トップページに戻る | 配信日分類の総目次に戻る | 「心理的ベース」についてのシリーズ目次へ |
カテゴリー分類の総目次に戻る | タイトル50音分類の総目次へ | |
カテゴリー | ダメダメ家庭が子供に与えない情報,スキル | |
配信日 | 09年7月14日 | |
タイトル | 会話の心理的ベース | |
ダメダメ家庭出身の人間は、他者というものを心理的には認識できていない・・・このことについては、現在、シリーズ的に取り上げております。 感覚的な認識レヴェルでは、「自分とは違う存在」というものを認識しても、あるいは、言語的なレヴェルでは理解していても、それが心理的実在感につながっていないわけ。 人間というものは、「心がこもったやり取り」の積み重ねによって、まさに相手の心を認識することができるわけでしょ?しかし、ダメダメ家庭の親は、子供からのやり取りには応じない。子供に対し「心」を与えないと、子供が「心」を認識し、理解するようにはなるわけがありませんよ。 だから、そんな環境で育った子供にしてみれば、自分の親とマネキンとの差は、心理的な面においては存在しないわけ。ただ、「あの存在は、自分ではない。」というだけ。 前にも書きましたが、他者というものが心理的に認識できていないわけだから、当然のこととして客観というものも存在しない。自分以外の多くの人間にも適用できる考え方・・・それが客観というものでしょ? しかし、心理的な意味での他者が存在しないんだから、他者という存在に依存する客観というものも、心理的には存在しなくなるのも当然でしょ? 他者というものが存在し、そして、その自分以外の存在でも通用する共通認識としての客観が存在することは、会話の成立における最低限の心理的なベースでしょ? しかし、ダメダメ家庭においては、その会話の基本ベースが存在していない。 たとえば、他者に対して何かを説明するというシチュエーションを考えて見ましょう。 自分とは違う他者に対して、客観的な手法に基づいて、自分の考えを伝える・・・ それが一般的に言う説明というもの。説明とは他者に対して行うものであって、自分自身に対して行うものではないでしょ?説明という以上は、自分と他者という2つの立場が存在していないと成立しない。 しかし、他者というものが存在せず、客観というものが存在しないわけだから、どうやって自分の考えを伝えるの? 現実的には伝えようがないでしょ? ただ、ダメダメ家庭においては、親は子供の意向などには全く配慮しないので、そんな環境に育った子供は、幸か不幸か自分の意向そのものを抑圧するようになってしまう。 何回も書きますが、ダメダメ家庭においては「この門より入るもの、希望を捨てよ!」となっている。 「希望を捨てている」んだから、伝えたい気持ちもないし、伝えたいことそれ自体もない。 会話をする必要性自体を喪失しているわけ。 それに加えて、ダメダメ家庭の親は、会話によって成立した約束なども平気に反故にすることは以前に配信しております。 「自分は子供を育てるという被害を背負わされた」と自己認識しているダメダメな親は、子供とのやり取りで、形の上では合意したことも、後になって平気で無視することになる。 親によって約束を反故にされた子供が、後になって親に対して文句を言っても、ダメダメな親は「いったい誰のためにこんな苦労をしていると思っているんだ?!」と逆切れするだけ。 だから、ダメダメ家庭においては、会話の必要性がないだけでなく、有用性もないわけです。そんな家庭での子供は、伝えたいことがあるわけでもないし、やり取りで決まったことにも意味はない。まさに「この人に対して特に言いたいこともないし・・・」「それに、この人には何を言ってもムダ!」「ヘタをすればメンドウなことになるだけ。」と思っている。何を言ってもムダな人に囲まれていて、当人自身にも特に言いたいこともない。それがダメダメ家庭の子供。 反応の消失したダメダメ家庭を、以前より、マネキンに囲まれているようなものと例示しておりますが、マネキンとの間で会話をするなんてヘンでしょ? 自分にとって都合が悪いマネキンがあったら、それを片付けるなり、壊して捨てればいいだけだし、そんな方法しかない。そんな認識が基本となっているんだから、家庭内暴力(=ドメスティック・ヴァイオレンス)も起こりますよ。 反応というものが消失してしまうと、会話というものが成立するための心理的なベースが不在だったり欠損したままになっている。会話の基本的な枠組みというか土俵が存在していないと、意思伝達の個別の方法論にも意味はなく、だから、そのような方法論を実際に持っていないし、意思伝達が実際にできない。 その手の人は、コミュニケーション能力の欠如から来るトラブルを、「人に合わせる」ことで乗り切っている。ヘンな話になりますが、動くマネキンに囲まれている状況の中で、そのマネキンの動きに合わせることで、そんな状況を生きていると言えるようなもの。 