし、ダメダメ家庭出身者にしてみれば、そうは行かない。
だからこそ、まずもって、自分なりのテンプレートを探すためのテンプレートを探すという労力が発生することになる。
しかし、そんなテンプレートは、まあ、現実的に存在しない。
可能性があるとしたら、このサイトで頻繁に言及しております、様々な芸術作品となるわけです。

マトモな一般人にしてみれば、あの手の芸術作品は、単なる気晴らしでしかありませんが、ダメダメ家庭出身者にしてみれば、自分なりのテンプレートを見つけるためのテンプレートとしては、それくらいしかないといえます。

テンプテートは、枠組みのようなもの。
そこに自分なりのデーターを入れて使うことになる。
だから、見通しができ、物事がラクに進む。

テンプレートというものとは縁がないダメダメ家庭は、周囲の人がテンプテートを活用しているのを見て、自分も同じようにやっていこうと考える。
そのこと自体は結構なこと。
しかし、現状認識から逃避し、自分の希望も抑圧している人間なんだから、テンプレートを活用することもできない。
というか、テンプレートというもの自体が実感としてわからない場合も多い。
だから、本来はテンプレートとして、つまり枠組みとして活用すればいいものを、絶対視してしまう。

それこそ、実家の「やり方」を絶対視して、それを問答無用に当てはめようとして、説教ばかりの人間になってしまう。テンプレートとしてではなく、規範としてしまうわけです。
それは逆に言うと、実家について具体的に語れないし、相手に対してわかりやすく伝えることができないという意味でしょ?あるいは、実家が持っていた精神的な土壌については何も分からず、ただ形だけを受け入れているとも言えるでしょう。
それこそ、因業ジジババが、二言目には「昔はこうだった・・・」とか言うケースもありますが、それはテンプレートというか雛形として機能しているのではなく、規範となっている状態でしょ?だから、応用させることができない。

昔のやり方を参考にするにせよ、テンプレートとしては使える場合も多い。時代に合わせて、微調整すれば使えたりする。しかし、現状認識や自分で考えることから逃避するダメダメ人間は、問答無用の規範としてしまう。
何も実家を規範とするだけでなく、周囲にいる順調に行っているように見える人間を規範とするパターンもある。
規範としても、テンプレートとしては使えない。
だって、そんな人は自分なりの現状認識も、自分の希望もないんですからね。
枠組みだけを提供されても、使えるものではない。

そんな人は、規範からの逸脱があると、過剰反応して、「どうしてこんなことをするのよ?!」「あの○○のやり方をそのまま真似ればいいじゃないか!」と怒り出す。
そんな怒りを受けた側は、指定された「規範の形」にとにもかくにも合わせようとして、逆に、中身が空洞化してしまう。
その結果がどうなるのか?
そんなことは本来なら誰でもわかること。

以前の09年7月において、様々な心理ベースの問題について集中的に考えてみました。
幸福になるためには、現実的には「幸福になることができる枠組み」が必要になってくる。
幸福の可能性を認識し、その実現のために行動するためには、そのための枠組みが必要になるわけです。
それは、当人の努力で得られるものではなく、幼少時からの養育によって形成されるもの。
逆に言うと、ダメダメ家庭においては、幸福になることができる枠組みを持っていない。
まさに、幸福になるためのテンプレートがない。
だからこそ、少なくともその点を自覚しながら注意深く行動するしかないわけです。
しかし、抑圧的なダメダメ人間は、幸福になるためのテンプレートがないがゆえに、全体的な見通しが何もなく、何も認識せず、何も判断せず、結局は、その人が幼少時からの養育によって形成された「不幸に導く枠組み」に沿って行動してしまう。

当人としては、何も考えてはいないがゆえに、「ワタシは悪くない!」と言えてしまうわけですが、そんな弁明によって、言い訳ばかりのダメダメ人間を呼び込んで、ますます不幸に導く状況を作ってしまうことになる。また、何かあった後になって、「悪くない。」と言えるように、事前には何も自分で判断しないので、ますますトラブルが多くなってしまう。
そんな姿は、ダメダメ家庭の周囲には実に頻繁に繰り広げられているもの。

