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カテゴリー | ダメダメ家庭出身者の状況 | |
アップ日 | 11年2月17日 | |
タイトル | デフォルトとしての凸 | |
メールマガジンとして配信していた折に、「安息の原体験」という文章を配信しております。ダメダメ家庭においては、家族のお互いが信頼によって結び付いているわけではない。そもそも、信頼が不在となっている状況なんだから、安息とも無縁になりますよ。その中でも特に弱い立場といえる子供は、「安息」というものを持ち得ない。 さて、心理的な状態を、特に緊張状態を、数学というか自然科学におけるポテンシャルのような考え方を使って表記すると、その安息ですが、「凹」状態と言えますよね? 凹状態だからこそ、そして、その底の位置だからこそ、その地点からちょっとズレても、自然に元の位置に戻って来ることになる。 底の位置であれば、その位置を維持するのに、格段のエネルギーを必要とするわけでもないし、そこからのズレに対しても、落ち着いた対応となる。 そんな心理的な落ち着きが、安息と言えるわけですが、ダメダメ家庭においては、その安息がないわけです。 と言うことで、以前の「安息の原体験」という文章では、凹状態の不在という観点で、ダメダメ家庭の問題を考えてみたわけですが、今回の文章は、その凹状態の相反する状態といえる凸状態の観点から、ダメダメ家庭の問題を考えてみます。 マトモな家庭は、心理的には凹の底の状態を子供に与えることができる。 子供がトラブルになった際には、親が子供をサポートする。そのサポートによって、元の状態に戻ることができる。そんな流れは凹状態の周囲で起っていることでしょ? 前にも書きましたが、凹の底の状態であれば、その位置を維持するのに、特別のエネルギーが必要になるわけではない。 しかし、逆の状態と言える、凸状態の頂上だったら、それは、動きの上では止まっている状態であっても、最大限の注意をして、つまり大きなエネルギーを使いながらその状態を維持していると言えるでしょ?とりあえず、動いてはいないとは言え、ちょっとでその位置からズレてしまうと、とんでもないことになってしまう 凹の底の状態が、「安定」という言葉で記述できるとしたら、凸状態の頂上は「平衡」という言葉の方が適切と言えるでしょう。 「動いていない」という同じ状態を獲得するにあたって、凹状態の底と凸状態の頂上は使われるエネルギーが違っているわけです。 凹状態であれば、何もしなければ安定している。 凸状態であれば、常に細心の注意が必要となる。 凸状態が常態化していれば、心理的なエネルギーを過大に消費して、それこそ、精神的な疲労をため込み、鬱病にもなってしまうでしょ? しかし、そんな事態は、凹状態の底にいる人間には理解できない。 「何も特別なことをしなければ、心理的なエネルギーなんて使うわけがないじゃないの?」 そんな怪訝な思いをするのも当然のことでしょう。 しかし、凹状態の底と、凸状態の頂上では、その心理的な緊張感は全く違っているのは、説明されれば、理解できることでしょ? こんなに日常が続けば、それこそ「生きるのに疲れた。」という言葉を残して、何かの事件を起こすのも理解できるようになるでしょう。 凹状態を基本となった形で生きているのであれば、「生きるのに疲れる。」ということにはなりませんが、凸状態であれば、生きるのに疲れてしまいますよ。だって、維持するだけで、多大のエネルギーが必要となるわけですからね。 別の例で喩えてみましょう。 凹状態は母国語でのやり取りで、凸状態は習得したばかりの外国語でのやり取りという対比で考えることもできます。 母国語でのやり取りであれば、まず持って、心理的に落ち着いてやり取りができますし、もし、誤解が発生しても、勝手知ったる言葉で丁寧に追加説明ができるでしょ? これが、習得したばかりの外国語でのやり取りだったら、心理的な緊張が大きい。 まずは、伝える段階で、細心の注意を持って言葉を発することになる。それに相手の側がちゃんと意図どおりに理解したのかチェックする必要がある。