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カテゴリー ダメダメ家庭出身者のキャラクター
配信日 09年7月7日 (10年11月25日 記述を追加)
タイトル うつろな人
以前に「現実と虚構を混同している!」なる文言について言及したことがあります。
少年による凶悪犯罪などがあったりすると、まさにお約束状態で登場したりするものですよね?あるいは、それこそコンピューター・ゲームに入れ込んでいる人を評して、「虚構の世界から抜け出せないヤツ!」と非難の言葉があったりするようです。

しかし、そんな正論ぶったグチを言う人が、往々にして、「安手のヒューマン・ドラマ」の愛好者だったりするわけ。そうして、「あの番組の○○ちゃんのように、前向きで明るく行きなさい!」と自分の子供に問答無用の説教をしたりするもの。

しっかし、その「ヒューマン・ドラマ」も、まさに虚構でしょ?虚構は虚構として、分かった上で楽しめばいいわけですが、それを現実の世界に強引に当てはめようとしても無理がありますよ。
「虚構と現実を混同している。」という正論ぶったグチはともかく、じゃあ、「虚構って何?」「現実って何?」それを皆さんは説明できますか?
「アニメは虚構で、NHKの実写ドラマは実在である。」・・・なんてことでは説明できないでしょ?
「2次元は虚構で、3次元は現実である。」・・・そんな単純なものなの?
「現実というか、実在とは何なのか?」
そんな問い掛けは、とたんに哲学的な命題となってしまう。

ここでは、そのような哲学的な実在論を議論するつもりはありません。
この文章においては、ある種の心理的な面から、実在というか現実というものを考えて見たいと思っています。

人間にとって、対象となるものが、実在を感じる、あるいは実在と認識するのは、「反応」があった場合でしょ?それこそ、卵から孵ったひな鳥が最初に動いたものを自分の親と認識するというインプリンティングにおいても、実際には、ひな鳥の行動に対して反応したものを親と認識するわけです。最初に動いていたものと言っても、風が吹いて卵の殻が動いても、それを親とは認識しないわけ。ひな鳥だったら、自分の鳴き声に反応したら、それを親と認識するわけです。そうでないと、集団で孵ったひな鳥は、お互いを自分の親と認定してしまい大混乱になるでしょ?ランダムな動きではなく、個別の反応が重要なんですね。

自分のアクションに対して反応するからこそ、実在として認識できる・・・なんてことは、皆様だって、納得できるでしょ?
たとえ、人間の形をしていても、たとえばショーウィンドウにいるマネキンだったら、物理的な実在かもしれませんが、心理的な実在とは言いがたい。あるいは、そのマネキンがカタコトと自動的に動いたとしても、それを心理的な面においては、実在としては認識しない。
だって、マネキンは、何も反応しませんからね。「おーい!そこのネーチャン!ちょっとコッチを向いてよ!」と、お店のショーウィンドウをどんなに強く叩いても、マネキンはこっちを向いたりしない。むしろ店員さんが慌てて飛んで来るだけ。逆に言えば、そんな反応の違いが人間とマネキンの差というもの。形の問題ではなく、反応の問題であるわけ。
マネキンは物理的には現実でしょうが、心理的には、実在性がないもの。電信柱とマネキンの間には心理的な実在性には大差はない。マネキンは人間の形をした電柱かもしれませんが、脳や筋肉や内臓や血液がないだけの生き物とは言えないでしょ?
人間というものは、というか、動物だったら、反応によって、その実在性を認識することができるわけ。

それこそ、人間同士のやり取りというものは、反応の積み重ねと言えます。
片一方が何かを言い、もう一方がそれに応え、それに対し、更に反応がある・・・
それが人間同士のやり取りというもの。
人間同士でなくても、たとえば相手が動物であっても、エサを出すと寄ってきたり、もし蹴飛ばしたら、逃げて行くでしょう。

