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カテゴリー ダメダメ家庭をめぐる環境
アップ日 11年2月4日
タイトル Les Uns et les Autres
先日「競争相手」というタイトルの文章をアップしたしました。
何かに対抗して、必死にバトルしているのはいいとして、バトルしているということは、同じ土俵に上がっているということ。つまり、格として見た場合には、同格なんですね。

このようなことは、何もバトルの場合だけではありません。
とりあえず、やり取りが成立しているということは、土俵が同じということ。
それこそ、インターネットの掲示板において、バトルになろうが、あるいは、楽しいやり取りであろうが、基本的には同格ということでしょ?「オレはオマエたちと違うんだ!」なんて熱く主張できるということは同類ということ。
本当に違っていれば、無理にバトルなどはせずに、自分なりの土俵で、自分なりの成果を出しますよ。

私としては、あのような場に、自分の文章を書き込む人間の心境がさっぱり分からないのですが、書き込んでいる人にしてみれば、その場に、プラス方向にも、マイナス方向にも仲間を見いだしたのでしょうね。
私があのような場に書き込むことはない理由としては実に明確で、あのような場でこの私の「長く」「険しい?」「ヒネリのある」文章を書き込んでも、読まないだろうし、最後まで読めないでしょうし、たとえ読んだとしても理解もできないでしょう。
だから、ムリに書き込む必要もありませんよ。

私としては、自分の文章をサイトで読めるようにしていて、もし、質問があれば、真摯に対応するというスタンスです。
掲示板に入り浸っている人よりも上か下かとかの問題ではなく、土俵が違っているとは言えるでしょう。だから、掲示板でやり取りをする必要はありませんよ。

掲示板に入り浸っている人は、発想の方向性は別として、その理解力なり、理解しようとする意欲なり、分かりたいという意欲なり、分かりやすく伝える能力なりは共通性が高いと言えるのでは?だからこそ、方向性の違いで、バトルになったりするんでしょ?
バトルになろうと、仲良くやり取りをしようと、その人の周囲にいる人間を見れば、その人当人についても見えてくるわけです。
類は友を呼ぶわけですし、朱に交われば赤くなるとも言いますしね。

このような問題は、インターネットの世界の住人だけでなく、ダメダメの実例としていつも使わせていただいておりますボランティアの方々も同じでしょ?あの手の人たちは、トラブルばかり起こしている人の元にわざわざ寄って行き、「まあ、なんてお気の毒なの?!」と同情の声を上げたり、あるいは「オマエのせいで、こんな事件が起こったんだ!」と誰かを糾弾していますが、そのようなことも、方向性の違いはあっても、その土俵としては対象者と共通しているわけです。
だって、やり取りが成立しているわけですからね。

ボランティアは被害の声に食いつくわけですが、逆に言うと、ボランティアに食いつかれるということは、その対象者が自分の被害ばかりを語っているということ。
しかし、被害ばかりを語っているということは、それ以外は何も語れないということでしょ?あるいは、つるし上げのような、犯人探しや犯人認定ばかりをやっている人たちだからこそ、自分の妻をつるし上げている夫という、いわば同類に近寄っていくわけでしょ?何も論理の問題ではなく、現実的にそんなものでしょ?ボランティアは、する側もされる側も、メンタル的には同じなんですね。

周囲の人を見れば、当人自身も推定できるものなんですよ。

何かや誰かを熱心に弁護する人の質をみれば、弁護する対象の質も見えてきたりするもの。
それこそ、日本のマスコミを必死に弁護する人の、言語能力は異常に低いでしょ?それはマスコミの人たち自身の言語能力の低さそのものでしょ?
もし、マスコミの人自身の言語能力が高ければ、そんなヘタクソな弁護なんてさせませんよ。
だって、自分たち自身の言語能力が高ければ、自分たち自身で弁護した方がはるかにマシなんだし、ヘタクソな絶賛によって、知的レヴェルが低いと見られて困るのはマスコミ自身でしょ?自分たちへの抗議の表現がヘタクソでも、上から目線で笑っていれば済む話ですが、自分たちへの称賛の表現がヘタクソだったら、逆効果になってしまいますよ。マスコミは営利でもあるんだから、その気になれば、それ相応の擁護の言葉を用意できますし、しておかないとマズイでしょ?