そして、もし誤解しているようだったら、相手の誤解を正し、追加説明をすることになるわけですが、最初の説明の不備をふまえた上でとなるので、さらに緊張することになってしまう。 結果として、相手にメッセージを伝えることができても、習得したばかりの外国語だと、使われる心理的なエネルギーは、母国語でのやり取りとは比較にならないものでしょ? 言葉によるやり取りだけでなく、凹状態であれば、ちょっとズレても大したことにはならないけど、凸状態であるがゆえに、ちょっとのことで収拾がつかなくなってしまう。その警戒感により、大きなエネルギーを使うことになる。達成した成果は同じでも、目的を達成するためのプロセスにおいて、使われる心理的なエネルギーが違っているわけです。 凸状態であれば、平衡状態を維持するために、過大なエネルギーを常に消費し、そこから少しでもズレてしまうと、平衡状態に回帰するために、さらに大きなエネルギーを必要としてしまう。 そして、それが日常化してしまう。 それは、前に書いた「安息の原体験」の不在であり、凸状態の常態化とも言える。 ちょっとのことで、大きな影響となってしまうので、ちょっとの刺激に対して過敏な反応をするのもデフォルトとなってしまう。 ちょっとでもズレたら、迅速な対応が求められるのが、凸状態の頂上の属性というものなんだから、それが習慣化してしまうわけです。 それこそ、以前に起った、芸能人の島田紳助氏の暴行事件の被害者の女性のように、迅速かつ、過敏に対応するようになってしまう。 あんな対応は、まさに凸状態がデフォルトとなっているからこそのものなんですね。 頻繁に書いていますが、ダメダメ家庭の親は、被害者意識が強く、「親である自分は、子育てという面倒を押しつけられたかわいそうな被害者」と自身を認識している。そんな親は自分の子供を守るという発想そのものを持っていない。子供としては、自分の身は自分で守るしかない。 だから、ダメダメ家庭の子供は、凸状態がデフォルト化してしまう。 ダメダメ家庭では、今のところは平衡状態で、「動いてはいない」けど、ちょっとのことで制御不能な事態になってしまうという恐怖感が常につきまとっている。 いわば、「追い立てられている感覚」を持つようになってしまう。 だからこそ、平衡状態を維持すること、それ自体が目的化されてしまう。 平衡状態は、別の言い方をすると、ダメダメにお約束の「ふつう」と言えるでしょ? とりあえずは、「動いてはいない」けど、ただ、それだけだし、それを維持するのに必死となっている状態は、ダメダメ家庭の人間の「ふつう」状態そのものですよ。「ふつう」によって、自己を捨てているわけです。 そんな状態を、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」での記述を使うと、「子供は意識的には安定と満足とは感じるかもわからないが、無意識には、自分の払っている代価が自分自身の強さと統一性の放棄であることを知っている。」とか、「精神病理学者にとっては、社会に適応できない人間は、より価値の少ない存在なのである。・・・しかし、もし正常的と神経症的という概念を分けるならば、結論は違ったものになる。すなわち、よく適応しているという意味で正常な人間は、人間的価値については、しばしば、神経症的な人間よりも、一層不健康である場合もありうる。彼はよく適応しているといっても、それは期待している人間になんとかなろうとして、その代償に彼の自己を捨てているのである。」となります。上記のフロムの文章における「よく適応している人間」は、まさに凸状態を維持することが上手な人間といえるでしょう。 周囲に合わせて、保護色的に生きていると、逆に言うと、自分では考えなくてもいい。 保護色を維持することが目的化され、自身のアイデンティティが喪失されてしまう。まさに平衡状態に留まっていることが目的化され、自身の方向性を考える必要がなくなることになる。 まさに、某国の社民党党首が主張する「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」なる主張になってしまう。 