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カテゴリー | ダメダメ家庭が子供に与えない発想,精神 |
配信日 | 11年1月1日 |
タイトル | 充実感 |
ダメダメ家庭の人間は当事者意識がない。 自分なりの目標を持って、その実現のために、自分で努力するという発想そのものを持っていない。 そして、そんな努力不在の日々を「ふつう」と称し、自分勝手に大いに称揚することになる。 自分なりの目標を持って、その達成に向けて前進していることを実感できたら、ある種の充実感を持つものでしょ? 「その目標を達成するために、前々から準備を積み重ね、色々と努力をして、やっと達成できた!」 となると、目標を達成した瞬間に、そんな達成感を持つのと当時に、その達成のために一歩ずつでも前進していると実感できれば、それは充実感ですよ。 逆に言うと、目標の達成のために進んでいるという実感がなければ、充実感とは無縁でしょ? それこそ、ダメダメ家庭にお約束の「ふつう」なる状態ですが、その「ふつう」の日々のどこに充実感があるの? 充実感を持って生きていた日々を、後になって「ふつうの日々」だったと振り返ることはあるでしょう。 しかし、「ふつうの家庭を築きたい。」と言っていて、当人自身では何も考えず、周囲の人に盲目的に合わせるだけのライフスタイルには充実感はありませんし、結果的にふつうの家庭ではなくなってしまう。 充実感とは無縁の家庭が、「ふつうの家庭」であるわけがないでしょ? ダメダメ家庭の人間は当事者意識がなく、それゆえに自分の目標を掲げることはしない。 それだけでなく、ダメダメ家庭の人間は、被害者意識が強く、スグに自分の「持ち出し」と言うか支出を意識する。 だから、それに対する補償を求めることになる。 補償を求める行為によって、自分の被害を確認する儀式とするわけです。 そんな環境で育ったものは、「持ちだし」に対する補償というか「見返り」をしなければならないという強迫的な義務感を持ってしまっている。 このことについては、別のところにまとめております。 ダメダメ家庭の中においては、「これこれを、オマエのためにしてやったんだから、その分だけ、見返りをよこせよ!」という物言いが常態化しているわけです。 だから、何かをするにあたっても、まずは、その「見返り分」の返済に主眼が向かってしまって、自分自身の目標などは後まわしになってしまうのは当然のことでしょ? 借金を抱えていたら、まずは借金の返済が優先されますよ。 しかし、借金の返済は、自分の実現したい目標ではなく、つまり純然たるプラス方向ではなく、マイナス分の相殺に過ぎないわけでしょ? だからこそ、本当の意味で達成感が起きるわけでもないし、借金が減っていっている状態であっても、そんな日々に充実感を持つわけでもない。 借金の返済は、達成感というよりも、解放感に近いもの。 だから、自分の目標を達成した達成感や充実感とは違っているわけです。 そんな人は、仕事をする際においても、もらった給料分だけ働く・・・くらいの、持ちだしに対する補償に近い感覚となってしまう。自分で自分を追い立てる感覚なら充実感につながるわけですが、人から追い立てられている感覚だったら、たとえ結果的にそれなりの成果を得ても充実感にはなりませんよ。 だから、ダメダメ家庭の人は、仕事においても充実感を持ちにくくなってしまう。 そのメンタル面において、マイナスへの補償という面が強すぎてしまうわけです。 主体的というよりも、強迫的になってしまうわけ。 それに、これも別のところで書いていますが、ダメダメ家庭の人間は趣味を楽しむようなこととは無縁となってしまう。 趣味の世界で、自分なりの目標を立てて、楽しみならやっていれば、ある程度は充実感も得られるのでは? しかし、見返りに対する義務感を持っているダメダメ家庭の人間は、そもそも趣味のような「見返り」とは無縁の領域に対して敷居の高さを感じてしまう。心理的な余裕を持った上で、目標の達成のために自分なりに努力することにはならない。強迫的な心理で見返りについて考え、だからこそ、それが達成される解放感はあっても、充実感にはなりようがない。 