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カテゴリー ダメダメ家庭にないもの
配信日 09年7月6日
タイトル 幸福への嗅覚
次の休みに、家族で遊びに出かけよう!さあ!どこに行こうか?
東京ディズニーランドのような遊園地?水族館や動物園?それとも自然が豊かな観光地?それともスポーツ観戦?美術館のような教養に関わるもの?あるいはレストランでの食事会や、潮干狩りとか、イチゴ狩りなどの実益も兼ねたもの?

ダメダメ家庭では、そのようなレジャーのようなものには縁がない。このことは以前に配信しております。
しかし、それこそ子供の夏休みの宿題のネタなどのために、あるいは、周囲の人の行動スタイルに「合わせる」ために、しかたがなく、あるいは、なんとなく家族で出かけることもやっぱりあったりする。
ダメダメ家庭において、そんな「レジャー」として選定されるのは、不幸っぽいもの。
それこそ広島にある原爆ドームのような、「不幸満載」の施設が好みだったりするんですね。

わざわざ原爆ドームのような施設に出かけて、「まあ、なんてお気の毒な!」と同情することになる。もちろん、原爆ドームのような施設そのものがダメダメと申し上げているわけではありませんし、そんな施設に出かける人をダメダメと申し上げているわけでもありませんヨ。

しかし、何事もバランスというものがあるわけでしょ?
原爆ドームを見て、大空襲資料館を見て、大地震資料館を見て、侵略資料館を見て・・・って、そこまで徹しなくてもいいのでは?特に子供と一緒の場合にはね。そんなところに連れて行って、いったい、子供にどうしてほしいの?どのように感じてほしいの?

しかし、ダメダメ家庭には不幸への親和性があることが多い。そして、不幸への憧れがあったりする。そして、人の不幸の話や被害の話が大好き。不幸への感応度が高いわけ。
そんな人間にしてみれば、不幸を陳列してある施設の方が楽しめますよ。

逆に言うと、ディズニーランドのようなアミューズメント施設では、どうしていいのかわからなくなってしまう。
ダメダメ家庭で育つと、楽しみに対する感覚というか嗅覚がない。それこそ遊びを知らないようになってしまうし、お菓子についても知らない。
ダメダメ家庭を作る親は、被害者意識が強いので、子育てだって親である自分がこうむった被害と認識している。そんな親だから、何かと言うと、自分への被害なり持ち出しを認識し「してやった!」という物言いをしたがるもの。スグに「してやった」と言い出す親と一緒にいれば、「楽しみ」に類するイヴェントだと、むしろ警戒してしまう。「今はそれなりに楽しいけど・・・親は、後で何かグチグチと言ってくるんだろうなぁ・・・」そんな感じで警戒感を持っていたら、子供だって楽しめませんって。

それに、ダメダメ家庭の親は被害者意識が強く、子供がうれしそうな表情をしていると、まさに「オマエは楽しそうでいいねぇ・・・」「いったい誰のためにこんな苦労をしていると思っているんだ?!」と怒り出す。以前に取り上げたバルザックの小説「谷間のゆり」の中での言葉を使うと「楽しい思いをしたことを、まるで過ちでもしたように叱り付けられた・・・」となってしまう。

楽しいイヴェントに対しては、ぎこちない対応しかできないダメダメ家庭の子供も、不幸イヴェントだったら、参加していても扱いはラク。
「ああ!なんて、お気の毒!」
「下には下があるねぇ!」
「ホント、色々とタイヘンだなぁ!」
「ヒドイ時代だったんだねぇ・・・」

暗い顔をして、そう言っておけばいい。
その手の不幸へのリアクションは、ダメダメ家庭の中で熟練しているので、リラックスして、暗い顔ができる。
そんな日々だから、子供の頃から、不幸への感応度が習熟することになってしまう。
あるいは、家庭だけでなく、やたらそんな不幸満載の施設が好きな学校があったりするでしょ? 修学旅行などで、わざわざそんな施設に出かける学校がありますよね?そんな学校のスタッフの中には、不幸好きのダメダメ家庭の出身者がいるんでしょうね。その手の人は、不幸でないと、リラックスできないわけ。

