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カテゴリー ダメダメ家庭にないもの
配信日 09年7月10日  (11年2月15日 記述を追加)
タイトル 人格
ダメダメ家庭出身の人間が、心理的な意味において「他者を認識する能力」がないことについては、現在集中的に取り上げております。
視覚情報なり聴覚情報として、いわば感覚次元としては「他者」を認識していても、その実体としての、別の言い方をすると、心を持つ存在としての他者は認識できてはいない。
前にも例示いたしましたが、マネキンと人間の差が心理的に認識できていないといえます。
あるいは、テレビに映っている人間が画面の中で動いてしゃべれば、それがまさに人間・・・そんな感じで、深層心理的には思っている。

他者というものを心理的に認識できなくなる背景としては、反応が欠如した養育者の存在があります。
子供が何かを要求し、その要求に対して、養育者が応える。要求通りに応えてくれる場合もあるし、応えてくれない場合もあるし、あるいは間違った対応の場合もある。
そんな反応を積み重ねることによって、やり取りが可能であり、自分とは違う存在であり、反応する実体としての他者が心理的に認識できるようになってくる。

しかし、抑圧的な人間は、子供からの要求に対して何も反応しない。そんな環境なんだから、子供としては、マネキンと人間の差が認識できなくなってしまうのは当然のこと。
人間とマネキンとの差は、その肉体的な組成の問題ではなく、精神に属するものでしょ?
マネキンには精神がなく、人間には精神がある・・・この差が大きい・・・って、そんなことは幼稚園児でも分かることですよ。
しかし、無反応の養育者によって育てられた子供は、その差が心理的に認識できなくなってしまう。人間の形や、発する音響なり、匂いなり、触覚は認識できても、そんな感覚情報を統合した存在までは認識できない。そもそも、抑圧的な養育者は一貫性のある対応なんかしないんだから、統合しようもない。

ここで言う、統合された実体・・・となると、よく『人格』なる言葉が使われたりしますよね?
「彼の人格は・・・」とか、その英語で、「彼女のパーソナリティは・・・」などと、一般的に使われたりするでしょ?
人格というと、心理学の分野では、それぞれの学者による定義があるようですが、ここでは「周囲とのやり取りにおいて、発現されるある種の傾向」・・・そんな感じで、アクセスというかアクションに対する反応(リ・アクション)という面から考えて見ます。
アクションに対する、リ・アクションがランダムではなく、特定の傾向を持つがゆえに、その人の人格が認識できる・・・そんなものですよね?

ここでたまに話題になったりする二重人格とか多重人格は、確かに、その人としては、反応のヴァリエーションを示しているわけですが、多重人格のうちの、どれか一つの人格に絞ってみると、それぞれは明確に、傾向を持っているわけでしょ?逆に言うと、だから二重人格と推定することもできる。やり取りにおいて、何も反応がないなり、まったくのランダムな反応だったら、多重人格というよりも、無人格と見た方が自然でしょう。

あと、人格という言葉に関して、『人格者』なる言葉があったりしますが、そのような使われ方となると、「よきキャラクター」に限定された使われ方です。しかし、人格者ではない人は、人格を持っていない・・・そういうものではありませんよね?
ここで考えるのは、価値判断や倫理的判断を抜きにして、その人が見せる、一貫した対応を示す実体としての人格です。そして、その人格というものが、その人の存在を一番規定するものであることは、ほとんどの人が合意するでしょう。ほとんどの人にとって、やりとりする際には、相手の肉体的な特徴よりも、その人格に注目するでしょ?そして、その人格があるなしが、人間とマネキンの差であることも、異論はないでしょ?

そんな人格という用語を用いて表現すると、今回のシリーズで述べてきた、「うつろな人」の問題や、そんな人によって養育されてしまった子供の問題は、このように言うことができるでしょう。
「抑圧状況下に育った人間には、人格がない。」

ちょっと極端な物言いになってしまいますが、そんな視点なり考え方も存在することになる。
何回も書きますが、ここで言う「人格」は、価値判断とか倫理的判断を抜きにして、「その人が持つ反応の傾向」という意味として使っています。やり取りの反応において一定の傾向がない・・・それは人格の不在といえるのでは?
何回も書きますが、子供からの要望に対して無反応な養育者によって育てられた子供は、人間とマネキンの差が心理的に認識できない。別の言い方をすると、人格というものを認識する能力が育たない。感覚情報を取得するセンサー機能は同じでも、そこからの情報を処理するシステムが発達しなくなってしまう。人格を持った他者とのやり取りがないと、人格を認識するシステムも成立しない。

