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カテゴリー | ダメダメ家庭問題の考え方 | |
アップ日 | 11年1月29日 | |
タイトル | 規格外との付き合い方 | |
メールマガジンとして配信した文章で、オードリー・ヘップバーンが主演して、名匠として名高いビリー・ワイルダーが監督した54年の「麗しのサブリナ」という映画作品を取り上げたことがあります。 ラヴコメというよりも、母親の写真の不在という観点から考えた文章でした。 そのオードリー・ヘップバーンとビリー・ワイルダーのコンビだと、59年の「昼下がりの情事」という作品もあります。パリを舞台にした、これもラヴコメ。 この「昼下がりの情事」も、実におもしろい。 特におもしろいのは最後のシーンです。 最後のホテル・リッツでのやり取りでは、バックの音楽を奏でる弦楽合奏のプルトを抑えています。 ちなみに、プルトというのは、弦楽合奏における奏者の数の意味になります。 数を抑えると、繊細で壊れやすい雰囲気になる。 プルトを増やすと、音量が大きくなり、力強さが出て来るけど、繊細さはなくなる。 それぞれに、効果はあるわけです。 リッツのシーンでは奏者は4人くらいなのでは? つまり、主人公の、今にも壊れそうな心情を表現しているわけです。 そして、だんだんとプルトを増やしていき、駅のシーンになだれ込み、弦楽だけでなく管楽器も加わり音量を上げ、そして、音楽のテンポも上げていく・・・つまり感情の奔流が抑えようがない状況が、プルトの数などで示されているわけです。 そうして、感動の?エンディングとなる。 そして、背景に流れる音楽の表情の変化と、映像の流れの変化の間のシンクロも見事に決まっている。 「サスガ!名匠ビリー・ワイルダーだ!」と、この私も感嘆してしまうほど。 まあ、一般の観客は、バックの音楽のプルトにまで注意をしていないでしょうが、そこまで注意するようなこの私を唸らせるんだから、スゴイものですよ。 にもかかわらず、最後の駅のシーンで一番印象に残るのは、やっぱりオードリー・ヘップバーンでしょう。あの目つきがスゴイ!どう見ても、カタギの目ではない。 端的に言ってしまうと、狂人の目そのものですよ。 シングルマザー環境で育って、重症のファザコンで、父親との間で苦い思い出があるオードリー・ヘップバーンにとって、かなり年上の男性との別れのシーンは、たとえフィクションであれ、演技をするにも色々とあるでしょう。 先ほど、ビリー・ワイルダーの細かな部分での表現について書きましたが、そのようなことを人に言ったりすると、「なんて、分析的に見ているんだ?もっと自然な感情を大切にしろよ!」なんて感想が返ってくることもあります。私としては、別に分析的に見ているわけではありませんよ。1つの対象を複数の視点で見ているだけです。作品の制作者なり、それぞれの登場人物の感情なり苦悩なり思考を、同時並行して追体験していると言ってもいいでしょう。 そういう意味では、私は感情を大事にしているんですよ。 映画を見て、号泣しながら、プルトの変化や細かなセリフ回しにも注目していたりするんです。 まあ、そんなことができてしまうからこそ、こんな文章を書いているし、書けるわけですよ。 さて、作品を制作するにあたって、ビリー・ワイルダーのように細かなところまで緻密に表現しまとめ上げる、いわば大人の表現のスタイルがあります。 それに対し、オードリー・ヘップバーンは、分別のある大人どころか、子供というか、まさに狂人のそれ。大人の良識や分別とは別のところに住んでいる。 そして、作品の制作にあたっては、緻密にまとめ上げることができる大人と、暴走する子供というか狂人の組み合わせは、いい結果につながることが多い。 そもそも、暴走する狂人同士が、組み合わさっても、ケンカになるだけ。 まあ、たまにカリスマ系のアーティスト同士が創作現場でケンカして、ゴシップになったりするでしょ? 