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カテゴリー | ダメダメ家庭をめぐる環境 |
アップ日 | 11年1月11日 |
タイトル | 親・性善説 |
以前にメールマガジンで配信した文章で「子供を愛さない親はいない。」という言葉を取り上げております。 まあ、ダメダメにお約束の文言と言えます。 そもそも、その言葉は文法的に二重否定であって、その発想の根本として否定的になっている。 つまり、目の前にいる自分の子供を肯定した上での言葉ではないわけです。 目の前にいる自分の子供を肯定しているのなら、「オマエも何か困っていることがあったら、早めに言ってくれ。してほしいことがあったら、いつでもワタシに言ってくれ。親として最大限にサポートするよ!」とでも言いますよ。 逆に言うと、「子供を愛さない親はいない。」という二重否定で一般論的な物言いしかできないということは、その心理においては、自分の子供を肯定していないし、愛情も持っていないと言うことなんですね。 むしろ、その手の、通りがいい一般論は、自分は自分の子供に対して愛情を持っていないという自覚から逃避するための言葉と見ることができるわけです。だって、目の前にいる自分の子供に対して「何か困ったことはないか?」と聞くくらいは簡単でしょ?それができないことの方が、その状況を認識するのに有効になるわけです。 その「子供を愛さない親はいない。」というのは、いわば、「親・性善説」という立場と言えるでしょう。その「親・性善説」について、自分なりにしっかりと考えての上でのことなら、それはそれでその人の考えでしょう。だったら、その考えを、誰かから質問された場合には、相手に分かりやすく、そして、客観的に説明できないとウソでしょ? 「ねぇ?ねぇ?どうして『自分の子供を愛さない親はいない。』と言えるの?世の中には違う親もいるんじゃないの?」という質問を受けて、「うるさいっ!そう言うものなんだ!つべこべ文句を言うな!黙って従っておけ!」という回答だったら、それは、自分なりに考えた上で、「子供を愛さない親はいない。」と考えているのではなく、いかがわしい宗教団体などの洗脳と変わりませんよ。 しかし、この「親・性善説」に「従って」おくと、大人としては実に都合がいいことになる。 たとえば、学校において、とある生徒が問題行動を起こした。 と言うことで、学校として指導しなくてはならない。 本来なら、その生徒なりの考えや不満を聞いた上で対処する必要があるわけですが、「親・性善説」を掲げることによって、生徒からの不満をヒアリングせずに済んでしまう。 「親はすべて正しい!悪いのは全部子供のせいだ!」となり、まさに子供に対して、強圧的に指導することになる。 現実的に言うと、「親・性善説」によって、子供の側を犯人認定する心理的バックボーンとしてしまうわけです。 学校としても、指導対象が子供だと、ただ、怒鳴っていればいい。 しかし、「子供を愛さない親はいない。」という大前提を取り外し、親の問題まで考えると、対処が面倒でしょ? 教員としても、大人である親に対しては、怒鳴り散らしていればいいというものでもないでしょ? それに、親に対して説得するとなると、それ相応の説明能力なり説得力が要求される。 しかし、一般的な教員にそんな能力はありませんよ。 そもそも、対等な関係の人間との間でコミュニケーションが取れず、誰かに命令することしかできないから教員になっているわけだから、学校外の人間とのやり取りなんてできませんよ。 だからこそ、「子供を愛さない親はいない。」ということにして、子供に対して怒鳴り散らしていればいいだけの状態を維持したいわけです。つまり、この「子供を愛さない親はいない。」という言葉で、自分たちの精神的な怠惰さを守ってしまうわけです。 そして、そんな状況は、ダメダメな親にしても、実に都合がいいでしょ? 「子供を愛さない親はいない。」ということにすれば、子供の問題行動は、全部子供のせいになり、親の側は、出来の悪い子供を持たされてしまった被害者の立場になる。後は、嘆いていればいいだけ。 これが自分の子供に対して本当に愛情を持っている親にしてみたら、逆に言うと、自分以外の親が、その人の子供に対して愛情を持っているかどうかなんて、どうでもいいことですよ。 マトモな親としては、目の前にいる自分の子供の意向をちゃんと聞き、そして、親の意向を子供に伝えていくだけ。 逆に言うと、その学校や家庭がダメダメであるほど、「子供を愛さない親はいない。」という一般論的な美辞麗句が役に立つわけです。