トップページに戻る 配信日分類の総目次に戻る 「心理的ベース」についてのシリーズ目次へ
カテゴリー分類の総目次に戻る タイトル50音分類の総目次へ
カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない情報,スキル
配信日 09年7月8日
タイトル 他者を認識する能力
前回配信の「うつろな人」というタイトルの文章において、ダメダメ家庭の抑圧的な人間は、反応というものがなくなってしまっている・・・そんなことについて書いております。
いわば物理的な実体はあっても、心理的な実体がなくなってしまう。矛盾した物言いになってしまいますが、まさに「うつろな存在」と言えるような存在になってしまうわけです。

そんなうつろな人と一緒に暮らしている状態は、さながらマネキンに囲まれて暮らしているようなもの。あるいは、人間の姿や形としての映像は認識できて、あるいは人間が発する声は認識できるので、いわばテレビに囲まれて暮らしているようなもの。
テレビ画面に人間が登場し、セリフを言ったりしますが、だからと言って、そこに人間の実体があるわけではないでしょ?

しかし、テレビ画面に映っている人間は、視覚的にも、聴覚的にも、見ている側にしてみれば、人間そのもの。それなりに「動き」だってある。ただ、そこに呼びかけに対しての反応がないので、心理的な実体感がない。
あるいは、テレビによく似ている事例となると、スクリーンに人間が映っている映画のようなもの。
よく「暖簾に腕押し」などと言われたりしますが、暖簾に人間の姿が写っていた場合は、視覚的には人間がいるのと同じ。ただ、反応がないというだけ。暖簾に印刷されている人の顔に話しかけても返事はないでしょうヨ。「おい!返事をしろよ!」と文句を言っても、返事はないでしょうし、暖簾にプリントされた顔をひっぱたいても、反応はないでしょう。まさに暖簾に腕押しになるだけ。
ただ、反応という面を除外すると、人間の姿がプリントされた暖簾に囲まれて暮らしている・・・それは、視覚的に見ると、多くの人間に囲まれて暮らしている状態と言えるでしょ?

上記のマネキンやテレビや暖簾の事例は、いささか極端な例えと言えるでしょう。ただ、現代的な芸術においては、そんなシーンって、実際に出てきたりするでしょ?
それは、まさにそんな「人間としての感覚情報を発していても、相手からのアクションに対する反応が喪失してしまった、心理的な実体感がない」『存在』のメタファーとなっているわけです。鋭敏な芸術家にとっては、この世がそんな風景に見えることがあるわけです。いや、マジで・・・

さてさて、前回配信の文章でも書きましたが、抑圧的なダメダメ人間は、反応というものが消失してしまう。
だから「うつろな存在」になってしまうわけですが、その虚はあくまで心理的な意味での虚です。感覚的には、つまり物理的なり生物的には、人間として存在している。
だから、そんな虚な人でも、することをすれば子供ができてしまうことになる。
と言うか、そんな心理的に虚な人ができるのは、子供を作る作業くらい・・・それが現実。

前回の文章では、その「うつろな人」そのものへの視点を中心に書きましたが、今回では、そんなうつろな人に育てられる子供に対して焦点を当ててみましょう。

反応がない人間が親になる。そして、まがりなりにも、子供とやり取りする。
前回配信の文章で、うつろな人とのやり取りの例を上げましたが、ここでも「うつろな親」と、その子供のやり取りの例を例示しましょう。

「ねぇ、お母さん!今度の日曜日にどこかに遊びに行こうよ!」
『・・・』
「ねぇ・・・、頼むからさぁ・・・」
『・・・』
「ねぇ、何とか言ってよ!」
『・・・』
「天気予報では、日曜日には晴れるって言っていたよ!」
『・・・』
「じゃあ、来週の日曜日でもいいからさぁ・・・」
『・・・』
「お母さんのケチ!」
『なんだと!いったい誰のために、こんな苦労をしていると思っているんだ?!』

ちょっと極端な例と思われる方もいらっしゃるでしょうが、ダメダメ家庭においては、結構実在するパターンのやり取りです。
さて、上記に例示した「やり取り?」において、反応という観点から見てみましょう。
子供からの呼びかけに対し、母親の反応は『・・・』と言うもの。
『・・・』という反応は、無反応。つまり、この母親は、反応が消失した存在になっているわけです。

この母親がマネキンと違うのは、最後で逆切れしたからであって、それ以外においては、マネキンと一緒でしょ?
逆に言うと、子供にしてみれば、上記の母親について、「逆切れ」の反応だけが心理的には印象に残ることになる。

