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カテゴリー | ダメダメ家庭問題の考え方 | |
アップ日 | 11年2月15日 | |
タイトル | 外国語習得とのアナロジー | |
このサイトにおいて、ダメダメの問題を外国語でのやり取りで喩えることがあります。 ダメダメ家庭出身者にとって、自分たちのダメダメの流儀は母国語で、マトモな流儀は、現在の英語や昔のラテン語のような共通語と言えるでしょう。 その共通語は、勉強することによって、とりあえず、「使える」ようにはなっても、普段使っているわけではないし、アタマの中で考える際には、どうしても母国語で考えることになってしまう。だから、母国語のようには自然にはいかない。 英語圏で育って、英語を話している人と、日本語を母国語として、学校で勉強した英語でコミュニケートしている人では、同じように英語を使っても、その心理的な負担が違いますし、細かな心情のヒダのようなものは伝えにくいし、分かりにくい。 これが、英語の習得という言語の分野であれば、それなりのシステムがあるし、その必要性も認識されやすい。しかし、ダメダメな流儀が日常化した環境の中で、世界の「共通語」であるマトモな流儀を習得することは、簡単なものではない。 そもそも、ダメダメな流儀と、マトモな流儀の間に大きな違いがあることを、多くの人は認識していない。 言葉だったら、たとえ英語圏出身者でも、英語以外の言葉があることは知っている。 ただ、英語圏の人は、英語以外の言葉を、ムリに勉強しなくてもいいというだけ。 しかし、マトモな環境にいる人は、自分たちがなじんでいるマトモな流儀とは違っている、つまりその発想が根本的に違っているダメダメが流儀が存在すること自体が分からない。 マトモな流儀の人が、ダメダメな流儀でしか通用しない世界があることが分からないのはしょうがない。だって、そもそもその必要性がないわけですからね。 マトモな流儀の人は、自分たちと同じ様なマトモな流儀の人と、マトモな流儀を使ってやり取りをしていけばいいだけ。自分たちとは違った流儀を習得する必要はありませんし、知る必要もありませんよ。 言語における例示だと、英語圏にいる人は、堂々と英語を話せばいいだけだし、外国からやってくる人にも、英語で話すことを要求すればいい・・・それが現実というもの。 マトモな流儀の人は自分たちの流儀で押し通せばいいだけですが、ダメダメな流儀の人は、自分たちの流儀が通用しないマトモな流儀があることは、知っておく必要があるでしょ? 言語での例示に戻りますと、それこそ、アマゾンで暮らしている小さな部族があって、その現地の言葉をその部族で使っているのはいいとして、その言葉は、基本的にはその部族でしか通用しないと分かって使っているのか?そもそも、世界中がその言葉を使っていると思っているのか?あるいは、その部族以外の世界があることを自体を考えようとしないのか? それによって、その様相はかなり違っているでしょ? 小さな部族の間だけで使われる言語であっても、当人たち自身で、その言葉が世界共通語とは言えないことを分かった上で使っていれば、それはその人達の考えでありスタイルといえるでしょうし、後は「その相違点なり齟齬をどのように調整していくか?」というプラグマティックな問題になるだけ。 しかし、世界中がその部族の言葉を使っていると考えていたら、色々と困るでしょ? 閉鎖的な世界というのは、その閉鎖性ゆえに、自分たちの世界が閉鎖的であることが分からない。井戸の中の蛙は、大海を知らないこと以上に、自分は井戸の中にいることが分からない。 言語においても、自分たちの言語と、世界で通用する言語の区別ができて、その使い分けができればいいだけ。 このような対処は、言語の分野だと、まだ分かりやすいわけですが、ダメダメとマトモの間だと、その違いも分かりにくくなるし、対応も難しい。 それこそ、共通語ともいえる英語だったら、英語圏以外の人にとって、習得する必要性も説明しやすいし、習得するシステムもある。 しかし、ダメダメな流儀を使う人間が、マトモな流儀を習得するにあたっては、そんな明確にはいかない。 英語と日本語だったら、コミュニケーションは完全に不可能なんだから、互いを外国語と認識しやすい。あとは、どちらがマジョリティーか?という問題だけ。しかし、ダメダメ語とマトモ語では、形の上ではやり取りが成立したりする。 それこそ、ただ単に人に合わせているというスタイルで、その場を乗り切ることもできてしまう。 