犬に対して石を投げて、その石を避けたら、そんな反応によって、その犬を実在として認識できるわけですし、突っ立ったままの無反応だったら、犬の形をした置物・・・そのように認識するでしょ?
反応によって、実在性が認識できるわけですし、反応がなければ、心理的な実在性はないわけ。顔だって、その「つくり」よりも、顔の表情の変化が魅力的だったりするもの。様々なシチュエーションで、顔の表情が反応する・・・だから魅力的・・・そんなものでしょ?
いくら「つくり」が整っていても、いつも同じ表情だったらねぇ・・・面白くはありませんよ。

以上のことは、すべての皆さんが納得されることでしょう。

人間に対しても、蹴飛ばせば、蹴飛ばし返す可能性もありますし、たぶん怒り出すでしょうし、あるいは泣き出す可能性も高い。いずれにせよ、一般的には反応があるもの。
あるいは、いつも蹴飛ばしていたら、まずは絶交されるでしょう。そんな絶交も反応の一種。

「そんなことは、わざわざ書かなくても当たり前のことじゃないの?」
そのように思われる方も多いでしょう。
しかし、ダメダメ家庭の領域では、それが成立していないわけ。

ダメダメ家庭の人間は、自己逃避であり、自分自身を抑圧している・・・このことは、このメールマガジンで頻繁に書いています。
現状を認識することから逃避し、
自分の感情を抑圧し、
自分の希望を抑圧し、
判断することから逃避し、
表現することや行動することを抑圧している。
それがダメダメ家庭の人間。

現状認識から逃避して、何も対処しない。常に受身のスタンスにいる。
しかし、だからこそ、何かトラブルが発生しても、「ワタシは悪くない!」と言えてしまう。だって当人は、何も認識したり、考えたりも、行動もしていないんだから、確かに「その人としては、悪くはありません」よ。そして、そんな理屈が通ってしまうがゆえに、ますます現状認識から逃避して、何も考えないようになってしまう。
認識しないし、考えないんだから、改善をする必要性を感じない。というか、必要性を感じること自体を抑圧するわけ。だから周囲に対して何かアクションをする必要もない。
まあ、グチを言うのが精一杯。

しかし、グチというものは、事態を認識した上での個別の反応ではないでしょ?むしろ「な〜んとなく・・・うまく行かないなぁ・・・」くらいのニュアンスでしょ? 事態をちゃんと認識した上での反応だったら、周囲に対して「これこれについて、協力してくれ!」と明確に言えるもの。個別の認識を避けるために、あるいは、個別の対応を避けるためにこそ、その手のグチは使われたりするもの。つまりグチと個別の反応は大きく違うわけ。

自己逃避で抑圧的なダメダメ人間は、反応というものがなくなってしまう。
犬だったら、蹴飛ばせば、もうそんな危険な人の近くには寄ってこない。それくらいの反応は犬の知能でも十分にできること。
しかし、抑圧的な人間だったら、スグに蹴飛ばすような、そんな危険な人間にも平気で近づいてしまうわけ。

なぜって、「あの人は、スグに蹴飛ばすような怖い人間だ!」という現状認識から逃避しているんだから、逆に言えば、危機感も持っていませんよ。
それに、判断することから逃避しているんだから、「避ける」という判断をすることもイヤ。
だから何も考えずに、「な〜んとなく」の「成り行きで」近づいて行って、案の上、蹴飛ばされる。

ギャグと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、ドメスティック・ヴァイオレンスなんて、まさにそんな状況で発生しているわけ。避けるという判断を極端にイヤがる別の事例だと、以前にあった「こんにゃくゼリー」の問題でもありましたよね?自分にとって危険があると思ったら購入しなければいいだけ。しかし抑圧的な人はそんな判断ができないわけ。判断から逃避したそんな姿は、決して、「虚構」ではなく、「現実」で見られる事例なんですよ。
抑圧的な人は、認識することから逃避したり、判断することから逃避するがゆえに、何も反応しなくなってしまう。

そもそも、ダメダメ家庭を作る親は被害者意識が強く「親である自分は、子育てという面倒を子供から背負わされた被害者」という認識になっていることは、このメールマガジンでいつも言及しております。「あ〜あ、子供なんて生むんじゃなかった!失敗したわ!」なんて子供の前で平気で言うのがダメダメな親。そんな親と一緒だったら人間らしい感情なんて持っていては生きていけませんよ。そんな親の元で育ったので、子供としては、「心頭滅却」して、「この門より入るもの、希望を捨てよ!」の心境になっているわけ。
現状認識や判断から逃避するのは、そんなダメダメ家庭における処世術なんですね。

