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カテゴリー | 当事者意識の欠如 |
配信日 | 11年2月14日 |
タイトル | 消費者としての親稼業 |
ダメダメ家庭を作る親は当事者意識がない。 自分なりに目標を設定し、考え、対処していくという発想そのものがない。 だから、認識から逃避し、判断から逃避している。 しかし、認識や判断から逃避しているがゆえに、何か不都合な事態になっても、「ワタシは何も知らなかった。」、「ワタシは何も間違った判断をしていない!」、「だから、ワタシは悪くない!」と言えることになる。 「悪くない。」と弁明するくらいならともかく、自分で対処するという発想そのものがないので、不都合な事態が発生したら、それを被害として認識してしまう。 その人が間違った判断をしたのなら、それはミスであり失敗と言えますが、判断そのものをしていなんだから、それは被害として認識されてしまいますよ。 だから、何かあると、「ワタシこそが被害者なんだ!」と騒ぐことになる。 当事者意識がないダメダメな親は、常に受け身であり、別の言い方をすると、何事においても、消費するという立ち位置になっている。何かを生産していくという発想を持っていないわけです。 何も工業製品の生産や、文化的な作品を創作するような、大それたことではなくても、自分の家庭を作っていくとか、子供を一人前の市民にしていく・・・と言うことは、消費者の立ち位置ではなく、生産者の立ち位置となるでしょ? あるいは、趣味で植物を育てるようなことでも、育てるという点においては生産者といえるでしょう。 生産者の視点がなく、消費者の視点しか持っていないので、「いい製品」を受け取れなかったら、被害者意識となってしまうのは当然のこと。 これが、工業背品のようなものなら、そんな発想も、まあ、しょうがない。 しかし、当事者意識がないダメダメ人間は、自分の家庭なり、自分の子供に対しても、そんな視点になっている。 だからこそ、自分の子供が起こしたトラブルは、不良製品を掴まされてしまった消費者としての立ち位置で騒ぐことになる。 それこそ、登校拒否とか引きこもりの問題でも、親の側は純然たる消費者の立ち位置となっている。「学校に行くという『ふつう』の機能が不全となっている不良品の子供を押し付けられた消費者である。」と、親としての自身を認識しているわけです。その手の親は、「学校や政府こそが、子供の生産にあたる責任者である。」と認定していて、だからこそ、不良品の子供を掴まされた消費者として政府や学校にクレームをつけることになる。 そして、クレームをつけるという行為を通じて、トラブルにおける被害者としての立ち位置を自分に確認する儀式とする。 あるいは、子供が自殺したり、逆に子供の側が事件を起こすような事例でも、親の側が「出来損ないの子供」を振り当てられてしまったかわいそうな消費者という立ち位置として自身を認識していると見ると、その手の親がする大騒ぎなり、あるいは、謝罪することへの拒否、もちろんのこと、「ワタシが悪いわけではない!」という弁明なども理解しやすくなるわけです。 このような親の行動のスタイルは、コンピューター・ゲームをやっている人の言動との共通性があったりするもの。 私個人はゲームはしませんが、ゲームに対して、そして、ゲームのキャラクターに対してクレームを言っている人がいたりします。それこそ、「なんなんだ?この出来の悪いストーリーは?」とか、「設定がヒドすぎる!」とか、「このキャラクターが面白みがない!共感できない!」とかの言葉で不満を言っているようです。 まあ、ゲームの場合は、ユーザーは純然たる消費者の立ち位置になりますから、その不満を表明することもあるでしょうし、その権利もあるでしょう。 子育てに対して、消費者の立ち位置であるダメダメな親も、まさにそんなスタンスになっているわけです。 「自分の子供のキャラクターには満足できない!」 「もっとラクにできるようにしてよ!」 「もっと楽しませてくれよ!」 と、子供養育体験を消費する者の当然の権利として、生産者に対してクレームをつけることになる。 ゲームだったら、ユーザーの側であれば、当然のこととして生産者ではないんだから、クレームをつけることも理にかなっている。しかし、子育ての領域であれば、親の側が「ワタシたちを満足させろよ!」と、ふんぞり返っているのは違うでしょ? だって、子供の生産者というのは、本来は、まあ、色々な意味で、その親となることは当然のこと。 しかし、当事者意識がないがゆえに、あらゆることがすべて受け身になり、消費者の立ち位置になり、不都合な事態はすべて被害として認識されてしまう。 