逆のパターンと言える分別のある大人が組み合わさると、順調に制作も進み、結果としてまとまりのいい作品になるわけですが、逆に言うと、まとまりがよすぎて、先が見えてしまう。 特にこの私くらいになると、ちょっと見ただけで先が読めてしまうような事態になりがち。 「あっ、ここで、このセリフを使ったということは、もうすぐこんなシーンが来て、そして、後でこんなシーンにつながっていって、そして・・・」なんて、スグに見えてしまうことになる。大人同士が集まって、ものを作ると、先が見えすぎるわけです。 それは、表現分野では、必ずしもいいこととは言えない。 子供が持つ、その瞬間に充足し、そして、すぐに破壊する、創造的な破壊がないと、表現が煮詰まってしまう。 表現作品であれば、高いとりまとめ能力や分別のある大人が十全としたバックを作り上げ、その上を暴走する狂人が突っ走っていくというのが、理想的な組み合わせと言えます。暴走する狂人も、能力の高い誰かがまとめ上げてくれるからこそ、安心して暴走し、結果的に客観性を持った作品とすることができる。暴走するキャラクターなのに、分別のある大人としての役割を期待されてしまうと、十分に対応できず、過剰に遠慮してしまって、可もなし不可もなしの出来になってしまうだけ。 そんな作品も実際にあったりするでしょ? ちなみに、分別や良識を持つ大人と、暴走する子供の組み合わせとなると、有名なロックバンドのビートルズがその典型と言えるでしょう。 大人の音楽家であるポール・マッカートニーが作り出す懐深い舞台の上で、暴走するガキンチョのジョン・レノンが駆け回る・・・という組み合わせは、新鮮で、かつ、創造的で、まとまりもある作品につながるわけです。 あるいは、別のところで取り上げました、アメリカのカーペンターズは、妹のカレンが暴走担当で、兄のリチャードがとりまとめ担当と言えるでしょう。 何かを作り上げる際に、分別がある大人が集まると、それなりの成果を得ることができるわけですが、その中に暴走するガキンチョがいないと、単なる因習に堕してしまうんですね。良質の規格品が再生産されただけになってしまう。 それは工業製品の分野ならともかく、芸術的な、あるいは学術的な分野においても、価値はないものなんですよ。 あるいは、会社を立ち上げるような事態でも、そんなことは言われたりしますよね? ホンダ自動車とかソニーの創生期は、暴走する子供キャラと、それを背後から支える分別のある大人キャラの組み合わせの成功例としてよく言及されるでしょ? 大人のとりまとめ能力と、子供の持つ創造的な破壊能力が組み合わさってこそ、創造的な作品や活動となるわけです。 さて、作品と言えるのかはともかく、このサイトに収録されている文章も、それなりの意図を持って制作されています。 この一連の文章に対して、色々な感想があったりします。 何と言っても、これだけの質と量を誇る文章なんですからね。 お読みになって、色々と思うところが出てくるのは当然のことでしょう。 と言うことで、「こんな質&量の文章を書いているなんて、病的だ。」なる感想の文章を見たことがあります。 私としては、その「病的」という言葉に対して、強い違和感を持ったんですよ。 だって、病的と言うことは、健全な一般人がうまく行っていない状態ということでしょ? しかし、この一連の文章を書いた人間が、もともとは健全な一般人だったとでも言うの? そこいらに住んでいる健全な一般人に対して、ある種の状況を作ると、この一連の文章が書けるとでも言うの? そんなわけはないでしょ? この一連の文章を書いた私は、まあ、もともと健全な一般人とは言えませんよ。たまたま、何かの事情でこんな文章を書いているというものではありませんよ。 もともとが規格外だったわけです。 