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カテゴリー | ダメダメ家庭をめぐる環境 |
アップ日 | 11年2月2日 |
タイトル | Quo Vadis |
ダメダメ家庭の人間が、「ふつうの家庭を築きたい」と言い出すことが多いことについては、メールマガジンの配信の最初期の03年に文章を配信しております。 「ふつうの家庭を築きたい。」という言葉はいいとして、じゃあ、その「ふつう」って、何なの? その「ふつう」というのは、現実的には、「周囲との大きな相違がない。」という意味になりますよね? つまり、「ふつうの家庭を築きたい。」という言葉は、「周囲の人のやっていることに合わせておけばいいじゃん!」というズボラな発想なんですね。 しかし、そんなズボラな発想なんだから、中身が腐ってくることは、本来なら、子供でも分かること。 だから、実際にトラブルが起こってしまい、結局は、「ワタシは、ただ、ふつうの家庭を作りたかっただけなのにぃ!」と嘆きの声を上げることになる。 そんな流れになるのは、本来なら簡単に予想できるはずなのに、実際にその方向に突っ走っているダメダメ家庭が多いでしょ? そもそも「ふつうの家庭を築きたい。」と、周囲に対して、あるいは家族に対して「言う」ことは実にラクなことなんですね。 だって、自分なりの将来ヴィジョンを示す必要はないでしょ? 自分たちなりの幸福を求めているのなら、それについて、自分なりに考えなくてはならないし、人に対して説明する際にも、自分なりの言葉で語る必要がある。当然のこととして、「その目標をどうやって達成するか?」という問題においても、自分なりに考えなくてはならない。 そのようなことは、自己逃避で、抑圧的なダメダメ家庭の人間にしてみれば、イヤなことになってしまう。 だから、何も考えずに、人に合わせておけばいい・・・ そんなズボラさに惹かれてしまう。 当人自身はそんなズボラな態度でいれば、精神的な安逸を得ることができるでしょう。 だって、何も考えず、何も判断しないんだから、結果責任を取る必要はなくなる。 責任とは無縁なんだから、何事も真剣に対処する必要もなくなりますよ。 しかし、そんな親を持っている子供としてはたまらないでしょ? 子供が親に対して何を言っても、「周囲に合わせておけ!」、あるいは、「いつもどおりにやっておけ!」と命令されるだけ。 合わせるのはいいとして、あるいは、いつもどおりなのはいいとして、じゃあ、最終的にどこに向かうの? そんな方向性の問題が明確にならないと、将来イメージも持ちようがないでしょ? 親としては周囲の人に合わせているだけでラクなのはいいとして、その子供としては明確な将来イメージがなければ、今後どうなるかが何も見えてこないんだから、不安になりますよ。だって、子供にとって、将来に関わることは、実に身近な問題でしょ?子供にしてみれば現在がよければそれでいいとはいきませんよ。 どのような将来イメージであるにせよ、「このようなことができている家庭、あるいは、このような状態になっている家庭を築きたい。」と具体的に示してくれないと、当人自身はともかく、「その下のもの」には、不安になるわけです。 このような「とりあえず、周囲に合わせておけばじゃん?」とズボラを決め込む姿勢の問題は、このサイトの領域としている家庭の分野だけではありません。いわゆる地域の問題でも、そんなメンタリティになっているところも多いでしょ? 地域の問題を、自分たち自身で考えるのではなく、周囲の地域を見ているだけになってしまっている地域も、現実にあるでしょ? 隣の市が、文化会館を作った・・・じゃあ、我々も作ってもらおう。 隣の県に、空港ができた・・・じゃあ、我々も作ってもらおう。 隣の県に、新たなテレビ局ができた・・・じゃあ、我々作ってもらおう。 近くの地域に、鉄道が通った・・・じゃあ、我々も通してもらおう。 そんな形で周囲に合わせるだけの地方「自治」体も多いでしょ? 周囲に合わせて、「自分たちが持っていないものを」ほしがるのはいいとして、そんな地方自治体は現実に発展してきたの? 現実は違うでしょ? だって、周囲に合わせているということは、自分たち自身で何も考えていないということ。 別の言い方をすると、自分たち自身の心の声を聞いていないということ。 つまり、その地に在住する多くの人の意向が無視されているということ。 そして、自身の将来イメージを持っていないということ。 ・・・そんな地域は寂れるに決まっていますよ。 だって、「下のもの」としては、自分たちの意向が無視され、「とにもかくにも、周囲に合わせておけ!」じゃあ、やってられないと思うでしょ? それに、将来のイメージが具体的な形で想定できなければ、不安になりますよ。 当然のこととして、若い人は出て行ってしまいますよ。 しかし、「周囲に合わせておけばいいじゃん。」というズボラな人間としては、当人自身では判断したわけではないんだから、不都合な事態は、その人にとっての失敗ではなく、被害と認識されてしまう。 だって、何も判断していないんだから、自身の判断ミスにはならないわけです。 と言うことで、「被害を受けてしまったオレたちを救済しろよ!」と、その人たちにとっての「上の存在」に対して要求することになる。 