子供を一人前の人間にするという生産者の視点がないので、当然のこととして、親の側が子供を「いい製品」にしようとは考えない。 その手の親の発想としては、自分の子供が起こす問題は、並んでいたものをたまたま取ったら、それが当たりだとかハズレだった・・・というだけ。 常に消費者としての立ち位置なので、何かを始めるにあたって、覚悟を持ってことを始めることもない。だって、受け身の立ち位置で、判断とは無縁なのに、どうして覚悟を持つ必要があるの? 消費者としての立ち位置だから、傍観者然としたもの。 まだ、購入する時に覚悟を持つなり、自分なりに選択すればいいわけですが、それこそ「こんにゃくゼリー」を購入しないという選択そのものができない人間なんだから、購入前の選択なんてできるわけもない。 だからこそ、何も選択しなくてもいいように、「すべてのものをいい製品にしろ!」と要求し、それがかなえられなかったら、被害者意識となってしまう。 「すべてのものをいい製品にしろ!」という発想は、別の言い方をすると、不良品の「根絶」ということ。子供を持ち、育てる際にも、まったく同じ発想になっているわけです。 それこそ、ドメスティック・ヴァイオレンスの根絶を声高に叫んでいる活動家もいますが、そんな活動家たちは、適切な男性をチョイスするという発想そのものを持っていないわけです。 その手の人たちにしてみれば、「て・き・と・う」に結婚しても、その後の結婚生活がうまくいくように生産者たる政府に管理してほしいわけです。 そんな人が子供を育てるんだから、当事者意識というか、生産者としての意識を持って子育てするわけがありませんよ。 常に、消費者目線であり、だからこそ、被害者目線になってしまうわけです。 よく「現実と虚構を混同している。」なるもの言いがあります。 それこそ、コンピューター・ゲームと現実を混同していると言いたいんでしょうね。 その物言いは、ゲームに入れ込んでいる子供の側を指し示しているつもりなんでしょうが、実際問題としては、ダメダメな大人もまさにそうなっているわけです。 購入したゲームに登場するキャラクターに類するものとして、自分の子供を見ているわけです。 あるいは、子供の成長においても、ゲームに近いものとして認識しているわけです。 当事者として関わっているのではなく、消費者としての関わりとなっている。 コンピューター・ゲームと現実世界を、実際として混同しているというよりも、その「立ち位置」が、あくまで消費者となっているという点において、実に近くなっている。 だからこそ、たまたま上手く行っている状態においては、「子供から愛を教えてもらった。」「おもしろかった。」などと、やっぱり受け身の立ち位置で喜ぶことになる。 そして、不都合な状態になったら、「満足できない。」「つまらない!」「ジャマくさい!」「面倒くさい!」と文句を言い、そして、途中で止めてしまうことになる。 コンピューター・ゲームを途中でやめるくらいなら、その人の自由と言えますが、人間育成のミッションまで、ゲームと同じように放置してしまう。 完全なネグレクトとまではいかなくても、途中で、子供への興味をなくし、「おざなり」になる親も現実として多いでしょ? そんな姿を、倫理的な観点から非難する人も多くいるわけですが、むしろ、ゲームと言うか「虚構の世界と現実との区別」という心理的な問題であり、対象に向き合う立ち位置が消費者という立ち位置である点に注目した方が、その手の人の言動を理解しやすいわけです。 実際に、出来損ないのゲームに対するユーザーの反応と、自分の子供がトラブルを起こした際のダメダメな親の反応は、よく似ているものなんですよ。 それこそ、出来の悪いゲームをわざわざ購入して、「ああ!ツマラナイ!」と嘆く人がいるようですが、それを実生活でやると、不幸自慢となります。 ゲームでそれをやるには、人畜無害ですが、その手の人は、子供が好きでもないのに、子供を持って、「ああ!出来の悪い子供を持ってしまって、オレって、なんてかわいそうなんだ?!」と嘆くことになる。 逆に言うと、その手の傾向がある人は、ゲームでの嘆きを自覚して、実生活では慎重に生きないとね。 人という存在は、生産者という立ち位置と消費者としての立ち位置の双方持つもの。 何かを生み出すという生産者としての立ち位置は、それなりに充実感はあっても、当然のこととして、精神的にも肉体的にも厳しいところがある。 それに対して、消費者としての立ち位置は、順調にいけば、それを「楽しめ」ばいいし、うまくいかなくなったら、生産者に対して文句を言っていればいいだけ。 そして、「買ってやる!」