不幸に対して、「まあ、お気の毒!」と同情するくらいならともかく、ダメダメ家庭においては、幸福への嗅覚がない状態。
抑圧的な人間は、楽しさという感覚がわからない。
幸福よりも、より実感が伴う不幸の方に惹かれてしまう。
それこそ、またもやバルザックの「谷間のゆり」からの言葉を使うと、「悲しみには果てがありませんわ。喜びには限りがありますけど・・・」となる。
不幸しか求めないし、反応できないし、不幸しか語れないわけ。
不幸ではない状態が、一番の不幸・・・逆説的な物言いになってしまいますが、ダメダメ家庭はそんな面があったりするもの。
だから、積極的に幸福を求めるようなことはしない。

じゃあ、そのような、幸福への嗅覚を持っていない人が、どんな相手と結婚をするの?
あるいは、どんな幸福のイメージを持っているの?
結婚後に、家族で、どんな「楽しい」イヴェントをするつもりなの?
あるいは、新しい家庭での日々を「楽しい」ものとして捉えているの?

ヘンな話になりますが、東京ディズニーランドではなく、原爆ドームに旅行したがるような人は、結婚後の生活においても、原爆ドームのような生活を、内心では、求めてしまう。
そして、そんな人が子供を作ったりすると、どうなってしまうのか?

以前にも書きましたが、そんな人は、子供を持ち、育てるという体験によって、幸福体験デビューをしようと考え、そのことについて、深層心理の面では別として、言葉の上では意識し、周囲に語ったりする。しかし、デビューからそうはうまくは行きませんよ。そもそも、幸福の原体験なり、イメージを持っていない人なんですからね。結局は、ますます不幸になってしまうだけ。 そして、予想通りに、嘆きの声を上げることになる。そんな嘆きが、嘆きをあげる自分自身が、内心では心地いい。

幸福への感応度がなく、不幸への感応度しかないんだから、一家そろって、どんどんと不幸に突進してしまう。レジャーもせず、おいしい料理やお菓子も取ることがない。そんな家庭の中は、爆撃があったような場所のような荒涼たる雰囲気で、絵に描いたような陰々滅々状態。以前に取り上げたマルグリット・デュラスの作品「ラ・マン」の中にある「『ただの一度も言わない、こんにちはも、こんばんはも、新年おめでとうも。ありがとうも、一度も。決して話しかけない。話す必要があるとは、断じて思わない。すべてが黙りこくったまま、遠くよそよそしいままだ。石で出来た家族、分厚い厚みがそのまま石化して、どうにも近づきようのない家族・・・』『わたしたちの家ではお祝いをすることはただの一度もない、クリスマストゥリーを飾ることもないし、刺繍のハンカチーフを使うこともなく、花が飾られることもない。そればかりか死者のための行事もない、墓もなく、思い出もない。』そんな家庭がそのまま実現した家庭となっている。そして、そんな家庭を前にして、ダメダメな親は「あ〜あ、生きていても何もいいことは何もない!」とグチるだけで、何も対処しない。だからこそ、トラブルが起こることになる。
そうして「ワタシは、ただふつうの生活をしたかっただけなのに・・・」と嘆くことになる。

「ワタシは、ただふつうの生活をしたかっただけなのに・・・」と嘆く人は、子供時代の楽しかった思い出について語れないものでしょ?
思い出もないから、そんな人は写真もなかったりする。

そんな人は、「ふつうの生活をしたかった。」とは言っても、「幸福な生活をしたい。」とは言えない。だって、幸福への嗅覚がないので、幸福の求め方がわからないんですね。不幸な状態だったら、実にスムーズに見つけられ、達成することになる。

