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カテゴリー ダメダメ人間の自己逃避
アップ日 11年1月18日
タイトル 自己逃避における男女の違い
このサイトは、03年から10年にかけて配信しておりましたメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」のバックナンバーを収録したものです。
メールマガジン配信時において、ロシアの文豪トルストイの「アンナ・カレーニナ」を取り上げております。「アンナ・カレーニナ」という作品から機能不全家庭を考えるための有効な示唆が得られるんですね。

私としては、「アンナ・カレーニナ」の中心テーマを自己逃避と見ております。
実際に、その「アンナ・カレーニナ」の中には、「見たくない!」「見せないで!」というアンナさんのセリフが頻発しているんだから、まさに自己逃避であり現実逃避そのものですよ。

もちろん、作品の受容の仕方は、人それぞれと言えるでしょう。
「アンナ・カレーニナ」という小説を、偉大なる恋愛小説と読む人が多い・・・らしい・・・のも、それはその人の勝手というもの。
ただ、じゃあ、「アンナさんは、情夫というか彼氏のウロンスキー伯爵のどの点を好きなの?」
そのように聞かれると、恋愛小説と読んだ人も、もはやその時点で止まってしまうでしょ?
アンナにとっては、彼氏のウロンスキーは、所詮は自己逃避の具現化にすぎないわけです。
その自己逃避のための道具が、以前は、夫だったアレクセイ・カレーニンだったり、その間の子供だったり、その後に、情夫のアレクセイ・ウロンスキーになったというだけ。
だからこそ、夫も、情夫も、同じアレクセイという名前になっているわけです。
恋愛小説にするつもりだったら、夫と情夫では名前を変えますよ。あえて同じ名前にしているところから、作者の意図も見えてくるわけです。

この「アンナ・カレーニナ」という小説は何度も映画化されております。
だから、DVDなどにもなり、発売されています。
映像化に当たっては、それぞれに特徴がありますし、そのキャッチコピーも色々とあるようです。
一般の人に対して、「このアンナ・カレーニナという作品は自己逃避的なキャラクターについて、詳細に描いた作品です。」という売り文句は、現実的には成立しないでしょう。
もっと扇情的で、ケバい売り文句になってしまうのもしょうがない。
それこそ、日本の映画評論家がするような「泣きました!みんなも見てください!」なんて文句が効果を持ってしまう程度の連中に対しては、扇情的でケバい文句しか通用しないでしょう。
そんなケバい文句の一つとして、「トルストイはアンナを自身の理想の女性として描いた!」というのがあったそうです。
まあ、ここまで来ると、ケバいというよりも、バカそのものですよ。
そんな売り文句を言い出した人は、DVDに収録された映像については、一応は見たのでしょうが、原作は読んでいないでしょうね。

ただ、文章読解力が低い人は、どんなストーリーでも恋愛作品として読んでしまう。
人は、自分の見ているものしか、作品から読み解くことはできない。
恋愛ということについては、誰でも、相応の実感があったりする。だから、恋愛の観点からストーリーを見てしまうのも、しょうがない面もあるでしょう。
なんと言っても、自己逃避的なキャラクターは、認識すること自体が難しい。自己逃避的であるがゆえに、何も考えずに人に合わせているだけのことが多く、それゆえに、一般的には目立たないことも多い。だから、一般の人は、自己逃避的なキャラクターという視点そのものを持ち合わせていないもの。ですから、この「アンナ・カレーニナ」という作品を、自己逃避という点から、詳細に読み解くことができる人は、そんなにいるわけでもないでしょう。

それに、そんなことができる人間が幸福かというとまったく別問題。
しかし、私としては、まさに、ここで描かれているアンナ・カレーニナと実に似たキャラクターの人と実際にやり取りをしていますし、この作品で出てくるセリフなども、実際に聞いたり、いただいたメールなどで記述されているのを読んだりしています。
そもそも実感の度合いが違っているわけです。
私としては作品を鑑賞しているというよりも、作品を通じて、かつての実体験を思い出すくらいになっているわけですからね。
作品を読みながら、「ああ!あの際のやり取りでもこんな感じだったなぁ・・・」「あれれ?このセリフを私も実際に言われたよ!」「あ〜あ、トルストイさん!アンタも色々と苦労したんだねぇ・・・」となるんですからね。