というスタイルで恩を着せ、その恩をアピールすることで、自分の役割なり居場所とすることなる。 しかし、そんな役割などは、本来は価値がないでしょ? 何かを買ったとしても、それは当人の努力で達成したわけではありませんよ。 逆に言うと、だからこそ、自分の価値を示すために、ますます「恩を着せる」方向にアピール度合が上がっていく。 よく、社会参加とかの言葉を言われたりしますが、重要なことは生産者としての立ち位置で社会と関わることであって、消費者としての立ち位置で関わっても、本当に意味での参加とはいえませんよ。子育ても、生産者という立ち位置で関わっていれば、それも社会参加といえるのでは?あるいは、文章を書くことにおいても、生産者としての立ち位置であれば、それ相応の社会参加といえるでしょ? 人の文章を読んで、上から目線でコメントして、それを公表しているだけだったら、社会参加とはいえませんよ。責任感を伴った形で、自分以外の世界と関わることが社会参加といえるのでは? 消費者としての立ち位置を維持したままで社会と関わっても、その主張のスタイルが過激になるだけ。 それこそ、消費者運動のようなことになる。 まあ、消費者運動そのものは、それなりに意義があることとは言えるでしょうが、その消費者運動の活動家が、自分の子供をどのように育てているのか? その点を考えてみると、何となく想像できたりするでしょ? その手の運動の活動家の「顔」をみれば、それがマトモな親の顔ではないでしょ? 周囲にクレームをつけるだけの人間は、当然のこととして子供に対してクレームをつけていますよ。 「もっといい子になれ!」 「親に面倒をかけるな!」 「あ〜あ、ハズレを引いてしまった!」 常に消費者目線になっていて、自分で対処するという発想そのものを持っていない。 「わざわざ育ててやっている!」という恩を着せる立ち位置になっている。 そんな家庭で育った子供はどうなってしまうの? 自分で何かを生み出す生産者になれるの? そんなわけないでしょ? それこそ、インターネットの掲示板に巣食って、消費者目線で、誰かの業績に上からコメントして喜ぶだけになってしまうのも当然でしょ? そんな人たちの姿は、まさに「子は親の鏡」そのもの。 そんな出来損ないの製品になってしまうのも、責任を持って作り上げようとする生産者がいないんだから、ある意味において当然のことなんですね。 まあ、インターネットの掲示板で、消費者目線でクレームを付けているくらいなら、薬にもならないにせよ、大きな毒にもならないでしょう。 しかし、そんな人が世の中に出てしまったらどうなるの? 会話の能力もなく、何事も被害と認識してしまうような人間が世の中に出てしまったら、トラブルになるのは当然のことでしょ? それこそ、秋葉原の通り魔事件や大阪ネグレクト事件のようなことになってしまいますよ。 パソコンのゲームだったら、逆に言うと不良品だったら、交換するなり処分すればいいだけ。しかし、消費者目線の親によって育てられて、不良品となってしまった人間は、扱いようがない。 現実においては、実際に事件を起こしてもらってから、「処分」をすることになる。 しかし、現実的に言うと、その前で対処する方が、当人自身にとっても、周囲にとってもベターといえるでしょ? たとえ、パソコンのゲームであれ、あるいは、野菜を作る場合にも、いい製品を作ろうと思っていて、そして、品質管理という生産者としての義務を果していても、実際に不良品は出てしまうもの。 しかし、ダメダメな親は、そもそも自分の子供をちゃんとした市民にしようなんて思ってもいない。思ってもいないので、逆に言うと、覚悟もなく子供を持ってしまう。 できてしまった子供は、消費者たる親に対して楽しみを与えることを要求される。 しかし、そんな日々が続くわけもない。結局は、カタストロフになってしまう。 モンスターを処罰しても、モンスターを生み出す親はそのままでは、同じ事態が繰り返すだけですよ。 不良品の子供が出来上がってしまうのは、残念ながら不可避なんですね。 事件前の尊厳死も選択肢の一つとして考えていくことが現実的ですよ。 しかし、現状は、まさにカミュが「異邦人」の中で書く「やさしい無関心」そのものなっている。 無関心だからこそ、前兆を放置して、トラブルが起こるのは、どんな分野でも起っていることでしょ? 何かを作り上げることには覚悟が必要になるわけでが、その覚悟がないがゆえに、子供をもってしまうのがダメダメな親というもの。だから、別の人間が、相応の覚悟を持って、その手の家庭に臨むのも当事者意識なんですよ。 その点について考慮しないことは、何も考えずに子供を作ってしまうダメダメな親と、程度問題は別にして、ダメダメな面は共通しているわけです。 |