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カテゴリー | チェックポイント |
アップ日 | 11年1月20日 (11年2月1日 記述を追加) |
タイトル | 競争相手 |
「食べるものも食べられないアフリカの子供のことを考えろ!オマエは食べられるだけで幸せだ!」と、ダメダメな親はよく言ったりするもの。 あるいは、「戦争があった頃は、もっと大変だったそうだ!今は平和でいいじゃないか!いったい何が不満なんだ?!」そんな物言いもダメダメ家庭ではおなじみと言えるでしょ? あるいは、テレビなどで、児童虐待の事件があったりすると、「あのかわいそうな子供のことを考えろ!オマエは親から殺されないから幸せなんだぞ!親から殺さないことを感謝しろ!」と要求することになる。 さて、その「食べるものも食べられないアフリカの子供のことを考えろ。」という要求ですが、それは、別の言い方をすると、「食べるものも食べられないアフリカの子供」と、そのような言葉を語る人の「目の前にいる自分の子供」が同じ土俵で競っていることになるでしょ? そして、同じ土俵で競って、「食べることができる自分の子供の勝ち!」となる。 論理的にはそうなりますよね? 勝ち負けが成立するということは、同じ土俵にいるということ。 つまり、序列とか順番の面では違いがあっても、格としては同じになっているわけです。 何も日本の子供と、アフリカの子供は人間として格が違うとかを申し上げているわけではありませんが、現実的には、境遇の面を見てみると、格が違っているのでは? だって、片や、「食べるものも食べられない」わけですからね。 自分の子供は、そんな境遇と同じ土俵ということなの? あるいは、自分の親から殺されてしまうような境遇の子供と、自身の子供の境遇は本来は土俵自体が違っているものでしょ?比較対象としては不的確と言えるのでは? それこそ、土俵というと、お相撲さんの世界では、最高位である横綱と入門したての新人さんは、同じ土俵で練習はしても、勝負はしないでしょ?だって格が違いすぎるんだから、当然のことですよね? 逆に言うと、競っている相手とか、比較している相手から、その人の「格」が見えてくるわけです。 それこそ、ホームレスの方を襲撃して喜んでいる若い人もいるわけですが、そんな行為からホームレスと同じ土俵となってしまっている心理が見えてくるわけです。 同じ土俵だからこそ、その序列というか順番を決定する必要がある。 だからこそ、「争い」のようなものが必要となってしまう。 つまり、「どちらが上か?」を決定する必要が出てきてしまう。 そのように考えると、ホームレスの方を襲撃する事件の心理も理解しやすいでしょ? あるいは、インターネットの掲示板で、やたら熱くなっている人もいますよね? 熱くなっているということは、同じ土俵で競っているということでしょ? つまり、格としてみた場合には同格なんですね。 同格だからこそ、序列を決定する必要があり、だからこそ「相手に勝とう」として熱くなってしまう。 格が違っていれば、熱くはなりませんよ。 それこそ、動物園に行った場合に、檻の外から動物を観察し、その動物の特徴を説明していくのか?あるいは、檻の中に飛び込んで、その動物との間で熱いバトルをするのか? その動物について語ったり、やり取りするにせよ、そのスタンスの違いはあるでしょ? このサイトでは、インターネットの掲示板に入れ込んでいる人たちなり、韓国人なり、ボランティアの連中について頻繁に言及しておりますが、檻の中に入ってバトルをしているつもりはありません。そのようなことは、文章をそこそこ読める人だったら、分かっていただけるでしょう。 檻の外から、その動物の生態を詳細に説明しているだけです。 あるいは、別の動物とも共通性の高い特徴についても、その特徴を持っている実際の動物を例示しながら説明していった方が分かりやすいでしょ? ライオンと虎の共通性について説明するには、ライオンか虎のどちらかを指し示しながら説明した方が効果的ですよ。 と言うことで、ダメダメなどーぶつの生態について、檻の外から、檻の中のどーぶつを指し示しながら、例示しているだけですよ。 その人の立ち位置が決まれば、それに相応して、競争相手がおのずと決まってくる。 逆に言うと、その人の競争相手から、その人の立ち位置が見えてくるわけです。 