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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない体験境遇
配信日 05年6月22日  (10年3月12日,10年12月7日 記述を追加 ,)
タイトル 甘える体験
 追記 管理者によって 10年3月26日に文章追加
ダメダメ家庭の親は被害者意識だけがある。子育てというものを、親である自分が背負わされた「被害」だと思っているわけ。
だから、そんな家庭の子供は、親に甘えることなんて不可能となってしまう。ヘタに甘えようとすると、「いったい、誰のためにこんな苦労をしていると思っているんだ?!」「ワタシたちの方が、もっとかわいそうなんだ!」と逆切れされるだけ。子供が親に甘えることができなければ、一体、誰に甘えればいいの?だから、ダメダメ家庭の子供は甘える経験なんて持ちようがない。
子供時代に親に甘えていないダメダメ家庭出身の人間は、人に甘えるにあたって「珍妙」なことをやったりするものです。

私がそのことを強く意識したのは、とある人からのメールを受け取った時でした。
以前にちょっとやり取りがあって、久しぶりにその方からメールが来たんですね。
内容そのものよりも、その文体が強く印象に残ったわけ。
文章の末尾のほとんどがこんな調子でした。
「充分ですぅ」「仲は良いのでぇ」「変ですかぁ」「しまっていてぇ」「久々にぃ」
最初にその表記を見た時は、「この人・・・こんな文章を送ってくるなんて・・・とうとう頭がヘンになっちゃったのかな?」と思ったほどです。キーボードで入力するのも手間でしょうに、どうしてわざわざこんな珍妙な文体で・・・

しかし、この手の文体を後になってインターネットの掲示板でも見たことがあります。
それなりにポピュラーな文体なのかもしれません。
まあ、実際にこの世の中には頭がヘンな人が多い。しかし、この手の人はそれなりの「意図」があるんじゃないのかな?
そのように思いながら考え続けてきました。

どうやら、それはメールの相手・・・つまり、この私に「甘えて」いるんでしょうね。
自分自身を、相手に対して「かわいく」見せようとしているのだろうな・・・と、思ってきました。
子供っぽい口調を再現して、「子供が持っている『かわいさ』を、自分に取り込もう!」という戦略なんでしょう。
違いますか?

しかし、子供っぽい口調を再現したところで、子供のかわいさが取り込めるわけがありません。
そもそも「かわいさ」って何?
どんな時に「かわいい!」と思うの?
どんな相手に対し「わあ!かわいい!」と感じるの?

たとえば小さな動物とか、赤ちゃんとか・・・
かわいいと感じる相手は、ある種の無防備な状態に対してですよね?
相手が無防備で弱い状態だからこそ、「かわいい」と感じ、「自分が守ってあげたい!」と思う・・・んじゃないの?

「子供の口調のマネを上手に再現しよう!」なんて手練手管を使っている段階で、無防備とは行かないんだから、「かわいさ」とは無縁ですし、接した方は、「わあ!気色悪い!!」と思うだけでしょ?
手練手管というものは、無防備さとは対極のもの。それこそ、中年のオバサンが、赤ちゃんのような格好をして、「バーブー」とか言っていたら、不気味でしょ?しかし、中年のオバサンでも、自然な笑顔でヘタクソな歌でも歌っていたら、そっちの方がかわいく見えるもの。

それに「かわいさ」というものは、文章では表現できないもの。
「かわいい」姿とか「かわいい」声とかなら分かります。「かわいい」という感情はそのようなビジュアル的なものに対してだったり、音響的なものに対して持つものでしょ?あのような文体だって、声に出せばそれほど違和感はありません。文字で表されているから違和感が出てくるもの。別の言い方をすると「ちょっとヘンですぅ〜」

たとえば、話題になったレッサーパンダを考えてみましょう。
「そのレッサーパンダの『かわいさ』を文章にまとめてみなさい。」なんて課題を与えられたらどう書きますか?目の愛くるしさを書くの?表情の豊かさを書くの?それとも立ち姿のかわいさを書くの?
例え書いたとしても、実際にご自分でその文章を読んでみなさいな。かわいさなんて全然伝わっていませんから。それは文章力が一般の方よりはるかに発達している私が書いても同じこと。
文章という文字情報では「かわいさ」なんて表現できないものなんですね。
それより写真一枚の方が、はるかに伝わるものです。

たとえば動物の描写だったら、「チンパンジーの賢さ」を文章にまとめることは簡単と言えます。様々な具体例を挙げてまとめれば済むこと。
文字情報というものは、そのような特色があるわけ。
文字情報というか、言語は、LOGOSであって、まさにロジック(=論理)である。論理を駆使している段階で、無防備とか子供っぽさというわけにはいきませんよ。
子供の口調を文字で再現して「自分のかわいさをアピール!」なんてことは、色々な意味で不可能で、珍妙なものなんですね。