日本語と英語だったら、互いを外国語と認識し、相応の対応もできる。 日本に住んでいれば、英語を話す人とのやり取りもあったり、テレビや映画などで英語とも接することにもなる。多くの情報から、自分たちの流儀を相対化できることになる。 しかし、それこそ、アマゾンの小さな部族となると、簡単ではない。 だって、それまで、英語を話す人を見たことがない可能性だってあるでしょ? テレビなどで、英語を話す人と見ることもない。 英語で書かれた書籍などに接することもない。 何もアマゾンの人たちをバカにしているのではありませんし、ダメダメだと申し上げているわけではありませんよ。 自分たちの位置づけを認識することの難しさを考えているだけです。 閉鎖的な領域であればあるほど、その閉鎖性を自身で認識することは難しいわけです。 極端な話になりますが、英語圏の人が、その人が英語しか話せないことを自嘲気味語ることがありますが、アマゾンの小さな部族の人が、その部族の言葉しか話せないことを自嘲気味に語ることはない。 閉鎖的であればあるほど、自分たちを相対化することが難しくなってしまう。 そんな環境で育ったら、その部族以外ではどうやっていくの? その部族の中で一生を終えるのであれば、世の中には自分たちの言語とは別の言語があり、自分たちとは別の言語こそが共通語となっていることを認識しなくてもいいし、当然のこととして、その共通語ともいえる言語の習得に努力する必要もない。 そういう意味では、実にラクなもの。 逆に言うと、そのラクさは、そのアマゾンの部族で一生を終える人だからこそのラクさといえる。 そんな人に対して、「オマエたちはどうして、英語を習得しようとしなのか?」「世界をフィールドとして活躍したいとは思わないのか?」「英語を使いこなせば、自分たちの考えも世界に発信できるぞ!」というアドヴァイスがあったとしたら? それはそれでいいわけですが、そんなアドヴァイスを受けても、『えーと・・・アンタがさっきから言っている英語って、いったい何?』と思っちゃうだけでしょ? 何度も書きますが、英語を話す人と接したこともなく、あるいは英語の書籍も読んだことがなければ、自分たちの言葉こそが世界共通語と思ってしまうのは当然のことでしょ? ダメダメの流儀についてもまったく同じなんですね。 ダメダメ家庭を作る親は、自分たちのダメダメさが「ふつう」となるようなダメダメな環境を求めることになる。 つまり、ダメダメ家庭の周囲は程度問題は別として、やっぱりダメダメになっている。 つまり、ダメダメ家庭の子供は、マトモな人やマトモな流儀を見たことがないわけです。 たまにテレビなどで、「なじみのない」考え方や行動や習慣に接することがあっても、そんなテレビや書籍からの情報に対しては、「現実と虚構を混同するな!」と怒られるだけ。 ダメダメ家庭の周囲では、ダメダメな流儀こそが現実であり、マトモな流儀は虚構になるわけです。 それこそ、アマゾンの小さな部族の中で英語を話しても、誰も相手にしないようなもの。 アマゾンの原住民が英語を習得しようとする意欲をもつこと自体が難しい。それこそ英語を話す来訪者が来なければ、英語に接することもないでしょ?もし、その小さな部族に子供がいて、英語を話している来訪者を見て、その言語に関心を持っても、その英語を習得するのも難しい。 だって、その子供の周囲の原住民は、「英語を習得したい!」という、その子供の希望に理解を示してくれるの? その原住民に、ある程度の問題意識や向上心があればこそ、子供の向上心なり向学心を支援するわけですが、問題意識がなければ、そんな向上心は余計なことになってしまいますよ。 と言うことで、英語に接すること自体が困難であり、英語を習得しようとする努力をすることにも多大な困難が発生してしまう。外国語の習得は、独学では難しいものでしょ? だって、言葉というのはコミュニケーションのツールなんですからね。 当人の努力だけで何とかなるというものではないでしょ? その部族に英語を話す人が来て、その人がそれなりにおもしろい人であって、その人とコミュニケートしてみたいと思うからこその習得の意欲になるわけで、そんな状況でもない部族の人に対して、「英語を習得しようとしないのはケシカラン!」と怒ってもしょうがないでしょ? あるいは、昔のヨーロッパでも同じでしょ? 農業で実際に働いている人だったら、その地の言葉を話せれば十分ですよ。 何もわざわざラテン語を習得する必要もない。というか、農業をやっている人は、ラテン語と言われても、「なにそれ?」