上記の例では、最後に逆切れの反応があったわけですが、最初から最後まで『・・・』という無反応の例だって存在しますよね?
その場合は、子供がやり取りしている相手は、マネキンと変わるところがないでしょ?
つまり、物理的なり生物的には、そして法律的には実体があっても、心理的には実体がない状態といえる。

子供がそんな「無反応」パターンのやり取りを積み重ねるとどうなるのか?
そうなると、他者というものが、心理的に認識できなくなるわけです。

他者というものは、ちょっと微妙な概念です。
だって、他者というものは、自分とは全然別のものというわけではないでしょ?
上記のやり取りで例示した子供にとって、エンピツなり、あるいはマネキンは、他者とは言えない。エンピツもマネキンも、別のものであり物体ですよ。
「他者」という文言で表記する以上は、自分とは違っていても、自分とは同類である・・・そんな状況が必要になるでしょ?
自分とはやり取りが可能・・・だから、自分とは同類である・・・ただし、自分とは違った別の存在である・・・そのような認識で示されるものを他者というもの。

別の言い方をすると、反応という観点から考えた際に、「その反応が完全に推測できる存在」が自者であって、「反応がある程度まで予想できる存在が他者」、そして、まったく反応がなかったり、あるいはまったく反応が予想できなければ、ただの物体となります。

抑圧的な状況においては、子供にとって、一番身近に存在する他者といえる親とのやり取りにおいて、無反応がベースになってしまう。無反応だから、マネキンと生物的な人間との間の違いが、心理的には存在しない。
自分とはやり取りが可能であっても、自分とは別の存在・・・何回も書きますが、一般的には他者というものはそんなパターンですが、ダメダメ家庭においては、反応がないので「やり取り」が本質的に成立していないわけです。だから一般的な用語における「他者」という存在に対しても、自分とは同類の存在と心理的には認識できていないわけ。

一番身近な存在である、自分の親が、人間の姿が映っているテレビだったり、人間の顔がプリントされた暖簾だったり、そしてマネキンだったりのようなもの。感覚的には認識できても、呼びかけに対する反応が欠落しているので、心理的にはその存在を認識できない。そんな環境で育った子供は、そんな無反応の「存在」をベースにして、他の人間というものを認識していくことになる。
そんな人は、他者というものを、つまり自分からのアクセスに対して反応する存在としての他者を、心理的には認識できていないわけ。

よく「三つ子の魂、百まで」なる言葉がありますが、三つ子になるまでに一番頻繁にアクセスする自分の親とのやり取りが、まさにテレビ番組を視聴するのと変化がない状態となってしまう。
何も反応がなく、映像や音響などの感覚情報だけが飛び交っている。
そして、その感覚情報も、まさにテレビ番組のように断片的で継続性がない。だから、実体性がない。
前回書いた表現を使うと、まさに白昼夢の中にいるようなもの。

ダメダメ家庭出身者が「人の気持ちがわからない」人間になることは、以前に配信しております。実は、その件で結構、お便りが来たりするものなんですよ。
皆さんは、やっぱり困っていらっしゃるんでしょうね。

ダメダメ家庭の子供にしてみれば、まさに白昼夢の中で育ったわけですから、人の気持ちが分かるどころではありませんよ。人の気持ちが分かる分からない以前に、実は他者という存在そのものが、実感として認識していないわけです。
物理的な感覚としては認識できていても、マネキンとの差を実感としては認識できていない。

このメールマガジンでは、ダメダメ家庭の人間は会話の意欲も能力もないと頻繁に書きますが、会話というものの心理的な原点は、「自分の考えや意向を他者に分かってほしい!」というものでしょ?そもそも、その「他者」が心理的に認識できないんだから、会話の意欲が起きようがありませんよ。

あるいは、ダメダメ家庭の人間は、「信頼と好意の区別が付かない」わけですが、信頼というものは、他者に対して寄せたり、他者から寄せられるものでしょ?それに対して好意というものは、他者とは無縁に成立することが可能といえます。それこそ「ワタシはチーズケースを好きです。」でも好意の一種ですよ。そのような好意なら、他者というものを心理的に認識できないダメダメ人間にも、理解することが可能となる。しかし、信頼は人と人の間に発生するものでしょ?だから他者そのものを認識できなければ、信頼なんて理解できませんよ。