その主張は、「自身の保護色を維持さえすれば、生きられる社会」ということでしょ? しかし、保護色を維持しているだけの日々に充実感などはありえませんよ。 「そんなことを続けても、その先は、いったいどうなるのか?」 そんな自問自答もしたりするでしょ? 最初のうちは、自分を騙しながら生きていても、それこそ、カール・グスタフ・ユングがいう「中年の危機」のようなものになってしまう。 結局は、「もう、やっとれんわい!」と、ブチ切れてしまったり、前にも書いたように、「生きるのに疲れた。」と事件を起こすことになる。 そんな事態に接した周囲の人は、「ふつうの人に見えたのに、どうしてこんな大それたことを?」などと脳天気に語ったりするわけですが、凹状態での底での日々と、凸状態での頂上の日々では、「とりあえずは、動かない」という「ふ・つ・う」に見える点は同じでも、その心理状態が全く違っているわけです。 前に、凸状態の頂上のような平衡状態を、習得したばかりの外国語でのやり取りに喩えましたが、そのような凸状態的な状況となると、まさに日本社会もそんな感じになっているでしょ?ちょっとでもメインストリームから外れると、もう後戻りができない状況になっていますよね? だから、今の地位を維持するのに、必死になってしまう。 凸状態の頂上の位置における平衡状態を、必死に維持するのはいいとして、じゃあ、その成果として何があるの? 経済的な大成功のような、確たる目的があればいいでしょうし、あるいは家族の笑顔というパターンでもいいでしょう。自分なりに達成したい成果について、明確にイメージしていないと、凸状態の頂上での平衡状態を維持するのに必死な日々も、いつまでも続けられるものではありませんよ。平衡状態を維持すること自体が目的では、それが充実感につながるものではないでしょ?明確なイメージもないのに、そんな努力を続けるためには、あらゆる感情を殺してしまい、心頭滅却するしかない。そんな対応となると、心頭滅却しているその人当人はともかく、周囲の人間としてはたまらないでしょ?だから周囲の人間からトラブルが発生することになる。だから、そのような不都合な事態を見ないように、ますます心頭滅却が加速する。結局は、臨界点を超えてしまう。 凸状態の緊張については、単に心理的なり精神的な面ということだけでありません。 ダメダメ家庭は、経済的にも不安定なことが多く、その家庭の中にいる子供としては、「明日はどうなっているのかは、さっぱり分らない。」という恐怖が、経済的な面からもデフォルト化することになる。 祖父母からの経済的な援助ということで、よくシックスポケットとか言われたりしますが、ダメダメ家庭の子供としては、祖父母からの経済的な支援どころか、祖父母となると名前すら知らない。そして、子育てを親である自分が押し付けられた被害と考えるダメダメな親は、子供に対し養育費について日頃から口にする。直接的に養育費の返還を求めなくても、二言目には親の老後の面倒を要求することになる。 つまり、そんな環境の子供としては、将来に発生する費用支出ばかりを考えることになってしまう。そんな状況は安定どころではありませんよ。そして、ダメダメ家庭は自分たちのダメダメさが「ふつう」とされる環境を求めるので、地域全体として、そのような不安定さが「ふつう」となってしまう。 つまり、そんなダメダメ家庭としての中で子供としては、親からの債務の問題ばかりを考え、家庭全体としても経済的に不安定であり、その周辺環境としても、経済的な不安定がデフォルトとなっている。 そんな状況は、どう見ても、凹状態とは言えないでしょ? それに、凸状態がデフォルトとなってしまうと、そこは「帰る」場所とは言えない。 「その場所にたまたま滞留している。」くらいの心理的なニュアンスになる。 メールマガジンで配信した文章で、ダメダメ家庭の人間は、「帰属意識がない」ことについての文章を配信しております。 凹状態の底だったら、それは帰還の場所であり、「belong」という帰属意識につながるでしょうが、凸状態の頂上だったら、それは「stay」であって、一時的な滞留にすぎないとみた方が理解しやすいでしょ? たとえ長期間その地にいたとしても、凸状態の頂上だったら、あくまで「stay」ですよ。 