現状認識から逃避して、自分の希望を抑圧している人ができるのは、子作りくらい・・・
このことについても、このメールマガジンで頻繁に触れております。
好きとか嫌いとかの感情そのものを抑圧しているんだから、「ワタシは子供を好きではない。」という認識そのものが発生しないわけ。かと言って、当然のこととして「ワタシは子供を好き」という肯定的な感情もない。
な〜んとなくで、結婚し、な〜んとなくで、妊娠し、な〜んとなくで、出産する。

「えっ?ワタシでいいの?じゃあ、アンタと結婚してアゲルわ。」と判断を相手に投げる形で結婚して、
「みんながやっているし・・・」、「子供を作らないと、周囲から色々と言われるので、人からの質問に答えるのが面倒だし・・・」、「まっ、メンドウなことは、これからは全部、子供にやらせればいいわ!」と、判断逃避の結果や目的で妊娠してしまう。避けるという判断から逃避する抑圧人間が、避妊するという判断や行動からも逃避するのは理の当然。

認識や判断から逃避しているんだから、知的や心理的な意味での反応はないとは言え、そこはそれ、人間も動物の一種。
肉体的な反応はあるので、本当に妊娠してしまう。そうして出産。
しかし、肉体的な反応はあっても、知的な意味での反応はないまま。
そんな無反応状態の親が誕生することになってしまう。

そんな親を持つ子供はどうなるの?
子供だって、自分からのアクションに対して反応がない人との会話なんて、ありえませんよ。
それこそ子供が親に対して何を言っても、親は無表情のままだったり、ヘラヘラと笑っているだけ・・・なんてことになってしまう。
中身が伴ったやり取りにはならないわけ。

それに、親の姿というものは、子供にとっては、人間の姿の基本形でしょ?
その基本形が、何を言ってもヘラヘラ、何をされてもヘラヘラ・・・だったら、人間との向き合い方が「いびつ」なものになってしまいますよ。

実は、以前に騒動になったオウム真理教の信徒の親がそんな感じの人が多かったそう。
夫から罵倒されても暴力を振るわれても、何も対処せず、何事もなかったかのように振舞う母親。
そんな姿を眼前に見ていて、そんな人が人間の姿のデフォルトとなってしまうと、人間へのアクションとしては、会話によるコミュニケーションなんてことは考えないでしょ?
会話が成立しない家庭の原体験があると、過激な手段を使うことに抵抗感がなくなってしまうわけ。無反応をベースとしたやり取りの原体験があり、それが積み重なるから、後々になっても、人間とマネキンの間の違いが心理的に認識できないわけ。感覚情報が一致した時点で、同じものと認識してしまう。アクションを仕掛けた後における、相手からのリ・アクションを認識する感応性がないわけ。

何も家庭内だけでなく、反応の欠けたその手の人って、実際にいたりするでしょ?
ここで、そんなやり取りの極端な例をあげてみましょう。

「ああ!☆☆さん!こんにちは。お久しぶり!今日はいい天気ですね。」
『・・・ああ、お久しぶりですね・・・まさか、こんなところで会うなんて思わなかったよ・・・』
「最近はどう?ボクは最近はこんなことがあって・・・」
『その話って、もう10回以上しているんじゃないの?もういい加減にしてよ!』
「1年前に○○に旅行に行ったよ。」
『そのことをワタシに伝えたいの?ワタシは何をわかればいいの?』
「半年前はこんなことをやっていたよ。」
『アンタも、人の話を聞かないで勝手にしゃべっていて、何が言いたいの?と言うか、いったいワタシはどうすればいいのさ?』
「1ヵ月後には、こんなことをしたいと思っている。」
『その希望とやらは、もう何年も前から言っているじゃないの?そんなことばかりしていないで、ちょっとは本でも読んで自分自身で考えたら?』
「最近は暖かくなってきたねぇ・・・」
『アンタも、自分自身を抑圧しているのは勝手だけど、コッチは迷惑ですよ。』
「そう言えば、あの△△さんと先日会ってね・・・」
『アナタの親がどんな人間なのか?ホント、私には手に取るようにわかるよぉ・・・』
「ところで、あの□□さんとは、最近は、会った?」
『アナタも病院に行った方がいいって・・・イヤ、マジで・・・』
「昨今の経済情勢は・・・」
『もぅ〜タスケテよぉ〜』