別のところで触れましたが、ソ連の作曲家であるドミトリー・ショスタコーヴィッチは、お弟子さんに対して、「才能もないのに、要領よく立ち回って、周囲から認められる作曲家に対して嫉妬なんかするな!ベートーヴェンやチャイコフスキーのような有り余る苦悩と才能に対して嫉妬しろ!」ということを言ったそうですが、それは、今回の文章で言うと、「ベートーヴェンを競争相手とするくらいの気持ちを持て!」と言うことでしょ? 確かに、その気構えが重要ですよ。「ベートーヴェンを競争相手」とするから作曲も精進する気持ちになる。しかし、要領よく立ち回っている作曲家ばかりを意識したら、要領の良さしか向上せず、芸術的な能力は置き去りになってしまいますよ。 だから、少なくとも、気構えとしては「ベートーヴェンが自分のライヴァルだ。」くらいの意識でいないとね。まあ、芸術の世界だったら、気構えだけで何とかなるものでもありませんが・・・じっさいに、ショスタコーヴィッチのお弟子さんで有名な人はいないし・・・ ただ、目線は高いところにおかないとその人も向上しないでしょ? ダメダメ家庭の人間は、「根拠のない自負心」を持っていることが多いことは、以前にメールマガジンで配信しております。 達成したものが何もないのに、「オレはスゴイんだ!」と勝手に思っていて、周囲に対して主張したりする。 しかし、具体的な成果もないので、本当の意味で自信になっていない。 だから、何かとバトルを起こして、勝ちを得ることで、順番というか自分の序列を上げようとすることになる。 しかし、そのバトルの相手こそが、その人の土俵を表しているわけです。 ケンカ相手や競争相手は、当人の鏡なんですね。 それこそ、芸術というか芸能分野だと、「オレは人間国宝だ!」と豪語していた若い人がいらっしゃったそうですが、そんなことを、一般人やチンピラ相手に自慢している時点で、土俵が一般人ということになります。どうせバトルをするくらいなら、ローレンス・オリビエとかの名優とバトルするくらいの気持ちを持たないとね。 何も演技の分野だけでなく、歴史に残るような絵描きとか作曲家とバトルすれば、あるいは、別の分野の人間国宝さんとバトルをすれば、そのバトルによって得るものもあるのでは? まずは、そんな歴史に残るようなアーティストを、つまり自分のライヴァルとなりそうなアーティストをみつけないとね。 そんな眼力がなければ、逆に言うと、その程度ということ。 まあ、だからこそ、一般人相手にケンカとなってしまうのかな? バトルの対象が、一般人だったら、いつまでもそんな程度ですよ。 そして、そのバトルに勝って、「オレの方が上だ!」と大喜び。 そんな姿は、ホームレスの人を襲撃して喜んでいる若い人とメンタル的には同じなんですね。 あるいは、インターネットの世界で、誰かのブログやホームページに攻撃する人もいますよね? しかし、攻撃を仕掛ける人は、自分の考えを説明する能力はない。単に、粗暴な言葉を投げつけて大威張りするだけ。 「コイツは気に入らないことを書いている!」ということで誰かを攻撃するのはともかく、自分の考えを客観的に説明する能力がないんだから、実際問題としては、攻撃対象と同じ土俵ですらない状態でしょ?誰かが、バカことを書いていると思ったのなら、本来は、放っておけばいいだけですよ。あるいは、どうしても相手に分って欲しいことがあるのなら、自分なりの客観的な説明をすればいいだけ。 いきなりケンカ腰で文句を付ける段階で、現実的には攻撃対象よりも低レヴェルということ。 一方的な物言いをするだけで、やり取りにはなっていなければ、それはバトルとは言えませんよ。土俵の上で勝負するのではなく、土俵の横から砂を掛けてトンズラするようなもの。 バトルの相手からその人の格が見えてくるわけですし、バトルの相手にもしてもらえないということは、結局は相手よりも格下ということ。 あるいは、頻繁に言及しますが、ドメスティック・ヴァイオレンスの分野で大騒ぎをするボランティアは「加害者」の男性をつるし上げて大喜びしています。しかし、そんな行動は、現実的に見ると、暴力オトコと同じ土俵で争っているといえるでしょ?ボランティアの連中は、ただ数の力があるから、そのオトコに勝つというだけ。 本当にその手の暴力オトコと、人としての格が違うのなら、同じ土俵で力勝負などはしませんよ。だって、その手の暴力オトコなんて、精神を病んでいるようなものでしょ? やり取りをするだけバカらしいものですよ。