じゃあ、そんな人は、どこで充実感を持つの? 趣味はないは、仕事も強迫的な心理状態で、達成感とは無縁だったら、どこで充実感を持つの? と言うか、現実的には、「ふつうの生活をしたい!」という名目を掲げることで、自分が実現したい目標を持つこと自体から逃避して、「充実感が得られないという状態」にならないようにするわけ。充実感を持つというシンプルな肯定形ではなく、「充実感がないことについて不満に思う」事態にならないように、希望というか目標自体を捨てるわけです。 充実感についても、いわば二重否定的というか四重否定的な対処をするわけです。 これだったら、何かと否定ばかりのダメダメ人間にも対処が可能となる。 まさに「ただ、ふつうの生活をしたいだけ!」と言うことにして、何も希望しないことにしてしまう。心頭滅却状態にするわけです。 しかし、そんな横で、充実感を持って、生きている人もいたりする。 充実感とは無縁なダメダメな人は、充実感を持って生きている人をケナすことで、自分の役割とすることになる。本来なら、人の行動をケナしても、自分の希望が実現されるわけがありませんが、希望そのものを捨ててしまっているんだから、人の活動をケナすくらいしかやることはありませんよ。 そんな人は、インターネットの掲示板にいっぱいいるでしょ? 希望を持って日々を生きている人をケナすのはいいとして、誰かをケナしているだけでは自分がミジメになることもあるし、やっぱり充実感を持って生きている人がうらやましかったりする。 かと言って、希望を捨てることで、ダメダメ家庭を生き抜いてきた人間が、自分なりの希望なり達成目標を掲げることは難しい。 とう言うことで、その人なりの充実感のネタとして、子供を持つことで、充実感のネタとすることを考える。 何と言っても、子供を持つことは「ふつう」のことですからね。 子供を持つことによって、「ふつう」願望と、充実感願望が見事にマッチできる・・・そのように考えるのも無理はないことでしょう。 それに、ダメダメ家庭の周囲には、同類のダメダメ人間が多くいる。周囲にいるダメダメ連中の中には、それこそ「子供によって愛というものを知ったわ!」と大喜びで語っている母親がいたりするもの。 この「子供によって愛というものを知ったわ!」という言葉についても、別のところでまとめております。「子供によって愛というものを知った。」と言うことは、別の言い方をすると、子供の側が親に対して愛を教えているということでしょ? 親が子供に対して愛を教えているのなら当然のことと言えますが、生まれたばかりの子供が大人に対して愛をどうやって教えるの? つまり、ダメダメ人間は、愛と言うことすら他力本願になってしまっている。 そんな他力本願のどこに充実感があるとでもいうの? 自身に充実感の原体験がないと、子育てで充実感を得ることも不可能ですよ。子育てで充実感デビューしようとしても、無理がありますよ。 趣味の領域で充実感も得たことがないような人間が、子供という、より扱いづらいものから充実感を得ることができるわけもない。 子育てに対して当事者意識がないダメダメな親は、「自分の子供を一人前の市民にする」という目標を掲げ、そのために努力するという発想そのものがない。 結局は、子供を犯人認定して、「上手くいかないのは、子供のせいだ!」という理屈を持ちだし、そして「報復」行為をすることで、自分を勝手に納得させる。 まさに「発生したマイナスへの補償」になってしまうわけです。 自覚もなしに、子供に期待しても、以前と同じ状況が繰り返すことは、小学生でもわかることですよ。 充実感を実感するためには、自分なりの目標を掲げることが大前提となる。 しかし、ダメダメ家庭の人間は、その目標自体も、誰かに依存してしまうわけ。 前記のように、子供を持つことにより充実感を安直に得ようとするパターンによる他力本願以外にも、「他者によって依存されるという関係性に依存」する共依存状態に陥って、「あの○○から頼りにされているから・・・」という大義名分を持ち出す他力本願もある。 「あの○○には、このワタシが必要だから・・・」という言葉は立派でも、自分なりの目標一つも掲げられないような人間が、その○○さんに必要も何もないでしょ? しかし、逆に言うと、自分なりの目標を掲げられないような人間であるがゆえに、「あの○○には、このワタシが必要だから・・・」という名目に逃げ込まざるを得ない。 