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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない情報,スキル
配信日 09年7月17日
タイトル 認識の心理的ベース
このメールマガジンでは、現在集中的に、いわば「心理的なベース」というか、枠組みの問題を取り上げております。
ベースがあるからこそ、その上に、建物をうち建てることができる。
それに枠組みがあるからこそ、新たなものを認識し受け入れることができる。
それこそ、その枠組みについて、このメールマガジンで、「座標軸」などと言ったこともあります。

座標軸があるからこそ、いわばその位置を記述できるわけでしょ?
地理的な場所だったら、北緯○○、東経△△・・・そのように記述できる。そのように記述できるからこそ、人は認識できることになる。
もちろん、座標軸のパターンは人それぞれでしょう。
北緯○○、東経△△のような碁盤目のようなパターンもあれば、右斜め30度に5km先・・・そんな極座標を使う場合もあるでしょう。海上における船の航海時には、そんな座標による記述なのでは?

心理的ベースと書いたり、枠組みと書いたり、記述方法と書いたり、あるいは座標軸と書いたりしておりますが、その考え方は基本的に同じです。認識する際には、その心理的な枠組みの中に収まることになる。その枠組みがないと、断片化された感覚情報が心の中を通り過ぎるだけになってしまう。枠組みがあるからこそ、その枠組みの一部として収まり、そのまま心の中に定着することになる。だから、同じ体験をしても、受け入れる枠組みによって受け取り方が違うことになる。

たとえば、新しい風景を見て強い印象を受けたような場合には、その後に、五線譜を渡されれば、作曲をし、原稿用紙を渡されれば、文章をまとめ、キャンパスを渡されれば、絵を描く・・・そんなことを考えるもの。そんな発想が、逆に、その風景の「見方」を規定することになる。
「どんな音楽がフィットするのかなぁ・・・」
「どんな方向から見たら、この風景がキレイに見えるのかな?」
同じ風景を見ても、そんな違いが出てくることになるでしょ?

枠組みを背景とすることによって、単なる心象イメージだったものが、音楽なり文章なり絵画の要素として、心理的に見直すことになる。そして、同じ風景を受け取るに当たっても、その枠組みによって、違いがあるわけです。
前にも書きましたが、そんな枠組みや座標軸があるからこそ、認識もできるわけですし、他者に対して伝達もできることになる。
物事を認識するに当たっても、そんな記述方法の枠組みを形成し、その上で、個々の事象を認識し、記述していくことになるでしょ?そして、その座標のシステムは必ずしも、すべての人に共通というものではないわけです。

いつも船に乗っている船員さんだったら、地上においても、極座標で言われた方がイメージしやすいのでは?あるいは、地上においても、東京だったら、環状7号線とか8号線など、周回している道路もある。だから極座標的な形で住所を示すこともできる。
しかし、京都のような碁盤目のような道路だったら、いわばX方向、Y方向と言った座標系の方がはるかに便利でしょ?

そんな座標軸の体系ができたら、逆に言うと、それからちょっと離れた場所についても、記述できるようになる。それこそ、☆☆大通りを北方向に2km先・・・そんな形で記述できるでしょ?

そして、そんな座標システムは、いったん形成されてしまったら、後になって修正は効かないもの。京都の住所表記をパリや東京のような極座標的にしようとしても、もう、まっ更にしないと無理ですよ。新たな建物を設置する場合には、「どの地点にそれを置くのがいいか?」そのような、位置についての個別の議論はあっても、それを記述するシステム自体は、いったん形成されてしまったら、修正は効かないわけ。

パソコンにおけるデーターを入力する際にも、エクセルなどで書式ができあがっていれば、その枠にデーターを入力するだけ。そして、そんな書式に入力すれば、後になってそのデーターを取り出すのも容易だし、そのデーターに基づいて、色々と検討するのも簡単でしょ?しかし、ランダムにデキスト形式のファイルに数値を入力しても、後になって取り出せませんし、後になって加工もできないでしょ?