当人たち自身としては、失敗ではなく被害として認識しているわけだから、その要求もその人なりには正当性を持っている感覚があり、方法として、いささか過激なものになってしまう。 そんな要求に対し一旦応えたりすると、要求した側は「あの人たちは、ワタシたちが被害者だと認めてくれた!だから、補償金を払ったんだ。」「オレたちがやっていたことは、間違っていなかったんだ!」と認識してしまい、被害者意識が強化されることになる。つまり、周囲に合わせるだけで、主体的な判断をしないことにより、上から恵んでもらえるという心理を強化してしまう。 まさに、「餌付け」されてしまっているようなもの。 何もしないでいると、上から恵んでもらえるという成功体験を得たので、ますます何も考えず、何も判断しないようになってしまう。そして、不都合な事態になったら、大騒ぎするだけになってしまう。 そして、当人たち自身としては、「オレたちは、ふつうの生活がしたいだけだ!」と言い出すことになる。 しかし、将来の方向性について何もイメージしないことは相変わらずというか、むしろ悪化してしまう。だから、「その下のもの」にしてみれば、「今後どうなるのか?」「何をするのか?」が全く見えないまま。 と言うことで、ますますそんな地域から脱出するようになってしまう。 そうなってきても、その地域のボスとすれば、「オレたちは見捨てられた!」と、やっぱり大騒ぎするだけで、明確な将来イメージを示すことはないまま。 そして、「隣の市には、○○があるのに、ウチには無い。だから、人がいなくなるんだ!」と言い出し、その○○を上のものに要求することになる。 その要求が通っても、相変わらず、明確な将来イメージを持つことはない。 寂れた田舎町って、そんな流れになっているでしょ? なんと言うか・・・「昭和の匂いがプンプンする。」というか、別の言い方をすると、「観光資源が何もない観光地」と言った風情となっている。土産物屋ばかりがあって、見るものは何もない。 場違いに立派なモノがあるけど、それが有効活用されているわけでもないし、人々にホスピタリティもない。 ダメダメ家庭もまったく同じなんですね。 ダメダメ家庭の人間は、当事者意識がなく、自分なりの目標を掲げることはしない。 と言うことで、やることと言えば、目先の減点を除去することしかしない。 「ふつう」志向で、周囲に合わせるだけの人間は、周囲と違っている部分を減点と認識してしまい、その除去に必死になってしまう。 しかし、将来イメージが不在となっている点については何も考えない。 ただただ、「ふつう」を掲げるだけ。 そして、その「ふつう」という言葉で、自分たちの思考停止の言い訳としてしまう。 周囲に合わせているだけなので、結果的に何も特徴がなくなってしまう。 そうなったら、「より大きい」「より発展している」、そして「将来の可能性がある」地域に人が向かうは自明でしょ? 寂れている地域というのは、結果や現状として特徴がないだけではありません。その背景としてある、思考停止こそが問題なんですね。つまり、「下のもの」の意向を聞こうともせず、そして、自分たちの将来ヴィジョンを掲げることもなく、それを下のものに説明することもない。 つまり下のものとしては、将来どうなるかは全く分からないまま、ただ、「周囲に合わせておけ!」「言われたことに従え!」と言われるだけ。そして「○○がないから、うまくいかないんだ。」と言われるだけ。 その地域のボス的な立場にいるものとしては、周囲を見回し、自分たちを見回して、無いものをみつけ、それを自分たちよりも上の存在に要求する。 当人としては、それなりに一生懸命にやっているつもりなんでしょう。 しかし、最終形をイメージできないので、当然のこととして、イメージを別の人間と共有することはない。自分たちや周囲の光景を見回しても、住民の声を聞くことはない。 だから、結果的に内部でモメることになる。だって、方向性を共有することができないんですからね。 あるいは、やり取りに於いても、お互いが「アイツは何を言っているんだか・・・」と不快に思い、そんな点からも人がいなくなってしまう。 と言うことで、そんな地域は、どんどんとマトモな人がいなくなってしまう。 しかし、従来のボスとしては、何も考えないことにより、とりあえず何かを恵んでもらえるという成功体験を持っているので、それを次の人にも引き継ごうとする。 別の言い方をすると、文句ばかり言っていて、自身で何もしないスタイルを連鎖させようとする。と言うことで、改善しないどころか、事態がますます悪化するばかり。 そんな人とやり取りにおいては、「新幹線ができればうまくいくはずだ!」とか、「空港ができれば・・・」とかの言葉がスグに出てきたりするもの。しかし、そんな言葉を聞かされた側は、『コイツら・・・バカか?この問題の本質はそんなものじゃないのに・・・と言うか、そんな他力本願な発想自体が問題の本質じゃないか?ホントに、何も分かっちゃいないんだなぁ・・・」と呆れることになる。 そんな様相は、ダメダメ地域も、ダメダメ家庭もまったく同じでしょ? よく言われていることですが、部屋をしっかり掃除できる人は、ゴミとか汚れなどの問題がちゃんと認識できるから、掃除がしっかりできるというものではないんですね。 掃除した後の最終的な部屋のイメージが出来上がっているから、掃除もしっかりできるわけです。 