オバカな言葉による絶賛によって、「この人が、こんなに絶賛しているんだから、これはすばらしいんだろうなぁ〜」と思うのは、程度の低いオバカだけ。
それこそ、映画の紹介において「鳴きました!とにかく見てください!」という絶賛の言葉に「釣られる」人間は、オバカでしょ?
芸術分野においては、自身で何かを制作する人間は、勝手な絶賛の言葉は無視してサクサクと自分の表現を作っていくことになる。だから、トンデモな絶賛の声を放置してしまい、結果的にその声が響き渡ってしまうこともある。
作曲家に対して、オバカな演奏家がオバカな絶賛の言葉をしたり、映画作品に、オバカな批評家が絶賛したり、翻訳者のトンチンカンな絶賛の言葉があったりする。
作品の真価とは無縁の絶賛が結果的に走ってしまうことも、現実として存在する。
人のやっていることを弁護や擁護するしか能がない人の理解力なんて、もともとあってないようなものですからね。絶賛の言葉のレヴェルは、対象者のレヴェルの程度以上に、「釣られる」人間の程度は確実に示しているでしょ?言葉のレヴェルはその周囲の人のレヴェルを如実に示しているわけです。

当人には預かり知らぬところで勝手に取り巻いている人もいるので、取り巻きのレヴェルが、当人のレヴェルを直接的に示しているものではないにせよ、取り巻きがアホばかりだったら、マトモな人は近寄れませんよ。できれば、そんな事態は避けた方がいい。
しかし、周囲の人を見ると、当人についても見通せるということは、時代や場所が変わっても、いつも起こっていることでしょ?
と言うか、「よくもまあ、こんな程度の人間を侍らせておくなぁ・・・」とビックリさせられる例もあったりするものでしょ?

それこそ、頻繁に取り上げておりますトルストイの「アンナ・カレーニナ」では、主人公のアンナは、別荘に「おべんちゃら」しか言うことができないような女性を侍らせていました。
あるいは、昔のイタリア映画で、自分に対する称賛の言葉を若い男性の愛人に言わせる貴族の夫人が主人公の映画がありました。
逆に言うと、作品の作り手は、そんな「おべんちゃら」ばかりの人を描くことで、「おべんちゃら」を受けて喜んでいる当人自身の問題を描いているわけです。
本当に尊厳を持っている人だったら、「おべんちゃら」なんて言われてもジャマくさいだけですよ。

あるいは、このサイトでは韓国の問題に言及しておりますが、韓国を必死に称賛している人の表現は、まあ、レヴェルが低いでしょ?
韓国の人にしてみても、どうせなら、質的にレヴェルの高い称賛を得るように工夫した方がいいのでは?
一人が的確な表現で、韓国を称賛したら、それ以外の人は、その程度の高い称賛の言葉を引用するだけになってしまいますよ。だから、自分を的確に称賛させたければ、まずは、多くの人にとっての指標となるような称賛の言葉を得ることを考えた方がいいのでは?
しかし、逆に言うと、程度の高い称賛の言葉を書ける人からの称賛の言葉がない・・・と言えるわけです。
だからこそ、低レヴェルの人が、安心して自分流の称賛が言えてしまう。
自分の称賛の言葉の横に、はるかに上級の称賛の言葉があったら、程度の低い称賛の言葉を書き込んだ側は、いたたまれませんよ。
つまり、程度の低い称賛の言葉は、その対象の実質的なレヴェルの低さの証明となってしまうこともある。周囲の人のレヴェルは当人自身について如実に語ることも多い。

このようなことは、このサイトの直接的なテーマといえるダメダメ家庭においては、子は親の鏡だったり、妻は夫の鏡だったりするものでしょ?
トラブル多発の家庭の人は、「どうして、こんなことになってしまったのか?」とか、「あの人と結婚したせいで・・・」とか、「子供が生まれたせいで・・・」とグチったりしていますが、家族全員がグチってばかりだからこそ、そんなことになるわけでしょ?
一人がグチばかりだったら、家族全員がグチばかりですよ。
周囲の人を見れば、当人についても想定できるわけですし、当人を見れば、その周りの人も想定できるわけです。

それこそ、ストーカーもそんな面があったりする。
ストーキングする側はもちろんのこと、ストーキングをされる側も、それ相応に問題があって、だからこそ入れ込まれてしまう。
土俵が完全に違っていたら、ストーキングも長続きしませんし、たとえ強い好意を持ったとしても、距離を持って遠くから眺めるだけになってしまいますよ。肯定的であれ、否定的であれ、やり取りが成立してしまっていることから見えてくることもある。
逆に言うと、その点を自覚しないと、事態は解決しない。

家庭の周囲としても、ダメダメ家庭の周囲は、ダメダメな環境となっている。
頻繁に書きますが、ダメダメな人は、自分たちのダメダメさが「ふつう」とされる環境を求めるので、ダメダメな地域に吸い寄せられることになってしまう。
そうやって、その地域のダメダメが濃くなってしまう。
そんな地域にある学校がマトモなわけがありませんよ。もし、その学校がマトモな運営をしていたら、ダメダメ家庭の人間はそんな地域から出て行ってしまいますよ。
「まあ、ヒドイ学校だわ!ワタシたちのことなんて、何も考えてくれない!」そんな捨てセリフを投げ付けて、自分たちの流儀が通用するダメダメな地域を探しに出掛けることになる。
まさに、インターネットの掲示板が、グチの共鳴で仲良くやっていたりするように、地域においても、結局は、同類が集まることになってしまう。逆に言うと、一つの家庭がそんなキャラクターだったら、その周囲も大同小異なんですね。

それこそ、ダメダメ家庭の人間は、信頼と言うものが理解できないことを頻繁に書いていますが、信頼というものが理解できない人の周囲にいる人は、やっぱり同じように信頼というものを理解できない人になってしまいますよ。片方が信頼を重視していて、もう一方が信頼というものを理解できないという結び付きはありえないでしょ?