ダメダメ家庭で育つと、自分の希望を抑圧してしまう。それに幸福体験というか、「楽しかった原体験」というものとは無縁だったので、幸福への嗅覚もない。だから幸福を求めようとしても、どうやって求めていいのか、わからないわけ。「幸福を求めなさい!」「自分の好きなことをやったら?」と人から言われてしまうとプレッシャーを感じ、それこそが不幸と感じてしまう。だからこそ、自分では何もせず、学校や政府に対して過剰に期待することになる。とんでもないように聞こえるでしょうが、「幸福な家庭というものについて、学校や社会で教えるべきだ!」などと真顔で言い出すようになってしまう。

まあ、自分の出身家庭においては、幸福な家庭について「勉強」できなかったわけですし、そんな親に対して質問しても、「とにかく、ふつうになれ!」と一喝されるだけ。だから、学校に対するそんな期待も、しょうがない面もあるわけですが、学校で「いい家庭」というものについて学習しても、現実の「いい家庭」は作れませんよ。そんなことはちょっと考えればわかる話ですが、自分自身から逃避しているので、学校や政府に期待してしまうことになる。

そんな自分を自覚したら、おいしいお菓子でも食べながらじっくり考えてみる・・・
そんなことから始めるしかないわけですが、現実的には、何も考えないまま、結婚し、子供を作って、どんどんと不幸に突進してしまう。そうして、不幸の原体験が積み重なってしまう。

幸福になるためには、幸福への嗅覚をつけなくてはならないし、それが欠けているなら、せめて、その点について自覚しなくてはならないわけです。
そうでないと、グチに対する嗅覚のある人間に付け込まれて一緒にグチることになってしまう。グチの共鳴によって、なんとなく、一時的に、楽しさを得てしまう。
一緒にグチるという楽しさが、まさに幸福の原体験となってしまうわけ。
だから、それ以降も、グチることができる状況を温存するようになってしまう。
いわば、傷の舐め合いが快感になってしまって、それが幸福体験として心理的に認定されてしまう。その楽しさが忘れられずに、人に舐めてもらうための傷を持ち続けようとすることになるわけ。何回も言及しますが、バルザックの「谷間のゆり」におけるアンリエットが、まさにその典型といえます。

前にも書いておりますが、幸福への嗅覚を持っていない人間は、子供の前で「あ〜あ、人生なんて、何もいいことは何もない!」とグチっていたりするもの。
幸福の原体験がない人であるがゆえに、実際に一回も楽しいことはしたことがない。だからその言葉も論理的には通ってはいるわけですが、そんな嘆きを聞かされた子供としては『じゃあ、子供をどうして作ったのか?』と疑問を持つのは当然のこと。しかし、子供のそんな疑問も、ダメダメな親が持っている「ワタシこそが一番かわいそうな人間なんだ。」という被害者信念の前には何も効果がない。

幸福への嗅覚を持っていない人は、味方への嗅覚も持っていない。
一緒になって楽しいことをするという感覚がなく、一緒になって被害を語り合う・・・それがダメダメ家庭のやり取りのスタイル。というか、敵という感覚はわかるが、味方という感覚はわからない。家族が自分の敵という環境で育ったので、まず敵を考える習慣が身についている。自分の被害者意識を説明付ける「敵」は理解できても、自分の目標を達成するための助けになる味方は、意味がないわけです。

だから、どうしても味方よりも敵が必要になってしまう。敵の話題や悪口しかネタがないので、敵が必要だし、実際に多くなる。そして、同志たちと敵についての話題で盛り上がる。グチで共鳴できる同志はいても、目標達成のために協力しあう、肯定的な存在としての味方は存在しない。ただ、「あの人は、ワタシに厳しいことを言わないから安心!」「あの人とワタシは同じ敵を持つもの同士だ!」それくらいの二重否定的な存在としての同志があるだけ。

「誰が自分の味方か?」と聞かれても誰も思い浮かばないけど、敵については、いくらでも語れる。そんな人間たちが「共通の敵」によって群れているのが、ボランティアや市民運動の姿でしょ?

