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カテゴリー ダメダメ家庭は嘆き節がいっぱい!
配信日 05年6月6日 (11年2月1日 記述を追加)
タイトル 嘆き節の共有
「ダメダメ家庭においては当事者意識がなく、被害者意識だけがある。」って・・・ほとんどテンプレートができているような「型どおり」の書き出しになってしまいましたが、だって実際のことですからね。

以前にも書きましたが、被害者意識だけのグチ人間は、同じようなグチ人間と結びつくことになる。
だって、マトモな人は、そんな「いつも同じグチ」ばかり言っている人間と一緒にいたくはないでしょ?
「さっきから、グチグチ言っているけど、だったら、アンタ自身はどうしたいの?!」
グチを聞かされれば、そう思うものでしょ?
そのように言われちゃうと、グチばかりの人間は、すごすごと逃げ出すことになる。
そうやってマトモな人間から弾き飛ばされた、グチ人間が「同病相哀れむ」ように集まる。そうやってグチの花が咲く。

以前に、ちょっと書きましたが、面白い?メールマガジンがあります。とある芥川賞作家さんが発行しているメールマガジンです。
それが見事にグチばかりなんですね。
その中で「ボクは東京とかニューヨークとか、パリのような大都会には住めない。」とか書いてあります。本人はその理由が分かっていないのかもしれませんが、その作家が都会に住めない理由は簡単です。自分が愛してやまないグチが言えなくなるからですね。

だから、その北海道出身の作家さんは、ギリシャに行ったり、イラクに行ったり・・・とグチのメッカに住んだりすることになる。
そして「悪いのは全部アメリカのせいだ!」「アメリカのせいで、オレたちはうまくいかない・・・ああ!オレたちって、なんてかわいそうなんだ?!」と、お決まりのグチ。

まあ、その人は、グチを書いてメシを食っているわけだから、他人がとやかく言う筋合いではありません。それはそれでビジネスのあり方と言えるでしょう。しかし、商売になると言うことは、そんなグチばかりの文章を喜んで読んだりする人間もいるわけですね。
そうして『そうだよなぁ・・・オレたちは被害者だよなぁ・・・まったく、あの○○には困ったものだ。』で納得することになる。
被害者意識を持った人間同士が直接的なやり取りによって結びつくというだけでなく、被害者意識が詰まった文章を愛好する・・・と言ったスタイルで、被害者意識の結びつきが現れてくることも多いわけです。

グチを言いたい人間にとっては、そんなグチばかり詰まった文章は、まさに「干天の慈雨」と言えるもの。
確かにその手の「読み手」にとっては、ありがたいものなんでしょうネ。
ダメダメな物書きは、読み手に対してグチのネタを提供するというのが仕事なんでしょうね。しかし、ボードレールのように、読者に対して「新たな戦慄」を与えることこそが本当の芸術家の仕事なのでは?まあ、同じ物書きでも役割が違うと言えるでしょう。

また当事者意識がなく、グチばかり言っている人たちというと、日本のマスコミの方々がそうでしょ?
『まったく・・・○○には困ったものだ・・・』
『こんなことでは、日本はどうなってしまうんだ・・・』
いとも困り顔で、グチグチとコメント。
見ていたりすると、「だから何なの?」「そんなに困っているのなら自分で何とかしたら?」と、やっぱり思ってしまいますよ。

ダメダメ人間は「グチを共有したい!」という強い執着がある。「自分で何とかしたい!」とは思わない。あるいは、「自分がこの状態を改善するために役に立つことをする。」よりも、「一緒にグチを言い合える。」状態を選ぶ。

韓国と北朝鮮の間には、形の上では戦争状態でも、精神的には強い結びつきがありますよね?
民族とか言葉の共通性の問題も確かに大きいでしょう。しかし、「グチを共有したい!」という執着の面が大きいわけです。だって、マトモな人間は、そんな「グチの共有」なんてしたくはありませんからね。結局はグチ人間同士で集まることになってしまう。

あるいは、ちょっと前にありましたが、イラクにボランティアに行ったワカモノがいました。
なぜに、わざわざイラクなの?
しかし、イラクには「グチが言える環境」があるでしょ?イラクに行けば心行くまでグチが言えますよ。ダメダメ人間にとっては最高の環境と言えるでしょう。
新潟や九州などの地震のボランティアだったら、そんなにグチは言えないでしょ?
「全く・・・地震には困ったモンだ!」「地球ももうちょっと考えてくれればいいのに・・・」などと、周囲の人にグチっても、バカと思われるだけ。

まあ、イラクにボランティアに出かけてグチを楽しむのも、グチがいっぱい詰まった文章を愛好するのも勝手でしょう。しかし、グチの共有に味をしめてしまうと、どうなってしまうの?人との結びつきにおいても、まさに、傷のなめ合いによる結びつきばかりになってしまうでしょ?あるいは、グチよりも、もうちょっとレヴェルが上がって犯人認定が伴ったものであったら、共通の敵による結びつきになってしまう。
傷のなめ合いでも、共通の敵による結びつきでも、お互いを肯定したものではないでしょ?
ただ、被害者意識を共有しているだけで、そこに当事者意識は何もないでしょ?
だからこそ、そんな結びつきによって、ますますドツボにはまるだけ。

