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カテゴリー | ダメダメ家庭が子供に与えない情報,スキル | |
配信日 | 09年7月16日 | |
タイトル | 思いやりの心理的ベース | |
ダメダメ家庭の人間は、「他者というものを心理的に認識できていない」ことは、現在集中的に取り上げております。 何回も書きますが、他者というものは、自分とは別の存在であって、かつ、自分とは、やり取りが可能・・・そのような存在でしょ? そもそも、ダメダメ家庭においては、中身のある「やり取り」が成立していない。 子供が親に話しかけても、親は知らん顔。そんな環境に育ってしまうと、人間とマネキンとの差が、実感レヴェルで認識できなくなくなってしまう。 人間の形という視覚情報は認識できて、かつ、人間の声という音響情報も認識できる。しかし、その情報の大元といえる人間の存在を実感できていないわけです。 視覚情報や音響情報の発し手としての統合された存在を、別の言い方をすると、現状を認識し、判断する統合された実体としての人間を、心理的に認識することが不可能になっている。様々な感覚情報が断片化されたまま飛び交い、それが心理的に定着することはない。 それは当人の努力で何とかなるものではありませんよ。産まれたばかりの新生児に対して、自分で認識能力を向上させるような努力を要求するのは無理があるでしょ?新生児という存在は、養育者とのやり取りの積み重ねを通じて、他者を認識できるようになるもの。 以前より書いていますが、抑圧的な人間は、人間の姿をして、人間の声を発しても、そこに反応がなくなっている。たとえ反応があったとしても、いわば反応者の主体性を踏まえた統一感がない。その場その場で「て・き・と・う」に、物理的に反応しているだけ。視覚情報や音響情報などの感覚情報を発していても、それらを統合する人格というものを持ち合わせていない。 受けた情報を踏まえ、それを自分なりに判断し、相手の特徴を踏まえた形で、発信する・・・それが人間の反応というものでしょ?そんな反応の積み重ねが会話というものでしょ?マネキンには、そんな芸当はできないわけですが、ダメダメ家庭の親は、マネキンと同じように、そんな反応はないわけです。 ダメダメ家庭の子供にとっては、家庭というものは、マネキンに囲まれているようなもの。何回も書いていますが、長じた後になっても、そんな「世界観」を元に行動することになる。そのことは当人が望んだわけではないので、どうしようもないわけです。 マネキンと人間との差が、心理的に実感できないので、いわば他者への対応と言っても、マネキンを扱うのと似た様相を持ってしまう。 この例として、ダメダメ家庭の人間は信頼というものの心理的ベースをもっていないことは前回の文章で書きました。好意というものはなんとか理解できても、信頼というものは理解できない。信頼とは人間に対して持つ感情でしょ? それこそ古代ギリシャのお話じゃないけど、マネキンに好意を持つ人はいるかもしれません。しかし、マネキンとの間で会話が成立すると思っている人はいないでしょ? あるいは、マネキンを信頼している人はいないでしょ? 会話や信頼は、マネキンが人間にならないと無理というもの。だからこそ、ピグマリオンはガラテアを人間にしてほしがったわけでしょ?好意どまりで十分なら、マネキンのままで十分ですよ。マネキンだったらご飯もいらないし、老いないし、文句も言わない。 しかし、マネキンに対して思いやりを持つ人はいないもの。だから本当の意味では愛情を持ちようがない。もちろん、道具として大切に扱うことは要求されたりする。 しかし、大切に扱うことと、思いやりを持つことは違っているでしょ?思いやりというのは、相手の「心」に向けたものですよね?心のこもったやり取りは、マネキンを相手にしては無理ですよ。 そもそも他者というものを心理的に認識できていない、つまり他者の気持ちがわからないわけだから、思いやりも何もありませんよ。別の言い方をすると、思いやりとは、相手の心に対する肯定的なセンシビリティと言えるでしょ?相手の気持ちがよくなるように、そんな基準を元に相手に対して行動する・・・それが思いやりの姿でしょ? ダメダメ家庭の人間は、「思いやり」の、心理的なベースができていないわけ。言葉では「思いやり」などと言ったりして、それを国語辞典的には説明できても、それを心理的な実感を伴うものとしては理解できていない。 思いやりがなくても、人に合わせることができるのが、その手の人間。 