さて、作者のトルストイは男性であり、主人公のアンナは女性です。
と言うことで、「トルストイはアンナを自分の理想の女性として描いた。」・・・なる文句となるんでしょうね。
まあ、トルストイの奥さんは、あまり芳しからざる評価を受けていますからね。その反動として、彼が作品の中で、理想の女性像にこだわったと見てしまうのも一般人の属性というものなのかも?
しかし、奥さんとしても夫のレフから暴力を受けていたんだから、夫に優しくというわけにはいかないでしょう。
それに、理想の女性という言葉はいいとして、アンナさんのどの点が理想的なの?
容姿端麗なところなの?
あるいは、情熱的なところなの?
しかし、情熱的という言葉はいいとして、アンナが情熱的に取り組んでいるものは、具体的には何なの?
情熱的なキャラクターとかのレッテルはともかく、彼女は、何一つ主体的に取組んでいないでしょ?
まるで田中真紀子さんのように、キャーキャー騒いでいるだけでしょ?
実際問題として、アンナさんは、扇情的かもしれませんが、情熱的ではありませんよ。

さて、私としては、アンナの中心的なキャラクターを自己逃避と見たわけですが、恋愛小説だったら、自身の理想像を、作者とは違う性別の登場人物に託するような描き方にすることもあるでしょう。
作者が中学生だったら、特にそんなものなのかも?
「あ〜あ、こんな女性がいたらいいなぁ・・・」
「こんな魅力的な女性が、ボクの前に現れたら!!」
「ボクちゃんも、こんなステキな女性と恋をしてみたい!!」
まあ、中学生だったら、そんなものなのかも?
いや、まあ!若いって、いいねぇ!
しかし、まあ、アンナ・カレーニナを書いた頃のトルストイは、思春期まっさかりの「恋に恋する」青少年じゃあない。

しかし、自身の理想の女性像を、作品の中に描き出すという流れは、かつての青少年には理解しやすいんでしょうね。
そうして、理想の女性像 → 偉大なる恋愛小説となる。
恋愛小説と読むから、ますます理想の女性像と読むことになる。
逆に言うと、だからこそ、アンナはトルストイの「希望を投影」した存在とされてしまう。

しかし、別の考えもあります、
芸術作品においては、自身の相反する面を2人の登場人物に分割して表現することをよくやります。以前にメールマガジンで取り上げたアニュエス・ヴァルダ監督の「歌う女、歌わない女」という映画がまさにそのパターンでした。
監督のヴァルダさんは、自身の知的でメランコリックな面と、快活で芸術的な面を、2人の女性に分割した形で作品にしました。
作者というものは、理想の女性像などを、わざわざ懇切丁寧に文章にしたりはしませんよ。むしろ、自身の相反する面を、様々な登場人物に割り振って、作品を通じて、自分自身との対話を行うわけです。
作者にとって、作品とは自分との対話の客体化なんですね。

つまり、「アンナ・カレーニナ」という作品において、アンナという人物はトルストイ自身の自己逃避的で現実逃避的な面を表現しているわけです。
そして、アンナと対称的な形で描かれているキティとレーヴィン夫妻にも、トルストイのキャラクターが反映されているわけです。多くの作品を作り上げ完成させるためには、現実的で地道な努力や作業が必要になってくる。理想の女性を夢見ているだけでは、作品としては結実するわけもない。

つまり、夢ばかり見ているアンナもトルストイであり、現実を直視し、地道に対処するキティもトルストイそのものと言えるわけです。
恋愛小説だったら、自分とは違った性別の登場人物に対して、自分自身のキャラクターを投影することはないでしょうが、中心的なテーマが自己逃避ということだったら、性別などはどうでもいいわけです。