しかし、それで幸福に到達できるの?
幸福への嗅覚を持っていると、味方への嗅覚になって、
不幸への嗅覚を持っていると、敵への嗅覚になる・・・って、別に荒唐無稽な論理ではないでしょ?
逆に言うと、味方よりも、敵を必要としている人は、幸福よりも、不幸を求めているわけです。

そこでの敵というのは、直接的に対立する場合だけではなく、自分と被害者競争するようなライヴァルの場合もある。それこそ、わざわざ原爆ドームに行って、そこにある千羽鶴を燃やしたりする事件があったりするでしょ?
あのような行為を「平和に対する冒涜だ!」などと息巻く人もいるようですが、それ以前に、ちょっとヘンでしょ?そもそも原爆に関心がないのなら、わざわざそんなところに行くのもヘン。あるいは放火だったらもっと身近なものにすればいいじゃないの?わざわざそんなところまで行った上で何をやっているの?

現実的には、あのようなところは行くものではなく行かされるもの。逆に言うと、行かされているので被害者意識がある。
「本当は、こんなところには来たくはなかったんだけど、しょうがないから来てやった。」という被害者感情を持っているわけ。
だから被害者競争を脳内で起こしてしまう。
「オレの方がもっとかわいそうなんだ!」
そんな心理だと、原爆被爆者に対して被害者競争をして千羽鶴を燃やす気分にもなってしまうわけです。「原爆で死んだ人と、そんな原爆ドームに強制連行されたワタシとどっちがかわいそうなのか?」、心理的にそんな不満があるわけです。

まあ、その問いかけに対する答えは色々あるでしょう。
しかし、本来は、そんなところにわざわざ行かなければ済む話でしょ?
しかし、不幸への親和性があると、そんなところにも出かけてしまったり、そんなところに行きたがる人間が、周囲にいたりする。そして、被害の陳列を鑑賞することになる。だから自分以外の被害者との接し方がわからずとまどってしまったり、自分に対して被害を与えた加害者を探したりする。結局は、敵認定の心理が発動してしまい、結局は、やっぱり不幸になってしまう。

「あ〜あ、人生なんていいことは何もない!」とグチっている人は、その「いいこと」について語ることができず、その「いいこと」を自分では求めようとしない人。
現実では、そうなっているでしょ?

(終了)
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発信後記

6月に予告いたしましたが、今週から来週にかけて、長大なシリーズを配信いたします。
7月12日(日曜日)は休みですが、それ以外の12日連続での配信となります。

ダメダメの問題を、よりベーシックな面から考えていった文章です。
パソコンで言うと、ハードウェアとアプリケーションソフトの間にある基本ソフト(OS)の問題を考えたものと言えるでしょう。今まではどちらかというと、アプリケーションの面でのダメダメを中心に記述しておりますが、今回のシリーズは、そのアプリケーションを受け入れ、稼働させる、心理的枠組みの問題です。

ちなみに、簡単な予告となると、以下のとおりです。
本日(7月6日)序奏のようなもの。
7月7日 いわば第一主題のようなもの。
7月8日 第一主題から発展させて、第2主題といえるもの。
7月9日 第2主題の展開。
7月10日 第1主題の展開。
7月11日 第1主題と直接関係がある文芸作品を取り上げます。いわば長大な引用。
7月13日 間奏のようなもの。
7月14日〜18日 第2主題の変奏が続きます。

ちなみに、最後の7月18日は、第2主題の変奏であるとともに、本日の、いわば序奏のテーマがエコーのように響くことになります。

いや、まあ、交響的だなぁ・・・
ちなみに、最後に長大な変奏が続くのは、ベートーヴェンの、そして、全編の最後に、冒頭のテーマが再現するのは、ブラームスやブルックナーの、いずれも交響曲第3番の手法ですが、別に意識しているわけではありません。
まあ、人間の考えることなんて、それほど差はないものなんですよ。
R.10/12/25