というか、他者というものが心理的に認識できていないがゆえに、対象とする「存在」が発する視覚情報なり音響情報には注意を払うことになり、そして、必死でそれに合わせることになる。 思いやりの精神がなくても、「思いやり」の精神から来るとされる行動や発言を、視覚的や聴覚的な次元で真似たりする。 思いやりの行動を真似るだけではありません。 それこそ恋愛でも同じ。 他者というものを、心理的に認識していないんだから、本来は、恋愛なんてものとは無縁にならないとおかしいでしょ? だって、恋愛とは他者が存在して初めて成立するものですよ。それに、恋愛とは、極めて心理的な活動でしょ? 他者というものを心理的に認識し、それに対して好意を持ち、思いやりを持つ・・・恋愛とはそんな面が不可欠でしょ?自分ひとりでは恋愛なんてできませんし、無理にする必要もないでしょ? しかし、他者というものが心理的に存在しないんだから、まさに、教科書的な恋愛行動なり恋愛発言などの視覚、聴覚情報を真似る形によって、自分の恋愛としてしまう。 マニュアル化された、そして、規格化された「型」や「情報」にすがってしまうわけ。 自分の恋愛成就の方法論として、その手の「恋愛マニュアル」を参考にするというのなら、まあ、よくある話。しかし、抑圧的な人間は違うわけ。方法論としての恋愛マニュアルではなく、自分自身の活動の目的としての恋愛マニュアルとなっている。 恋愛マニュアルを実現するために、記述された恋愛のスタイルを達成するために、恋愛活動に取り組み、その後になって、「絵に描いたような家庭」の姿を達成するために結婚することになる。 まさに、「この本に書いてあるとおりに行動すべきなんだ!」「それがふつうの姿なんだ!」「我々は、この本のとおりに、恋愛活動を行う責務がある。」 そのように考えるわけです。「この本に書いてある方法を参考にして、○○さんをゲットする!」のではなく、本に書いてあるようにしなければならないから、その登場人物としての○○さんが必要になる・・・むしろそんな流れになっている。 まさに「ふつう」の境地。 そして、「ふつうになるべきなんだ!」と自分にプレッシャーをかけている。 だから、それと相反する発想を受け入れようとはしない。 そもそも、思いやりどころか、「誰かと一緒にいて楽しい」という原体験がない。 ダメダメ家庭においては感情そのものを抑圧している。楽しいという感情は不快という感情と表裏一体。だからこそ、楽しいという感情をいったん持ってしまうと、ダメダメ家庭の中では不快な感情に直面し続けることになってしまう。 だからこそ、感情そのものを抑圧するようになってしまう。誰かと一緒にいて楽しいという原体験がないまま、恋愛したり結婚しようとする。まさに「ふつう」を完遂するための義務感のようなもの。 本来は、他者という存在を心理的に認識できるからこそ、恋愛があるのであって、他者が存在しなくては、恋愛も何もありませんよ。何回も書きますが「他者」という存在は、やりとりが可能であって、その反応が完全に予想できるものではない存在。完全に予想できれば他者ではなく、自分自身でしょ?反応において、予想からの微妙なズレがあるうちは、新鮮さと認識できる。相手の反応が完全に予想できてしまうと、まさに倦怠期になってしまう。そうなると、家の中の置物と変わらなくなってしまう。しかし、そんな倦怠期になる前は、それなりに恋愛もあったんでしょ? しかし、そもそも反応がない人間の場合には、恋愛の形はあっても、恋愛の心理がないわけです。最初から置物というか、まさにマネキン状態なんですね。いわば出会った時から倦怠期。逆に言うと、そんな置物とかマネキンにフィットした人間と一緒になろうとする。 何回も書いておりますが、他者というものを心理的に認識できない人間は、会話というものの心理的なベースがない。言葉が飛び交っていても、中身を踏まえたやり取りにはなっていない。そんな原体験があるから、会話の心理的なベースができないまま。 そして、会話の心理的ベースがないのと同じように、信頼というものの心理的なベースもない。相手に対し要望すれば対処してくれるという感覚というか枠組みを持っていない。 会話とも信頼とも無縁なんだから、本質的な意味で人に対して好意を持つこともないし、思いやりなど持ちようがない。 逆に言うと、だからこそ、視覚情報や聴覚情報に頼らざるを得なくなる。 必死で「人に合わせ」ざるを得なくなる。 自分の感情を抑圧し、一緒にいて楽しいという原体験もなく、思いやりの心理的なベースを持っていない人間が、「ふつう」の人のする行動だから・・・と、恋愛活動し、結婚する・・・というか、その「形」を取ろうとする。 