だから、「病的」という言葉ではなく、「狂気」と言うか、「気が狂っている」という言葉の方が日本語的に適切なのでは? ・・・なんて書くと、身もフタもありませんが・・・ 病的となると、もともとの状態は一般人であり、つまり規格品的であり、逆に言うと、何かの機会があれば、また、健全な一般人に戻ることができるということでしょ? しかし、一般人からたまたまハズレただけの人間は、こんな文章は書けないでしょう。 作曲家のロベルト・シューマンは病的なのではなく、狂気そのものであり、文学のヘルダーリンも病的とは言えないでしょうし、画家のカラヴァッジョも狂人であって、病人ではありませんよ。 まあ、天才と狂人は紙一重ということが古来より言われておりますが、天才も狂人も、もともとからして規格外だったわけですからね。狂人が一時的に天才になることはあっても、秀才はどんなに努力しても天才にはなりませんよ。秀才ができるのは、天才の価値を認めることくらい。天才と秀才には、大きな差がありますよ。自慢じゃありませんが、私は人から秀才と言われたことは一回もありませんよ。 あるいは、大人と子供の関係でいうと、分別のある大人はどんなに努力しても、規格外の子供にはなれないもの。まあ、このサイトにある一連の文章も、緻密な論理構成は持っていますが、キャラクター的には暴走する子供キャラの文章に属すると言えるでしょうね。 分別や良識のある大人が集まって作った規格品的なものは、多くの人に受け入れやすい。 そもそも、創造的な破壊に満ちたものを受け入れる土壌がなくなってしまっているのが、一般の大人というもの。 それはそれでしょうがない。 しかし、規格外の視点が完全に排除されてしまうと、その作品はまさに煮詰まってしまう。 先が読めてしまい、驚きのようなものとは無縁となってしまう。 先が読めるが故に、受け入れやすいわけですが、だからこそ、新鮮さがなくなり、腐ってしまう。 作品を受け入れる側も、規格品的なものばかりを受け入れていたら、先が読めてしまって、創造性がなくなってしまう。 新しいものを作り出す活力がなくなってしまうわけです。 それこそ、PTAのような管理組織がしゃしゃり出て来て、「子供に読ませたい!」とかで色々と推薦したりしますが、そんな推薦作品は、まさに分別のある大人だけが作った規格品でしょ?しかし、それゆえに、腐りやすいわけです。それこそ、ソニーやホンダ自動車のように子供と大人の絶妙な組み合わせで立ち上げても、後になって、大人の分別が充満してしまい窒息してしまった会社もあるでしょ? 既存の枠組みを破壊し、再構成につながるような創造的な破壊もしておかないと、煮詰まってしまうだけ。そもそも芸術作品は、そのようなトリックスター的な役割を神から託されているものでしょ? 規格品以外を受け入れようとしない状態は、神に対する冒涜ですよ。 それこそPTAのような組織は、このサイトの中心的なテーマといえる家庭問題の分野においても、「正しい考えを学ぶ。」という美辞麗句を掲げるのはいいとして、それはつまり、「規格品以外は受け入れない。」という態度でしょ? そんな態度では、必ず煮詰まってしまうものなんですね。 あの名匠ビリー・ワイルダー監督も、そのあたりがちゃんと分かっているんでしょう。 大人である自分が十分な枠組みを作り上で、その舞台の上を、狂人が暴走していく・・・そんな作品を作ったわけですからね。 ビリー・ワイルダーの作品の中でも、分別のある大人のキャストばかりの作品もあったりしますが、そんな作品は、今見ると弱い。まとまりはあるけど、力強さがない。 先が読め、煮詰まっている。 煮詰まりがちなところを破壊する狂気がない。 前にも書きましたが、狂気だけでは客観性を持った作品にはならない。 分別のある大人が舞台を整える必要があるわけです。 しかし、その舞台を永遠のものにするのは、暴走する狂人なんですね。 人に配慮するのではなく、ただ、神からの声に従う狂人が必要となるわけです。 規格品しか受け入れられなくなってしまっている状態は、緩やかな死に近い。 