そうして、一緒になって、「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」と嘆きあう。
友人の選択についてもそんな感じになってしまう。厳しく真摯なアドヴァイスをしてくれるような人を排除して、一緒にグチってくれるような人と一緒にいたがる。

そして、当然のことに、結婚する際にも、「グチの共有」が目的になってしまう。
「ワタシと一緒にグチってくれる人と一緒にいたい!」
そこまで明確に自覚している人はいないでしょうが、無意識的には思っている。まあ、意識的には「あの人はワタシのことを分かってくれる人だわ!」「あの人だったら、ワタシに厳しいことを言わないし・・・」そんな感じで認識している。
そして、結婚して、夫婦そろってグチの花。

しかし、そんな状態だったら、結婚後の家庭は上手くいくわけがありませんよ。そんな夫婦の子供だって問題を起こしますよ。そうなると、ますます「ああ! どうしてこんなことに?!」とグチ。そもそもグチを言うしか能のないもの同士なんだから、起こったトラブルを解決することもできず、行くところまで行ってしまう。

日頃から、グチを言える状況を求めて、グチのネタを探している。
まさに、バロック期のスペインのカルデロンが作品中に書くように「嘆きを並べるのはまことに心楽しいものだから、人は求めても嘆けとか・・・」なる状況そのもの。
逆に言うと、まさにそれで商売になるので、グチのネタを提供すれば、「嘆きを並べたがっている人」が食いついてくることになる。

それこそ、ちょっと前(10年)にあった、芸能人さんが小説を書いて、賞を取って、ベストセラーになった事件ですが、そんな事件があると、「嘆くために」そして「人と嘆きを共有するために」首を突っ込むことになる。
「ああ!こんな程度の作品が賞を取ってしまうなんて・・・なんて嘆かわしい!」
「こんな程度の作品を喜んで読んでいる大衆は・・・なんて嘆かわしい!」
「こんな程度の作品に頼らなければならない出版界の現状は・・・なんて嘆かわしい!」
「人が一生懸命に書いた作品を、けなすことしかできない人は・・・なんて嘆かわしい!」
「ああ!いったい、日本はどうなってしまうんだろう?ああ!嘆かわしい!」
あの騒動は、嘆くことを求めている人に格好のネタを提供したわけです。
だからこそ、多くの人が食いつくことになる。
なんと言っても、あのネタに食いついておけば、絶対に「嘆きを語ることができて」、その嘆きによって人と結び付くことができるわけですからね。

芸術作品だったら、もし、その作品に普遍性があるのなら、「あわてて」読む必要はありませんし、普遍性がないのなら、「どのみち」読む必要はありませんよ。
しかし、「グチのネタ」だったら、みんながグチっている時に参加すると、グチの共有ができるでしょ?
だからこそ、我先にと、その作品に食いついて、そして、なにがしかをグチることになる。
しかし、それでその人が豊かになったの?

この手の状況は、それこそ韓国ドラマの周辺でも見られたでしょ?
「どうして、このよさを認めようとしないんだ?」というグチがあったり、「こんなツマラナイものを喜んでいるのは嘆かわしい。」とか・・・いずれにせよ、嘆き節が飛び交っている状況でした。
逆に言うと、だからこそ、その趣味を持つ人が首を突っ込むことになる。
韓国ドラマをおもしろく思うのならそれはそれでその人の趣味なんですが、むやみに語りたがっている人も多かったでしょ?
好きなら好きで勝手に喜んでいればいいだけだし、キライなら無視すればいいだけ。
嘆きを並べたい人は、グチのネタとして食いつくことになってしまう。

あるいは、11年にタイガーマスク運動なるものが騒動になっているようです。
恵まれない子供たちになにがしかの援助を、匿名で行う活動がブームになっているそう。

嘆き並べたがっている人は、そんな活動に対しても、大喜びで首を突っ込むことになる。
そうして、
「こんな活動をしなければならない、昨今の社会情勢は・・・嘆かわしい!」
「今まで恵まれない子供たちに無関心だった人が多かったのは・・・嘆かわしい!」
「こんな偽善的な活動を称賛している人たちは・・・嘆かわしい!」
「善意の活動を偽善的と罵倒している人たちは・・・嘆かわしい!」

まさに、芸能人が書いた小説の周囲の騒動と同じように、嘆きが渦巻いている。
逆に言うと、嘆くのに格好のネタを提供したマスコミは慧眼があったと言えるでしょう。
いかにも、「食いつきがいい」ネタですからね。
しかし、本来は、その事例をふまえ、自身がどうするのかという点まで考えることが重要じゃないの?
しかし、嘆きを求める人は、自分と同じタイプの嘆きを語る人と一緒になって、「ああ!あの○○には嘆かわしい!」と嘆きを共有するばかり。その次のステップには進もうとしない。
と言うか、嘆きを語ることによって、自分を被害者の立ち位置においてしまって、ますます受け身のスタンスが確定し、何もしようとはしない。

