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カテゴリー このメールマガジンそれ自体について
アップ日 11年1月22日 
タイトル 思考の道具
このサイトというか、以前に配信していたメールマガジンの文章に対して様々な感想があったりします。
もちろん、どのような感想をお持ちになってもお読みになられる方のご自由でしょう。

意外に?多い感想として、「決めつけがスゴイ!」という感想があったりします。
この文章を書いている私としては、様々なマターに言及しております。
それこそ、韓国の問題なり、ボランティアの問題なり、様々な政治家の問題なり、様々なフィールトのものを取り上げております。しかし、それらを「決めつけて」いるつもりは毛頭ありません。
ただ、読み手がどのようにお読みになるのもご自由ですし、逆に言うと、そのような予想外の受け取り方から分かってくることも多いもの。

私としては頻繁に書いていますが、「見えているものを、見えるようにする。」という哲学者のミシェル・フーコー的な発想で文章をまとめているだけであって、その「見えるようになったもの」から、読者さんが色々と思考を深めていけばいいと考えております。
つまり、このサイトの文章は「思考の道具」として制作しているわけです。

しかし、多くの人は、思考の道具を提示されても、「じゃあ、どうすればいいの?」となってしまう。これは、ダメダメな人に限らず、一般の人とはそんなもの。
多くの一般の人が求めるのは、「評価」なんですね。
「この文章の書き手は、この○○の問題について、どのように評価しているのか?」
そんな枠組みで、この私の文章をお読みになると、まさに「決めつけがスゴイ!」とかの感想になるのでは?

そんな読み方ももちろんあるでしょう。
しかし、その読み方は、文章を書いているこの私の意図したものではありません。
私は評価には関心がないんですよ。
いったん評価を確定してしまうと、それ以上は考えなくてもよくなるでしょ?
だから、多くの人は、「考えなくても済む」状態を求めて、評価を探し回ることになる。
それこそ、「これは、ダメダメなのか?」というスタイルで、この文章を読んだり、自分の家庭を見たり、あるいは、自分が住んでいる地域を見たりする。

しかし、たとえダメダメと評価しても、あるいはマトモと評価しても、あまり意味がないでしょ?取り上げている対象の問題点を認識し、考え、対処していくことに意味があるのであって、だからこそ、私としては、多くの人に見過ごされがちが視点を提示しようとしているだけです。

評価というものは、思考停止のための、いい口実になってしまう。
評価を確定させることにより、あるいは、評価にこだわることにより、考えること自体から逃避してしまう。
だから、往々にして評価を確定させる努力は、次のステップにはつながらないものでしょ?

ダメダメだった・・・と評価して、嘆いたり、笑っているだけ。
悪くはない・・・と評価して、何もしない。

往々にしてそんなものでしょ?
これが思考だったら、「この家庭のこの面が機能が不全となっていて、このまま何もしないでいると大きなトラブルになってしまう。」となると、『じゃあ、どのように対処していくのか?』と、なっていくでしょ?
「不全な機能をどのように補っていくのか?」そんな方法論が検討課題になってくるでしょ?
それこそが重要なのでは?

まさに、信号機にたとえると、
評価は、赤色であり、そこでストップとなる。
思考は、青色であり、進み続けることになる。
ちなみに、判断であれば、その時点で速度をゆるめて、周囲を見回して進むことになる。つまり、判断は、信号機の色とすれば、黄色の役割と言えます。

物事を緻密に考えるためには、「似て非なるもの」に注意する必要があることは、このサイトで頻繁に書いていますが、「評価と判断と思考」は、それまでの状況は似ている面があっても、後に続く様相がかなり違っているわけです。

このサイトの文章は、評価のための文章ではなく、判断なり思考のための文章なんですよ。
考えるための視点を提示し、その視点を検証しているだけです。
現時点で取り上げている対象について、しっかり考えるためには、多方面からの視点が必要でしょ?
「ダメダメか?マトモなのか?」そんな二項対立的なものではありませんよ。
それこそ、一つの対象についても、多くの視点からの見え方があるわけで、その多方面からの見え方を、一つの文章に再構築し、文章としてまとめ上げただけですよ。
たまに書いていますが、キュビズム時代のピカソがやったような方法論と言えます。
そのピカソの絵に対して、「決めつけがスゴイ!」という感想になる・・・のかな?
しかし、評価を求める心情があれば、そんな「決めつけ」と捉えるパターンもあるんでしょうね。
それこそ、「ピカソはこのモデルをこんなにも珍妙に描いたぞ。」
「ピカソはこのモデルを嫌っているんだ!」
という感想も、素朴な一般の人にしてみれば、現実として存在したでしょうね。

一つの対象を多方面から見ていくという発想は、それほどポピュラーなものとは言えないのかもしれません。
何度も書きますが、多くの一般の人は、考えるための視点ではなく、考えなくても済む評価を求めてしまうもの。だから、多方面から見ると言うよりも、どうしても一つの方向から見るようになってしまう。しかし、物事をしっかり考えるためには多方面から見る必要があるでしょ?
哲学者のニーツェが言う「複眼の思考」ですよ。

多方面から考えるのはいいとして、その多方面というか、多くの視点のそれぞれについても、その実効性を検証していく必要があるでしょ?
その視点の有効性を検証するためには、たとえば、歴史のフィールドで検証したり、あるいは、それこそ外国の事例で検証したり、日本の最近の事件で検証したりする必要があるでしょ?
そうやって、検証によって有用性が確認できた視点を多数組み合わせて、一つの対象について検討し、思考していくことが必要なのでは?

