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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない情報,スキル
配信日 09年7月15日 (10年12月3日 記述を追加)
タイトル 信頼・安心の心理的ベース
ダメダメ家庭の人間は、「信頼と好意の区別が付かない」。
そのことは、以前よりこのメールマガジンで頻繁に言及しております。「信頼と好意の区別が付かない」というよりも、信頼というものが理解できないわけ。

信頼というものは、別の言い方をすると、他者に対して持つ「対処してくれるという安心感」あるいは、「その対処が、想定の範囲内に収まるだろうという予測」と言えるでしょ?つまり、ある種の「反応」に属しているわけ。

このメールマガジンでは、最近は、この「反応」の問題について、集中的に考えております。
ダメダメ家庭においては、この反応が欠落してしまっている。やり取りにおいて、一方が何をしても、もう一方が無反応のケースが多い。だから、「依頼すれば対処してくれる。」どころか、そもそもが無反応がベースとなってしまっているわけ。以前より例示しておりますが、まるでマネキンに囲まれているようなもの。物理的には存在していて、そしてその感覚は明瞭であっても、心理的な実在感はないわけ。マネキンの姿形が気に入って、そのマネキンを好きな人はいたりするかもしれません。しかし、マネキンを信頼する人はいないでしょ?

だって、マネキンはこちらが何を言っても無視するだけ。マネキンに何かを依頼しても、対処はしてくれないでしょう。そんなマネキンに囲まれていたら、対処というものの心理的な枠組みが形成されないでしょ?
つまり、信頼というものの心理的なベースがないわけです。

以前より書いていますが、ダメダメ家庭出身者にしてみれば、他者という存在そのものが、心理的に認識できないわけだから、他者とのやり取りのような、そんな高度なものを認識できるわけがありませんよ。

発達心理学の本を読むと、この信頼の心理的なベースについての記述があったりします。
赤ちゃんが泣き、それに対し、養育者たる母親が対応する、そして事態が改善する。
それこそオムツが濡れているでも、お腹が空いたでも、自分が泣いたら周囲が対応するという「反応」の積み重ねによって、周囲に対する信頼というものの基本的「枠組み」が形成されるわけ。
そして、自分の依頼に対して対応してくれる人に対して、信頼という感情・・・その原初的なもの・・・を抱くようになるわけ。

自分が泣いたら、周囲が対応してくれるという心理的なベースがあるから、それを発展させて、言葉で依頼したら、対応してくれるという体験に発展し、そんな体験を積み重ね、それがより大きな信頼なり安心につながっていく・・・そう言われると、そんなことは当然のことと思われるでしょ?

逆に言うと、泣いても周囲が対応しなかったり、言葉で依頼しても、周囲が無視ということなら、信頼というものの心理的な枠組みは形成されないわけ。
心理的な枠組みがない場合には、信頼という言葉の意味は、国語辞典的には、それなりに認識していても、心理的な実感が伴わない。
だからトンチンカンなことをしたりするもの。

それこそ以前に、大臣になった女性が、「ワタシは大臣になったんだから、ワタシを信頼しなさい!」と部下に命令いたしましたが、彼女には、信頼というものの心理的なベースがないわけ。望んだ対処の積み重ねによって形成される、信頼に関する基本的な枠組みを持っていないわけ。言葉の意味としてはそれなりに理解していても、心理面ではベースがないわけ。彼女は、信頼というものを、「支配・被支配の関係性」のヴァリエーションとして認識しているわけです。

あるいは、以前に、とある女性が芸人の島田紳助さんに暴力を振るわれたとかで、騒動になりましたが、その女性は、スグに警察に駆け込み弁護士を呼んだでしょ?警察を呼ぶのはいいとして、その女性としては周囲の人は対処してくれないと心理的には思っている。しかし、そんな職場にいたら、どのみちモメますよ。そんなに周囲の人を信頼できないんだったら、そんなところにいてはダメでしょ?彼女は、法律的には、あるいは国語辞典的には、事態への対処というものを理解しているわけですが、心理的には認識していないわけ。
周囲に依頼すれば、対処をしてくれるという、「反応」体験をしてきていないわけ。だから信頼というものの心理的枠組みがないまま。

