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配信日 09年7月13日  (10年6月13日 記述を追加)
タイトル 学術的な視点
このメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」は、ダメダメ家庭(日本語的に、より正確に言うと「機能不全家庭」)の問題を考えたメールマガジンですが、どっちかと言うと、その視点は芸術的な視点であって、学術的な視点ではありません。

芸術的な視点、あるいは芸術家による見方ということで、映画や文芸作品などの芸術作品を取り上げ、そんな作品の中において、「ダメダメ家庭の問題点がどのように描かれているのか?」「作り手はどんな視点でダメダメ家庭の問題を考えているのか?」そんな視点の文章を配信することもあります。

もちろん、このメールマガジンは人間の心理の問題を扱っていますから、私とは違った方法論と言える、従来の心理学を使った学術的な、別の言い方をすると科学的なアプローチが可能でしょう。
私だって、その手の心理学の本を読んだこともあります。特に、現在、集中的に取り上げております、「うつろな人」「他者の心理的な認識」の問題を考えるに当たって、心理学の一分野である発達心理学の本を数冊読みました。一連の文章ではそこでの手法を取り上げておりますし、今後も適宜提示する予定です。ただ、その手の従来の心理学は、このダメダメ家庭の問題を考えるに際し、ある程度は有効であっても、その問題の中心的な面を突くということにはならないわけ。

そもそも、心理学は、まさに心の理(ことわり)の学問であって、自然科学と人文学の間にある学問。そもそもが境界領域的な学問と言えます。
心理学とは、心の問題を、客観性を持って記述する学問と言えるでしょう。だから実験や統計などの観察者の主観が介在しない手法によって説明していくことになる。しかし、それゆえに限界があるもの。

心理学の本を読むと、様々な実験が出てきます。
たとえば、こんな実験があったりします。
子供に積み木の課題を与えて、時間内に出来たら、大げさに褒めてあげる。
そんな実験をすれば、ほめることによる、心理的な効果が観察できることになりますよね?
多くの子供を観察すれば、ほめることによる効果を統計的に証明することが可能になりますし、長期的に観察すれば、「ほめて育てられた子供が何に関心を持つのか?」「どんな能動性を持つのか?」「感情的な安定性はどうなるのか?」など色々とわかることになるわけです。

もうちょっと実験を細かくすると、上記の実験だって、ほめ方にヴァリエーションを持たせることができる。言葉でほめるのか?頭をなでるのか?お菓子を与えるのか?
どんなほめ方がいいのかについては、実験結果を見ればわかることになりますよね?対象の子供だって年齢によってヴァリエーションを持たせることができる。あるいは、ほめる人が親なのか?見知らぬ人なのか?それによる違いも観察を重ねれば明らかになるでしょう。それを統計的に処理すれば、ある種の客観性に到達できる。

しかし、ダメダメ家庭の問題を考えるに当たっては、そんな実験とは方向性が違った実験が必要になるわけ。
それこそ、積み木の問題を、時間内に「出来なかったら」、しかりつける。
そんなパターンの実験になるわけ。そしてそのしかり方についても、蹴飛ばす、殴る、食事を抜く、傷つく言葉を言う、あるいは無視する・・・そんなヴァリエーションがあるでしょ?
そんな実験をすると、子供をしかることの効果が見えてくるわけですし、どんな罰の与え方が効果的か?あるいは、悪影響があるのか?それも、科学的に見えてくるわけ。

子供をほめることによる影響については、一般のマトモ家庭の子供を理解するのに役に立つでしょう。しかし、ダメダメ家庭の子供を理解するためには、しかったり、無視したりの影響を理解する実験が必要になるわけ。

学術的には、そんな実験によって、ダメダメ家庭の問題も、より理解しやすくなっていくでしょう。しかし、当然のこととして、そんな実験は倫理的に不可でしょ?

それこそ幼少時における環境影響を考えるにあたって、1卵生双生児の内の一人を、子供の要望に親が反応する環境、もう一人を真っ暗な地下牢に入れて、その差を見れば、環境などの後天的な要因が及ぼす影響も、明確に、そして客観的に見えてくるでしょう。
しかし、そんなことは不可能でしょ?そんな実験には誰も協力してくれませんよ。

あるいは、映画の「マイ・フェア・レイディ」において、ヒギンズ教授は、自分の考えを証明するために、ドブ板英語しか話せないイライザを引き取って、イライザに教育を施すことによって、一流のレイディに育てる「実験」をしましたが、それは、一流のレイディにする実験だからこそ、参加者も存在するし、実験も倫理的に可能。しかし、「産まれたばかりの子供を、殺人鬼に育て上げる。」実験は、参加者がいないし、倫理的に不可でしょ?しかし、そんな実験が達成できれば、まさにダメダメというものが、産まれた後の教育なり環境によって、作ることができる証明になるでしょ?