テンプレートという視点を使うと、家庭の問題を考えるにあたっても、色々と見えてくる。
それこそ、結婚する際にも、順調に夫婦関係をやっている夫婦を間近で見ていれば、それを自分が結婚する際のテンプレートとできるでしょ?そして、それは自分の両親となるのが「ふつう」でしょ?
そして、結婚を考えている相手をチェックするには、自分の親を基準として、つまりテンプレートにするのが自然だし、意識的ではないにせよ、誰もがやっていること。
それこそ女の子だったら、目の前にそれなりにうまく行っている両親がいるのなら、自分の父親とあまりに外れたキャラクターの人とは結婚しませんよ。
往々にして、この場合は、父親と配偶者の美質が共通しているもの。
まさに、家庭を維持するのに必要とされる資質が分かっていて、それを、また求めた・・・そんな流れとなる。

しかし、ダメダメ家庭の場合は、そんな単純には行かない。
ダメダメ家庭においては、抑圧的になってしまい、何も考えない状態で、結婚に臨むことになる。そもそももっともよく知っている夫婦関係は見るのもイヤなものなんですからね。
具体的な事例を考えたくないがゆえに、「結婚相手は誰でもいい。」なんて言い出し、相手について何も考えずに「てきとう」に結婚することになる。しかし、そんな人が選定した配偶者も、意外にも、自分の親と共通性が高いものなんですよ。ダメダメであるがゆえに、似てしまうことになる。

嫌いな面について明確に分かっていれば、選択の際に、その人なりに考えるわけですが、考えること自体から逃避してしまっているのがダメダメ人間。考えることから逃避する人間が、やり取り可能な人って、どんな人?
そもそも会話の能力がないダメダメ家庭の人間としては、今までやり取りをしたことがない新規のキャラクターだと、対応ができない。
まさに、会話のテンプレートというか枠組みが全く違ってしまっていて、やり取りにならない。
だから、結局は、その人がなじんでいるキャラクターと結婚することになる。
つまり、女性だったら、その女性の父親と実に似たキャラクターとなってしまう。
この点は、マトモ家庭の女性と同じといえます。
しかし、マトモな女性は、自分の父親が持っていた美質というか「いい点」が、配偶者にも共通として見られるのに対し、ダメダメな女性は、自分の父親が持っていた「ダメな点」が、結婚相手にも共通して見られることになる。

それこそ、やたら高圧的だったり、人に合わせてばかりで決断力がなく優柔不断だったり、無責任だったり、ズボラだったり、グチっぽかったり・・・と、悪い点は、実に共通しているもの。
子供にとっての保護者ではなく支配者であった親を持った女性は、配偶者も支配者タイプを選んでしまう。だって、他のキャラクターの男性とのやり取りはできないんですからね。その手の女性にしてみれば、問答無用の男性とのやり取りは慣れているわけでしょ?逆に言うと、人の話を丁寧に聞いてくれる人とはやり取りができない。
そのように、自分にとって「なじみ」の流儀が通用する・・・つまり、ダメダメさが共通する人と、また一緒になってしまう。

その結果がどうなるのか?
これは、もはやテンプレート云々ではなく、完全なお約束の世界でしょ?

いざトラブルになっても、マトモ家庭出身者だったら、トラブル対応のテンプレートがある。親がやっていたトラブル処理の方法が身になっている。相談の仕方なり、周囲の人からの協力の得かたなど、TPOによって、微調整は必要でも、基本線はわかっている。
しかし、ダメダメ家庭においては、トラブル対応のテンプレートもない。
だからこそ、いきなり「裁判だ!」と息巻いたりすることになる。
テンプレートがないので、トラブルを予防することが出来にくいだけではく、実際にトラブルになってしまった際の、対処も難しくなってしまう。

それこそ年賀状を書くような場合でも、テンプレートがあるとどんなに楽になるのか?
それについて思い起こしてみれば、生きていく上でのテンプレートはより重要なことがわかるでしょ?

自分にとってのテンプレートがないのならないで致し方がないわけですが、自分にとってのテンプレートについて、的確に客観的に説明できるようにしておかないと、結局は、不幸を導く枠組みに沿って、見事に不幸を達成してしまうだけなんですね。
 R.11/2/4