もちろん、現実的には、赤ちゃんが泣いたら、養育者をはじめとした周囲も対応してくれる。
そして赤ちゃんだって、様々な能力が発達する。いつまでも泣いて要求するわけでもなく、成長したら言葉で依頼するようになる。
泣いたら対応した親も、言葉に対応するかどうかは別問題。
色々と例示しておりますが、子供がいくら言葉で依頼しても、無視する親も、現実にいるでしょ?
赤ちゃんが泣いても無視する親もいますが、まあ、そんな家庭の子供は、大人になる前に死んでしまう。だから、泣いたら対応してくれても、言葉で依頼したら無視のパターンが、ダメダメの主流と言えるでしょう。

そんな体験を積み重ねると、困ったら泣くしかない人間になってしまう。
だって、赤ちゃんの頃は、泣いたらそれなりに対処してくれたのに、言葉で依頼しても全く無視となったら、どうしても対処してほしい場合には泣くしかないじゃないの?
実際問題として、周囲に対して信頼を持っていない人ほど、何かと言うとスグに泣くでしょ?

信頼というものの心理的ベースを持たず、「信頼と好意の区別が付かない」ダメダメ人間は、たとえ何かに対して好意を持ったとしても、信頼が欠損した状態での好意となってしまう。
たとえば、チーズケーキが好きとか、赤いバラが好きということなら、信頼とは無縁でもOKでしょう。しかし、「ワタシはあの人が好き。」という、人に対する好意なら、本来は信頼とつながっているものでしょ?
好意の対象が人間である場合には、好意のベースとして信頼があるでしょ?
信頼していない人間に対して、好意を持つことは、一般の人はありませんよね?

しかし、ダメダメ家庭の人間は、信頼というものの基本的なベースを持っていないまま、人との間を「好意」によって結びつこうとするわけ。
オマケに、前回の文章で書きましたが、ダメダメ家庭の人間は、「会話の心理的なベース」を持っていない。会話もないのに、そして信頼もないのに、好意だけで人と人の間が結びついてしまう。
こうなると、ストーカーなどの「その手」の事件が起こってしまうのも当然でしょ?その手の事件だけでなく、まさに韓国人の感情のスタイルなんて、会話や信頼がない状態での好意が基になっていると言われると、実にそれらしいでしょ?

人間というものは、生理的早産(physiological prenature delivery)であると考える人もいます。本来はもっと長く妊娠期間が必要だけど、いわば常態的な早産として、早く出産されてしまう・・・という考え方です。
それこそ、馬や牛は、産まれたらすぐに立ち上がることができる。それに対し、人間は、産まれたすぐには移動することもできない。動物のレヴェルにおいては、それはいわば早産のようなもの。人間というものは、人間として産まれるのではなく、人間になる可能性を持つ存在として産まれるわけ。

逆に言うと、赤ちゃんの頃の体験を積み重ねることによって、初めて、人間として出産されたとなるわけ。赤ちゃんの頃の体験は、妊娠中の母体から栄養をもらうようなもの。それがないと、奇形になってしまう。栄養面ではともかく、心理面では、新生児はまだ妊娠中のようなもの。だから、その時点での補給の欠如は、心理面での奇形を生み出してしまう。心理面でそんな奇形は、成長した後になって補いようがないわけ。

信頼というものについても、「どの人を信頼するのか?」「どの程度信頼するのか?」そんな個別の判断に関わる問題は、長じた後になって継続的に発生しますが、信頼というものの基本ベースというか枠組みは、もっと前の段階である赤ちゃんの頃に形成され、その後の言葉による依頼に対する対処の体験によって強化されることになる。そもそも信頼というものの根源的な枠組みがないと、別の言い方をすると、信頼そのものについて理解できない状態だと、「どの人を信頼するのか?」「どの程度まで信頼するのか?」も何もないでしょ?枠組みがあるから、その場所に収めることができるわけ。