つまりそんな甘え方をしている人間は、「甘えるにあたって、いかに不自然なのか?」そのことがわかるわけ。
子供時代に親に自然に甘えることができなかった。
それに加えて、ダメダメ家庭の親は、子供のピンチにもサポートしてくれない。子供としては自分の身は自分で守るしかないわけ。とてもじゃないけど無防備とはいかない。
そんな習慣から「様々なテクニックを駆使して、甘えを勝ち取ろう!」と考えるのでしょうが、それって、やっぱり無理ですよ。

おまけにダメダメ家庭出身者は『人の気持ちがわからない』。
だから、「そんな文体の文章を読まされた人間がどう思うのか?」わからないわけ。

甘え方がヘタなのはまだいいでしょう。しかし、当然のこととして、甘え方がヘタということは、「甘えさせ方」もヘタということですよね?
その人が親として、自分の子供をどのように甘えさせているのか?まあ、現実的に無理でしょ?
その人自身の甘え方は、その人の親の甘えさせ方を示しているもの。その人の甘え方が珍妙ということは、その親が、甘えに関しては、する方にも、される方にも無縁であることが想定できるわけ。つまり、その手の人は、甘え方や甘えさせ方の見本を知らないままに親になっているわけです。

甘えるというのは、ある種の無防備状態と言えるもの。その前提として相手への信頼が必要になってくるわけです。甘え方がヘタということは、周囲への信頼感がないということです。
そんな親に育てられた子供の将来も・・・厳しいものになってしまうんですね。
信頼感へのセンシビリティがないんだから、結婚するような段になっても、やっぱり信頼とは無縁の同類と一緒になってしまう。そして、お約束といえる修羅場になってしまう。

甘える体験が不全だと、家庭の中で親として、子供を甘えさせないというパターン以外にも、仕事においても、トラブルになりやすい。それこそ管理職になって、部下が失敗をしてしまった際には、対処ができないわけ。
その部下の失敗を「なあ、なあ」で許すということに心理的なプレッシャーを持ってしまう。
だから、その部下を苛烈に責め立ててしまったり、そもそも、そんな状況が予想できるので、全部を自分一人でやることの方が心理的にラクになる。
専門職のような形態で仕事をすることには対応ができるけど、管理職を任されると対処できないわけ。もちろん、自分の失敗も許してもらえるとは思っていないので、異常なまでの完璧主義となり、だからこそ成果が上げにくい。

甘える体験ができていないと、「どの程度まで甘えが許されるのか?」という「なあ、なあ」の加減がわからない。様々な状況下において、どの程度まで相手に甘えていいのかなんて、本を読んで・・・というか、ロジックを極めることで学習するものではないでしょ?
前にも書きましたが、甘えというのは、言語とは対極にあるもの。
「なあ、なあ」の加減なんて、言語では表現できないでしょ?じゃあ、どうやってその「なあ、なあ」の加減を習得して行くの?習得しようがないでしょ?「加減」なんて、甘えられる雰囲気の中で自然に身につけていくものでしょ?甘える体験をしてきていないんだから、そんな「加減」がわからないわけ。だからこそ、「なあ、なあ」が「許される」状況になると、逆にプレッシャーになってしまう。
だからこそ、そのプレッシャーが暴走して、相手を執拗に責め立てるモラルハラスメントに近い状況になってしまう。

ダメダメ家庭と甘えの問題は、「どの相手に、どの程度まで甘えることができるのか?」という選択や判断の問題ではなく、そもそも「甘えること」そのものができないわけ。同じように、「甘えさせること」そのものもできないわけです。

どの程度まで、「なあ、なあ」が許されるのかわからないし、
また、やり取りの相手方の「なあ、なあ」をどの程度まで許すのか、
そんな加減が、さっぱりわからない。
むしろ、その「なあ、なあ」を許さなければならないプレッシャーで、心理的にパニックになってしまう。

だからこそ、そんな「なあ、なあ」の雰囲気を否定して、明確なルールでその場を乗り切ることを考える。
人々の感情ではなく、感情を超えた、言語化されたルールを絶対化してしまうわけ。
まさに「甘えが許される状況」そのものを否定しようとするわけ。
そうすれば、人の気持ちが分からないダメダメ家庭出身者にも、ルールの言葉に従っていればいいだけなので、対応もできる。
情緒ではなく、ドキュメントしか頼れないわけ。

