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カテゴリー 映像作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 08年1月15日
取り上げた作品 映画「カポーティ(2005年アメリカ)
監督 ベネット・ミラー
昨年(07年)に、アメリカの作家トルーマン・カポーティが書いた小説「冷血」を取り上げました。
お時間がありましたら、再読してみてくださいな。

ちなみに、トルーマン・カポーティは、その「冷血」を書いて以降、作品を完成させておりません。
どうして書かないの?みんなも期待しているだろうに?それに、完成させれば、たとえ駄作でも売れるでしょうし。
まあ、アメリカの作家には、この手のパターンが結構あったりしますよね?
若くして作家として認められて、しばらく活躍して、いつのまにか、作品を作らなくなっているパターン。有名なサリンジャーもそのパターンでしょ?

カポーティの最後の作品となった「冷血」という小説は、カンザスで59年に起こった、犯人とは面識のない4人を殺害した「残虐な」殺人事件を題材にしています。
カポーティはその事件について6年の歳月をかけて、丹念な取材の元、文章を纏め上げて大作「冷血」になりました。
カポーティがその作品を纏め上げる過程の作業を描いた映画があります。「カポーティ」というタイトルの作品です。05年制作の最近の作品です。
今回は、その「カポーティ」という映画を取り上げながら、ダメダメ家庭の問題を考えてみましょう。いや!ダメダメ家庭の問題そのものというよりも、ダメダメ家庭の問題を「書く」という問題について考える・・・そう申し上げた方が適切でしょう。

このメールマガジンで、カポーティの小説「冷血」を取り上げた際には、犯人のうちの一人のペリー・スミスという人を、周囲の人はどのように評しているのか?そんな観点からまとめてみました。
お読みになった方は・・・「これって、まるであの人と同じじゃないの?」なんて思ったのでは?あるいは、「程度は別として、ワタシにもこんなところがあるわ!」と思った人もいらっしゃるでしょう。
まあ、典型的なまでにダメダメ家庭の出身者の様相ですからね。

さて、ダメダメ家庭出身者はヘタに「ふ・つ・う」の生き方を目指すのではなく、自分なりの自己実現を目指さないと、とんでもないことになり、結果的に犯罪者などになってしまう。逆に言うと、芸能人とか芸術家には向いている・・・このことは、このメールマガジンでは頻繁に書いています。

さて、小説家トルーマン・カポーティは、当然のこととして、ダメダメ家庭出身者。
残虐な殺人事件の犯人であるペリー・スミスに取材するうちに、彼のことに共感を示すようになってしまう。もっと別の言い方をすると、「入れ込む」ようになってしまう。
この「カポーティ」という映画は、「冷血」という小説を完成させていく過程を描いていると同時に、カポーティがペリー・スミスに入れ込んでいく過程を丹念に描いています。

さて、その「冷血(In Cold Blood)」というタイトルですが、これはちょっとヘン。
まあ、言葉に対する反応が一般レヴェルの方々(バカにして言っているわけではありませんよ!)には、違和感はないでしょう。だって、残虐な犯行についてのノンフィクション・ノヴェルのタイトルなんですからね。「なんて冷酷なヤツなんだ!」「犯人には人間の血が通っているのか?!」そう思いたいでしょう。
しかし、冷血と残虐とは違う。

冷血というのは、感情がないこと・・・でしょ?
殺人事件を起こす際にも、もっとも効率的な殺害方法を取り、求める成果をあげる・・・そんな発想が冷血というものですよね?
心臓一突きで死ぬのなら、死んだ後も顔を突いたり、首を切ったりする必要はありませんよ。そもそも殺すにおいても、お金を目当てに殺すのなら、金がない人を殺しても意味ないじゃないの?そんな「計算高さ」というものが冷血でしょ?
これに対し、残虐というのは、ある種の情熱と結びつく。「この人に裏切られた!」「この人が憎い!」そんな感情があるからこそ、必要以上の方法で殺害するわけでしょ?それこそ「めった刺し」なんて、冷酷なり残虐な殺害であっても、冷血な殺害方法ではありませんよ。

「冷血」という作品で描かれた殺人事件は、そのような意味で「冷血」とは遠い。
犯人は、お金が得られないのに殺したり、被害者となる人を拘禁している間に、その人たちが楽でいられるように枕を用意したりしている。つまり愛や憎しみがあるといえる。
しかし、逮捕された犯人は、この被害者一家とは面識がない。面識がない相手に対して、どうして愛と憎しみの感情が発現されたの?