と思ってしまう人がほとんどでしょ? 教会の神父さんには必要であっても、その神父さんも、一般の信者には、「この世にはラテン語という言葉があって・・・」という話もしませんよ。まあ、見込みがある子供にはそんなことを言うかもしれませんが。 一般の農民がラテン語という言語の存在自体を知らなくても、しょうがない。 一般の農民は、神父さんから話を聞かなければ、ラテン語があること自体がわかりませんし、そのことを非難されても困るでしょ? 知らなくて困るということなら、神父に対してクレームをつけるのがスジですよ。 そんな農民としては、知っていて努力をしないのではなく、そもそも知らないわけです。 ダメダメの流儀も、まずもって、そのダメダメな環境に、マトモな流儀を示す必要があるでしょ?まずもって見本となる人をおく必要があるわけです。 ダメダメな環境の中にいる子供としては、周囲のダメダメな大人の中で、マトモな人を見たことがないわけですからね。 頻繁に書いていますが、ダメダメ家庭の周囲はダメダメな人ばかりで、学校もダメダメになっている。そして、その中にいる子供としては「世界全部がこんなもの。」と思ってしまっている。それこそアマゾンの小さな部族の中の子供のように。 ダメダメ家庭の子供としては、まずもって、自分たちの流儀がマイナーなものであることを認識すること自体が難しい。 そして、メジャーな流儀を習得することも難しい。 そして、なんとか習得したとしても、それが母国語ではないことは変わらない。 つまり、使用するにあたって、心理的な負担が掛かってしまう。 それは、共通語を母国語とする人には分らない感覚ですし、マイナーな領域で一生を終える人にも分らない労苦となる。 ダメダメな環境の出身者に対し、「自分の努力で何とかしろ!」と説教するのは簡単ですが、そのための現実的なハンディキャップをふまえる必要があるわけです。 前にも書きましたが、マトモな見本すらない環境から、どうやって習得していくの? ダメダメな行動をする人に対して、倫理的に説教するのは簡単ですが、プラグマティックな問題を認識しないと、事態が悪くなるばかり。 アマゾンの小さな部族の子供が英語を話せなくても、それを倫理的な問題として糾弾することにはムリがあるでしょ? 同じように、ダメダメな環境の中の子供がマトモな行動をしないという点を、倫理的に糾弾しても無意味なんですね。 マトモな行動をさせたかったら、そのようなシステムを整備する必要があるわけです。 逆に言うと、英語の勉強を始めたら、その周囲に仲間がいることに気が付いて、そんな仲間とのやり取りで、自身も向上していくという流れも現実的に可能でしょ? そして、それがスパイラル的に進行していくことになる。 自分でやってみるからこそ見えてくるものがあるわけです。 しかし、これも英語というものを、そもそも知らない環境だったら、そんな流れは不可能でしょ? ダメダメではない、マトモな流儀を習得することも同じなんですね。 習得する努力によって、スキルが身に付くだけでなく、同じ努力をしている仲間も見つけることができる。まさに、ゲーテが「冬のハルツの旅」で書くようなもの。 現状がダメダメであっても、努力の必要性や可能性について、見通しがつくのなら、自分なりに努力もできる。しかし、その必要性や可能性が見えない環境だったら、努力の意欲そのものが起きようがない。 そもそも、マトモな流儀の人は、ダメダメな流儀の人とやり取りをする必要性自体がない。 だからこそ、弾き飛ばされたダメダメな人が、同じようなダメダメな人と、ダメダメな流儀で結び付いて、泥沼が深まってしまう。 そんな泥沼の中でトラブルが発生し、マトモな流儀の人から、非難の声が上がることになる。しかし、その手の倫理的な糾弾は、事態の理解に根ざしているのではなく、単に自己満足にすぎないわけです。 そのような事態は、カミュが「異邦人」の中で言う「やさしい無関心」とも言えるわけです。倫理的な指弾は、現実的な問題への対処の無関心となってしまう。頻繁に書いていますが、無関心だからこそ、このような事態が何も改善されず、繰り返されることになるってしまう。 アマゾンの小さな部族の子供が英語を話せないことや、中世のヨーロッパの農民がラテン語を話せないことは、倫理の問題ではないでしょ? 同じようにダメダメの問題も、倫理の問題ではなく、単なる状況の齟齬であり、体系の齟齬なんですね。逆に言うと、事態を改善していくためには、考え方の体や、状況についての視点が必要になるわけです。 |