現状認識や、分析や、判断や、現状改善のため具体的な方法論を考えることから逃避するために都合がいい封印の護符として、便利に利用されてしまうものなんですね。 そして、「学校と家庭とが連携して」という別の美辞麗句を持ち出し、ダメダメ学校とダメダメ家庭が連携し、一緒になって子供に圧力をかけることになる。 と言うことで、子供はますます自分の意向を言えなくなってしまい、それゆえ、ダメダメ家庭もダメダメ学校も、相変わらず子供を怒鳴り散らしているだけ。 頻繁に書いていますが、ダメダメ家庭を作る親は自分たちのダメダメさが「ふつう」となるようなダメダメな環境を求めるもの。そんな地域にある学校がマトモなわけがないじゃないの? ダメダメな親が学校に求めるのは、「親である自分に面倒を持ち込むな!」と言うことだけ。 逆に言うと、学校が自分の子供に対して何をしようと気にならない。その面倒が親である自分に降りかかってくるようになったら、とたんに騒ぎ出すことになる。 ダメダメな学校も、そんな親の要求に応え、子供に対してだけに難題を押し付けることになる。 しかし、だからこそ子供が追いつめられて結果的に事件となってしまうのは、本来なら誰でもわかること。 そして、そんな事件があった後で、「親は君たちが考えている以上に、君たちのことを愛している。」なんて、やっぱり「親・性善説」を語ることになる。 その言葉は、以前に東京の女子中学生が、自分の父親を殺害した事件の後で、その女子中学生が通っていた私立中学校の校長が語っていましたよね? しかし、「親・性善説」を問答無用に語る校長だからこそ、その女子中学生も学校に相談を持ちかけることができないわけでしょ?あるいは、その中学校で、事件を起こした女子生徒とは別に、家庭内で困りごとを抱えた生徒もいるんじゃないの? そんな生徒は、その校長なり学校に相談を持ちかけられますか? そんなわけないでしょ? だって、「子供を愛さない親はいない。」という「親・性善説」は、別の言い方をすると、「悪いのは全部子供の側だ!」と言っているわけですからね。 逆に言うと、ダメダメな親にしてみれば、事件があった後で、「親は君たちが考えている以上に、君たちのことを愛している。」と説教するような学校に惹かれることになる。 だって、そんな学校に自分の子供を入れておけば、その学校側からは、もはや無条件で「子供を愛している親」という形で認められるわけでしょ?そして、不都合な事態は全部子供のせいにできる。 子供の話を聞く必要もないし、親としてサポートする必要もない。 だから、親としてはラクチンになる。 そして、「親・性善説」を元に、その手の学校は、二言目には「親に感謝しろ!」と子供に命令することになる。 それこそ、「君たちを産んでくれただけでも感謝しろ!」とのダメダメにお約束の説教までする始末。 親への感謝と言うことについても、マトモ家庭の子供だったら、親との間で多少のいさかいはあっても、学校から命令されなくても、それなりに親に感謝していますよ。 しかし、一緒にいて不快になるばかりのダメダメな家庭にいる子供としては、「親に感謝しろ!」という学校からの命令によって、ますます居場所がなくなってしまうし、学校などに相談しようにも、まさに門戸を閉ざした状態に見えることになる。 そもそも、「子供を愛さない親はいない。」と語る「親の側」はいても、「子供を愛さない親はいない。」と語る「子供」はいないでしょ? 「子供はまた子供を持っていないから、そのようなことが分からないんだ!」とおっしゃる方もいらっしゃるでしょうが、だったら、なおのこと、その「親・性善説」を子供にも分かるように説明することが必要じゃないの? 「子供を愛さない親はいない。」と語る子供がいるとすれば、それは、以前に書いた「若き説教ババぁ」のような問答無用のキャラクターの人に限られるでしょ? 子供にしてみれば、自分の親が自分に愛情を持っていればいいだけで、それ以外の一般論などは、まずもって子供当人にしてみれば関心がないわけです。 対象となる子供にフィットする言い方ができない時点で、そんな物言いも胡散臭いわけです。 それだけ、子供の意向が無視されていることが見えてくる言葉なんですね。 何回も書いていますが、面倒を子供に押し付けておける状態こそが、ダメダメ家庭やダメダメ学校には都合がいい。 だから、いったん、そんな状況が形成されると、どんどんと、ダメダメな親が集まってきてしまう。 虐待が多い地域だからこそ、自分は住みたくないと考えるのか? 虐待が多い地域だからこそ、親としてリラックスできると考えるのか? 子供の教育環境についての認識も、まさに二極化してしまうわけです。 