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カテゴリー ダメダメ家庭問題の考え方
配信日 05年11月2日 (10年5月3日に大幅に追加)
タイトル 雨宿り (ちょっとした困りごと)
以前にちょっと触れたことがありますが、ヨーロッパの教会というものは、キリスト教徒でない人間にとっても大変にありがたいもの。
ヨーロッパでは天候が急に変わるので、雨に降られた場合には、とりあえずの雨宿りに、教会というものはもってこいなんですね。
椅子があって座れるし、静かだし、安全だし、絵なども架かっていて飽きないし・・・

それに教会というものは、その他にも便利。
旅行をしていて、道がわからなくなったときに、目印になったりするわけ。塔などが付随していたり、高い建物であることが多いので、遠くからでも割とよくわかる。だから「自分が今どこなのか?」教会を基準として地図を見ながら確認できるわけ。
全く、実用的に「ありがたい」存在なんですね。

つまり、ヨーロッパの教会は、急に雨が降った場合のようなピンチの時に頼りになるばかりではなく、道に迷った場合にも頼りになる存在というわけです。

人間が生きていくうちで、精神的にピンチになることもありますよね?自分自身を見失うこともありますよね?そんな時に何を頼るのか?
そんな時は、普段から頼っている存在を、頼ることになりますよね?
「困っている時こそ、実績があるものを頼ろう!」って、当然のことでしょ?

ヨーロッパの教会は、精神的な問題とは全く別に、急なピンチの時に役立つ存在であり、目印になる存在。そんな存在だからこそ精神的な問題を抱えている時に頼ることになる。
キリスト教も、ダテに2千年近く活動しているわけではないわけ。ノウハウの見事な蓄積があるわけです。

ダメダメ家庭はやたら「べき論」が多い。「こうすべき!」「ああすべき!」と、やたら強圧的に押し付けるだけ。宗教などの精神的な問題も「神を信ずべき!」「困った時は、ここに相談すべき!」なんてやったりするわけ。
しかし、そんな感じで押し付けられると、なおさら困っちゃうでしょ?

しかし、ヨーロッパの教会は、雨宿りに利用させたり、道しるべに利用させたりすることによって、「教会は頼りになる存在だ!」「道を指し示してくれる存在だ!」と、人間の心理に「刷り込んで」いるわけ。実に現実的な発想をしているんですね。

ダメダメ人間は、理念先行型で、その物言いも「べき論」が多い。そんな人は勝手にやっていれば済む話。しかし、じゃあ、普段はどんな活動をしているの?
普段から問答無用の説教しているような人の元に、困っている人が相談に行くわけがないでしょ?
「困ったらワタシの元に来なさい!」なんて言うのはいいとして、非常に追い詰められた状態になる前の、ちょっとした困りごとの段階も重要なんですね。雨宿りをさせるくらいの度量があるかどうか?あるいは、そんな配慮がされているかどうか?
そのようなことって、ちゃんとわかるものなんですね。

行政なり、ボランティアの「お悩み相談」もいいけど、普段のちょっとした困り事をどれだけサポートしたの?
家庭内だってダメダメな親は、気分しだいで子供を呼びつけて「オイ!何か困っていることはないか?」などと突然に聞いてくるわけ。「何か困ったことは?」なんて急に言われても・・・急に呼びつけて聞いてくるアンタに困っているよ!って言いたくなるでしょ?
そんなこと立場を逆転させれば、誰でもわかることですよね?

ダメダメな人間は、自分の都合だけで生きているわけ。学校でも、妙な宗教関係者も、いつも突然にやってきたりするものでしょ?そして「何か困っていることはありませんか?」と言い出す。
しかし、普段からなじみもないような人から、急に言われても、「ワタシはこれこれに困っている。」なんて言えるわけがありませんよね?
どうしてそんな配慮もできないの?しかし、相手に対して配慮ができないがゆえに、「恵んでアゲル」という立場に立ちたがる。相手から自分にとって都合の悪い言葉を言わせないようにするわけ。

そんな人は、当然のこととして、「お悩み相談」での回答だって「べき論」ですよ。
家庭だってそうですよね?
何か事が起こってから、「どうして、親に相談してくれなかったのか?」などと言ったりする親もいますが、子供の精神が嵐のようになる前の、ほんのちょっとした雨の時に、どのようなサポートをしたのか?
大きな事件というものも、結局は、そんな結果と言うわけです。