上記のやり取りをお読みになった方は、またまたギャグを書いて・・・と思われる方も多いでしょうが、ほぼ現実のやり取りなんですよ。
上記のやり取りは、20世紀文学の不条理劇そのもの。あるいは、その前段階と言えるルイス・キャロルのアリスものに登場するやり取りに近い。芸術的に言うと、フランツ・カフカの文芸作品にもそんなところがありますよね?あるいは、音楽でいうと、グスタフ・マーラーの交響曲第7番の世界。

視覚情報なり音響情報なりの感覚的な面においては、明瞭に実感できるけど、それが、こちらからのアクションに対する反応にはなっていないので、心理的な実感につながらないわけ。感覚的な実在感は強く、しかし、それが反応とは無縁であるがゆえに、困惑させられる。
まるで白昼夢の中に存在しているような気分。
それを不条理という人もいるかもしれませんが、反応の欠如した人とのやり取りというものは、実際にそんな感じになっているわけ。

反応と言っても、色々なヴァリエーションがあるもの。
そもそも、いつもキツイことを言ってくる人間を見たら、シカトすればいいだけ。シカトだって立派な反応ですよ。現実を認識して、回避という判断をしたわけですからね。少なくとも、そんな相手を見たら、この私はシカトしますよ。ただ現実的にできる対処はシカトとまりであって、正面きって「コッチに寄って来るな!」とまでは中々言えないもの。

上記で例示したやり取りでも、厳しい言葉使いを受けたら、途中で「バカにするなよ!」でも言って、立ち去って行けばいいだけ。しかし、抑圧的な人はそれもできない。去るという判断を回避している人が、まさにドメスティック・ヴァイオレンスになりやすいのは当然でしょ?
シカトもせずに、わざわざ寄って来て話しかけて来たのに、こちらからのアクションに対しての反応がないので、コチラも怒ってしまう。だからより厳しい言い回しになる。
厳しい言い回しを相手からされてしまうと、心理的に追いつめられてしまって、まさに当人が育ったダメダメ家庭の中でのやり取りを再現することになってしまうわけ。心頭滅却して、心ここにあらずにしてしまう。
「心ここにあらず」だから、まさに心理的には実在しなくなってしまうわけ。
こうなると、人間の形をしていても、マネキンとの差はなくなってしまうでしょ?

まるで、現実がコラージュ化したような状態。ちなみに、コラージュとは美術の用語です。既存の映像イメージを切り取ってコピー&ペーストして作った作品です。いわばパッチワークに近いスタイル。まさに、そんなコラージュのように、すべてが断片化され、心理的な統一感や実在性がないにもかかわらず、感覚的には明瞭。そんなコラージュのような状態で、「虚」とは何か?「実」とは何か?

マネキンやコラージュに囲まれて生きる日々は、とんでもない恐怖の世界。それは虚構であり、抑圧的なダメダメ家庭における現実。
そんな感覚を理解していると、「ある種」の現代芸術も、理解しやすくなるもの。まあ、芸術家の皆さんは、そんな事態に直面して、やっぱり困っていたんでしょうねぇ・・・

何も現代芸術ではなくても、19世紀のロシアの作曲家のチャイコフスキーが、自分の交響曲第4番について、簡単な解説をしていますが、その記述がまさに今回の、認識が断片化されてしまっている症状といえるでしょう。
以下にちょっと抜き出してみます。