そんな流れを理解していると、宗教改革のマルティン・ルターの「聖書に帰れ!」との主張も、実に理解しやすいでしょ?
マルティン・ルターも、子供時代から甘える体験をしてきていない人。
だから、「なあ、なあ」の加減がわからない。
だからこそ、「なあ、なあ」の雰囲気で運営されているカトリック教会には、「なじめない」。
だからこそ、心理的なプレッシャーが蓄積し、結局は怒りが爆発してしまう。

人に自然に甘えることができるということは、マトモな家庭の出身者の特権。ダメダメ家庭出身者にはマネができない芸当なんですね。せめてそれを自覚しながら生きていくしかないわけ。そして、自覚していない人には迂闊に近づかないことが身のためというわけです。

(終了)
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発信後記

ちなみに、私個人はあの手の文体を「珍妙」だと思いますが、そう思わない方もいらっしゃることでしょう。
感想は人それぞれですからね。

しかし、感想は人それぞれだからこそ、表現においてはオーソドックスなものを押さえておく必要があるわけ。
文体と内容の双方とも独自色が強すぎるのは、受け手にとって好ましいことではないわけです。

このメールマガジンは会話的な言い回しを使って書いていますが、それ以外の文体は比較的オーソドックスにしているつもりです。よく読むとそうでしょ?

会話的な言い回しにしているのは、ダメダメ家庭は会話不全の家庭であることが理由の第一ですが、その他として、一人称的に書いてグチっぽくなることを防ぎたいということがあります。
あまり遠慮深く独白的に書いていると、グチっぽくなってしまうんですね。そんな文章って結構あるものでしょ?遠慮深さが必ずしも美質とは言えないわけです。そんな文章を書かないことが本当の遠慮というもの。
 管理者により文章追加 (10年3月26日 追加)
  質問がありましたので、この「甘える体験」なり「甘える技術」について、ちょっと追加いたします。
「甘え」というのは、自分の主体性の一部を放棄している状態といえます。
いわば、その対象の人を信頼し、自分自身の生殺与奪の権を委ねている状況といえます。
その状況と似て非なるものとしては、「利用する」という状況があります。
この「利用する」の場合は、主体性を自分が保持したまま、他者の能力を使うということになります。

つまり、今回の文章のテーマである「甘え」と、いわゆる「要領のよさ」とは別物です。
「要領のよさ」は、上手に人を利用できるということ。
現状がわかっていて、自分自身が分かっていて、相手についてわかっていれば、上手に人を利用することができるもの。それが「要領のよさ」というものでしょ?

「甘え」というのは、必ずしも、的確な現状認識は必要はない。
「あの人は信頼できる。」「あの人には任せられる。」そのように認定できればいいだけ。
そして、自分自身の一部を委ねればいいだけ。
「あの人は上手に人に甘えることができる。」と言われたりする人も、それが本当の意味で「甘え」なのではなく、むしろ「利用」に近いケースも多いわけ。

手練手管を用いてやり取りしている段階で、それは、「甘え」ではなく、「利用」になるわけ。
相手に対して、警戒を解くことができる状況・・・それが「甘え」というもの。
相手に対して、警戒している段階で、甘えているとはいえません。警戒心と依頼心が同時に見えると、相手は猛烈に不快感を持つことになる。だって、警戒心と依頼心は、本来は共存しないものでしょ?
しかし、甘えというものがわかっていないダメダメ家庭出身者は、相手を警戒しながら、甘えようとして、結果として、蛇蝎のごとく嫌われることになる。
甘えるも利用するもどちらでもいいわけですし、状況に応じて使い分けることができれば、一番いいでしょう。

甘える体験とは、警戒心を解くという体験。
そんなことは、親と言う存在が最大の敵といえるダメダメ家庭では体験できないもの。
だから、むしろ、人を上手に利用することを考えた方がいいわけ。
的確な現状認識をして、自分自身の希望を自覚し、相手の能力を見極め、そして、相手に配慮した形で依頼する・・・それが的確にできれば、成果もあげられますし、利用された相手も、気持ちよく利用されてくれますよ。そのお返しとして、適宜、自分の側が、相手に利用されていけばいいだけ。

そんな積み重ねが、信頼につながっていくわけでしょ?
信頼がないのに、つまり相手を警戒しているのに、甘えようとするから、蛇蝎のごとくに嫌われる・・・そんなダメダメ家庭出身者は、現実として、結構いるんですよ。
かわいいという感情については、「09年6月19日 配信 の 慈愛 」という文章でも言及しております。 
また、信頼についてその心理の基本を考えた文章として、「09年7月15日 配信 信頼・安心の心理的ベース という文章があります。」
R.10/12/7