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カテゴリー | ダメダメ家庭の人からのメール |
アップ日 | 11年2月8日 |
タイトル | 掲示板の匂い |
こんなサイトを運営しておりますので、管理者というか文章作成者の私に対して、ご意見やご相談等のお便りもあります。 いつも書いていますが、そのこと自体はウェルカムです。 いただいたお便りの文面を読んでいると、「あれれ?この人はインターネットの掲示板に入り浸っているなぁ。」と思わされる文章も、たまに、あったりします。 何もその文章自体に、インターネット掲示板でのやり取り云々などの直接的な記述がなくても、匂いで判ったりするんですね。 私個人は、インターネットの掲示板に書き込んだりはしませんし、たまに見ることはあっても、読んだりはしません。 わざわざ読むほどの文章なんて、あの場にはないでしょう。 人から依頼されれば、ちょっと読むことはあっても、自分から読みたいと思いません。 そうそう、それで、私に対してのお便り中で滲み出る掲示板の匂いですが・・・ 何も記述のスタイルが荒っぽいとか、その場でしか使われないようなローカルな用語の問題のように、記述の傾向の問題ではなく、「分かって欲しい。」という気持ちの欠如と申し上げた方がいいでしょう。 「分かって欲しい。」という気持ちがない人が、掲示板に入れ込んでいて、そんな人がたまたま、この私にメールをすると、いただいた私としては「あれれ?なんじゃ、こりゃ?」と思ってしまうんですね。 「分かって欲しい。」という気持ちの欠如と申し上げましたが、これに関連して、メールマガジン発行時において「サプライサイドの暴走」という文章を配信しております。 ダメダメ家庭の人間は、「言いたい」気持ちはあっても、「分かって欲しい。」気持ちはないんですね。そして、ちょっとのことで、「言いたい気持ち」が暴走してしまうことになる。相手のことなどお構いなしに、「言いたい」ことを言い出す。別の言い方をすると、独り言が暴走しているような趣となってしまう。 多くの人は「言いたい気持ち」と「分かって欲しい。」気持ちを区別していないのかもしれませんが、ダメダメ家庭の周辺では、その乖離が非常に大きいものなんですよ。 そもそも、「分かって欲しい。」気持ちを持つためには「分かって欲しいこと」を自覚する必要があるでしょ? と同時に「分かって欲しい。」ことが自覚できれば、その「分かってほしいこと」を「どんな人に対して伝えるのか?」という対象者選定の問題も発生しますよね? 自分の考えが明確になっていれば、その考えを、ある程度までは理解できるくらいの人に対して発信しないと、意味ありませんよ。聖アントニウスじゃないんだから、魚に説教しても意味ないでしょ?それこそ、大昔の青春ドラマにあるような、海に向って「バカヤロー!」と叫ぶのはいいとして、それは、まさに「言いたいこと」かもしれませんが、「分かって欲しいこと」ではないでしょう。 分かって欲しいことがあるのなら、対象者については、ある程度までは想定できないとね。 そして、分かって欲しい気持ちがあるのなら、文章においても「分かってもらいやすい」記述にする必要があるでしょ?あるいは、「誤解されにくい」という面も配慮する必要もありますよ。 つまり、表現というかメッセージの発信において、まずは「分かってもらいたいこと」を自覚して、「どんな人に分かってもらいたいのか?」を想定し、「分かりやすいように表現する」・・・そんなことをする必要があるでしょ? 「必要がある」も何もそんなことは当たり前のこと。 そして、そんな当たり前のことが欠如しているのが掲示板の匂いというもの。 そもそも、分かって欲しいこともないのに、ムリに発言する必要もありませんよ。 それに、分かるだけの能力のない相手に対して口角泡を飛ばしてもオバカになるだけ。 それに、対象としている人にとって理解しやすいように、客観的で論理的な記述にする必要があるでしょ? それができてこそ、「分かってほしい気持ち」と言えるのであって、「分かってほしい気持ち」があるのなら、それぞれの要素について明確にすることが最初に必要なことですよ。 