明確な将来イメージがあり、現状をしっかり認識できていれば、将来イメージの実現のために、将来と現状の間を橋渡しすればいいだけ。その橋渡しの役を、別の誰かに依頼しても、依頼された側としても具体的なイメージを持てるので、対応しやすいでしょ? しかし、「ふつう」という言葉に逃げ込み、目先の問題点の除去ばかり考えている人から何かを依頼されても、具体的なイメージが浮かばないでしょ? だって、将来と現状の橋渡しというのは、「どこに向かうのか?」という方向性が絶対に必要なんですからね。 当事者意識がなく、自己逃避のダメダメ人間は、「ふつう」という言葉を使い、自身の将来イメージを作り上げること自体から逃避する。 そんな人は、それこそ離婚しやすいもの。 だって、目先しか見ていなくて、将来イメージを何も持たないままで結婚するんだから、トラブルも起きますよ。当人たち自身がトラブルになるのは勝手ですが、「ふつう」という名目で、子供を作ってしまうからタチが悪い。 しかし、そんな人は、日頃から周囲に合わせるだけで、何も考えていないわけだから、まさに「ワタシは悪くない!」と言い出すことになる。 いつも書いていますが、その人は「何も判断していない。」んだから、言い方を変えると「間違った判断をしていない。」ことになってしまう。 おっしゃるとおりに、論理的に見ると、悪くはありませんよ。 そして、「ワタシは悪くない。」ということで、被害者意識を膨らませ、大騒ぎをして、周囲に対して補償を要求する。 被害者感情で大騒ぎするので、ヘタをすれば同情を受けることもあり、必要もないような過大な「補償」を受けることになる。 その人たちにしてみれば、その「補償」は、被害に対する補償であって、自分たちの意向を実現させるための、サポートとしてみなしているわけではない。だって、自分たちの意向そのものを持っていないわけですからね。 ダメダメな地域や、ダメダメな家庭ほど、そのような「使いもしない」「恵んでもらった」立派なものがあったりするでしょ? そこまで「いってしまう」と、もう臨界点突破とも言えるわけですが、その前の段階としての、「ふつうの家庭を築きたい。」という言葉の段階で後戻りができるのか? その点が重要になるわけです。 田舎の寂れた地域を実際に訪問してみると、なんともまあ、情けない思いをするでしょ? 何よりも、「何とかしよう!」という意欲が伝わってこない。 施設がない不便さと言うよりも、方向性がないんですね。 買い物の不便さには我慢できても、方向性のなさ、つまり未来への見通しの悪さこそ、その地の住人にしてみれば、不快であり不満になるでしょ? 「ものがない」のなら、それを売りにしてもいいわけでしょ? 「不便」ということも発想の転換をすれば、アピールポイントにもできますよ。 アピールポイントが「ふつう」ということだったら、それはアピールポイントとはいえませんよ。しかし、ダメダメな人は「ふつう」をめざし、ますますアピールポイントをなくしていっていまう。 そんな光景を見ていると、「で、いったい、アンタはどこに行くつもりなの?」と途方に暮れるだけ。 しかし、その手の集団のボスは何も方向性を示さない。と言うか、考えようともしない。 だって、「周囲に合わせておけばいいじゃん?」「誰かが何とかしてくれるんじゃねーの?」というズボラさが身についてしまっているので、もはや自分たちで考えるという発想そのものがなくなってしまっている。自分で考えることを放棄したら、そりゃ、精神的に死んじゃいますよ。 「ふつうの家庭を築きたい。」と言っている人も、そのまま突き進んでしまうと、まさに、寂れた田舎の地域のような家庭を築くだけ。 笑顔がなく、 子供の声もなく、 そして、何より、方向性が見えない。 家庭においても、地域においても、指導的な立場のものは、明確な将来イメージを掲げ、方向性を示す必要があるでしょ?調整役のリーダーのスタイルも結構ですが、明確な方向性があっての調整役でしょ?ダメダメなところは、方向性もないのに、調整役ばかりががんばっているもの。そして、自身に目を向けることもなく、何かのあら探しばかり。 明確な将来イメージができていない時点で、ダメダメが進んでいるものなんですよ。 まあ、現実的には、そんなところから早めに避難しないとマズイわけです。 と言うことで、現状認識能力のある人は、実際に避難してしまい、残されたところは、さらに寂れてしまう。 寂れた田舎って、田舎の不便さとか光景が嫌というよりも、何よりも田舎の人の精神的な怠惰さが嫌なもの。 「この人たちとは一緒にいたくないなぁ・・・」「こんなところで子供を育てたくないなぁ・・・」と、切実に思わされる。 だからこそ、人もいなくなってしまう。 寂れた段階で、反省して後戻りをすればいいわけですが、思考停止が身についてしまっているので後戻りもできない。そして、相変わらず「周囲に合わせるだけ」の方法論しか持ちえない。 しかし、合わせる対象の周辺も、やっぱり同じように寂れてしまっている。 「ふつうの家庭を築きたい。」と日頃から言っているダメダメ家庭も、現実的にはそんな流れになってしまうわけです。 |
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R.11/2/3 |