別の言い方をすると、信頼というものは、「反応」があまりブレず、想定の範囲内に収まる予想といえるでしょ?逆に言うと、想定外の反応をする人を、「信頼できない」と規定するわけでしょ?じゃあ、反応そのものがなかったら、信頼のしようがないじゃないの?信頼しようがないというよりも、無反応だったら信頼以前の段階ですよ。だから信頼という概念そのものが理解できなくなってしまう。

他者の存在そのものを認識できなくて、信頼とは無縁で、会話の意欲がない状態なので、トラブルが起こりやすい。トラブルが頻発するから、それなりの対処の方法を取ることになる。
たとえば、目の前の存在の行動を盲目的に真似するようになってしまう。だって、人の気持ちがわからないんだから、とりあえず、その行動を真似ることで、トラブルを防ぐしかないじゃないの?周囲から目立たないように、必死で行動するようになるわけです。
別の言い方をすると、相手の気持ちに合わせるのではなく、その相手が発する視覚情報なり音響情報に合わせるようになる。逆説的な物言いをすると、見えているものに盲目的に合わせることになる。

行動を盲目的に真似ると言っても、つまり、真似る対象者の、「いわゆる他者」の心情がわかったわけではない。しかし、人の行動を真似ていると、とりあえずは、トラブルは回避できたりする。この「相手が発する視覚情報なり音響情報に盲目的に合わせる。」ことを、別の言葉で何と言うでしょうか?そう!「ふ・つ・う」でしょ?抑圧的な人は、そんな感じで「ふ・つ・う」になろうとする。

だからこそ、「他者を心理的に認識できていない」、「人の気持ちがわからない」状態が、潜在化してしまい、自分自身だけでなく、周囲の人にも見えにくくなる。それに必死で人の行動を真似ている精神的なストレスも限界を超えたりする。

そうなると、まさにお約束のドッカーンとなってしまう。
そもそも、他者というものを心理的に認識していないし、人の気持ちも分からないんだから、トラブル状態になると、過激なことをやってしまう。

そんな事件の後になって、「識者?」さんが、「現実と虚構とを混同している。」・・・なんて、モンキリのコメント。
しかし、そんな識者さんは、その手の事件の加害者にとっての「虚」とはどんなものなのか?実とはどんなものなのか?まったく見えていないわけ。

マネキンは、実なの?虚なの?
マネキンを壊すのは、犯罪なのか?
マネキンと、人間は、どう違うのか?
マネキンという存在を、他者と言えるのか?

他者という存在を心理的に認識できないと、その手の犯罪も、犯人の心理としてはマネキン破損事件となっているわけです。
大きな事件が発生する一番の問題も、倫理的な問題ではなく、心理的な問題なんですね。
現実と虚構を混同しているのではなく、人間とマネキンの差が心理的に認識できていないわけです。
人が他者というものを心理的に認識するのは、動物的な先天的な本能に類するものではなく、やり取りの積み重ねによって得られる後天的な知見の範疇に属するもの。それは反応がない抑圧的なダメダメ家庭においては、習得できない類のもの。

生後すぐの状態での、養育者とのやり取りによって枠組みが形成され、その枠組みの上に、様々な体験が積み重なるわけです。いわば、パソコンにおける基本ソフト(OS)のインストールのようなもの。そして、様々なアプリケーションソフトは、OSをインストールした後で、徐々にインストールしていくでしょ?人間も同じなんですね。

物事を認識する能力だって、生後の体験を積み重ねることによって、その情報処理のシステムが出来上がることになる。それこそ、盲目で産まれて、後になって移植手術で目が見えるようになった幼児は、成長しても、元からの健常者と同じレヴェルまでは、視覚が発達しないもの。目が持つ視覚機能は完全でも、視覚情報を処理する機能は、完全にはならないわけです。
乳児の頃の、様々な体験なり反応の積み重ねによって、認識の枠組みが形成されるわけです。しかし、無反応状態だと、やり取りがないのと同じだから、他者を認識する枠組みができないまま。

心理学の一分野である発達心理学においては、いわばノーマルなケースの「発達」については、様々な検討はなされています。
たとえば、マーラー(Mahler)という学者が個体化過程の分類という形で、その「発達過程」を記述しております。それは以下のようなもの。