基本的な枠組みがないと、その後の体験も、ランダムに接してしまって、見通しをつけた体験にはならない。枠組みがないまま様々な体験を得ても、心理的な枠組みの形成にはならず、むしろ混乱が大きくなるばかり。まず枠組みの形成が先であって、その枠組みを作る過程は、長じた後になっては不可能なもの。だから信頼不在のまま大人になってしまい、周囲との間で疎外感を持ったりする。
それを好意によって強引に誰かと結び付こうとして、事件となってしまうわけ。

周囲に対する信頼がないんだから、当然のこととして、安心感など持ちようがない。
安心感不在の切羽詰った心情だから、逆に言うと、実際にトラブルになってしまう。そして実際にトラブルになって、やっぱり周囲に対する信頼がないんだから、顔の見えない組織に駆け込むことになってしまう。

そんな姿を見ていた周囲の人は、「スグに大騒ぎをする危ないヤツ」と、その人を認識し、さっさと離れてしまう。そんな判断もできない人間が残され、一緒にやっていても、結局はトラブルになるのは自明のこと。

信頼というものとは無縁のまま、一時的な好意だけで人と結びついてしまうので、実際にトラブルになってしまう・・・そんな代表例は、いうまでもなく夫婦の離婚問題です。
カーターとマクドルドリックという学者は、夫婦の相互適応に困難が生じる前兆的な要因として以下の項目を挙げております。

1. カップルが何かの重要な対象喪失(肉親や親友を失う)の直後に出会い結婚する。
2. 結婚の動機の中に自分の実家から距離をおきたい、あるいはそこを抜け出したいという願望が強くはたらいている。
3. それぞれの配偶者の家族的な背景がかなり異なっている。
4. カップルのお互いの兄弟数があまりに違う。
5. 配偶者のそれぞれのどちらかが、実家からあまりに隔たりすぎているか、異常に親密すぎる。
6. 経済的、情緒的にカップルが実家に依存する度合いが高い。
7. 20歳以前あるいは、30歳以後に結婚する。
8. 6ヶ月よりも短い交際期間、あるいは3年以上の婚約期間を経て結婚する。
9. 結婚が家族や友人の立会いなしで行われる。
10. 妻が結婚以前あるいは、結婚後1年以内に妊娠する。
11. どちらかの配偶者が、自分の兄弟や両親とごく貧弱な関係しかもっていない。
12. どちらかの配偶者が、自分の子供時代や青春時代をとても不幸な時代だったと考えている。
13. どちらかの実家の父母や兄弟の結婚生活のパターンが著しく不安定である。

上記の項目のうちで、時代や場所によって適合しないものもあるでしょう。
たとえば、第7番の項目です。今の日本だと30歳以降に結婚する例も多いし、そんなパターンが相互適応に不全をきたすものとは言えないでしょう。あるいは、まあ第10番目の項目も、いわゆる「できちゃった結婚」がポピュラーになってきている昨今は、一概には言えないでしょう。しかし「できちゃった結婚」も、妊娠の判明によって結婚時期を決めるケースと、妊娠によって結婚相手を決めるケースでは全然別問題でしょ?結婚することはお互いが合意していて、あとは時期の問題だけ・・・ということなら、まあ、「できちゃった結婚」も、いいんじゃないの?
ただ、それ以外の項目は、結構ツボでしょ?というか、該当者を知っている人もいらっしゃるでしょうし、該当者そのものの方もいらっしゃるでしょう。

人とのやり取りにおいて、あまりに背景が違ってしまうと、会話にならない。言葉が飛び交っていても、その意味が違ってしまうもの。それこそ哲学者ウィトゲンシュタインが言うように「もし我々がライオンの言葉をわかっても、その意図はわからないだろう。」ということになってしまいますよ。会話が不全で相互理解がなされていない状態だったら、トラブルになりますよ。

あるいは、まさに喪失感を埋め合わせるために、というか、トラブルから目をそらすために結婚したら、将来はモメるでしょ?一緒になることにより、喪失感や現状に対する不満が一時的に解消され、それによって相手に対して好意を持ったとしても、事態そのものが改善されたわけではない。そんな人は、自分が結婚生活でトラブルになったら、解決できるわけがないじゃないの?そうなったら、別の手段で目をそらすしかない。