相手の意向を踏まえた上での反応を受けられない状態の中での子供は、まさにマネキンの集団の中で、認識能力が「多少」あるマネキンのような状態。無作為に動くマネキンの中を、周囲に目を配って、クラッシュしないように必死になっている。 反応について書いておりますが、一見は反応があるように見えても、その反応が発したアクションに対して的確に対応したパターンの反応ばかりではありません。片一方が反応しても、もう一方が反応していないケースもある。 形の上では、やり取りが成立しているように見えても、中身を踏まえたやり取りになってしない場合も多い。 以前にも、そんなやり取りの例を提示しておりますが、ここでも、そんな不条理な「やり取り」の例を出してしましょう。ちなみに『2人』でのやり取りです。わかりやすくするために、AさんとBさんの間でのやり取りとしましょう。 A「こんにちは。どう?ゲンキ?」 B『いやぁ〜、最近は貧血気味で・・・』 A「最近は、寒くなってきたねぇ・・・」 B『まあ、ワタシは寒がりだから、ツライよ。』 A「そういえば、一週間後に、○○という行事があるよね?関心ある?」 B『えっ?そうなの?どこで?詳しく教えてよ。』 A「ボクはちょっと前にこんな仕事をしたよ!」 B「あっ・・・そう?」 上記の「やり取りの流れ」においては、一方は相手の発言に対する反応の意思を持っていない。 言葉は流れていても、やり取りは流れていないでしょ? いわば、会話という「形」を踏もうとしているだけ。逆に言うと、形にこだわっている分、もう一方にしてみれば不快になってしまう。 上記のやり取りは、まさにルイス・キャロルのアリスものに出て来るようなやり取りでしょ?フィクションの領域なら笑って済む話ですが、ダメダメ家庭の領域においては、現実に存在しているんですよ。イヤ、マジで・・・ 上記のやり取りの一方の人は、他者というものを心理的に認識していない。だから、言語の聴覚情報には反応しても、言語の意味には反応できていない。別の言い方をすると、言葉の意図には対応していない。だから反応がおかしなものになってしまう。 あるいは、ズレた反応のケースもあるでしょ? たとえば、ある人が言う。 「ちょっと・・・アナタの目の前の醤油を取ってよ!」 食事中の他愛のない依頼ですよね? そんな依頼に対し、「ハイ!」と醤油を渡したら、的確な反応と言えるでしょう。 あるいは、「自分でやりな!」という拒否の言葉でも、意味的には的確な反応のパターンといえます。だってその対応は、要望の意図を踏まえた反応なんですからね。同意でも拒否でも、意図には対応しているでしょ? しかし、的確な反応からズレた場合には色々なパターンがあるもの。 それこそ、まったく無視のパターンもあるでしょうし、視線だけ反応しても行動はしないというパターンもありますよね? あるいは、醤油ではなくソースを渡すケースもあるかも? あるいは、お塩とか砂糖を渡す場合もある。 「分かった。」と言葉の上では応じても、何もしない・・・そんなパターンもある。 あるいは、言葉で「ウルサイっ!」と一喝する場合も、反応ではあっても、それが不適切な反応といえるでしょう。物理的な反応はあっても、意味的に照応していないわけ。「自分でやりな!」という拒否の反応なら、相手の意図には対応している。しかし「ウルサイ!」という反応なら、意図を受けたものなのかは分からないでしょ?むしろ聴覚レヴェルでの反応といえるでしょ? 反応というものを考えるにあたって、依頼に対するタイミング的な反応だけでなく、意味的な対応性という視点も存在するわけです。 前回配信の文章で、ダメダメ家庭の問題を考えるのは、学術的なスタンスでは難しい旨の文章を書きましたが、「お醤油を取って。」という依頼に対し、スグに醤油を渡すという「想定どおりの」反応を分析することは、客観的なり学術的に可能でしょう。「対応できた。」でオシマイ。より詳細に調べると、反応時間というファクターも加えることができるでしょう。 しかし、そのような的確な反応ではなかったケースでは、その意味を、観察者の判断なしに理解することは不可能でしょ? 「どうして、全く無視したのか?」 「どうして、視線だけが反応したのか?その視線の意味は?」 「どうして、醤油ではなくソースを渡したのか?」 それは、観察者の判断が必要になってきますよ。だから主観が入ってしまう。 だから、純粋に科学的には進められない。 それに反応ということだったら、別のファクターも入ってくるでしょ? ニッコリ笑って、「ハイ!これ。」と醤油を渡すケースと、いかにも渋々という顔つきで醤油を渡すケースでは、その反応の意味が違ってくる。 その反応の違いこそが、そしてその違いを認識することで「どのようにコミュニケートすればいいのか?」という方法論につながるわけでしょ? ダメダメ家庭の親は、いつも不機嫌で、子供の意向は無視。 だからこそ、「どのようにコミュニケートすればいいのか?」という点については習得できないわけです。 