えっ?
「その騒動をオマエは嘆いているんじゃないか?」
って・・・いえいえ、呆れているだけですよ。あるいは、怒っているという言葉に近いかな?ダメダメ人間は嘆くことはあっても、心からの怒りはない。だって、ダメダメ人間には信念がないんですからね。信念がなければ、本当の意味で怒りはありませんよ。
まあ、芸能人の小説にせよ、タイガーマスク運動でも、騒ぐことそのものよりも、その後こそが重要でしょ?
しかし、嘆きを共有することが目的の人間は、嘆いて、それを誰かと共有して、それでオシマイとなってしまう。
そんな流れを見せつけられると、嘆くどころか、フランス映画によくある「Merde!」とのセリフになってしまうだけですよ。

ちなみに、私のこのメールマガジンは、ある種「突き放した」文章にしてあります。あまり同情的には書きません。
ダメダメ家庭の問題は、ヘタな同情は禁物なんですね。
ヘタに同情すると、それこそ「グチ人間」のおかずになるだけ。

ダメダメ家庭の問題の改善は、自分自身が「改善したい!」と切望し、強い覚悟を決めない限りありえません。
グチを言いたい人は、芥川賞作家のメールマガジンでも読んだ方がいいんじゃないの?

私の文章は、読者が「見たくもない」ものを、見せている部分が多いと思っています。私の文章は改善のための文章であって、グチのための文章ではないんですよ。
しかし、この私の文章からも、グチのネタとして活用してしまう。
嘆きを求める人は、かくも根性があり、そして別のところで書いています被害者信念を持っている。「自分こそが一番かわいそうな人間なんだから、他の人間には何をやってもいいんだ!」と思っている。そして、いやがらせなどを実際にすることで、「自分が一番かわいそうなんだ。」ということを自分に確認する儀式とすることになる。

嘆き節の共有で、一時的な満足感に浸っていたら、いつのまにか、相手から犯人認定されてしまって、過激な報復を受けた・・・そんな経験がある方もいらっしゃるのでは?
ホント、嘆いているばかりの人からは、距離を取らないと危険なんですね。

(終了)
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発信後記

初代の貴乃花さんがお亡くなりになって、2代目の貴乃花の兄弟の不和云々が報道されたりしていますよね?
ワイドショー的な話は興味がありませんが、
1. 兄弟の不和
2. 意外に容姿端麗・・・次男の容姿は水準以上でしょう。
3. 両親の離婚
4. 会話の能力の低さ

と、見てくると、ダメダメ家庭の要素が結構出てきます。
多分、一般的には長男の3代目若乃花の方が、次男の2代目貴乃花よりも支持されているのではないかと思います。「お兄ちゃん」は常識人ですからね。
しかし、次男の2代目貴乃花の発想は、逆に、私には、読みやすい。

次男の2代目貴乃花には頼るものがないわけ。だって「相撲取り」の世界で見ても、父親の初代貴乃花は「大関止まり」、兄の3代目若乃花は泡沫横綱。自分よりはるかに「格」が低い。格が低いということは、直面している困難が違うということです。次男の方は、父親や兄とは全然違った世界を見て、全然違った次元の困難の解決を迫られているわけ。

次男としてみれば、どうしても自分自身で自分を追い込む必要があるわけ。だって、父や兄はその困難そのものがわからないものなんですね。しかし、周囲はそれすらわからない。「オレのひざの上で甘えていたコワッパ」・・・どこかにそのような意識があるわけ。それがわからずヘタにアドヴァイスするから、聞く方はますます心が頑なになってしまう。オリンピックの体操選手を、中学校の体育教師が指導したらギャグでしょ?
それこそ先日書きましたが「蟷螂の斧」のようなもの。

弟子が親方を超えることはよくあるでしょう。しかし一般の相撲取りだったら救いがある。相撲の親方ではなく、自分の両親から別の観点からアドヴァイスを受けることができますからね。
しかし、2代目貴乃花にはそれができない。
ということでますます自分で自分を追い込まざるを得ない。

一番尊敬していた自分の父親から、相撲のアドヴァイスも、家庭人としてのアドヴァイスも受けられない。だって両方とも自分より下なんですからね。
しかし2代目は、尊敬する父親が自分より下だとは認めたくない。だからますます周囲を見なくなる。
『父親を尊敬しなくてはならない!』
という呪縛が彼を苦しめているわけ。

おまけに周囲の無理解が、彼の困難さを増幅してしまっているわけ。このような点は典型的にダメダメ家庭の問題と言えます。それだけではなく、天才は往々にして自分の子供時代を知っている人からは正当に評価されないもの。
それこそキリストだって言っていますよね?
「預言者は故郷に入れられない。」って・・・2千年前から人類は全然変わっていないわけです。
この文章と、同じような内容の文章としては、08年6月6日配信の「高雅で感傷的なグチ」という文章があります。
R.11/2/1