1. 正常な自閉期(出生〜生後1ヶ月)
自己以外のものは認識されていない。

2. 正常な共生期(生後2ヶ月〜6ヶ月)
快の獲得と不快の回避について、自己の努力によるものか、母親の世話によるものか区別が付かない。

3. 分離−個体化期
3-1.分化期(生後6ヶ月〜10ヶ月)自己と母親が分離していることに気づく。
3-2.練習期(生後10ヶ月〜16ヶ月)歩行により世界が広がり、母親からの愛情を補給しつつ、外界の探索を行う。
3-3.再接近期(生後16ヶ月〜24ヶ月)母親との分離に不安を感じ、接近と回避を繰り返す。自分と母親が別個の存在であることを認識した上で、あらためて母親をかけがえのない存在として評価し、その愛情を深める。
3-4.分離期(生後24ヶ月〜36ヶ月)母親との分離は不可避であることを受け入れる。個体化が確立し、自己や母親の一貫したイメージ(対象恒常性)が芽生える。

マーラーによれば、「乳児は生まれてしばらくの間、母親からの献身的な養育を受けながらも、あたかも他者が存在していないかのような世界で生活しており、母子間の情緒的なやり取りを経て自己意識が確立していく。」・・・なんだそう。

あるいは、スターン(Stern)という学者が、自己感の発達という形で、記述しています。それは以下のようなもの。

1. 新生自己感(出生〜生後2ヶ月)
五感を通して外界を体験するが、それぞれのことがらは相互に関係付けられていない。

2. 中核的自己感(出生2ヶ月〜6ヶ月)
自己の身体が単一のものであり、母親とは別個の存在であることに気づく。また、意思や意図の感覚や情動体験を持つ。

3. 主観的自己感(生後7ヶ月〜15ヶ月)
自分にも他者にも心があり、自分と母親とは別の感情、動機、意図を持つ存在であると感じている。また、他者と注意を共有したり、意図や情動を共有できるようになる。

4. 言語的自己感(生後15ヶ月〜18ヶ月)
自己の体験を言葉によって客観化し、言葉という交流手段で他者と意味を共有できるようになる。

スターンによれば、「自己意識の確立には、母親などの養育者との積極的な相互作用体験が必要であり、こうした体験を通して、乳幼児は自分や他者の心に気づいたり、他者と経験を共有し共感しあったりすることが可能になる。」・・・とのこと。

ちなみに、上記のスターンが言う新生自己感の状態・・・「五感を通して外界を体験するが、それぞれのことがらは相互に関係付けられていない。」という記述は、「感覚情報が断片化されコラージュ化されている。」というこのメールマガジンでの記述と、言っていることは同じでしょ?

逆に言うと、抑圧的な状況のダメダメ家庭の人間は、ここで留まっている状態。
次の段階である中核的自己感・・・「自己の身体が単一のものであり、母親とは別個の存在であることに気づく。また、意思や意図の感覚や情動体験を持つ。」までは行っていないわけです。

生後6ヶ月くらいになると、その赤ちゃんの人格の原初的なものが形成されてきます。だから、養育者とのやりとりの原初的なものも可能になる。そこからの発達は、そのやり取りを通じて成長していくことになる。この生後6ヶ月頃の発達段階でコケているんだから、それ以降は、まさにユルユルの土壌の上に大伽藍を打ちたてようと無理している状態といえる。
生後6ヶ月以降、肉体的には当然のこととして発達する。
それに、ある種の知的な活動をする能力も発達する。
しかし、心理面においては、生後6ヶ月の段階でとどまっているわけ。

だからこそ、「困ったら泣くしかない!」「トラブルに直面すると、逆切れする。」なんて、赤ちゃんと同じ状態のまま。
その不満を、知的な面においては、それなりに発達した言語で語ったり、あるいは肉体を使って表現したりすることができるわけですが、心理な面においては、発達していないわけです。だって、それ以降は、養育者とのやり取りが消失してしまっているんだから、子供の側としてもどうしようもありませんよ。実質上は、マネキンに育てられた状態なので、マネキンを標準として、周囲の人間を認識することになる。これでは周囲とのやり取りなんて、うまくできるわけがありませんよ。

あるいは、マーラーが言う練習期・・・「歩行により世界が広がり、母親からの愛情を補給しつつ、外界の探索を行う。」・・・がコケているんだから、当然のこととして登校拒否にもなりますよ。以前にも書きましたが、港が不良だからこそ、船は海に出られない。母親からの補給がないからこそ、外界の探索もできないわけ。

また、スターンが言う、主観的自己感・・・「自分にも他者にも心があり、自分と母親とは別の感情、動機、意図を持つ存在であると感じている。また、他者と注意を共有したり、意図や情動を共有できるようになる。」が欠落した人間が、まさに「人の気持ちが分からない人」と言えるでしょ?この段階でコケているので、人間とマネキンの差が、心理的に認識できないまま。