と、長い前置きでしたが・・・
「しかし、どうせ自身を投影するのなら、やっぱり同じ性別の登場人物の方が自然なのでは?
何も違う性別の登場人物に投影しなくても・・・それこそ、映画監督のヴァルダさんは、自分と同じ性別の女性の登場人物に自身を投影したわけだし・・・」
「もしかしたら、トルストイは自身の自己逃避を直接的に見つめるのが心理的に負担になってしまうので、性別を変えるというワンクッションを置いたのでは?そもそも自己逃避を真摯に見つめたら、それは自己逃避ではなくなってしまう。だからワンクッション置く必要もあるのでは?」
・・・なる指摘というか質問が、私の文章をお読みになられた方よりありました。

なるほど、なるほど・・・

そんな視点が間違いというわけではないでしょう。
しかし、もっと現実的な問題があるわけです。
自己逃避をテーマとし、自己逃避的なキャラクターをストーリーの中心的な人物としてしまったら、それは女性でないと、ストーリーが現実的に成立しないんですね。

それこそ、自己逃避で現実逃避的な男性を主人公として、ドラマを作ってみましょう。
じゃあ、どんなストーリーになるの?
その男性でどんなドラマを起こすことができるの?
21世紀の日本を舞台として考えてみましょう。
「朝起きる。パソコンの電源を付ける。インターネットの掲示板にアクセス。そこで文章を書きこむ。夜になる。寝る。」
まあ、こうなっちゃうでしょ?まあ、朝と夜が逆転することはあっても、それ以外はそんなものでしょ?
これじゃあ、ストーリーも何もありませんよ。
現実逃避で自己逃避的な男性だと、ストーリーとしては広がりようがないわけです。

これが女性だと、話は全然変わってくる。特に容姿端麗な女性だったら、逃避的なキャラクターであっても、色々なシチュエーションが起ることになる。
それこそ、学生時代から容姿端麗でチヤホヤされる。
周囲からナンパもされたりする。
自己主張をするわけでもないので、その点を気に入った男性からプロポーズがあったりする。
そして、「な〜んとなく」で結婚してしまう。
そして、「な〜んとなく」で、妊娠し、出産する。
「な〜んとなく」で子育てしているので、子供の側からトラブルとなる。
当人自身は、主体的に判断しているわけではなく、「な〜んとなく」で生きているだけなので、トラブルが発生したら、「ワタシは何も悪くはないわ!」「何も間違ったことはしていない!」と被害感情となってしまう。
そして、周囲に対して、その被害感情を語り、その被害感情に同調した人が寄ってきて、大いに盛り上がる。
そして、「こんなことになってしまったのは誰のせいなのか?」と犯人探しをして、報復することを考える。
まさに「復讐するは、我にあり。」との「アンナ・カレーニナ」の冒頭となる。

こんな流れは、21世紀の日本においても、現実に見られるものでしょ?
そして、このような流れは、女性でないとあり得ないことでしょ?
女性だから、受け身の立ち位置でも何とかなってしまう。
男性からのプロポーズを受けたり、ナンパもされることになる。
そして、被害感情を叫ぶことに対しても、女性だと、周囲からも同調が得られることも多い。

男性だと、能動的な役割が期待されることも多く、それゆえに、自己逃避的な人間としては、周囲との関わりが発生しようもない。しかし、受動的な立ち位置で関わることができる女性としては、自己逃避で現実逃避であっても、現実における関わりも発生することもある。
自己逃避的なキャラクターをドラマの主人公とする場合には、主人公が女性でないと設定としてあり得ないわけです。