エクセルという枠組みができあがっているから、入力も、後での処理も容易になるのであって、枠組みがない状態だったら、データーはすべて素通りになってしまうだけ。
そのエクセルの書式の上手さとかのテクニカルな問題はあるでしょうし、あるいは、別の表計算ソフトを使う場合もあるでしょう。しかし、書式があるからこそ、入力も、加工もできるということは、理解できるでしょ?人間の認識も、同じなんですね。

あるいは、枠組みとは、別の言い方をするとパソコンにおける基本ソフト(オペレーション・システム OS)のようなもの。マックのPCにWindows用のソフトを走らせようとしても無理でしょ?Windowsで動くソフトを使うためには、最初からWindowsをインストールしなおさないと無理。
ソフトは、その枠組みの上で動くわけ。

枠組みの不全とは、パソコンにおけるウィルスとかバグのようなものではなく、もっと根本的なもの。それはまっ更な段階で形成されるのであって、いったん色々な情報を入れてしまったら、修正したり、もう形成し直すのは無理なもの。
パソコンを使用するにあたっても、一般的にはOSは意識しない。ワードやエクセルなどのアプリケーションプログラムを意識するだけ。だからパソコンでトラブルになると、アプリケーションプログラムか、それともハードウェアの問題としてしまう。
しかし、ハードウェアと、アプリケーションプログラムは、OSを通じて、機能している。
ダメダメ家庭は、そのOSがダメダメになっていて、ダメダメなプログラムしかインストールできない。ダメダメなアプリケーションプログラムをどんどんとインストールするから、ますますそのPC自体がダメダメになってしまう。

もちろん、ここで住所やパソコンの問題を考えるつもりはありませんよ。
心理的な認識においても、ベースとなるものと言うか、ある種の座標軸があり、それに基づいて認識し、記述する。その認識システムというか、記述システムそのものの問題を考えているわけです。そして、その受け取り方の枠組みは、心理的にまっ更だった赤ちゃんの頃に形成されたもの。

今まででは、数学で使われる座標軸という言葉で表記しておりますが、発達心理学においては、「内的ワーキングモデル」(Internal Working Model)なる考えがあるそう。
ボウルビィ(Bowlby)なる学者さんが提唱しているそうです。
基本的な考えは、まさに今までにこのメールマガジンで書いてきた、枠組みというか心理的ベースのようなもの。
そして、その内的ワーキングモデルは、生後6ヶ月〜5歳頃の親の養育行動がとくに大きく影響し、子供が成長するにしたがって、可塑性が減少する・・・とのことです。
ちなみに可塑性とは、変更可能性という意味です。

産まれたばかりの赤ちゃんは、泣くことで、親にメッセージを送る。
もちろん、そのメッセージは無意識的というか、ある種、動物的な欲求の面が強いもの。産まれてスグの新生児の段階では、情緒的なメッセージではないでしょう。
しかし、泣いたら、親が対応してくれる・・・そんな経験の積み重ねによって、親に対する信頼のベースの基本形ができることになる。

泣いたら対応する段階はともかく、そこからが養育者によって分かれてくる。
それこそ、優秀な親だったら、ある程度、事前に予想したりするので、泣く前から対応することもある。
あるいは、泣く前のちょっとしたしぐさの段階で、的確に対応できるのか?
ちょっと泣いた段階で、早めに対応できるのか?
あるいは、成長した後には、ちょっとした言葉の段階で、親は対応するのか?
それこそ生後6ヶ月以降になると、親によって、子供への対応に差がでてくるでしょ?

あるいは、新生児自身だって、まさに生後6ヶ月以降になると、ある種の、「反応」が可能になる。動物的な反射に近いレヴェルにとどまっていた段階から、情緒の原初的なものが形成され、それが反応の主体となる。思考とか判断はまだ無理にせよ、個々の情緒を持つようになり、それをたどたどしくも伝えようとするもの。いわば人格というものの原型が出来てくる。だから、原初的にせよ、養育者とのやり取りが可能になる。
その原初的なやり取りが可能になった段階で、じゃあ、実際にどんなやり取りをするの?

ダメダメな親は抑圧的であり、反応が消失している・・・このことは、現在集中的に取り上げております。反応が消失しているので、そんな親は、マネキンと変わらなくなってしまう。やり取り言っても、一方的なものだったり、あるいは、ランダムで統一感がないものだったりする。統合された人格を持った存在が、お互いの意図を持って、双方向性でやり取りする・・・そんな事態にはならない。そんな状態だからこそ、子供にしてみれば、他者というものを心理的に認識できなくなってしまう。
視覚情報なり聴覚情報などの感覚情報は認識できても、統合した存在である他者としては認識できないわけです。

そもそも反応のない相手に対して、愛情を持つことなんてありません。人間が持つ愛情は、信頼がベースにあるのであって、その信頼は反応の積み重ねによって生成されるもの。DNAなり法律的な立場が愛情を規定するものではありませんよ。やり取りの積み重ねによって、愛情の原初的なものが形成されていくわけです。