しかし、ダメダメ家庭の人間は、「分かって欲しい気持ち」ではなく、「言いたい気持ち」が強い。逆に言うと、「分かって欲しい内容」もないし、「分かって欲しい相手」もないのに、「何かを言いたい」という心理状況になっている。 別の言い方をすると、発言というのがコミュニケーションの要素と言うよりも、「ボクを忘れないでよ!ボクを見捨てないでよ!ボクはここにいるよ!」と、ワンワン泣き叫ぶ子供と同じなんですね。 存在を主張しているのであって、考えを主張しているのではない。 主張しているだけで、説明も解説も紹介もしていない。声を上げることが目的であって、語っている内容はどうでもいいわけです。 自分の存在を主張しているだけなんだから、説明する意欲も能力もあるわけがない。 だって、コミュニケーションの要素ではなく、存在の主張なんだから、相手から合意を取る必要もないので、説明しなくてもいい。ただ声が大きければそれでよくなってしまう。 考えを主張しているわけでもなく、当然のこととして分かって欲しいわけでもないので、それこそ「1つの案件を、1つの文章」にまとめることもできない。 まさにその場その場の感情を断片のまま投げつけるだけになってしまう。 その場の感情を、1つの見解に統合する心理的な能力を失調しているわけです。 語っていることが「分かって欲しい」ことなら、1つの案件を、1つの文章にまとめるくらいはできるでしょ?何も上手な文章にしてほしいという依頼ではないんですからね。 しかし、それができないわけです。つまり、色々と書いてあることも、相手に「分かって欲しい」こととは言えないわけです。 実際に、断片の羅列で、おまけに複数のメールで分割されたお便りをされた方に、『とにもかくにも、1つの案件を1本の文章にまとめることをしてみては?』と私から依頼したら、逆上されてしまったことがあります。 その挙句に、そんな人は、「どうして、みんなはボクが言っていることを分かってくれないんだ!ああ!ボクは、なんてかわいそうなんだ?!」と嘆いたりするわけですが、分かってくれないも何も、相手に分かってほしいこと自体が当人も分かっていないんですね。だからこそ、1つの案件を、1つの文章にまとめることもできない。 ただ、存在を主張したいだけなので、分かってほしいこと自体がないのに、人に絡むことになる。 そうなってくると、対面でのやり取りは不可でしょ? そんな人に絡まれても、「で、さっきからグダグダ言っているけど、アンタは、結局は、何が言いたいの?ワタシにどうしてほしいの?」と怒ってしまうだけ。 だから、そんな人は掲示板しか居着けない。 そして、「言いたいこと」を大仰に語ることになる。 しかし、所詮は「言いたいこと」であって、「分かって欲しいこと」ではないので、結局はそれっぽい言葉を連呼するだけで終わってしまう。 分かって欲しいことではないので、質問されたり、反論されたりすると、過剰に反応することになる。分かって欲しいことなら、相手から質問されれば、追加説明すればいいだけでしょ? しかし、「ボクちゃんのことを、忘れないでよぉ〜、ちゃんと見ていてよぉ〜」という叫びなんだから、質問されたり、反論されることは、その叫びを邪魔することになるでしょ? だから逆上してしまう。 分かって欲しいことがない人間なんだから、対面に限らず、個別のやり取りなんてできない。何も私のような鋭敏な人間に対してだけでなくても、やり取りなんて続きませんよ。 一般的には、人はやり取りの相手の言葉から「内容」を読み取ろうとするものでしょ? しかし、内容自体が無意味だったら、やり取りもトンチンカンなものなってしまうだけ。 結局は、「で、アンタは、結局は、何が言いたいの?」となるだけなんですからね。 あるいは、分かって欲しいことではないので、ホームページなどで客観的な文章にすることもできない。ゼロから文章を制作することができないわけです。 伝えたいことがあるのなら、今現在分かってくれるだけの人が想定できなくても、200年後の心ある人に対して、メッセージを発信するという形だってあるでしょ? とにもかくにも、形にしておくという発想になる場合もありますよ。 分かって欲しいことが明確なら、「分かってほしい人」も、それに対応し限定されてしまいますよ。