「現実から離れ、甘美な白昼夢が広がります。強迫観念のような最初の主題は遠のき、空想が徐々に魂を掌中に収めていきます。」「人生は、暗い現実とつかの間の夢や幻想との絶え間のない交錯から成り立っていて、そこに逃げ場はないのです。」「これは悲哀の音楽です。仕事に疲れ果てた人々が、真夜中に放心したように座っている時のような憂鬱。過去の思い出が次々と湧いてきます。」「眠りに落ちようとしている時にとりとめもなく脳裏をよぎるイメージで、奇妙で支離滅裂なものです。」

あるいは、別のところで取り上げましたが、三島由紀夫氏の小説「金閣寺」の中には「私の体験には積み重ねというものがなかった。」「いつも私の感情と事件をばらばらな、おそらく本質的なばらばらな状態に引き戻してしまう。」、「私の少年期は薄明の色に混濁していた。真暗な影の世界はおそろしかったが、白昼のようなくっくりした生も、私のものではなかった。」「自分の少年時代、まるきり人間的関心ともいうべきものが欠けていた。」等の記述は、まさに体験が、断片化,コラージュ化されている状況を表現していると言えるでしょう。

抑圧的な人間は、「虚構と現実を混同している」のではないわけ。
その人の存在そのものが、虚構の要素に変容してしまっているわけです。
だからこそ、それこそオカルト趣味に走ったり、ドラマやゲームの中に浸りきってしまう。アニメなどの、明瞭な感覚を持つ二次元の世界に耽溺したりもする。
その人自身が虚構の一要素となれば、そのドラマの世界も、オカルトの世界も、その人にとっては現実の世界でしょ?

心理的な実在性というのは、自分からのアクションに対して、一番大きな、そして多くのリ・アクションを受ける感覚と言えるでしょう。それが、3次元的な「いわゆる」現実の世界で受けるのか?それとも、ゲームの世界で受けることができるのか?それは単純な問題ではないわけ。抑圧的な状況においては、一般的な用語でいう現実世界だと、リ・アクションがない。だからこそ、心理的な実在感がないわけ。現実と虚構の区別がつかないというもっともらしい理屈があるわけですが、この手の抑圧的な人間は、「虚」の世界の中の住人と言ってもいい。「虚」の住人にとっては、「虚」こそがリアリティでしょ?

以前に、とある事件の犯人が「白昼夢を見ているようだった・・・」とかのコメントがあったような記憶がありますが、実際に上記で例示したやり取りを積み重ねると、一般の人間のいう現実世界の側が、虚構の世界といえるわけ。だって、自分の周囲は、何をやっても無反応なんですからね。

白昼夢のように、明瞭に認識できて、手に触れる寸前までは届く。
しかし、実際に手に取ることはできないし、何も影響を与えることはできないし、相互に影響を及ぼすこともできない。断片的な感覚情報が飛び交っているだけ。
そんな状況における、現実とは何?
どっちが うつし世で、どっちが虚構なのか?

純粋に芸術的な問題ならともかく、そんな問題が、現実に発生している。
それがダメダメ家庭というもの。
逆に言うと、この手の問題を考えるに当たって、芸術というものが重要な道具になるわけです。
芸術家こそ、虚と実の狭間を実感し、橋渡しできる人と言えるでしょ?
まさに「 such a stuff as dreams are made on 」であり、意識と無意識が融け合った眠りの周りを回っている。
そんな芸術作品から、認識の問題を理解するための有効な示唆が得られるわけです。

(終了)
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発信後記

ちなみに、土曜日には、この「うつろな人」を直接的に表現した文芸作品を取り上げます。
取り上げるタイトルは・・・予想できる人もいるのでは?
あるいは、以前に取り上げた三島由紀夫の「金閣寺」も、あきらかに、この「うつろな人」と、強い相関があります。

たとえば、「自分の少年時代、まるきり人間的関心とも言うべきものが欠けていた。」とか、「私の体験には積み重ねというものがなかった。」とか、「私の少年期は薄明の色に混濁していた。真暗な影の世界はおそろしかったが、白昼のようなくっくりした生も、私のものではなかった。」などの記述は、自分自身や周囲の人間の心理的な実在性の欠如を表現しているでしょ?

明日配信の文章では、この「うつろな人」によって養育されると発生してしまう問題について、考えてみます。
R.10/11/25