前に書いたボウルビィは、子供が親によせる愛情の原初的なものを「愛着」という言葉で表現しております。長文になりますが引用してみましょう。「養育者との間に、完全に愛着が形成されるのは、少なくとも生後6ヶ月以降ということになる。しかし、その月齢に達すれば自然に愛着が形成されるのではなく、誕生から(あるいは、誕生以前から)繰り返してきた母親と乳児との心の通った相互作用が愛着形成の基礎となるのである。そして、2〜3歳頃までには母親に直接しがみついたり、近づいたりすることで安心感を得ていた乳幼児も、3歳を過ぎるとこれまでの母親との相互作用経験から、「母親は自分を守ってくれる」と確信し、直接的に接近・接触せずとも母親のことを思い浮かべるだけで心的安定を回復させ、母親のいない場所でもある程度の時間(年齢によってその長さは異なるが)、積極的に遊んだり活動して過ごせるようになる。母親が乳幼児にとって心的安定を回復させるための拠点(安全基地)として十分機能していることは、子供の世界を広げることにつながるのである。」

上記の文章は、このメールマガジンで現在集中的に書いている事項と、直接的につながっていますよね?あるいは、よく言われる言葉「三つ子の魂、百まで。」なる文言を、心理学的に説明していると言えるでしょう。
と同時に、今までこのメールマガジンで記述してきたダメダメ家庭出身者は、もうこの段階でコケているのもわかるでしょ?

ダメダメ家庭出身者は、
「母親は自分を守ってくれる」と確信していないし、
「直接的に接近・接触せずとも母親のことを思い浮かべるだけで心的安定を回復させる」どころか、親のことを思い出すだけで、プレッシャーを感じたりするもの。ヒドいケースになると、母親の近くにいると蕁麻疹を発症する子供も、現実にいるでしょ?

子供が泣いたら、それなりに対応してくれる段階を過ぎた以降は、抑圧的な養育者は、子供がいくら言っても無視してしまう。そんな無反応をベースに、子供としては「内的ワーキングモデル」を形成していくことになる。そして、その内的ワーキングモデルの全面的な更新は、実質的には無理。それこそ、哲学者のニーツェがいう永劫回帰くらいのドラスティックな発想が必要になってきてしまう。
いわば「現在の不幸な状況は、自分が望んだ運命だ!」と思うしかないわけ。自分が持っている、不適切な心理的枠組みや、使われる不適切な座標軸そのものを、自分が望んだものだと肯定的に捉えるわけ。
しかし、多くの人にニーツェと同じ精神を持つことを要求しても無理ですし、その心理的枠組み自体は、やっぱり変わらない。枠組みを認識する枠組みを導入しただけ。

ボウルビィが言うように、愛着とか内的ワーキングモデルは、可塑性が低いわけ。
ただ、地下牢の中で育った人間のように、何もやり取りがない状態の中で、身体的に成長した人間で、愛着そのものが何もない人間だったら、後になって強い愛着関係が形成されれば、かなり改善することができるそう。不適切なワーキングモデルがない状態であれば、いったん愛着ができれば、その愛着によって、養育者が好意を持ち、それによって、さらに愛着が深まる・・・そのようにスパイラル的に愛着が深くなり、良好な内的ワーキングモデルも「それなりに」形成されていくケースもあるそう。
しかし、いったん、不適切な内的ワーキングモデルが形成されてしまうと、改善するためには、パソコンで言うOSの再インストールしかないわけ。

抑圧的で環境下では、反応がない人との「やり取り」を基本として、内的ワーキングモデルが形成されるわけだから、
会話の心理的なベースができないし、
信頼の心理的なベースができないし、
思いやりの心理的なベースができないし、
だから幸福の心理的なベースができていないのは当然のこと。

その代わりに、不幸の心理的なベースができてしまう。
数多くの不快な体験を認識し、記述するような座標軸が形成されてしまう。

そして、いったん、そんな不幸の枠組みができてしまったら、新たな体験も、その枠組みの中で認識することになる。
それこそ住所において、碁盤目状の住所表記体系が出来上がっていたら、新たな建物もその体系に沿った住所表記になるでしょ?

そうなると、その枠組みが更に強化されることになる。
これは住所の問題だったら、便利なこととして済むわけですが、不幸の心理的なベースだったら、便利どころではない。
しかし、座標軸が不幸を表記するようにできてしまっているんだから、新たな事象は、すべてその不幸の座標で記述されてしまう。
食事をするという行為でも、太ってしまうという観点に20ポイント、お金がかかるという観点に30ポイント、おいしくないという可能性に40ポイント、ヘンなものを注文してバカにされるという観点に10ポイント・・・そんな形で認識し記述することになる。観点というか、座標軸がそんなマイナス方向にできてしまっているわけです。