分って欲しいことが明確であるがゆえに、特定の誰かと言うよりも、「明確な形で残す」という発想になる場合も出て来てしまう。 しかし、「ボクちゃんのことを見ていてよぉ〜」という存在主張だったら、そんな発想はしない。「見ていてくれそうな」それっぽい対象が存在する場所で、自身の存在を主張することになる。 しかし、分かって欲しいことに至っていないので、文章自体も断片のまま。 自己逃避で抑圧的なので、自分の中で内容を寝かせるということもできない。 というか、寝かせるの何も、その内容自体が存在しない。 とにもかくにも、「ボクちゃんのことを見ていてよぉ〜」という切羽詰まった感情だけ。 だからこそ、「分かってほしいこと」ではなく、「言いたいこと」になってしまいますよ。 逆説的になりますが、分かって欲しいことではないがゆえに、それっぽい対象者が存在し、そのキャラクターとして不特定となっている状況でないと不可となる。 キャラクラーが明確となっている個別の人間に対して、そのキャラクターに沿った形で説明することはできない。だって、「分かって欲しい」ことではないんですからね。 分かって欲しいことではなく、言いたいことにすぎないが故に、「何らかの」そして「漠然とした」対象者が必要になるわけです。 しかし、分かって欲しいことではないので、当然のこととして「分かりやすい」文章にまとめることができるはずがない。 繁華街で迷子になっている子供はワンワン叫ぶしかない。 しかし、親が近くにいれば、その子供も親に対して落ちついて話ができるでしょ? 逆に言うと、ワンワン叫んでいるということは、対象者が自分でも見えていないということになる。とにもかくにも、「ワタシを見てよ!」「ワタシはここに居るよ!」と叫ぶだけになってしまう。 実際に、メールの中に「ワタシには言いたいことがいっぱいあります。」なる記述をされた方もいらっしゃいましたが。そのメールを読んだ私としては『で、結局は、何が言いたいの?』『何を分かればいいの?』という回答になってしまったことがあります。 「言いたいこと」がいっぱいあるのはいいとして、相手に分かってほしいことにはなっていないわけです。 そんな類のメールをいただくと、「で、このメールは何を言いたいの?私としては、何を分かればいいのかな?」と途方に暮れることが多かったのですが、要は「ボクちゃんのことをちゃんと見ていてよぉ〜」ということだと気がついたら、その種のメールの趣旨も理解できるようになってきました。 その種のメールなり書き込みは、文章の内容に意味があるわけではなく、「書くこと自体」が、その趣旨なんでしょうね。 文章から内容を読み解こうとするとトンチンカンなものになってしまいますが、内容そのものには意味がないことを理解すると、ゼロから文章を起こすことがない点や、「いったい誰に対して言っているの?」と思わされることも見通せるようになる。 このような点は、インターネットの掲示板だけでなく、インターネットのニュースサイトでの閲覧者のコメントもまったく同じ様相でしょ?だからこそ、あの閲覧者のコメントでむやみに同意を求めるようなコメントもあったりするでしょ? あのような同意を求める姿勢も、「ボクちゃんのことを、見ていてよぉ〜」「ボクはここにいるんだよぉ〜」という存在主張とみれば、その心理も理解しやすいわけです。 「ボクのことを、見ていてよぉ〜」と、誰かに訴えるのもいいわけですが、自分の価値は自分で作っていくしかないわけで、それは自分自身との対話によって生まれてくるもの。 その種の掲示板の匂いのするメールも、その匂いをつけてしまう掲示板の活動も、結局は自分自身との対話ができない人間によるものでしょ? 自分自身との対話ができないし、対面での対話もできないからこそ、傍観者として参加できるあんな場に入り浸ってしまう。そうして、その匂いがついてしまう。 自分自身の行動につながらず、人を評価したり、あるいは感想を表明するだけに終わってしまう。肯定的に評価しても、それに参加するわけでもなく、否定的に評価しても、無視するわけでもない。それをネタに騒いでいるだけ。騒いでいるだけだから、自分なりの考えを持つこともない。 まあ、だからこそ、そんな文章を見ると、「で、結局は、コイツはどうしたいの?」という感想になってしまうわけですが。 |