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カテゴリー ダメダメ家庭はいつも否定形
アップ日 11年2月12日
タイトル 出る具体を叩く
ダメダメ家庭の人間は自己逃避。
自分自身の目標を持ち、それを達成するために、自分なりに現状と向き合っていくことをしない。
「な〜んとなく」で、周囲に合わせているだけ。
そして、そんなスタイルを「ふつう」と言って、勝手に称揚する。

達成したい目標があるわけではないので、目の前に現れた現実の減点部分を「ふつうじゃない!」と、否定するだけになってしまう。
そんなことだから、具体的なものが出てくると、即否定となってしまう。
逆に言うと、具体的になっていない、つまり、一般論の段階では、特に否定したりはしない。具体を否定してばかりだから、逆に言うと、一般論の段階では、何も具体がイメージできず、実感が何もない。だから否定しようがない。

とにもかくにも、目の前の具体的なものを否定してばかり。
あるいは、自分の前に現れた誰かの見解を否定する。
否定するのはいいとして、肯定にたる、別の具体を提示することはない。
とにもかくにも具体を否定しているだけ。

たとえば、最近では、新聞などのマスコミを嫌う人が多くいますよね?
それこそ、「新聞なんて、購読しなくてもいいじゃないか?」などと言ったりする人に対して、
『新聞は取らないと困るぞ!』と、出てきた見解を否定する。
あるいは、『新聞はなくては困るものだ!』との言葉で、相手の見解を否定する。
「取らないと、困る。」「なくては、困る。」という物言いがダメダメにお約束の二重否定そのものであるのはいいとして、新聞の価値を説明したかったら、「以前にあった、こんな記事にはこんな示唆的な情報があって、自分は非常に役に立った。」とでも言えばいいだけですよ。
しかし、ダメダメ人間の反論は、「取らないと、困る。」とか「役に立っている人も、どこかにいる。」なんて、純粋に論理次元での説明に留まり、当人の実感が何もない。
実感がないというか、目の前に登場した他者の見解を否定しているだけでしょ?

あるいは、その手の具体を否定するパターンとなると、韓国からみの話題がその典型でしょ?
「韓国は好きになれない。」という見解があったとしたら、
『韓国キライはケシカラン!』と否定することになる。
「キライはケシカラン。」という二重否定ではなく、シンプルな肯定形でそのよさを説明すればいいだけですよ。
「韓国料理の△△はどうのこうの・・・」「韓国ドラマの○○がどうのこうの・・・」とか、色々と具体的に言えばいいだけですよ。
しかし、具体を否定してばかりなんだから、肯定できる具体を何も知らないわけです。

その手の人は、目の前に現れた見解を否定形の一般論で否定しているだけ。
まあ、新聞がどうなろうと、韓国がどうなろうと、それはどうでもいい話。

たとえば、ダメダメ家庭の問題により関わりの深い分野となるとボランティアに関わる問題があります。
まあ、このサイトではボランティアに対しては好意的ではない。
それに対し、不快感を持たれる人もいらっしゃるでしょう。
しかし、「あんな立派な志を持っている人達をケナすのはケシカラン!」と否定しているだけでは説得力がないでしょ?
「ボランティアをなさっておられる△△さんの、このような活動によって、□□さんがこのようなことができるようになった。アナタはこのような功績を否定するの?」と具体的に説明すればいいだけですよ。

しかし、人の見解を否定してばかりの人は、具体的には何も言えないものでしょ?
そもそも、ボランティアの活動の具体を、本当に肯定しているのなら、その人自身も参加すればいいだけですよ。
別の人間の否定的な見解をさらに否定するよりも、そんなシンプルな肯定のスタイルそこが、説得力になりますし、その人にとっての尊厳にもなるでしょ?
しかし、自己逃避のダメダメ人間は、誰かの見解を、一般論で否定しているだけ。

政治の分野においても、たとえば現在政権の座にある民主党を否定的に見ているのなら、対立する自民党に献金するなり、選挙でのポスター貼りでも手伝うことが肯定的な態度でしょ?
しかし、インターネットに巣食っている連中は、単に民主党にケチをつけているだけ。
気に入らないものを否定することはできても、本当の意味で肯定しているものはない。