分別のある大人が集まって作った作品で、長持ちしている作品は、どんなジャンルにもないでしょ? そもそも、人間にとって、神からの声は規格外のもの。 一般人にとって訳が分からない表現も、神の書き間違いということであり、それは高い意味において、神の摂理となっている。 それを排除している段階で、そんな人間は堕落しているんですよ。 現在の日本社会の閉塞も、大人の良識ばかりに目を向けて、先が見えてしまっている状態と言えるでしょ? PTAのような管理組織によって、子供の声が封殺されてしまっていますよね? あるいは、昨今喧伝される出版界の停滞も、その出版界が大人の事情だけで運営されてしまっていることも大きな原因と言えるでしょ?何と言うか、規格品の書籍ばかりを売っているんだから、停滞してしまうのも当然のことですよ。規格品は商品であって、作品ではありませんよ。つまり、文明かもしれませんんが、文化ではありませんよ。 書籍の文章を読めば、作り手の思いがどれくらいあり、問題意識がどのようなものなのかも見えてきますよ。 「これくらいでいいじゃん?」「まっ、悪くはないじゃねーの。」「これくらいなら、モトは取れるだろうな。」くらいのフィーリングで書籍を作っているんだから、出版界も停滞しますよ。 「どうしてもこの文章を世に出したいんだ!」という強い思いで本を作るという子供の暴走に立ち返らない限り、ますます閉塞し沈滞していく一方でしょうね。 あるいは、政治の世界においても、昨今一番活性化したのが、どちらかと言うと暴走キャラといえる小泉さんの時代でしょ?それ以降は大人キャラが集まってしまって、閉塞が深まってしまっただけ。現在の自民党の総裁の谷垣さんなんて、絵に描いたような分別のある大人キャラですが、そんな人には再構築なんてできませんよ。閉塞が深まるだけですよ。 ただ、子供キャラと言っても、重要な点は、暴走することであって、未熟を意味しているのではありません。現在の民主党の人は、未熟という意味で子供キャラになっている。だから、分別が付いて大人キャラになることはあっても、暴走キャラにはなりえない。だからこそ、閉塞が深まってしまう。 閉塞した状況を打破するためには、「正しい考えを学ぶ。」だけではなく、狂人の声も聞く必要があるわけです。 何も、狂気に満ちた?このサイトの文章でないとダメということではありませんよ。 世の中には狂人の種は尽きないものですからね。 芸術作品であれば、そんな狂人が活躍しているでしょ? それこそゴッホなんて狂人そのものですよ。 それこそ、「正しい考えを学ぶ。」という姿勢の人は、ゴッホの絵から何かを学ぶの? ゴッホの絵は正しいの?正しくないの? そんな人間的な正しさを超越した存在こそが、狂気と言えるでは? まあ、いつもそんなものに接しているわけにはいきませんが、規格外を完全に排除すると、何ともつまらないものになってしまう。 それは、前にも書いています、公序良俗に支配されたパターンに陥ったビリー・ワイルダー監督作品とか、まあ、ポール・マッカートニーだけの作品で大人っぽいものとか・・・ 当時はともかく、今接すると、「なんだかなぁ〜」なんて思ったりするのでは? あるいは、最近の作品でも、「まとまっていて、みんなも評価しているけど、長持ちしないだろうなぁ・・・」と思わされる作品は、どんなジャンルにもあったりするでしょ? そんな違和感からこそ「学ぶ」こともあるわけです。 狂人は暴走し、駆け抜けて行ってしまう。 暴走する狂人は、その暴走ゆえに、どんなジャンルの人も、長く活動することはない。 暴走する人間に振る舞わされていた周囲の大人は、暴走する人間がいなくなったら、秩序の回復を喜び安心することになる。 しかし、その秩序が惰性となり因習となってしまうと、暴走に振り回されていた、かつての一期一会的な混乱の日々を、懐かしく思い出すことになる。 まあ、だから、そんなトンデモなヤツも、大切にしてよね。 |