その結果がどうなるのか? そんなことは誰でもわかることでしょ? そもそも、そんな人と結婚まで行ってしまうような人も、やっぱり同類以外にはありえない。 信頼の心理的なベースもないし、会話の心理的なベースもない。 視覚情報や聴覚情報を頼りに、人に合わせているだけ。 まあ、そんなダメダメなカップルも、別の言い方をすれば「割れ鍋に綴じ蓋」と言えるでしょう。 しかし、現実的には相互適応に障害をきたし破局する。 そんなパターンを生みやすい例については、前回の文章で書いております。 カップルだけだったら、離婚すればいいだけですが、まさに「人に合わせて」「マニュアルに基づいて」「それが、ふつうだから」と子供を作ってしまう。 会話の心理的なベースがなく、信頼の心理的なベースもなく、そして思いやりの心理的なベースもないカップルが、親となってしまったら、子供とどのように接するの? トラブルになるのは、自明でしょ? しかし、ダメダメな抑圧カップルの方は、現状認識や思考を抑圧し、まさにマニュアルどおりに行動し、「ワタシたちは、ふつうの家族だ。」と確信しているわけだから、「悪いのは全部子供のせいだ!」と認定されてしまう。そして「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」と自分たちで嘆くことに。 そんな状況で育った子供はどうなるの?思いやりを持てるようになるの? 結局は、振り出しに戻るという、いつものお約束となるだけ。 先日取り上げたカミュの「異邦人」のような状況が、シジフォス的に繰り返されるだけ。 思いやりというのは、会話や信頼の意味を心理的な次元まで認識できてこその感情であって、それは抑圧的な人間には、本質的には不可能なこと。逆に言うと、会話や信頼の意識が欠如した人は、思いやりのない人でしょ? その大元の原因は、共通しているわけです。 このような思いやりというか、情緒面でのやり取りについて、サーニ(Saarni)という学者が「情緒的コンピテンス」という考えを提示しています。それは、以下のようなもの。 1. 自分の多様な情緒状態への気づき 2. 状況や表情に基づいて、他者の情緒を判断する能力 3. 自分の文化に適する語彙や言い方で、自分の情緒を表現する能力 4. 他者の情緒経験に共感したり感情移入する能力 5. 自分も他者も、内的な情緒状態と表出された情緒状態とが必ずしも一致しないことを理解する能力 6. 自己調整して、自分の嫌悪や苦しみの情緒に適応的に対処する能力 7. 人間関係は、その関係内でどのように情緒がやり取りされるかによって、大部分が決定されるということへの気づき 8. 自分の理論に基づいて情緒を経験する(自分が感じたいように感じる)という、情緒に対する自己効力感を発揮できる能力 これらは、まさに乳児の段階で養育者とのやり取りの中から形成されるわけです。 そんな「情緒的コンピテンス」と呼ぶものがあるからこそ、他者と思いやりのあるやり取りができるわけでしょ? 逆に言えば、上記の能力がなければ、他者とのやり取りなんて、無理ですよ。 そうなんですが、上記の8項目を読まれた方は、「うわぁ〜、ツボだなぁ〜」と思われた方も多いでしょう。このメールマガジンで記述しておりますダメダメ家庭出身者は、もうこの段階でコケているわけ。 知的な面なり肉体的な面は、発達していても、心理的な面は乳児のまま。 だって、乳児の段階で、養育者とのやり取りが終了してしまっているんですからね。そんな状態だからこそ、思いやりの心理的ベースや、思いやりの枠組みが形成されていないわけです。 しかし、人に合わせる技術は発達しているので、恋愛マニュアルならぬ、「思いやりマニュアル」のように定型化された「思いやり」行為をすることもあったりする。 このメールマガジンで頻繁に言及しておりますボランティアの連中です。 彼らは、まさにマニュアル化された定型的な「思いやり」を売りにするでしょ?本当の意味で他者というものを認識していないんだから、そんな人は型から外れることは絶対にしないもの。相手方の心がわかっているわけではないから、自立していない弱い立場の人間に近寄っていくことになる。相手から反論されるのが怖いわけ。というか、反応のない世界で育ったわけだから、相手から反応されると恐怖してしまう。問答無用が通じる状況でないと怖い。 そして支配・被支配の構図を作ろうとする。そんな構図が簡単に作れる相手を日頃から探している。往々にして、そんな対象者として選定されるのは、やたら被害を主張する人。 