具体的な見解を一刀両断的に否定となると、それこそこんな例があるでしょ?
「ワタシは結婚したくはないなぁ・・・」という言葉から生まれるやり取りです。
そもそも、そんな発想になってしまうのは、ダメダメ家庭の子供としては、ありがちなもの。
ダメダメな親は、その具体的な見解を、あっさり否定してしまう。
『結婚しないと、よくないことになる。』
『子供がいないと、面倒なことになる。』
子供からの「結婚なんてしたくない。」という見解を、いつもながらの二重否定表現を使って否定するのはいいとして、肯定できる具体を相手に提示できるわけではない。
「よくないことになる。」とは言えても「結婚すると、こんないいことがある。」とは言えない。
だって、実際に言えないわけですからね。
つまり、「結婚しないとよくないことになる。」という言葉は、「結婚してもいいことは一つもない。」という点について、完璧に説明していると言えるわけです。もし、あったら、その具体を言えばいいだけ。
そんなやりとりをしているからこそ、「家庭って、イヤなものだ!」と、ますます思ってしまうんでしょ?

「結婚しないとよくないことになる。」という命令を受けて、とりあえず結婚しても、うまくいくわけもない。ということで、離婚が遡上に上ることになる。
しかし、そうなっても、「離婚はイヤだ!」と言いだし、「離婚」という具体的な行動を否定する。かと言って、「こんな家庭に作り変えていこう!」と考え、自分の家庭に向き合っていくわけではない。「離婚しない」という二重否定であって、「こんな家庭にする」という肯定とはなっていない。
しかし、そんな家庭は「離婚しなくても」、マトモにはなっていませんし、そんなところにいる子供もマトモには育っていませんよ。

そんな親は、子供からの「親なんて存在は、子供にとっては不要だよ!」という見解?に対して『子供にとって、親はなかったら困るものだ!』という物言いで、子供からの見解を否定することはしても、親のありがたみを肯定するような具体は何も提示できない。
しかし、その親にも、その人にとっての親がいるわけでしょ?
自分の親のありがたみについて自分自身が知っている具体を、一つ一つ言えばいいだけですよ。
しかし、それができない。
だって、親いてよかったと思ったことなんて、その人自身に一回もないわけですからね。

逆に言うと、自分なりの具体が何も言えない人は、相手から出てくる具体を否定してばかりになってしまう。
別のところでまとめておりますが、相手の言い方に対しても、「そんな言い方はよくない!」と文句をつける。
常に目の前の具体を、一般論で否定しているだけ。

結果的に一般論が「残る」わけですが、それは否定されていないという二重否定であって、肯定しているわけではない。
そして、そんなやり取りになじんでしまって、肯定するものについて自分で考えることはなくなってしまう。
とにもかくにも目の前にでてきたものを否定していればいいので、ラクなものでしょ?
それに、否定している自分がカッコイイなんて思ってしまう。
「こんな程度の意見に満足できないオレって、なんてカッコイイんだ?!」
「ああ!このオレを満足させてくれよ!」
「ふんっ、コイツのくだらない意見をやっつけてやったぞ!」
そんな感じで、自己満足しているだけ。

しかし、その自己満足は、自分を肯定したものではないでしょ?
誰かの見解に違和感を持ったら、それを踏まえ、自分なりの考えに統合すればいいわけですが、目先の具体に断片的に否定するだけになってしまって、心理的な統合力を失調してしまっている。

とにもかくにも、目の前の具体を否定しているだけ。
そんな人間が結婚してしまって、子供を持ったらどうなるの?
自分の目の前に現れた自分の子供という具体を、否定するようになるのは当然のことでしょ?
そして、その子供が何か言ったら、その子供からの見解を、問答無用で否定するだけになってしまう。
そんな親とのやり取りしかできなかった子供はどうなってしまうの?
それこそ、インターネットの掲示板にでも入り浸ってしまうようになってしまう。