つまり、作者のカポーティは「冷血(Cold blood)」という、実際の事件に不適合なタイトルを使うことで、「冷血」という言葉の意味を読者に思い起こさせたかったわけです。
まあ、こんな言語感覚は、翻訳者には無理でしょう。本には、翻訳者の「解説」が載っていますが、そのようなタイトルの不自然さには言及されておりません。まっ、だから翻訳者どまりなんですよ。

さて、ダメダメ家庭出身の人間は、芸術家や芸能人に向いている・・・いわば作品を作ることに向いている。
その作品を作る際に、必要な資質があります。
必要なその資質とは、「冷血」。

求める結果を得るために、最小の表現で、最大の効果をあげる。
そんな冷血な精神が必要になります。
洞察力が必要なことは言うまでもありませんが、それを作品にまとめるためには、冷血な精神が必要なんですね。冷血と冷静は違います。冷静とは、ある意味、鈍感なこと。これは芸術作品を作る資質ではない。冷血というものは、対象を鋭敏に洞察し、それによって自分の感情も揺れ動きながらも、その自分自身の感情を外から見つめる・・・そんな資質といえます。

自分自身に言いたいことがあっても、それを表現する際には、どんな表現がどんな効果をもたらすのか?ちゃんと計算して表現しないとね。文章表現だったら「書き手である自分がどう思って書いているのか?」という点が重要なのではなく、「読み手がどう思うのか?」が重要でしょ?
読み手を怒らせたかったら、「その人が一番逆上する表現は何なのか?」その点を考えないとね。
そんな思考は、「殺人を行う際に、一番効果的な殺傷方法は何なのか?」そんなことを考える思考と同じ・・・じゃないの?私には殺人の経験はないけど・・・

殺人犯の心理を描くにしても、対象に共感しすぎると、表現として弱くなってしまう。
しかし、カポーティは、入れ込んでしまう。
映画の中のセリフには、「ボクとペリーは一緒に育った。ボクは表からその家を出て、彼は裏から出た。」なんてセリフがあります。芸術家や芸能人は、河原乞食と言われても、まあ、表の職業でしょう。しかし、犯罪者は違いますよね?しかし、基本的な心理や精神は一緒なんですね。
おまけに事件の犯人であるペリーは、かなりアタマが切れる人。その面でも、カポーティと同じといえる。だからこそ、カポーティもますます入れ込む。

入れ込むという言葉を別の言葉にすると、「熱くなる」。
ということで、冷血ではなくなってしまう。
ということで、「求める結果を得るために、どのような手段を使えば、最大限の効果をあげるのか?」なんて思考が出来なくなってしまう。

「冷血」という作品を書き上げることで、作者であるカポーティ自身は冷血でなくなってしまう。
カポーティは自分自身を「ホモで、アル中で、ヤク中の天才」と自認していたそうですが、「冷血」を書いた後では、「外道っぷり」が足りなくなってしまう。ヤクをやっていても所詮はいい人どまり。
入れこんだ対象の人が絞首刑になって涙を流しているようではダメなんですね。自分の文章に取り込むために、冷血に観察しなきゃ!

カポーティとしては、事件の犯人が絞首刑になって、自分自身が絞首刑になった気分なんでしょう。それでもいいわけですが、そんな自分自身をも冷血に見つめることができなければ、作品にはなりませんよ。

作品を作る際だけでなく、相談という場においても、基本的には冷血な発想を持ち続ける必要がある。現状認識には冷徹な洞察力が必要ですが、同情とか善意とかは悪く転ぶ危険性がある。善意などというものは、へたをすると「こんなに尽くしてあげたのに・・・」なんて感情に転化する可能性も高い。ただでさえ、洞察力のある人間は「このことについては、自分が誰よりも分かって上げられる。」と思いがち。それが単なる誇大妄想ではなく、実際に誰よりも分かるわけですから、「入れ込み」「入れ込まれ」の危険が大きく存在する。
「自分の見解を採用するも、採用しないも、その人のご自由。」「ドツボに、はまりたきゃ、勝手にはまれば?」
それくらいの醒めたスタンスを失ってしまうとダメなんですね。

しかし、冷め切っていても、文章は書けないし、相談にも対応できない。
入れ込む一歩寸前まで自分を追い込んで、ある種の酩酊に飛び込む必要があるといえるでしょう。まあ、目覚まし時計でもセットした上でね。飛び込む熱い勇気も必要だし、目覚める冷血も必要になる。
まさに前回配信の文章におけるヨハネが言うように「冷たくも、熱くも」ある必要があるわけです。

カポーティにとってやりきれないのは、作家生命をかけて、告発したこの問題が、何も理解されないこと。結局は、同じような事件が起き続けることになる。
実際に、最近の日本でも、青森とか愛媛とか・・・典型的にダメダメ家庭の事件が続けて起こっているでしょ?

まあ、私がカポーティさんに入れ込んでいる・・・わけではありませんが・・・彼の気持ちはよくわかるんですよ。まあ、彼を愛おしく思う・・・ってとこかな?

(終了)
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発信後記

この映画の制作年とか監督を調べるために、サイトをチェックしたら、色々な人のレビューが載っていました。まあ、レビューしている人はどう思って書いているのかわかりませんが、失笑するレヴェルの文章。
しかし、逆に言うと、あのレヴェルでないと、多くの人には受け入れられないんでしょうね。

私の文章は、作品レビューを意図したものではありません。ダメダメ家庭の問題を考え、書く・・・という問題について、「カポーティ」と言う映画を材料に考えているだけです。
しかし、だからこそ、その映画の本質を理解できることになる。だってその映画と、今回の私の文章の目的は同じなんですからね。

ということで、皆さんも、もし投稿の文章を考えてみたら、多くのことがより見えるようになると思うんですよ。
たとえば先日の青森の事件なんて、「絵に描いた」くらいの典型的な事件でしょ?ダメダメ家庭の問題の文章をまとめてみて、その面での洞察力がましてきたら、あの事件の心理くらいは説明できるようになると思います。
R.11/1/15