視点の有効性の検証と、その視点による対象の分析、それによって浮かび上がる新たな視点の必要性・・・そんな往復運動こそが思考というものなのでは?
だから、思考には終りがないわけです。

さて、多くの視点から一つの対象を再構築ということで、画家のピカソにふれましたが、芸術というものは、本質的には、「見え方」を表現したもの。
アーティストが表現した「見え方」を、鑑賞者がその後の人生に、自分なりに生かして行けばいいだけ。
ピカソの絵をどのように評価しても、それは見る人の勝手と言えますが、どうせなら、ピカソが表現した「見え方」を、我々の現実人生に生かした方が楽しいし、意義があるのでは?
評価で止まってしまったら、それでオシマイでしょ?

あるいは、このサイトでは、哲学者ウィトゲンシュタインについてたまにふれております。
ちなみに、そのウィトゲンシュタインの研究をされているオックスフォード大学のテリー・イーグルトンによりますと、ウィトゲンシュタインの著作は「徹頭徹尾、対話的な著作であり、その中で作者は声を出して自問し、相手がいるように書き、我々にどちらが信用できないかと問い合わせたりする。」「すべての、すぐれたアーティストと同じように、ウィトゲンシュタインは主義主張よりもむしろ、物の見方のスタイルを売りつけたのだ。」・・・なんだそうです。

上記のイーグルトンの文章は、そのまま私のサイトについての解説にもなっているわけですが、私としては、見方を「売りつけている」わけではありません。「ものの見方のスタイルを提示している」くらいのニュアンスです。そして、提示したものの見方の有用性について検証しているだけです。
ものの見方を提示されれば、その見方を元に受け手の側自身が考える必要があるでしょ?

それに対し、評価だったら、受け手の側としても考える必要がない。
その評価を否定するのなら、「偏見だ!」とか「ケシカラン!」とかの『評価に対する評価』を出すだけですし、あるいは、「あの○○を非難しているのか!」と怒り出したりする。肯定的に評価すれば、それを文句を言わずに受け入れることになる。
それこそ、「正しい考えを学ぶ。」というスタイルになってしまう。
逆に言うと、「評価」が飛び交っているところは、たとえ、評価の文言が高尚であっても、思考停止状態になっているわけです。

だからこそ、閉じた世界になってしまう。
身内同士で評価し合い、そして、思考停止になってしまう。
それこそ、マスコミとかボランティアとかカルトな宗教団体とか警察組織は、その内部において、お互い同士で、「いい人だ!」とか「人の役に立っている!」と高い評価をしていますが、その外部の人間は、その人たちを嫌っていたりするものでしょ?
だって、評価を確定してしまっているということは、別の言い方をすると、人の話を聞かなくても済む状態と言えるんですから、そんな人たちとはやり取りはしたくはありませんよ。

また、身内で評価し合っているところは権威主義的となってしまう。
「誰が言っているのか?」だけに関心を持ち、「何を言っているのか?」については関心を持たなくなる。
そして、評価に過敏になっているので、ちょっとでも疑問点を提示されると逆上してしまう。
評価と捉えるから非難と受け取ることになるのであって、だから、ちょっとした疑問点の提示を、苦言を呈したとかの評価が入った受け取り方をしてしまう。

何も、提示された疑問点を受けて、相手に対して説明するなり、落ち着いて反論すればいいだけですが、思考停止となっているので、そんなこともできない。だから逆上するしかない。
身内で評価し合っているところって、みんなそんな感じでしょ?

そんな身内での評価が飛び交っている閉じた集団となると、ダメダメ家庭がまさにそんなものでしょ?
「あの学校はいい学校だから、そこにいくんだ!」
「あの会社はいい会社だから、そこで働くんだ!」
「この宗教はいい宗教だから、オマエも入信するんだ!」
「あの人はいい人だから、オマエはあの人と結婚するんだ!」
そんな評価が飛び交い、それ以上考えることをしない。
何も見ず、何も考えないが故に、トラブルになってしまう。

トラブルになると、「アナタは何も悪くない!」という評価を求めて活動する。
しかし、そんな活動をしても、自分の目で現状を見て、自分のアタマで考えることはしない。
思考には終りがないけど、評価は終りを求めてのもの。
だからこそ、評価ばかりが飛び交う状況になったら、その集団は終わってしまうんですね。