あるいは、マーラーがいう「あたかも他者が存在していないかのような世界」って、今現在、集中的に議論している「他者を認識する能力」の問題そのものといえます。「他者を心理的に認識する能力」というものは、本能の次元で元から人間に存在するものではないわけです。養育者とのやり取りによって、獲得されるものなんですね。

また、マーラーによる再接近期の記述における「母親との分離に不安を感じ、接近と回避を繰り返す。自分と母親が別個の存在であることを認識した上で、あらためて母親をかけがえのない存在として評価し、その愛情を深める。」は、大人における恋愛感情の原型のようなものでしょ?この再接近期の原型の段階でコケているんだから、年齢を経ても、自然な恋愛なんてできず、ぎこちないものになってしまいますよ。まさに、何も考えずに「て・き・と・う」に結婚したり、あるいは、「分離に不安を感じ、接近と回避を繰り返す。」行為そのものといえるストーカーのようになったりする。

あるいは、別の学者のクリンネート(Klinnert)によれば、「生後2ヶ月〜5ヶ月の乳児は、表情の違いが区別できても感情の違いは理解できないけど、その後は、だんだんと理解できるようになり、2歳でようやく他者の感情を表情から読み取ることができるようになる。」・・・とのこと。
しかし、それはその乳児の周囲に、乳児に対して反応をする人間が存在する場合に限られるでしょ?マネキンに囲まれた日々だったら、顔の表情と人間の感情のリンクはできるようにはなりませんよ。だから、ますます他者の気持ちが認識できない。

この段階でコケているんだから、本人の努力ではどうしようもないわけです。

新生児というものは、自分とは別の考え方なり別の視点というものの存在を、自然にというか本能的に理解しているわけではないわけです。それこそ、ピアジェという学者は、「自己中心性」という考えを提唱しています。何もエゴイスティックな意味での自分中心ということではなく、認識レヴェルにおいて、自分の現在の視点以外の視点が存在することがわからない。たとえば大きな山を見たら、見る場所によって見え方が違うでしょ?見えた景色が違うと言っても、それは大きな山の様々な姿だと、大人は、基本的には分かっている。しかし、幼児は分からない。見え方が違う段階で、もう、別のものになってしまう。

単に見え方が違うだけということがわかるようになるためには、子供としては自分以外の考え方と、実際にやり取りする必要があり、その積み重ねによって、自分以外の視点なり考え方の存在が、心理的に認識できるようになるわけ。それこそ「いない、いない、ばー」のようなお遊びによって、「見え方の違い」ということを体験する必要があるわけです。マネキンに囲まれていたら、そのような「自己中心性」から脱却できないわけです。

6ヶ月頃になって、新生児も、ある種の人格の原型のようなものが出来てくる。その段階で、適切な反応をもたらす他者とのやり取りをしないと、人格の発達において、原型というか雛形の段階で留まってしまうわけです。抑圧的なダメダメ家庭においては、現実問題として、反応をする他者とのやり取りをしていないんだから、他者を心理的に認識するどころではありませんよ。

前にも書きましたが、角膜移植によって、産まれてからずっと盲目だった人が目が見えるようになっても、つまり目の機能が使えるようになっても、健常者と同じようには視覚機能が使えない。器質的な目の機能と、そこからの情報を処理するシステムは、別なんですね。

目からの情報は、二次元的な情報。それを人間の情報処理システムによって、3次元的に認識することができる。しかし、産まれたすぐに、視覚情報の扱い方を訓練し、その処理のシステムを作れないと、目は使えても、目からの情報の処理し、そこから状況を認識する機能の発達は困難をきたすわけです。
心理面でも視覚情報の処理と同じ。
赤ちゃんの頃の、心理的なやり取りがないんだから、まさに相手の心を見る目は、ずっと盲目のままになっているわけです。

(備考)
上記で引用した発達心理学の学者の言葉は、北大路出版の「生涯発達心理学」という書籍からとっております。

(終了)
***************************************************
発信後記

今回は、発達心理学の言葉をかなり使っていますので、軽く読んでもわかりにくいでしょう。それに、文章自体もかなり長いものですしね。

ただ、本日の文章で提示した、「反応の消失した養育者だと、子供は、他者というものを心理的に認識することができない。」ということは、今回の一連のシリーズにおいて、より徹底的に考えていきます。

そんな観点は、ちょっと合意しがたいように思われるでしょうが、そんな点を考慮すれば、ダメダメ家庭の多くの問題も、より根本的な観点から理解できるようになると考えております。
R.10/12/25