以前に言及した19世紀のフランスの殺人鬼ラスネールは、父親から「オマエは将来は、ギロチン行きだ!」と言われ続け、実際に殺人鬼になり、ギロチンに掛けられましたが、その父親は、自分の考えを証明するために実験したわけではないでしょう。あるいは、ラスネールの父親は、息子の脳の器質的な異常を検知して、そこから「ギロチン行き」を、推察したのではないでしょ?そもそも、子供がどうなろうと、どうでもいいと思っていたわけでしょ?「ギロチン行きだ!」というよりも、心理的には「子供が断頭台の露と消えようが、親であるオレには関係ない!」と思っていたわけでしょ?そんな環境だからこそ、子供もギロチン行きになったのでは?

ダメダメ家庭を考えるに必要な実験は、それこそ数年間地下牢に閉じ込められた人間の心理であり、周囲から無視され続けたり、罰を与え続けられた人間の心理。
つまり実験で検証できる心理とは別の心理を扱っているわけです。
既存の発達心理学というものは、一般の子供が、一般の親のもと、一般的に成長し、一般の大人になっていく・・・そんな過程を扱っているわけで、ダメダメ家庭では、そのまま適用ができないわけ。

それに心理の実験や統計となると、色々なファクターが絡んでくる。「原因→結果」とつながる単純な一対一の対応とは言えないわけ。
妊娠中にタバコを吸う親からは、幼児に不都合な事態が発生しやすい・・・その関係性が統計的に説明できても、幼児の不都合な事態が、親がタバコを吸うことから来ているのか?それとも、親がタバコを吸うくらいの心理的ストレスがあるから、それが幼児に悪影響を及ぼしているのか?それは、単純な統計からはわからない。タバコの毒物よりも、ストレスが影響しているのなら、ヘンに禁煙してますますストレスを溜め込むと、もっと胎児に悪影響を及ぼすことになってしまう。

タバコの毒物による影響を見るためには、その他の要因、たとえば心理的なストレス条件をそろえないといけない。そうなると、タバコを吸いたくもない妊娠中の女性に強制的にタバコを吸わすことで、タバコの毒による影響を見ることができることになる。
しかし、そんな実験に参加してくれる妊婦なんていないでしょうし、いてはダメでしょ?

妊娠中の飲酒の問題だって同じようなもの。そもそも妊娠中にも飲酒を続けるような母親は、たとえ無事に出産しても後々色々とありますよ。そのような、もともとのメンタルの問題や知的な資質の問題を取り入れていかないと、科学的な知見にはならない。

あるいは、実験や観察対象の親子だって、ダメダメとは距離があるもの。
そもそも子供の心理の実験に協力してくれるのは、子育てに対して関心が高く、知的水準が高い親ですよ。ところがダメダメ家庭の親は「自分は子育てという被害を子供から背負わされた、かわいそうな被害者」という自己認識。そもそも子供の心理の実験なんて協力してくれない。観察対象自体が、かなりレヴェルが高く、ダメダメとは言いがたい人なんだから、そんな親子の観察を通じて、どうやってダメダメの諸問題を顕在化するの?

あるいは、よく育児における父親の影響ということで、父親が育児に積極的に協力してくれる家庭の子供は知的レヴェルが高いとかで、そんな統計がでてきますよね?確かに父親が積極的に子育てに協力してくれれば、子供にとっていい影響が出るでしょう。しかし、それは父親による影響であると同時に、育児に積極的な男性を伴侶とした女性のファクターもあるでしょ?そもそもそれだけ「人を見る目」「将来ヴィジョン」があるんだから、母親となった場合の知的レヴェルも高いに決まっているじゃないの?そんな母親の子供が、知的レヴェルが高かったり、情緒の安定性が高いのは当然ですよ。どこかのカルト宗教のように、伴侶をくじ引きでランダムに選んだわけではないんですからね。

父親による影響を科学的に検証するためには、強制的に父親を取り除いて、母親としての資質の面をまず明確化する必要があるわけ。あるいは、伴侶をくじ引きなどでランダムに割り振る必要があるでしょう。しかし、そんな実験は学術的には有効でも、参加する人なんているわけないでしょ?