「被害者の女性」を救出できればそれでいいわけでしょ? しかし、結局はボランティアも、相手を問答無用に支配するだけなんですね。 だから、暴力オトコと同じ土俵で競争し、そして勝利し、「人を見る目」がない人間を、暴力オトコに成り代わって支配することになる。 格が違うのなら、女性への啓蒙に力を入れますよ。しかし、その手の女性が人を見る目がついてしまうと、まずもってその手のボランティア自身が避けられてしまう。 「な〜んだ!ボランティアの連中も、あの暴力オトコと結局は同じじゃないの?」と見透かされてしまうだけ。 ボランティアが、暴力オトコと同じ土俵で力勝負することも、結局は同じキャラクターであることの証明なんですね。 バトルの相手は基本的には同格になっているもの。 憧れの対象なら、逆に言うと、格が違うと言えるでしょう。 自分とは違っているものを持っているからこそ、憧れるわけでしょ? それこそ、天才というものは、一般人に憧れるもの。 それこそ、「あ〜あ、凡人はいいなぁ・・・」という憧れの言葉は、凡人は言えない。 逆に、「フン、オマエは、しょーもない凡人だ!」面と向かって人を罵倒したら、罵倒した側も凡人と言うこと。 しかし、天才は一般人に対して、腹立たしい思いはしてもバトルはしない。 だって、持っているものが違うんですから、比較しようがありませんよ。 一般人は天才に憧れる・・・こともある。 しかし、やっぱりバトルにはならないでしょ? 天才は天才とバトルし、一般人は一般人とバトルする。 そして、ダメダメな人は、ダメダメな人とバトルする。 つまり、ダメダメな人とバトルしていれば、その人もダメダメということ。 それこそ、画家のゴッホは画家のゴーギャンに入れ込んだり、モメたりしても、ご近所の一般の善良な人とバトルはしなかったでしょ?その手の一般人は絵のモデルとして使っただけ。 その相手に絡むのは、当人にとって一番リアクションがあると思っているからこそであり、一番リアクションがあるということは、格が同じということ。 ダメダメ家庭の親は、自分の子供を、「食べるものも食べられない」境遇や、「自分の親に殺される子供」や、「戦争で明日死ぬかもしれない境遇」と比較することになる。 そして、「ウチの子が勝っている!」と大喜びすることになる。 あるいは、「生きているだけで幸せだ!」という言葉を持ち出し、「生きていない人」つまり死人との比較をやりだすことになる。 片や、もう死んでしまっているという状態であり、片や「死んではいないけど、もはや、生きる屍となってしまっている状態。」と言える。しかし、その間の比較となると、「生きる屍」の勝ちとなる。 そうして、ダメダメな親は、「ウチの子は、死んでいないんだから、幸せだ!ああ!オレって、なんてすばらしい親なんだろう?!」と自画自賛となる。 ギャグを書いているように思われる方も多いでしょうが、それがダメダメ家庭の現実なんですね。 そんな家庭で育ってしまうと、自分より下の存在を見つめたり、思い出したりして、その比較により、「ボクはまだましだ!」と自分を納得させるようになってしまう。 それこそ、ラッセ・ハルストレム監督の出世作といえる「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」という映画では、親から見捨てられたイングマル少年が、「ボクは、ロケットで宇宙に放り出されたライカ犬よりはましだ。」と自分を納得させるシーンがありました。 そんな少年の心情が、そのまま、映画のタイトルとなっているわけですが、本来は、宇宙に放り出される犬と比較している段階で、人間としては、かなりマズイと言えるでしょ? その映画では、イングマル少年は、田舎の珍妙な人達とのふれあいを通じて、凍てついた心も溶けていくわけですが、現実においては、自分よりも下を見ないと精神的な不安に陥るようになってしまう。つまり、ますます心が凍てついた状態になってしまう。 だから、ボランティア活動をして、不幸な人たちを見ようとしたり、インターネットの掲示板に入浸って、「イタイ」人間を探そうとする。そして、同じ土俵でバトルをする。 逆に言うと、そんな競争をしている時点で、競争の対象者と土俵が同じになっていて、そこに安住しているんですね。 |
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R.11/2/1 |