このような事態がフィクションの中だけだったら、それは純然たる解釈論の話になるでしょう。
ただ、現実においても、自己逃避的で現実逃避的なキャラクターを持つ女性であれば、まさに「流れ」に乗ってしまうことにより、様々なシチュエーションが発生し、まさに様々なトラブルが発生してしまうんですね。
男性だと、引きこもったり、自殺したりするくらいなので、それほど大きな問題にはならない。女性だからこそ、子供を持ってしまったり、「復讐するは、我にあり。」ということで市民運動のようなものに逃げ場を設定することもできてしまう。

女性だと、過激な活動に至らない日常性との関わりも発生してしまうわけです。
つまり、自己逃避という本質が潜在化され、「悪いのは全部○○のせいだ!」と、誰かや何かを犯人認定する言葉が、自己逃避を覆ってしまうことになる。
そして、そのツケは子供に集約することになる。
まさに、アンナ・カレーニナが自分の実の子供をネグレクトしたり、気分次第で構ったりするような事態になってしまう。
自己逃避的な人間は、自分が親になった状況において、逃げ場があるよう状態であれば、子供に構うこともできるわけですが、退路を断って腰を入れた状態で子供に関わることはできないわけです。
だからこそ、自分の子供を放っておいて、ボランティア活動や、抗議活動や、宗教活動や、あるいは政治活動などに明け暮れることになる。

そんな母親は、現実に多いでしょ?
そんな母親を理解するには、自己逃避や現実逃避という視点で見ると、見通しがよくなるもの。
自身にとってもっとも身近な現実から目を背け、いざとなったら、スグに逃げられるものに首を突っ込んで、ワイワイと騒ぐ。そして、騒ぐことによりますます自己逃避してしまう。
そのようなキャラクターは男性にもあるわけですが、女性だとそんな活動がやりやすいわけです。

逆に言うと、やたら余計なことに首を突っ込みたがる女性がいたら、その出身家庭や、その女性が親となって作っている家庭についても、想定ができるものなんですね。
女性だからこそ、その機能不全が今のところは顕在化していないわけですが、機能不全であること自体は男性の場合と変わらない。
機能不全が男性だと顕在化しやすく、女性だと潜在化しやすいというだけで、どちらにせよ、家庭を維持し、子供を育て上げる機能は持っていない。
そして、そのような子供を育てる機能が不全となっている女性に対して、「子供を愛さない親はいない!」「子供には母親が必要だ!」という一般論で弁護してしまう。
だからこそ、その本質としての自己逃避がますます見えにくくなってしまう。
ということで、子供がますますツケを背負うことになってしまう。

自己逃避であれば、日常性の中に生きていることもできる。
しかし、その逃避的な心理が、より意識化され、否定という形になると、自己否定であり、現実否定となってくる。こうなると、現実の日常性との関わりは完全に断絶されてしまう。
まさに、ダイビングする前のアンナ・カレーニナがその状態といえます。
そして、逃避ではなく、否定として意識化されると、男性でも活躍することになる。

それこそ、秋葉原の事件のようになってしまう。
現実否定であり、自己否定行為となるわけです。
あるいは、有名な革命家のチェ・ゲバラなんて、革命運動への参加は現実否定であり、最後には、死に場所を求めて彷徨っているんだから、自己否定そのものですよ。

しかし、そこまで明確な否定状態だと、完全に顕在化されてしまって、後に引きずることもない。
潜在化された状態といえる自己逃避で留まっているがゆえに、子供への負荷に対しても目を向けて行く必要があるわけです。

と言っても、「トルストイはアンナ・カレーニナを自身の理想の女性として描いた!」なんて言っている人が考えてもムリでしょうが。
逆に言えば、その程度の人は、その人自身の眼前において、現在進行形で起っている問題も見えていないわけです。程度問題は別として、自己逃避状態といえるでしょう。
というか、自分の実の子供をネグレクトして、養子をかわいがっている母親を理想としているんだから、まさにそんな様相となっているわけです。
そんなキャッチコピーを作った人や、そんなキャッチコピーを喜ぶ人が作っている家庭もかなりマズイ状況になっているでしょうね。