以前にも書きましたが、ダメダメ家庭では、結婚後になって、「ウチの亭主は結婚前からだらしなく、そして何事も非協力的だった・・・」なんて平気でグチったりするもの。結婚前からダメダメだった人と、そのまま結婚するような女性の子供の知的レヴェルは、そもそも遺伝的に問題の可能性がありますし、かなりの心理的抑圧があるのは確実でしょ?そんな母親に育てられた子供の問題は、父親の育児協力の問題というよりも、それ以前としてある母親の資質のファクターが大きいのでは?

ダメダメ家庭の問題を考えるにあたって、実験ができないし、多くの複合的な要因から、それぞれの影響を区別するのが難しい。
それに、以前より頻繁に書いていますが、ダメダメ家庭を考えるに当たって、「言っていること」「していること」から考えるよりも、「言おうとしないこと」「しようとしないこと」から考える必要があるわけ。
ダメダメ家庭の人間は、自分自身を抑圧している。
だから一番重要な要因ほど、言おうとしないわけ。

学術的な発想だったら、「言っていること」「していること」から様々な知見を得ることになるわけですが、そんな方法論では、ダメダメ家庭の問題は見えてこないわけ。
学術的である以上は、ある種の客観性が要求される。そうなると、誰でも認識できる「言っていること」「していること」を整理するのが、学術的には必要な態度。しかし、だからこそダメダメの理解から遠くなってしまう。

「その対象者が何を言っているのか?」については、客観性を持たせることができるでしょう。しかし、「何を言おうとしないのか?」その点については、観察者の主観的な判断が介在してしまうでしょ?しかし、「何を言おうとしないのか?」という点を見出さない限り、ダメダメの理解はありえないわけ。

それに、客観性を志向していて、「言っていること」「していること」を整理し検討する心理学的な手法はいいとして、子供がしている言動だって「ただ、周囲の人間の言動に合わせているだけ」の場合もある。まったくの幼児なら、そうでもないでしょうが、ダメダメにおいては、物心ついた段階で、周囲の人に合わせているだけの状態の場合もあるわけ。まさに感覚的な実在は認識できるので、その感覚からの情報に、判断なしに合わせることになる。
そんな状態になったら、たとえ、同じ行動をしていても、「能動的にそのことをしているのか?」「ただ、周囲に合わせて、受動的に、そのことをしているのか?」その区別を付けることが、その対象者の心理を考えるにあたって実に重要になるでしょ?ダメダメの領域においては、行動と心理は直結しないわけ。

しかし、観察対象となっている子供が「自分の主体的な意思でそうしているのか?」「周囲に合わせてどのように行動しているのか?」の判断は、どのように『客観的』に行うの?学術的という以上、主観性を排除したい。だから判断する人によって、結果が変わってしまうような判断はしたくない。
それに「どの程度、子供が主体的に行動しているのか?」という問題は「イチ、ゼロ」のデジタルの問題ではなく、何%というアナログの問題でしょ?それをどうやって評価し、計測していくの?
しかし、その判断を抜きにしてはダメダメの問題は扱えないわけ。

もしダメダメの問題を、より客観性を持って検討したいのなら、それこそ未成年の更正施設などの聞き取りをすれば、多くの事例が集まるでしょう。それを統計的に処理すれば、形の上では、それなりに客観的なデーターとなる。しかし、その場合でも、重要なことは語られないという点については、事件後の子供も事件前の子供と一緒。

「その人が何を語ろうとしないのか?」
その点について踏みこんでいかない限り、ダメダメの理解はありえないわけですし、その「語られない」感情を聞き取るためには、観察者の意欲だけではなく、ちょっと特別な洞察力も必要になってくる。
従来の心理学をマスターしただけでは難しいのでは?

それに心理というのは、ある種の「動的」な面を持っている。
心理というものは周囲の環境に適応していくわけ。まさにドストエフスキーがいうように「人間はどんな環境でも慣れるもの」。人間は肉体的な面だけでなく、心理的な面でも適応性を持っている。そして、その適応した心理による行動によって、周囲に影響を与え、そして周囲を変化させ、その周囲からまた影響を受ける。
たとえば、強圧的な親に育てられたら、自分の希望を抑圧するようになってしまう。いわば心理的な適応が起こるわけ。いわば強迫的に人に合わせる「いい子」になってしまい、それによる周囲からの高評価によって、自分自身で望んで自分自身をさらに抑圧してしまう。周囲からの高評価がなければ、そのような進行はない。つまり「こうなれば→こうなる。」という単純な因果律では語れない。