インターネットの掲示板こそ、目の前の見解を一般論で否定しているだけでしょ?
そんなやり取りも、今回の文章で考えているような、具体が現れたら即座に否定しても、それ以上の具体は何も示せないダメダメな親の姿を想定すれば簡単に理解できるでしょ?
それこそ、「結婚なんてしたくない。」という書き込みの文章があったら、『それでは少子化になってしまうから、ケシカラン!』と否定する書込みをしても、『結婚すると、こんなにいいことがあるぞ!』という具体的な記述ができないところは、まさにダメダメ家庭でのやり取りとまったく同じ。
相手を否定することはできても、肯定している具体は何も出てこないわけです。

相手の見解を「それは、違いますっ!」と言って否定しているだけで、自分なりの見解を提示することができない。というよりも、断片的な否定で止まっていて、それを統合するだけの心理的な能力を失調しているわけです。
社民党の福島党首なんて、その典型でしょ?

相手の見解を否定してもいいわけですが、その後で、それ以上の具体を出さないと、議論にならないでしょ?議論にならないから、結局は、序列関係なり支配・被支配の構図で命令の流れに沿って決定されてしまう。
それこそ、以前にとりあげた韓国の歴史教科書なんて、典型的にそのパターンでした。
登場した具体に対して、一般論で否定している姿は、韓国人もインターネット掲示板の住人も社民党もまったく共通しているでしょ?
そんな姿も、ダメダメ家庭のメンタリティを理解していると、よく見通せるものなんですね。

具体的な検討ができず、議論のための議論ばかりになってしまう。お互いの見解を否定し合って盛り上がっているだけ。だから、目の前にある具体をしっかり見ることはない。
「どのように評価するのか?」という点で議論になっても、「具体的にどんな行動をしていくのか?」という点は何も考えない。
一般論的な理念はあっても、実感の伴う信念はない。
当然のこととして、目の前の現実を実感的に認識し、それを打開していくという気迫もない。常に傍観者然で評価者然とした立ち位置となっている。

そして、その評価にあたって権威を過剰に意識する。
だから、「オマエのような人間は発言する資格はない!」という物言いが跋扈する。
しかし、相手から見解が出て来るのを叩くことはできても、自身で説得力のある具体的な見解を提示できるわけではない。

出る具体を叩いているだけなので、当然のこととして、トラブルがあっても、具体的な対処はしない。
「時代が悪い。」とかの一般論とか、外国勢力とかユダヤ人の陰謀とかの、実体感がないものを犯人認定するだけ。
それこそ、自分の家族が自殺するような事態になっても、「あ〜あ、悪い時代だなぁ〜」と嘆息しているだけで、何もしない。
そんな人に対して、ヘタに、「アナタは、親として、子供のサポートはしていたの?」「そもそも、その子供が引きこもっている時に、その子供とどんな話をしたの?」などと聞こうものなら逆上されるだけ。『ワタシたちは、ヒドイ時代による被害者なのよ!なんてヒドイことを言うのよ!』あるいは、当人たちだけでなく、周囲にいる市民団体やボランティアの連中も、具体的な検討を一般論を持ち出して否定する。
「この人たちにも事情があるのよ!」
「みんな政治が悪いのよ!」
そんな一般論で封印してしまって、家族の自殺について何も考えない状態になってしまう。結局は、そのような事件を起こす土壌はそのままなんだから、今度は別の家族が自殺することになる。
そうなっても、「あ〜あ、ほんっと、悪い時代だなぁ〜」「政府はいったい、何をやっているんだ?!」と、前より強めの嘆息になるだけ。
そんな議論をする人間が関わっている家庭がマトモなわけがないじゃないの?
そんな家庭の人が、事件を起こす前に、その子供の話を聞いていたわけがないじゃないの?

具体から逃避してばかりなので、議論においても、議論のための議論をするばかりで、実体感のある議論ができない。
そして、遠くのものを犯人認定して勝手に納得して、もう考えるのをやめてしまう。
前にも書いていますが、具体的な見解がでたら、それを叩くという習性があるということは、家族という具体も叩かれていたと言うこと。
そして、具体の消失を表す言葉である「ふつう」を持ち出して嘆くことになる。
「ワタシたちは、ただ、ふつうの家庭を築きたかっただけなのに、どうしてこんなことに?」
しかし、「ふつう」という抽象論を大義名分にして具体を叩き続けてきたんだから、「こんなこと」になってしまうのも当然なんですね。