ダメダメ家庭の人間は、「人は一人では生きてはいけない。」という美辞麗句を持ち出し、周囲の人とベタぁ〜とした結び付きを志向する。
そもそも自己逃避であって、「自分はこれをやりたい。」なんて、言えない。
ただ、「ふつう」であればいい・・・という名目で、何も考えずに周囲に合わせているだけ。
個を確立した上で、そして、お互いを認めた上での連帯ではなく、個を消失した群れによる結び付きとなる。
逆に言うと、周囲の人間と同化しているわけです。
だからこそ、ダメダメであればあるほど、周囲の人間を見れば、当人についても想定できてくる。
ダメダメ人間は、まずは群れがありきとなっている。
自己逃避であり、個人としての自分なりに達成したい目標があるわけではない。
「ふつうになりたい。」という言い回しで、周囲との境界線を消失しようとする。
まさに、昔のアニメであった、人類補完計画そのもの。

個の確立がなく、いきなりの群れとなると、最近ではパソコンの世界でもそんな感じになっていますよね?
インターネットの検索で名高いグーグルが発表したクロームOSは、LINUXベースとのことですが、ネットに接続しないと何も始まらないというコンセプトになっている・・・ようです。
もちろん、それはグーグルという会社の属性そのものと言えるわけですが、ネットにつなげないと何も始まらないというのでは、コンテンツを消費し、共有することはできても、コンテンツを生産することはできないのでは?
あるいは、共有すると言うことは、同化することに近いでしょ?
会社などにおける情報の共有には意味があっても、その情報を生み出すのは個人なのでは?
もちろん、グーグルのOSはセカンドPCをターゲットとしたものとみればいいわけですが、消費することを大前提としてしまうと、インターネットの世界も活力もなくなってしまうのでは?

まずは群れありきという状態は、何も生み出さず、すべての情報を共有し、周囲の人と全く違いがない「ふつう」というダメダメの理想が達成された状態といえるでしょう。
逆に言うと、その人はいてもいなくてもよくなってしまう。
人が個として、何かを生み出さない限り、本当の意味で人と結びつくことはできないのでは?逆に言うと、個として生み出している人の周囲の人は、やっぱり個として何かを生み出している人なのでは?何も、文章や絵画などのようないかにもなものではなくても、たとえば子育てにおいても、個人として主体的に取り組んでいる人と、周囲に合わせて「てきとう」にやっている人は全然違っていますよ。
周囲の人を見れば、当人も見えてきますよ。

ダメダメ家庭の問題も、今現在起こっていることは、その周りの時代にもあったことですし、現実的に言うと、何千年の前からあること。
多少の道具立てが違っていても、人間の心理そのものは変わらない。
ダメダメ家庭においては、自分自身から目を背け、被害者意識に浸って、誰かを犯人認定して勝手に満足しているだけ。それはどんな時代でも同じですし、今だったら、インターネットの掲示板でも、ボランティアの活動でも、まったく同じでしょ?

人は道具立ての違いに目を奪われ、その本質が見えない。
しかし、人のやっていることなんて、大昔からその本質は変わらないわけです。
「時代のせい。」と言いながら、じゃあ、「現在ではどのような問題があり、昔においては、具体的には、どのようによかったのか?」について何も語れないことなんて、いつの時代でもやっていることでしょ?
そして、そんなことは今後も起こっていくことになる。
根絶を掲げ、「こうなれば、すべて解決だ!」なんて「約束の地」に類する現実無視の理想論を言いながら、現実的な対処は何もしない人が大手を振っているのも、いつの時代にも同じでしょ?

同じことを何回も繰り返しながら、それが過去にも同じ様なことがあったことについては何も考えない。その事件の周囲には同じ様な事件があるわけですし、そんな事件の当事者は同じ様な事件を起こすわけですし、そんな事件の周囲には、同じ様な事件を起こす人もいる。

だからこそ、そんな状況そのものから一歩前に出る必要もあるわけです。
周囲の人間を「コイツらはダメだ!」と、グチっていても、そのグチこそが、そんな程度の人間による周辺環境を作っているわけです。
覚悟を持って、退路を断って、外に出るしかない。
一歩踏み出す勇気が、現状を変えていくことも、古来より実践されていること。
そうすれば、自分の周囲の人も変わってきますよ。
そんなことも、古来より、いつも言われていることでしょ?