それこそ、人工的に作られた縦線ばかりの世界で育てられた猫は、長じた後になって横線というものを認識できない。視覚に関して似たような例としては、以前にも書いていますが、角膜が不良のせいで盲目に産まれた新生児は、後になって角膜移植によって、目の機能は完全になっても、視覚情報を処理する機能は、完全にはならない。あるいは、聴覚でも同じ。日本人は、英語やフランス語の微妙な母音が聞き分けられない。認識能力の発達においては、新生児の頃における養育者とのやり取りを通じて、感覚情報を処理する機能が整備されていくわけです。目や耳などのセンサー機能の問題ではなく、そこからの情報を処理する機能の問題なんですね。

目や耳などから感覚情報を入手しても、そこから実体を再構成するのは、脳の役目となります。
そして、そんな情報処理機能は、産まれた頃から、自然に備わっていたわけではない。
目や耳に障害があるということなら、周囲も気が付きやすい。あるいはそのような特定の感覚情報を処理する能力の不全なら、周囲の人間にも、認識しやすいし、当人にも認識しやすい。それこそ、不全とまではいえない事例である、日本人は英語やフランス語の微妙な発音を聞き分けられないことだって、当人にも周囲にも判るでしょ?

日本人が英語やフランス語の微妙な発音が聞き分けられないのは、その音の違いに対して、周囲の反応がないからです。日本人の子供の周囲は、基本的には日本人なんだから、子供が微妙な発音の違いを発したとしても、周囲の大人は聞き取れない。だから、子供としても、その音の違いによる反応の違いがなかったので、結局は、音の違いを認識できないままになる。フランス語のテレビを見せていれば、子供がフランス語を話せるようになるのか?というと、そういうものではないでしょ? 逆に言うと、日本人の子供でもフランス人の養育者の元で育てば、微妙な発音の違いも判るようになる。
微妙な発音の違いによって、やり取りの相手が、反応する・・・顔の表情が変わったり、返事が返ってきたり、あるいは、子供からの依頼が通ったり・・・そんな違いによって、発音の違いも認識できるようになってくる。日本人とフランス人との間で耳の構造や、脳の言語処理部分が器質的に違うというものではなく、その音の違いによる反応の積み重ねによって、子供も違いが認識できるようになるわけです。

そして、その反応の違いが一定の傾向を持っていないと、その違いが心理的に認識できるようにはならない。日本人が簡単に区別できる、日本語の「え」と「お」の違いでも、「え」と「お」によって、まったく同じ反応だったら、あるいは、その反応の違いが、日々によって違っていたら、その発音の違いなんて、判るようにはなりませんよ。
あるいは、江戸っ子が「し」と「ひ」の違いが判らなかったとかがありますが、そのようなことは、周囲の反応の違いが存在しないがゆえに、発生してしまうわけです。

ここで個別の感覚情報の問題を超えて、それを統合する実体としての人格の認識となると、扱いがさらに難しくなる。
何回も書いていますが、抑圧的な人間は、その反応そのものが消失している。
やり取りの相手が何を言っても、何をやっても、無反応。
まさにマネキンと同じ様相となっている。
そんな環境で育つから、人格というものを、心理的に認識できなくなる。
だって、周囲がマネキンばかりの環境だったら、そもそも人格とは接したことがないままでしょ?接したことのないものを、認識するシステムなんて、できませんよ。
何回も書いていますが、縦線ばかりの世界のネコが、横線を視覚的に認識できないのとか、日本人がフランス語の微妙な発音の違いが判らないのと同じ。

とは言え、まさにマネキンを視覚的には見ることができるように、様々な個別の感覚情報を認識するシステムは持っている。しかし、それを統合する実体としての人格は認識できない。
認識し、思考し、判断し、行動する・・・そのような活動を統合する実体というものを認識できない。だから断片的な感覚情報だけに注目するようになってしまう。

たとえば目の前で子供が大声で泣いている状況があったとしましょう。
一般の人がまず考えることはこんなことでしょ?
「あの子供はどうして泣いているのかな?何か悲しいことがあったのかな?困っていることがあるのかな?」
つまり、一般的な人間は、人格に注目することになる。泣いている実体における人格・・・それこそが最重要の問題となる。

しかし、無反応をベースのまま育ってしまった人間は、そもそも人格というものを認識できないわけだから、泣いている子供を見ても、そんな観点で注目しない。
それこそ、
「大きな声だな・・・何デシベルくらいの音量なの?」
「涙が流れているなぁ・・・ああ、光が反射しているよ!」
「あの子供は、ちょっと臭いなぁ・・・お風呂入っているのかな?」
そんな感じで、感覚情報に注目し、そして、その感覚次元で終わってしまう。
だって、人格そのものが認識できないわけだから、泣いている子供の人格なんて、そもそも注目しようもない。皆さんの周囲にも、その手の感情面への注目が苦手な人っていたりするのでは?そんな人は、感情面への注目が必要な状況になると、心理的にプレッシャーを感じてしまう。それこそ、以前に取り上げたトルストイの「アンナ・カレーニナ」におけるアンナの主人のアレクセイがそのパターンです。