どのようにコミュニケートしても、まったくの無視だったり、いつも不機嫌なんだから、子供がどんなスタイルでコミュニケートしたか、なんて問題外になってしまう。 醤油の事例だと、「ハイ!」と醤油を渡すパターンなり、「自分でやりな!」という拒否の反応があれば、次回の要望の際に反映されることになるでしょ?それによってコミュニケーションの技術が進歩することになる。しかし、無反応だったら、どうしようもないでしょ? 会話というものは、相手方の反応に依存するもの。 だってコチラから何かを言って、それに対して、相手方が反応して、それにコチラ側が反応する・・・会話とは、そんなことの積み重ねでしょ? しかし、反応がない環境で育ったので、反応へのセンシビリティがないんですね。 それこそ、そんな人はメールでのやりとりでも、実に珍妙になってしまう。 反応へのセンシビリティがない状態なので、単にコチラ側の要望なり意向を無視するというレヴェルを超えて、こちらが返事を出す前に、次々とメールが来たりするもの。 一般的には、相手からのメールがあって、それに対して返事を出して、その返事に対して返事を出して・・・と続くものでしょ? しかし、そうはならないんですね。 こちら側が返事を出す前に、次から次にメールが来たりする。それに、来るメールも、コチラ側が以前に出したメールの内容を踏まえたものでもなく、一方的な内容。 こちらの反応を見て、それを踏まえ、対処するという発想がないわけです。 長い文章になるので、項目毎に分割してメールを出しているのなら、そしてそれを最初に言ってあったのなら、受け取る側も分かりますよ。 しかし、そうじゃないんですね。相手への配慮もなく、ただ、一方的にメールを出したりする。 そんな人が、「ワタシは人の気持ちが分からなくて困っています。」とおっしゃったりするもの。そりゃ、相手の意向をそもそも聞く気がないんだから、人の気持ちが分からないのも当然でしょ? しかし、反応のない環境で育ったので、反応へのセンシビリティも持っていない。相手からの反応に対処できず、結局は一方通行になってしまう。 会話というものを受け入れ処理する心理的なベースがなく、ある種の枠組みができていないので、後から色々な情報が入ってきても、それを上手に処理できない。 それこそ、楽しい音楽を聴いて、それをメモしようとして、手元に五線譜があったら、それをメモするのに容易ですが、まっさらな紙だったら、それをメモするのにも苦労する・・・ 枠組みとはそのようなもの。 あるいは、場所を記憶するにも、座標のようなものが出来ていれば、認識がしやすい。東経○○、北緯△△と記述できる。あるいは、もっと身近なスタイルで「○丁目、△番地」でもいいわけ。そんな枠組みができていれば、情報のインプットもスムーズでしょ?たとえば、そのような記述するシステムがなければ、購読者さんの住所をどのように表記するの?できないでしょ?表記できないどころか認識できないようになってしまうわけ。 枠組みが出来ていれば、枠組みに基づいて得られた新たな情報によって、自分の枠組みがより充実し、さらに情報をインプットしやすくなる。 会話の枠組みだって、自分という一点と、他者というもう一点があれば、それで座標を作ることが可能でしょ?そして、また別の他者がいれば、その座標はもっと充実したものになる。そんな座標があるからこそ、新たな会話の言葉も、以前からの枠組みを踏まえ受け入れることができることになる。 ところがダメダメ家庭の人間は、自分という1点しかないし、ヘタをすれば、その自分という1点すら虚ろでぼやけている。これでは、会話という場において、言葉が飛び交っていても、まさに音響情報が断片化され飛び交っているだけになってしまい、枠組みの中に収まるという事態になることはない。 意思伝達時だけでなく、相手からの意思を聞く場合にも困難に直面してしまう。 そもそも他者という存在が心理的に認識できないんだから、他者の気持ちという概念自体がわからない。音響情報としての言葉は受け入れることができても、実体感のある人間が、意図を持って、意味ある言葉を発した・・・そんな流れが心理的に理解できない。だから人の話の聞き方が分からない。伝える際の心理的ベースがないだけでなく、話の聞き方の心理的ベースもないわけです。 ダメダメ家庭出身者は、他者という存在を、心理的に認識できていないので、会話の心理的ベースがない。それに会話のベースだけでなく、一般常識も違っている。 ダメダメな親の考え方や常識なんて、一般社会では噴飯もの。 しかし、そんな家庭で育ってしまったんだから、出身者としては、そんな失笑モノの考え方なり知識が身についている。おまけに他者というものを認識できていないわけだから、他者が受け入れやすい物言いもわからない。 ダメダメ家庭の出身者は、 他者というものを心理的に認識できない。 客観というものがわからない。 会話の必要性を感じない。 会話の有用性を感じない。 