そんな被害を主張する人の元に寄っていって、「まあ、なんてお気の毒な!」と言いながら施しをすれば、支配・被支配の関係は簡単に構築できるでしょ? その手の人は、本当の意味で思いやりがある人ではないので、その被害が語られないと対応できない。だからやたら被害を語る人に吸い寄せられ、本当に困っていて、自分の被害を主張することすらできないような弱者は無視するもの。 その手の人は、まさにマニュアルを完遂するのがミッションであって、相手方を幸福にするのはミッションではないわけ。そんな人にとって、心理的に実在性を認識できるのは、マニュアルの文言であって、心を持った相手方ではない。 そんな点に着目すると、その手のボランティアの行動もよく理解できるでしょ? ボランティアの連中は、被害者というレッテルというか肩書きには反応することはできても、「困っている」「悲しんでいる」という心情は認識することができない。 恋愛を成就するために恋愛マニュアルを参考にするのではなく、恋愛マニュアルを実現するために、恋愛活動に取り組む発想は、別の例だと、憲法を生かすために、生きる・・・なんてことを真顔で言っている狂信的な憲法主義者の発想とも共通しています。 現実から逃避して、マニュアルだけが頼りになっている状態は、抑圧的な人間にしてみれば、ポピュラーなんですね。 そんな人は、恋愛だけでなく、友達付き合いだって、マニュアル化されてしまう。 友達付き合いのマニュアルを必死で達成しようとするわけ。以前にも書きましたが、そんな人は用もないのに、「アナタに会いたい!」などと言い出したりするもの。かと言って、実際に会っても、話をすることもない。だから、相手から怒られたりする。 そんな人は、友達付き合いという形にこだわっているのであって、相手の心は眼中に入っていないわけです。 まさに「絵に描いたようなすばらしい家庭」を作ろうとするダメダメな親が、子供に対して、「ふつうの子供になれ!」と命令し、「ふつうの家庭」の姿にまとめあげるために、自分の子供の心については、関心の眼中から外れてしまうようなもの。 マニュアルが絵であろうと、文章であろうと、現実の人間よりも、規範が重視されてしまう発想は同じなんですね。 こんなパターンだと、以前に取り上げたエーリッヒ・フロムが指摘しているマルティン・ルターもその典型といえます。キリスト教のマニュアルといえる聖書の文言を「聖書に返れ!」と絶対視する。しかし、反応というか、反乱を起こした農民を、領主が虐殺することは支持する。彼は思いやりの心理的ベースがない人なんですね。 今まで、そんな人を見て怪訝な思いを抱かれる方もいらっしゃったでしょうが、「他者というものを心理的に認識していない」。それゆえ「思いやりの心理的ベースがない」そんなことをアタマに入れると、教条的なマニュアル至上主義も理解できるようになるでしょ? 彼らは憲法の条文や、聖書の記述は読めても、他者の感情はまったく読めないわけです。 だからマニュアルにすがってしまうんですね。 前記のサーニが提唱する「情緒的コンピテンス」が欠如しているのは、当人としてはどうしようもない。何度も書きますが、新生児の頃からの養育者とのやり取りの積み重ねによって、得られるものですからね。 ただ、この「情緒的コンピテンス」は、芸術作品を理解するのにも、非常に有効です。 だからこそ、思いやりの心理的ベースが欠如した人間は、いきなり現実の人間とのやり取りで、「形」を整えようとするのではなく、芸術作品を考えることによって、情緒の枠組み、つまり思いやりの心理的ベースについても、不完全ながら、作っていくことが現実的な対処なのでは? (終了) ************************************************** 発信後記 本文中で引用しておりますサーニの「情緒的コンピテンス」の文言は、以前にも書きましたが、北大路出版の「生涯発達心理学」という書籍からとっております。 他の本でも中身的にそれほど大差はないでしょうが、ダメダメ家庭に関連して引用しやすい文言が多数載っていたので、その本から抜き出しました。 以前にも書きましたが、一般の発達心理学は、「一般的な環境の子供が、一般的に成長する過程を考える心理学」であって、ダメダメ家庭の心理を考えるに際しては、直接的には使えない。 ただ、そこでの用語は、便利なものもあったりします。次回配信の文章においても、その分野の用語を使います。 |
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R10/12/25 |