もちろん、人間というものは、感覚情報を通じて、事物を認識するもの。
しかし、受け取る感覚情報は、実体としての人格の影のようなものでしょ?
実体としての人格が、光を浴びて、様々なスクリーンに映った映像・・・それが様々な感覚情報として、別の人間にも認識できるようになるものでしょ?映像に実体があるというよりも、映像を映した大元が実体でしょ?スクリーンに映された多くの情報を統合することで、人格が認識できる。そんなことはプラトンでなくても、合意されるでしょ?
しかし、無反応をベースとして養育されてしまった人間は、多くの感覚情報を、実体としての人格に統合して認識することができない。感覚情報が、何の一貫性もなく、断片化されている状態となっている。まさに人格の影が断片化され飛び交っているようなもの。洞窟に映った影のレヴェルに留まっていて、影を作るに至った実体まで発想が行かない。

前にも書きましたが、いわば白昼夢状態に近い。そもそも、一貫性のある対応をする人間によって養育されていないので、対応の統合と言われてもピンと来ない。
統合しようがないほどに「て・き・と・う」で、断片的なのが、ダメダメな親というもの。
だから、統合された人格なんてものは、認識できなくなってしまう。
というか、人格というものを認識できないがゆえに、逆に感覚情報に注意する必要がある。
本来は、人格について見当がつけば、それ以上の感覚情報などは、予想できたりするでしょ?
「あの人は、このような人格を持っているから → 次にはこのようなことを言うだろう。」
そんなものですよね?
言葉によるやり取りにおいても、「何を言いたいのか?」を相手の言葉から掴み取ることが最重要であって、言葉そのものが重要とはいえない。

しかし、人格という視点が不在のままだったら、まさに発せられた言葉そのものに注目するしかない。そんな姿勢だから、やたら「人に合わせる」ようになってしまう。
人に合わせる人は、「人の言葉」に合わせているのであって、相手の人格に合わせているではないでしょ?あるいは、やり取りの「型」に合わせているだけで、相手の気持ちに合わせているわけではない。あるいは、聴覚情報としての言葉以外でも、話の口癖とか、話しぶりとか、身振り手振りとか、声のイントネーションとか、声色とかの多くの感覚情報に注目してしまうことになる。それぞれの感覚情報のプライオリティがつけられない。人格というものがわからないので、「人格を知るための最重要な感覚情報に注目する。」という発想がない。だから言葉の中身には注目しないし、注目の仕方が分からない。

形の上では反応はあっても、感覚次元の反応に留まっていて、意味を踏まえたやり取りにはならない。
たとえば、こんな例を提示してみましょう。
「おはよう。いい天気だね!調子どう?」
『昨日は夜遅くまで起きていて、ちょっと寝不足で・・・』
「じゃあ、またね!」

抑圧的なダメダメ家庭の周囲には現実に起こっているやり取りです。
たとえば、上記の例だと、
「こんにちは。調子どう?」
『昨日は夜遅くまで起きていて、ちょっと寝不足で・・・』
の後で、
「アンタも、いつも夜更かしじゃないの?もっと早く寝ないとダメだよ!」と返事をするのなら、意味を踏まえたやり取りと言えるでしょ?
しかし、
『昨日は夜遅くまで起きていて、ちょっと寝不足で・・・』
の後で、
「じゃあ、またね!」
と、言われたら、それは音声的には反応しているかもしれませんが、意味的には反応していないでしょ?

やり取りというものは、それなりの「型」があったとしても、やっぱり意味を踏まえていないと、まさに不条理なものになってしまう。

「こんにちは。調子どう?」
『ボチボチでんなぁ・・・』
の後で、
「アンタ!いつから関西人になったの?!」
と突っ込みを入れるのならともかく、
無表情で「じゃあ、またね!」との返事だったら、単に「ノリが悪い。」という問題ではないでしょ?
当意即妙な突っ込みが入れられないのなら、顔の表情でニッコリとでも反応すればいいだけ。いつもの表情というか無表情で「じゃあ、またね!」なんて言われると、不気味に思ってしまうでしょ?