そんな名目に逃げ込んで、「かりそめ」の役割を得たとしても、それが充実感につながるの? たとえ、充実感を持ったとしても、それは「かりそめ」であり、一時的なものですよ。 だって、サポートした対象の人だって、いつまでも頼ってくるわけではないでしょ? いつまでも頼ってくる状態だったら、その点こそが、まずはサポートする必要がありますよ。 他者へのサポートなんて、一時的なものであり、永続したサポートは、そのサポート活動の無意味さの証明のようなものですよ。 そんなことは小学生でもわかること。 結局は、持続した充実感を持つためには、自分なりの目標を持たないとね。 それに、そんなことは本来は簡単なこと。 逆に言うと、充実感とは無縁の人であれば、その人に達成したい目標自体が存在せず、つまり当事者意識がないことが見えてくる。 充実感とは無縁であるがゆえに、その手の人たちは、「ふつうになりたい。」と言い出すわけですが、逆に言うと、「ふつうになりたい。」と言っているがゆえに、具体的な目標も持たず、ダラぁ〜と日々を生きているだけになってしまって、充実感とは縁がなくなってしまうことになる。 結局は、かりそめの充実感に依存するばかり。 それこそ、クレーマーのような活動をしたり、市民運動によって、集団で何かに対抗して、「あの○○をやっつける。」ことに意義を見いだすことになる。あるいは、集団化した共依存と言えるボランティアの活動に入れ込むことになる。 それらは一見は通りがいいわけですが、自分なりの目標を掲げ、自分なりに努力することからの逃避と見た方が、その手の人の行動は理解しやすいわけです。 その手の活動は、まずは、「マイナスに対する補償」という二重否定のスタイルを持っているでしょ?だから、たとえ達成できても、解放感に近いものであって、プラスの目標を達成したというシンプルな肯定形とは違っている。 二重否定なんだから、二重の意味で、肯定からは遠い。 充実感とは、自分の時間を肯定している感覚でしょ? クレーム活動などの「かりそめ」の充実感は、二重否定のスタイルであり、結局は、自分の時間を否定することにつながるだけ。 充実感と言っても、何も難しいことではなく、それこそ自分の活動をシンプルな形で肯定できるようにすればいいだけ。マイナスへの対処となると、所詮は二重否定で終わってしまいますが、趣味の領域だったら、シンプルな肯定形で記すことができるような、自分なりの目標も作ることができるでしょ? 小さくてもいいから、そんな充実感の原体験がないと、その後になっても、自分の時間を肯定できるようにはなりませんよ。 充実感の原体験がないということは、自分の時間や活動を肯定したことがないということであり、何が充実につながるのか、当人自身が実感として分からない状態になっている。 前にも書いていますが、そんな人は、仕事でも充実感を持ち得ない。 充実感の原体験がない人が、生きる意欲を持てるわけがない。 逆に言うと、充実感を語れない人は、本質的に見ると、生きる意欲を持っていない、というか、努力しても持ちようもない。 それこそ、子供などの他者との関わりの中に充実感を期待しても、もともと原体験がないんだから、そんな人間によって育てられる子供にしても迷惑なことですよ。あるいは、知人のような対等の間柄でも、もともと充実感の原体験のない人とやり取りが成立していると言うことは、結局は同類なんですね。 そんな充実感不在のやり取りが積み重なっても、ますます潜在的な空虚感が増大するだけですよ。 ちょっとしたやり取りにおいて、充実感について語ってもらったら、相手について色々と分かるわけです。そもそも、充実感について何も語れない人と一緒にいて何が楽しいの? しかし、充実感とは無縁のダメダメ人間は、同類のダメダメ人間と結びついて、「ふつう」と称するダラぁ〜とした日々を送ることになる。 そんな家庭で産まれた子供は、どうなっちゃうの? と言うことで、マトモ家庭では充実感が世代に渡って積み重なり、ダメダメ家庭においては、充実感が何もない空虚な日々が世代に渡って積み重なっていくわけです。 |