あるいは、スパイラル的に進行する場合も多い。母親が精神的に落ち着いていれば、子供も精神的に落ち着き、それによって、育児のストレスも比較的少なくてすむことになりますが、母親がイライラすれば、子供もストレスを抱え、落ち着きがなくなり、それによって、母親がますますイライラして・・・とスパイラル進行。
そんな、周囲の状況と心理の動的な面を考慮する必要があるわけ。

そのような適応による動的な面は、純粋に心理的な面だけでなく、脳の器質的な面にもあるもの。
それこそ、産まれたすぐから地下牢に押し込められたら、脳は器質的にも発達しないわけ。
よくニュースで出てきますが、狼やカモシカに育てられた人間の子供なんて例がありますよね?そんな子供の脳は、死後解剖すると、「一般」の生活をした人間の脳とは違っているもの。
脳だって使うから成長する面があるわけです。新生児の脳は300g〜400g程度なんだから、その成長にあたっては、周囲の環境との動的な適応を踏まえたものになる。
だから、後になって脳の器質的な異常が発見されたと言っても、それが先天的なものか、周囲の環境からの適応によるものかは、明確に言えないわけ。

前にも書きましたが、動物実験によると、縦線ばかりの世界にいる猫は、横線を認識できないそう。横線を認識する脳の働きが、なくなってしまうわけ。環境が脳の器質的な問題を作るわけです。

実際に「アスペルガー症候群」とかで、脳の器質的な面がその原因として指摘されたりしている例もあるようですが、そのような症状の子供を持つ親の方と、実際にやり取りした経験から言わせていただくと・・・
「こんなやり取りばかりしていたら、ワタシだってアタマがヘンになるよ!」というもの。
そんな子供を持つ親の文章は、言葉はそれなりに並んでいても、何を言いたいのかについて、さっぱりわからない。このメールマガジンでよく使う表現だと「造花で作った見事なフラワーアレンジメント」状態。「レイアウトは整っているけど、だからと言って、結局は何が言いたいの?」そんな雰囲気。意味は繋がっていても、そこに意図がないわけ。その意図がさっぱりわからない。

この私の知的レヴェルでわからないんだから、子供はもっとわかりませんよ。それこそ「不思議の国のアリス」でのやり取りばかりしていたら、アタマがヘンになっちゃうでしょ?心理的にものすごいストレスですよ。一応は言葉が文法どおりに並んでいるので、子供にとってはなおのこと厄介。子供は「ボクが悪いのかな?」と自分で抱え込んでしまう。
そんなやり取りばかりだったら、脳の部位だって発達に異常をきたすのでは?

「脳の器質的な異常 → 心理的な異常」

そんな構図は、第3者には理解しやすいでしょうが、人の心理が持つ動的性質を考慮すれば、そんな単純には行かないわけ。心理も脳も、周囲の状況に適応してしまうわけ。
もちろん、器質的な面がまったくないというわけではないでしょう。しかし、器質的な観点からの理解は、とおりがよくても、適応という動的な面を合わせて考えると、単純にはいかないわけ。

それに、学術的に考察する心理は、存在するというか、周囲のものが認識できる心理。
しかし、存在しないというか、直接的に認識できない心理はどう観察し認識するの?
「子供を守ってあげたい。」という心理は、観察者にもそれなりに認識可能でしょう。
しかし、その気持ちの「なさ」は、どうやって観察者は認識するの?

それに心理というのは、数学でいうベクトルのようなもの。
方向があると同時に、強度もある。
子供を守って上げたいという心理だって、強度の違いが存在するでしょ?
100の強度と、0.1の強度では全然違いますよ。
しかし、そんなアナログな違いを抜きに、人の心理は扱えるの?

虐待の心理だと、「子供を守ってあげたい。」という心理と「子供をイジメたい。」という心理の方向の違いと言えるのかもしれませんが、ダメダメの問題だと「子供を守ってあげたい。」という方向性における強度の違いと言えるでしょう。その強度の違いに着目しないと、ダメダメの問題は見えてこないわけ。しかし、そんなアナログな違いに目をやると、どうしても観察者の主観的な判断が介在してしまい、科学的にはならないもの。
「子供を守ってあげたい。」という心理の、欠落や不足を、あるいは不十分さをどのように科学的に認識し、記述していくの?