相手の気持ちが分からない。 相手の話の聞き方が分からない。 一般常識がない。 そのような、会話を成立させる基本ベースが存在していない。たとえ存在していても、大きな欠損があったりするもの。 それを自覚すれば、「ぎこちなくとも」別の方法を使うという手もあるわけですが、自己逃避であるがゆえに、その自覚から遠ざかり、結局は、自動人形のように「人に合わせる」だけでやり過ごすようになってしまう。 つまり他者という統一された存在を認識するよりも、あるいは、やり取りの相手の人格全体に注目するよりも、相手の映像を見て、相手が発する音響を聴いて、それに合わせるようになる。かと言って、他者を心理的に認識していないことは変わらない。 まるでテレビに映った人間の姿をサル真似しているようなもの。 いささか現代芸術的なシーンとも言えますが、それがダメダメ家庭出身者の現実。 しかし、反応不全の環境で育ったがゆえに、そんな行動スタイルが身についてしまうことになる。 会話の心理的ベースがないと、人付き合いの心理的ベースができないのは当然のこと。 やり取りにおいて、ちょっと質問されたり、反論されたりするだけで、相手の意図を理解できずに、冷静さを失い逆切れする・・・そんな人って、実際にいるでしょ?得意分野だったら、何とか対処できても、ちょっとでも「型」を外れると途端にパニックになってしまうような人をご存じの方もいらっしゃるのでは? そんな人は、パニックを回避するために、自分の「型」が通用する分野から出ようとはしない。その得意分野とは、往々にして、被害を語れる領域。だから、いつだって被害ばかりを語るようになってしまう。そんなやり取りの体験の積み重ねがどんな結果になるの? いい会話体験は、次なるよき会話体験のベースとなるでしょ? だからスパイラル的によきものが積み重なり、会話の枠組みが強固になっていき、会話の相手についての見通しも付けられるようになる。だから、実際に、よき会話の相手を選ぶことができる。 しかし、ダメダメ家庭においては、もっとも基本的な会話体験がない。 会話というものは、何も言語によるものばかりではないでしょ? 子供が微笑み、親が微笑み返す・・・それも会話ですよ。 しかし、ダメダメ家庭の子供は、その時点の会話体験からして喪失しているわけです。そんな状態の上に、いくら立派な言語体系を積み重ねても、まさに砂上の楼閣ですよ。 会話の心理的ベースがない人と、話をしても、面白くないだけでなく、「あの人・・・何を言っているの?」と怪訝な思いをするだけ。まさに「不思議の国のアリス」の中のシーンそのもの。 会話の心理的ベースができていないので、そんな人は、会話不要の状態に逃げ込んでしまう。命令と服従の関係を構築し、コミュニケーション不要の状態を作ろうとする。 別の言い方をすると「支配・被支配の構図」を作ろうとする。反応に対するセンシビリティがないので、相手から反論されると対応できない。だから相手が反論して来ない状況を作ろうとする。 それこそ、ボランティアの連中なんて、まさにそんなパターンでしょ? 会話不全の人間に、わざわざ寄って行って、支配・被支配の関係を構築する。 しかし、心理的な意味での他者というものを認識していないので、その援助とやらも、いわばマニュアルに基づいたものしかしないし、相手の心に対応したものにはならない。 だって、他者を心理的に認識できないんだから、本質的な意味で、他者への思いやりなんてありませんよ。 何度も書きますが、心理的ベースというものは、当人の努力でどうにかなるものではない。そんな心理的ベースが欠損した人間は、狼によって育てられた子供と、程度問題は別にして、同じなんですね。というか、健常な狼は、それなりに反応があるけど、マネキンは反応がない。そんな無反応の状況で育った子供は、常に白昼夢状態にいる。 あらゆる情報も、枠組みがあるから受け入れることができるのであって、その枠組みの形成は、産まれたスグのまっさらな状態の時。 本来ならそれを自覚するしかないわけですが、自分自身から逃避しているダメダメ人間は、ボランティアなどをやって支配・被支配の関係性に逃げ込んだり、砂の上に楼閣を建てようと悪戦苦闘。 しかし、結論は見えているでしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 本日から、土曜日までの5回で、様々な心理的ベースについての文章を配信したします。 以前にも書きましたが、パソコンでいう基本ソフトに近い部分です。 その土壌の面がユルユルなのに、大伽藍を打ち立てようとしても無理がある。 そういえば、昔はWindows ME なんて基本ソフトがあって、動作が不安定で、大変に不評でした。 そんな不安定な基本ソフトに、いっぱいのアプリケーションソフトをインストールしたら、スグにフリーズしたものですよ。 パソコンを安定的に動かすには、その基本ソフトの安定性も重要になってくるわけ。 |
||
R.10/12/25 |