「寝不足で・・・」くらいならともかく、「実は39度の熱があるんだけど、どうしても休めないから、何とかしてやってきた。」と言う言葉に、『じゃあ、またね!』なんて言葉を返したら、相手もビックリですよ。無理に同情しなくてもいいけど、内容を踏まえた反応があるのが当然でしょ?しかし、意味をふまえた反応の欠落した「やり取り」は、このメールマガジンの購読者さんは体験なさったことがあるのでは?
そんな反応というか無反応の人間に養育されてしまうと、当然のこととして、人格というものを認識できなくなりますし、人格が認識できないんだから、「人の気持ちが分からない」人間になるのも当然ですよ。

逆に言うと、「人の気持ちがわからない」人は、自身も統合された人格を持っていないといえます。その手の人は、やり取りにおいては、相手の発する感覚情報だけに注視し、相手の人格まで配慮が向かわない。だからこそ、トラブルが起こってしまい、それを避けるためにますます感覚情報に注視することになり、ますます人格まで視点が向かわなくなってしまう。
相手が発する感覚情報に合わせる技術ばかりが向上して、感情などの人格の断片すら認識することが難しくなってしまう。

せめて、「自分は人格というものを、認識できない。」と自覚できればいいわけですが、人格を持っていない人が、他者の人格を認識できない自分自身を認識することなんて、論理的にもありえない。
前にも書きましたが、人格によって、相手との対応に一定の傾向を持たせることができる。
当人が認識し、判断しているから、一定の傾向を持つのは当然ともいえますが、認識から逃避し、判断から逃避しているんだから、当然のこととして、その対応は、実にランダムなものになってしまう。状況に流され、行き当たりばったりとなる。感覚が断片化され、思考も断片化され、行動も断片化されることになる。

行き当たりばったりだと、周囲からの視線も厳しかったりする。
だから、何とかして、ある種の統合を得たい!
そんな人は、往々にして、何かに依存することで、統合を果たそうとする。
だって、もう既に統合した人格を持っている人に依存していれば、自分もそれに乗っかる形で、行動の面では、一貫性を持たせることが出来るんじゃないの?

その種の依存というと、まさにストーカーとか、あるいはクレーマーとか、あるいは集団化して、市民団体とか・・・については、そのように見ることができるでしょ?
対象者がいるんだから、それに乗っかっていれば、精神が断片化している人も、それなりに一貫性のある行動を取れますよ。一貫した行動をする人間に対しての抗議行動だから、結果的に、それなりの一貫性を持つことが出来る。
それに、クレーマーとか市民団体だったら、自分の被害者意識も満足できるでしょ?
それに、他者というものを心理的に認識できない人間にとっては、「相手の人格に配慮する必要がない」領域でないと困るってしまう。

このようなことは、ボランティアにも顕著でしょ?
対象者の人格には配慮しなくても、「型」に従っていれば、いい・・・それは人格を認識できず、「人の気持ちが分からない」人間にしてみれば、非常にラクなこと。それこそ会話においても型を踏まえたやり取りはできても、相手の言葉の意味を踏まえたやり取りができない人間にしてみれば、ボランティアのような「型」が存在する領域はラクなんですね。それにボランティアだったら、明確に支配・被支配の関係があるので、相手に命令するだけでいい。「人の気持ちが分からない」人間にしてみれば、気を使わなくて済むことになる。

そもそも、そんな人自身に人格がないので、自分で考えることができない。
そんな人は、何かを主張する際にも、思考の断片とも言える感想の次元で留まっている。
しかし、感想はその人の主観であって、客観なものではないでしょ?自分の考えや感想を相手に分かってほしいのなら、客観を踏まえた表現にしないとね。臆面もなく、個人的な感想を表明する人は、前回の文章で書きましたが「主観と客観の区別がつかない」状態といえます。
「こう思った。」「そのように感じた。」そんな断片的な次元で留まっている。
一時的な感想を、思考のレヴェルまで統合することはできていない。だって統合の実体となる人格がないんですからね。

心理的に見て人格がないというだけで、法律的な人権がないと申し上げているわけではありませんよ。というか、その手の人は、人格がないがゆえに、人権という言葉を使いたがる・・・そうとも言えるでしょ?それだけ、自分で考えることが怖く、相手から「反応」を食らわなくても済みそうな権威者認定の言葉に頼ってしまう。
そんな人は、時間まで断片化されている。感覚が断片化され、時間も断片化されているので、そんな人は、記憶もいい加減。
何度も書きますが、白昼夢にいるような状態となっている。

しかし、逆に言えば、人格がないがゆえに、真の苦悩を持つことはない。
周囲に対して「困った!困った!」と言うことはあっても、ただそれだけとなっている。
そう言う意味では、「幸福でない」にせよ「不幸ではない」わけです。
ただ、そんな人とやり取りする側が、心身とも疲れてしまう・・・それが現実でしょ?

(終了)
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発信後記

今回の「人格」の問題は、火曜日に配信した「うつろな人」の展開といえるものです。
明日土曜日の文章は、そのさらなる展開形といえる文章です。
本日の文章を、より展開すると、とある文芸作品になるわけ。
主題の展開がそのまま、別作品の引用表現となるわけです。

明日の文章も、異常に長い文章ですが、よろしくお願いいたします。
R.11/2/15