そして、困っている人を真摯にサポートしている人たちの姿を見て、その手の人たちなり、その活動に対して、信頼感を持ったりするわけでしょ?
たびたび書いておりますが、ダメダメ家庭の人間は、信頼と好意の区別がつかない。
信頼と好意の区別がつかないというよりも、そもそも信頼そのものが理解できない。

「人から好かれたい!」と念願し、そのための活動や一生懸命にやったりしますが、「信頼に値する人間になりたい。」と自分自身を律することはないわけ。

実は、その典型的な事例が先日(09年5月)に報道されておりました。
「最近の若い人は、お寺参りをしない。困ったことだ!若い人にとってお寺を親しみやすいイメージを与えるために、キャラクターを制作していこう!」とのことで、最近よく出てくる「ゆるきゃら」のマスコットを使って、お寺をPRしようということらしい。

まあ、ディズニーのキャラクターのようなマスコットがお寺の境内にいれば、子供だって、好意をもったりするでしょう。
しかし、それは好意であって、信頼ではないでしょ?

それこそ、現在の日本では、年間3万人の自殺者がいる。
そんな、実際に困っている人たちを放っておいて、楽しいキャラクターを使って、「若い人を取り込んでいこう!」という姿を見たら、そんな人たちを信頼しますか?

確かに子供は、楽しいキャラクターに関心を持ったりするでしょう。
しかし、キャラクターと一緒にはしゃいでいた子供だって、歳を取る。そして分別もついてくる。
そんな成長した子供にとって、困っている人を放っておいて、遊興三昧に明け暮れている人たちのところに「お参り」するわけがないじゃないの?

自殺しそうな、本当に困っている人たちを真摯にサポートしている人たちがいれば、そんな人たちこそ信頼に値するわけでしょ?

家庭だって、ダメダメな親は、子供から好意を得ようとする。
しかし、子供からの信頼は得ていないわけ。というか、信頼そのものが理解できない。
普段は、子供との約束などは、平気に無視をしておきながら、「子供は親を尊敬すべきだ!」とべき論で命令するだけ。
そして、子供が困っていても無視して、挙句の果てには「オレの方がもっとかわいそうなんだ!!」と子供の前で、嘆くばかり。

仏教寺院に対しては、距離を取るという対応が取れる。
たとえ、楽しいキャラクターがいるとしても、ただそれだけのこと。
しかし、ダメダメな親の場合は、距離を取るのが難しい。
しかし、難しくても、距離をとるしかないんですね。

ダメダメな組織は、人から好かれようと色々と活動しますが、人々のちょっとした困りごとには対応しない。
雨宿りすらさせてもらえないところに対して、信頼を寄せるわけがない。
逆に言うと、「そんなキャラクターをはべらせて悦に浸っている宗教施設をどのように考えるのか?」
それによって、その寺院の周囲の人のダメダメの進行具合も見えてくるわけ。
ちょっとした困りごとへの対応をみれば、その人たちが、「信頼というものをどのように考えているのか?」について見えてくるわけです。

(終了)
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発信後記

静岡県で典型的なダメダメ家庭の事件が起きましたよね?
女子高生がタリウムで母親を殺そうとしたとか・・・
今回の「お題」で言うと、その家庭や、通っていた学校で「雨宿り」ができる状態ではなかったのでしょう。だから女の子も「どしゃぶり」になった時に誰も頼れないわけ。

至ってまじめて、「普通の」生徒だった・・・
なんて、お約束のセリフも出ているんでしょうね。
しかし、思春期の女の子が何も悩みがないとしたら、それこそが異常でしょ?

ちなみに、以前に配信いたしましたが、このような事件があったときに、どのような感想を漏らすのか?
その感想によって、その人のダメダメ振りが如何なくわかったりするわけ。
「あの母親と娘さんは、普段はどんな会話があったのかしら?」
「あの学校は、何も気がつかなかったのかしら?」
「あの家庭の父親は一体何やっているの?」

まあ、これくらいの感想ならともかく、
「まったく・・・近頃の女子高生にも困ったものだ!母親もお気の毒だ!」などと言った感想を漏らすような人間なり、教員は、結局は、今回の静岡県の事件と同じ状況を作るわけ。少なくとも教員がそんな感想を平気で言ったりするようだったら、早めにその学校から避難しないと、今度は自分が事件に巻き込まれちゃいますよ。
この文章と関係がある文章としては、「08年10月22日配信 晴れた日に傘を貸す」という文章があります。
R.10/5/3