信頼というもののベースは、人とのやり取りのベースと直結している。
そのベースが欠損したまま、新たなる人との関係を構築しようとしても無理だし、そんな人と一緒になるような人は、結局は同類なんですね。

信頼の心理的なベースがないがゆえに、安心感が実感できないだけでなく、実際にトラブルになり、結局は不信感のベースができるだけ。
そうなると、どんな些細なことも、不審の目で見て、まさにあら探しばかりの人間になってしまう。

あるいは、前記の島田紳助さんの事件の女性のように、実際にトラブルになった際に、過剰反応となってしまう。反応しない人によって育てられたせいで、周囲に対しての信頼がなく、トラブルが起こったら自分だけで解決しないと・・・と切羽詰った心情を持ち、だからこそ過剰反応となるわけ。信頼というものの心理的ベースがない人は、信頼する人を自分の周囲に置くという発想がない。
「もし、困ったことがあったら、△△さんに相談しよう・・・」と考えたりはしない。だからなおのこと、実際にトラブルになってしまう。

信頼の心理的枠組みは、相談する際の心理的なベースに直結しているもの。
信頼の心理的ベースがないから、相談する際にも、好意重視となってしまう。相談相手から嫌われないようにと、必死に配慮する。まさに「人に合わせる」ようになってしまう。
だから、自分に都合の悪いことは隠し、情報を小出しにし、肝心なことを言おうとしない。
しかし、だからこそ、相談を持ちかけられた側は、途方に暮れることに。
「アナタ・・・何しに来たの?」
好意を求めるがゆえに、信頼を失い、結局は人から嫌われる。

あるいは、「依頼すれば対応してくれる」という心理的ベースがないんだから、「依頼があれば、自分の側が対応する責務がある。」という発想も持っていない。
信頼の心理的ベースがなければ、誰かを信頼することもないし、誰かから信頼されるように、自分を律することもしない。そもそも、信頼に関する心理的枠組みがないわけ。

そして、「依頼があれば対応する責務」を感じていないわけだから、その継続形と言える「対応し続ける」責務も持っていない。
最後まで、責任を持って・・・なんて発想は持っていないわけ。

そんな人は、都合が悪くなると、スグにトンズラしてしまう。
たとえば、ボランティアの連中なんて、人からの好意を求めて、誰かに恵んであげて、「ワタシって、いい子でしょ?」と振舞いますが、状況がシビアーになると、あっさりとトンズラするでしょ?
そんな行動の根底には、「対応する責務」「対応し続ける責務」という信頼の心理的ベースの欠如があるわけ。

そんなボランティアばかりではなく、信頼の心理的ベースを持っていない人間は、最後まで面倒を見るという発想もなしに、子供を作ってしまうでしょ?ペットの飼育を途中で投げ出すレヴェルを超えて、自分の子供にも、そんな感じになってしまう。
対応し続ける責務という発想を持っていないので、経済的に不安定な状態であっても、子供を作ってしまう。経済的に不安定な状態だったら、少なくとも、子供を作るのはやめるのが信頼というものを考慮した発想ですが、最後まで対応し続けるという発想がないんだから、その時の勢いで子供を作ってしまいますよ。
そんな勢いだけの親に育てられた子供が、信頼の心理的ベースができるわけがないでしょ?経済的な安定というのは、当人の努力だけで何とかなるものではありませんが、不安定な状況では子供を作らないようにするのは、当人の判断で何とかなるでしょ?

たとえ、今現在は要望に対して対応できていても、将来はどうなるかわからない・・・そんな状況を見せられたら、子供も不安になりますよね?対応してくれることの安定性がなければ、心理的に安定を得られるわけもありませんよ。明日はどうなるのかさっぱりわからない・・・という状況では、対応の安定性も何もないでしょ?逆に言うと、信頼の心理的ベースがない親は、子供の要望に対応していないし、あるいは一時的に対応しても、その不安定さを子供に対し見せていることは当然のように想定できること。