しかし、まさにそんな観点にダメダメの理解はかかっているわけ。
客観性の枠を取り外さない限り、理解は難しい。

たとえば、子供を自殺させる親のキャラクターについての文章に対し、「どんな統計で・・・どれくらいのデーターで・・・どんな証拠で・・・」などと感情的に噛み付いている人がいましたが、そんなクレームを付けている人は、正式な統計がないと何も考えることはできないの?そもそも厚生労働省が発表した自殺の統計においては、残された遺書から、自殺理由を推測していますが、自殺の本当の理由なんて、自殺した当人にもわかっていないもの。遺書に正確に理由を書く必要もないでしょ?自殺に当たって「所轄官庁」と言える厚生労働省の許認可があるの?口頭試問でもあるの?口頭試問に合格したら、審査官がハンコをポンと押して「ヨシ!合格だ!キミは自殺してよし!」というシステムなら、そんな機関が発表した自殺の理由にも、それなりの根拠もあるでしょう。しかし、そうではないでしょ?客観的なデーターがないのなら、何も考えられないような人は、一生、そのような自殺問題について何も考えられませんよ。前にも書きましたが、その手の問題は客観性の元となる実験や観察ができない問題なんですからね。

大学合格に当たっての受験勉強について、合格者から聴取し統計を取った・・・そんなデーターだったら、価値があるでしょう。しかし、自殺者の自殺理由の統計なんて、意味はないものなんですね。

前にも書きましたが、一般の発達心理学は、一般の子供が、一般の親のもと、一般的に成長し、一般の大人になっていく・・・そんな過程を扱っています。もちろん、それは意味のある研究といえるのでしょうが、「どの箇所でコケると、その後の発達において、どんな悪影響がでるのか?」
それは、客観的な実験は不可能。
しかし、実験は不可能であっても、実際に起こっているのも確かでしょ?

学術的な視点で見えてくるのは、ノーマルな事例。学術的な手法に限定すると、見えなくなってしまうのがダメダメの問題。
ダメダメ家庭の問題を考えるにあたっては、科学的な視点から芸術的な視点へ・・・そんな視点の転換が必要になってくるのでは?

だから、科学的な客観性とは言えないでしょうが、芸術作品の方がある種の客観性につながるわけ。
当事者が「語ろうとしない」面を、あるいは、当人が語ることが出来ない心理を、文章などの第3者にも検証可能な手法で語っている。これについては、前回配信の文章で取り上げたカミュの「異邦人」などをお読みいただけると、実によくわかっていただけるでしょ?

あるいは、芸術の分野では、身近な子供を放っておいて、はるか彼方の困っている人へのサポートにいそしむ人たちを描いた作品が多くあります。
しかし、学術的にはその手の事例を考えたものはほとんどないのでは?
だって、学術的な研究をしている当人が、そんな面を持っているわけですしね。
学術的な分野では、観察者にとっての第3者の問題を検証していくわけですが、自分自身の問題を見出し、考えて、そして表現していくのは、芸術的な分野の仕事なんですよ。
学術的な手法だけだと、もっとも身近な問題が無視されてしまうことが発生しやすいわけ。

芸術作品とはいえないでしょうが、このメールマガジンの記述の正否は証明するのが難しいもの。このメールマガジンの記述の妥当性を検証するためには、「この事例については、この視点を取り入れると、理解しやすい。」という実践的な形での肯定形での証明とか、「否定する事実がない」という二重否定的な証明しかないでしょう。
しかし、人間の知を広げるためには、時にはそんな発想も必要なのでは?

「ないものをどのように見いだしていくのか?」
そんなことについては、客観的な方法なんて取れませんよ。
「正しさ」にこだわっているうちは、ダメダメの問題は何も見えてこないわけ。

(終了)
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発信後記

本文中にアスペルガー症候群について言及しておりますが、私としては、いわゆる差別的に考えているわけではありません。
その原因として、脳の器質的なものというよりも、反応の欠落した養育者の問題があるのでは?と申し上げているだけです。

その養育者が抑圧的で、主体的な反応が欠落すればするほど、逆に言うと、「人に合わせる」傾向を持ってしまい、まさに「ふ・つ・う」になってしまう。だからこそ、養育者としての、その問題点が目立たない。「人に合わせる」人間は、合わせる対象が大人だったら、とりあえず対応がとれますが、対象が子供だったら、どうしようもできないでしょ?対象が大人の場合以上に、その反応の欠落が顕著にでてしまうわけ。
だからこそ、そんな養育環境で育った子供は、自分の内面の世界に浸るしかない。
それは創造的な可能性に繋がる可能性もありますが、いわゆる社会性をもつことは難しい。

後になって、脳を解剖したら、器質的な異常が見いだされても、それは外界とのやり取り・・・というか、他者とのやり取りの機能を「捨てて」いるんだから、その面での脳の部位は発達しませんよ。
適応という面を考慮しなくては、人の心理の問題は、理解できないわけ。
R.10/12/1