そもそも凸状態の頂上だったら、最大限の注意とか警戒心が必要になり、それは「帰還の地」での属性とは別物ですよ。 周囲に対する警戒とか細心の注意を必要としないところこそ、「帰還の地」の属性でしょ? 実家がダメダメであれば、まさに凸状態の頂上状態と言えるわけだから、その地を思い出すことは、極度の警戒や「いつ何時、カタストロフになるかもしれない!」という恐怖を思い出すことになってしまう。自分が体験した実家に近い状況になってしまうと、かつての恐怖心がフラッシュバックしてしまう。まさに、自分の目の前に奈落が見えてしまう感覚になってしまう。 そして、そんな緊張感が、心理や身体にすり込まれているので、たまに、実家に「行く」と、蕁麻疹が発症するような事態になってしまう。 あるいは、ちょっとでも経済的な不安定さに直面すると、子供の頃の不安定さがフラッシュバックしてしまう。 それこそ、たとえ失業するような状況になっても、凹状態がデフォルトとなっていたら、しばらく無理をすれば、またかつての安定した日々に戻れるという感覚でいられる。だから、経済的なトラブルに対する対応も、落ち着いてできる。 しかし、凸状態がデフォルトであれば、失業のような事態になったら、子供時代に刷り込まれた不安定さが身体の中を駆け巡り、そして、目の前の自身の不安定さも合わさり、パニックになってしまう。 同じ失業という事態になっても、当人に及ぼすインパクトは全然違っているわけです。 別の言い方をすると、「ふつうでなくてはいかない!」と強迫的になっている人間なんだから、ちょっとでも「ふつう」じゃなくなってしまったら、パニックになってしまうわけです。 ダメダメ家庭は抑圧的であり、自分自身で考えることから逃避してしまう。 まさに、「自分たちは、どの方向に向っていきたいのか?」そんな自問自答から逃避している。 某国社民党の党首のように、「とりあえず、ふつうでいいや!」と、かりそめの平衡状態にすがりつく。と同時に、平衡状態の維持が目的化されてしまっているので、自身の方向性がなく、達成した成果を持ちえない。だから、日々において、充実感をまるで持っていない。 しかし、平衡状態を目的としていれば、その場を維持していればいいだけなので、どこに向かうのかについて自分で考えなくてもいいので、思考の面ではラクといえる。 しかし、その思考停止状態を維持するために、その心理状態としては異常なまでに張りつめてしまう。それが、凸状態の頂上での属性でしょ? 思考の面で逃避している分だけ、心理の面では多大な負担がかかっているわけです。 そして、そんな心理状態がデフォルト化しているのが、ダメダメ家庭というものなんですね。だから、そのような家庭の出身者は気の緩め方が分かない。凸状態が常態化していれば、気の緩め方なんて分かるわけもありませんよ。しかし、気の緩め方が分からないからこそ、ストレスがどんどんと蓄積されてしまう。 それが臨界点を超えてしまって、自殺したり、事件を起こしたりする。 そんな緊張感があるがゆえに、というか、緊張感がデフォルトとなっているがゆえに、それこそ芸能界などでは活躍できることもある。 あんな業界は、凸状態がデフォルトの人間でないと、やっていけないでしょう。 まさに、「頂点を目指すか?それとも死か?」なんて、凸状態そのものですよ。 逆に言うと、そんな緊張感を持っている人は、カタギの人とのやり取りなんて、不可能ですよ。 だって、マトモな人は、凹状態がデフォルトであり、ダメダメ家庭の出身者は、凸状態がデフォルトなんだから、「見た目」では同じでも、その心理状態はまったく違っている。 やり取りをしてもかみ合いませんよ。 やり取りが、かみ合わないことが認識された段階で、相手を注視するのではなく、自分自身との対話をして、自分の心理状態を理解できればいいわけです。しかし、抑圧的なダメダメ家庭の習慣を持ち出し、まさに「ふつう」であることで、思考停止を得ようとしてしまう。 そうやって、必死に自分を騙そうとする。 しかし、いつまでも自分を騙し続けられるわけもなく、結局は、「坂道を転げ落ちる」ように転落していく。 そんな流れは、ダメダメ家庭の周囲では、現実に多く発生しているでしょ? |