信頼は対応の積み重ねで形成されるわけですが、成長してくると将来の予測のファクターも入ってくる。今はともかく、将来は対応されないと思っていたら、信頼関係も何もありませんよ。
一定の安定した傾向を持つ反応を受けていないが故に、信頼というもののベースがなく、心理的に不安になる・・・そんなことは言われてみれば当然のことでしょ?
信頼というものは、安定や一貫性がその前提として要求されるわけ。それは個別の反応だけでなく、その時系列的な継続性も必要となっている。その場その場のランダムな反応を受けてきたら、信頼なんて理解できるようにはならないわけ。

対応の一貫性がある養育環境だからこそ、信頼の心理的なベースを持つことができるのであって、逆に言うと、信頼の心理的なベースがない環境であれば、人との間の信頼が不在となり、そして、「次にはどうなるかわからない。」という不安感がデフォルトになってしまう。
信頼のないところに安心があるわけがないでしょ?
常に心理的な飢餓感にさいなまれ、「何かトラブルが起こってしまったら、全部自分だけで対処しないといけない。」と切羽詰まってしまうことになる。だからこそ、ちょっとのことで過剰反応する。
そんな過剰反応は、自分の身を守るために必死な心理を表しているわけ。

だからこそ、そんな人は、自分に直接的には関わりのないマターに首を突っ込んで、自分自身の不安から目をそらそうとする。
相手からの要望に対応し続ける発想がない人間が、ボランティアになって、恵まれない状況にある人たちの元に出かけてって、「アナタたちも、いっぱい子供を作りなさいな!」と暖かいアドヴァイスをする・・・そして現実として、状況がより悪くなる。そんな光景も、信頼の心理的ベースの不在という観点で見ると、実に理解しやすいでしょ?援助する側も、援助される側も、どちらも信頼の心理的ベースがないわけ。一貫した対応を持続して行うという発想を持っていない。だから、当然のこととして、援助されている恵まれない人たちも、周囲の人から、一時的な、別の言い方をすると、断片的な好意は得られても、信頼はされない。だからますます貧しくなってしまう。

あるいは、それこそボランティア活動を熱心にやっている「いい人」が、自分の子供をネグレクト気味になる事例も多いでしょ?
最後までつきあうという発想がないがゆえに、テンポラリーな形で慈善行為に「関わったり」、人に「構ったり」するわけですが、そんなテンポラリーなスタイルで行動する人が子供を育てたら、子供は不安いっぱいですよ。
ボランティアをするような「いい人」が、子育てをするが故に、その子供がトラブルを起こすわけです。

常にテンポラリー状態で一貫性がないがゆえに、そして、将来の見通しがないがゆえに、そんな家庭で育ってしまうと、不安がデフォルトになってしまう。
そして、家庭という存在が、その不安感の中心になるわけ。
一般の人は、家庭と安心が結びついている。
しかし、ダメダメ家庭においては、家庭と不安が直結しているわけ。
そのことを自覚すれば、まだ対処のしようがあるわけですが、まさに不安と直結しているので、家庭について考えること自体が不快となってしまう。
だから、家庭について考えることなく、やっぱり一貫性がなく、断片的な行動となってしまう。ということで、「いい人」によるネグレクトが連鎖することに。

生理的早産と言える人間にとって、最初の欠損は本人の努力では埋めようがない。
そんな環境で育ってしまったら、それを自覚するしかないわけですが、信頼のベースの欠損を好意によって補おうとして、周囲に対し「ワタシを好いてよ!」と絡み、より大きなトラブルになってしまう。

皆様の周囲にも、そんな人って、実際にいるでしょ?

(終了)
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発信後記

あきれるほど、長々とした文章ですが・・・
基本的なコンセプトとしては、赤ちゃんの時代に、安定した反応を受けていない人は、成長後も精神的に安定しないし、周囲の人間が、一貫した対応をするとは考えないということです。一貫した対応を予測できることが、まさに信頼でしょ?

対処の安定性が、まさに信頼というもの。対処そのものがないのだから、信頼そのものもないわけ。
 この文章に比較的近い内容を持つ文章として 05年6月22日 配信の「甘える体験」という文章があります。
あるいは、10年3月17日 配信の「安息の原体験」という文章もあります。
R.10/12/3