実際に、公立の学校で選択制がある地域においても、わざわざトラブル多発の学校に自分の子供を入れようとする親もいるでしょ? それこそ、「偏見を持ってはいけない!」とかの美辞麗句を持ち出し、わざわざそんなトラブル多発の学校に自分の子供を入れてしまう。 トラブルが多発するがゆえに、ダメダメ家庭の親としては、自然体のダメダメでいられることが期待できるわけです。 前にも書いていますが、「親・性善説」は、別の言い方をすると、「悪いのは全部子供のせいだ!」と言うことになる。直接的に子供が悪いとはならない場合には、「時代が悪い。」とか「政治が悪い。」とかの考えを持ち出すことになる。 そんな言葉に対して、『しっかし、そんなに悪い時代と分かっているアンタが、よくもまあ、子供を作ったねぇ?いったい、アンタは何を考えていたの?』とか言われると、「どうして、そんなことを言うのよ!キーっ!」とお約束の逆上となるだけ。結局は、子供のことは何も考えていないんですね。 現実無視の正論が跋扈している状態は、逆に言うと、現実というものに対し、真摯に向き合っていないということ。 その手の状況で登場してくる正論は、その人なりに信念を持って立派な正論を語っているのではなく、自分で考えたくないがゆえに、自分では説明したくないがゆえに、既存のとおりのいい言葉として持ち出されているだけなんですね。 そのような状態は、現実逃避で自己逃避のダメダメ人間にしてみれば、心休まること。 親・性善説を大前提にしてしまえば、「自分は自分の子供にとっていい親なのか?」について自問自答しなくても済むことになる。 親でありさえすれば、子供への愛情は国家レヴェルで認定されてしまう。 それこそ秋葉原の通り魔事件の犯人を育てた親ですら、子供への愛情は国家レヴェルで認定されてしまっている。 だからこそ、インターネットがどうのこうのとか、派遣労働がどうのと本質論から外れた議論になってしまう。 そして、同じような事件が起こることになる。 犯人の個人的な問題のせいにしておけば、あるいは派遣労働のせいにしておけば、「自分は、いい親なんだろうか?」「子供に対して、本当に愛情を持っているのか?」「子供の意向をくみ取っているのか?」「あんな親のようなことを、自分もやっているのではないか?」と自問自答する必要はないでしょ?それは自己逃避のダメダメ人間にしてみれば、ラクチンと言える。 自己逃避の人間にしてみれば、自分の子供について考えることは心理的に負担になる。 だから、一般論を連呼していればいい状態だと心理的にラクとなる。 一般論ばかりなので、自分の子供について考えなくてもいい。 そればかりではなく、その人が子供時代に体験した、その人の親についても何も考えない。 ただ、一般論を連呼するばかり。 実際に、「子供を愛さない親はいない。」と堂々と放言する人に限って、自分の親について語れないでしょ? 結局は、自分の子供や自分の親の問題を考えることから逃避するために、一般論に逃げ込んでいるわけです。 つまり、「子供を愛さない親はいない。」という「親・性善説」は、自分の目の前にいる子供に対する無関心や、自分自身からの逃避を、正論風に言っただけなんですね。 以前にメールマガジンで取り上げたアルベール・カミュの「異邦人」での表現を使うと、「やさしい無関心」そのもの。 と言うことで、そんな現実無視なり子供への無関心が許される状況にダメダメ人間が惹かれて集まってきてしまい、地域の学校も、そんなダメダメ家庭にフィットしたものになり、そして、結局は、そのひずみは子供に集約することになってしまう。 周囲の大人たちが、現実逃避している分だけ、子供の側が現実の問題を背負ってしまうことになる。そのようにダメダメがスパイラル進行してしまう。 そんな流れは、例示した女子中学生の事件だけでなく、その前段階といえる「登校拒否」などにもその典型でしょ? 前にも書いておりますが、現実的に見れば、自分の子供に対して適切に関心を持つマトモな親は、「親・性善説」を熱心に語ることはありませんよ。 自分の子供という身近で具体的な存在について語るだけ。 「子供を愛さない親はいない。」という二重否定形式の一般論は、何事も否定的に見て、具体論から逃避するダメダメ家庭には都合がいい。 だからダメダメが引き寄せられる。 そして、負荷が子供に集約して、子供が事件を起こして、また高らかなご高説が飛び交うことになる。 そして、そんなご高説によって、結局は、もっと多くのダメダメな親を引き寄せることになる。 そして、また事件が起こる。 ダメダメ家庭の周囲って、実際にそんな流れになっているでしょ? |