食事をするくらいだったらともかく、それこそ子育てだって、不幸の枠組みで認識することになる。自分の時間的不自由、経済的支出、周囲からの要求への義務感・・・そんな観点からしか子育てを見ない。だって、そんな座標軸ができているので、そんな形で認識し記述するしかなくなっている。
座標軸上の数値においては多少の違いはあっても、認識し、記述するシステムとしての不幸の枠組みには変更はない。

極座標ができていれば、新たな建物も、極座標で認識し、碁盤目座標ができていれば、碁盤目に沿った座標で認識することになる。
同じように、不幸の座標ができていれば、どんな事象も不幸の要素としてしか認識しない。
そうなると、既存の体験も、その不幸の枠組みで整理しなおすことになるし、新しい体験を想定する際にも、その枠組みで予想することになる。

将来は、こんなイヤなことが起こる、
将来は、あんな不快なことが起きそう。

不幸以外のボキャブラリーを持たないし、不幸以外の座標軸を持たない。
だから、自分の将来は、その不幸の要素の組み合わせによって記述されることになる。
しかし、不幸によって記述される自分の未来なんて見たくないでしょ?
ということで、そんな人が言う言葉が「ふ・つ・う」。
自分の座標軸では不幸を記述することしかできないので、逆に言えば、認識の基本システムである座標軸そのもの、つまり枠組みそのものを取っ払ってしまうわけです。

まさに「親譲り」で、心ここにあらずになってしまう。そして、何も考えずに「人に合わせる」ことで、流れていく。
かと言って、そんな認識放棄の状態だったら、結局は、トラブルが起こってしまうのは自明のこと。トラブルがあっても、はじめのうちは、まさに「心ここにあらず」でやり過ごしていても、結局は目を背けきれない。

そうなってくると、当人なりに認識し、周囲に語る必要があるもの。
となると、今まで取っ払っていた不幸の枠組みを持ち出すしかない。
目を背け切れなかった事象を、不幸の枠組みの中で認識するので、結果的に自分の不幸の要素として認識されてしまい、結局は、被害という形で現状を認識することになってしまう。現状を認識するためにその枠組みを利用したので、その枠組みが活性化され、結局は、自分が持っている不幸の枠組みが更に強化されてしまう。

不幸という視点があれば、「誰から不幸を与えられたか?」「与えるのか?」「どの程度与えられたか?」そんな「方角上」「数値上」の問題はあっても、不幸によって記述すること自体は変わらない。だから不幸の心理的ベースがあれば、被害の心理的ベースにつながっていくことになってしまう。

そうして、犯人探しを始めることになる。そもそも犯人探しという行為も、対象候補者を、自分が持っている不幸の枠組みで認識し、記述することと言えるでしょ?自分が持っている不幸の座標軸で数値が多かったり、接点が多い人間が、犯人と認定されたりするもの。つまり犯人探しという行為によって、自分が持っている不幸の枠組み自体を強化してしまう。そうして、今度は報復行為を考える。報復行動とは、やっぱり相手を不幸の枠組みで見ること。

報復とは「オレに不幸を与えたアイツは、どんなことをされると、不幸になるだろうか?」そんな思考でしょ?まさに不幸の枠組みの中だけで記述できる行為といえる。
そうやって、不幸の枠組み自体は、どんどんと活性化され、強化されるわけです。不幸の枠組みではなく、被害を主体とした記述方式にすると「被害を与えられたから」→「アイツに被害を与えるんだ!」となる。報復行為は、不幸の枠組みのシステム上にあるというか、延長線上にある行為といえる。だからこそ、不幸の枠組み自体は、強化されることになり、それが更なる不幸認識につながっていくわけ。

被害を認識する座標軸はあるので、「被害を受ける」「被害を与える」「誰から、どれくらいの被害なのか?」そんな認識は、実にスムーズにできる。しかし「自分はどうしたいのか?」そんなことを認識し、記述する座標軸を持っていないわけです。

今回のシリーズの冒頭において「幸福への嗅覚」という文章を配信しておりますが、そもそも幸福を認識する座標軸がないんだから、幸福というものを認識しようがない。認識しないんだから、幸福に対して嗅覚はありませんよ。
それに対し、不幸の座標軸は子供時代で出来上がり、それが歳とともに強化されることになる。だから不幸への嗅覚は鋭くなっている。どんな小さなことでも、スグに不幸を認識してしまう。
だからこそ、「ふつう」という言葉を持ち出し、何も見ようとしなかったり、より大きな生の実感や、より語りやすい体験を求めて、自分から不幸に突進してしまう。

幸福を求めようとしない人ほど、まさにそんな感じでしょ?
幸福への嗅覚がない人は、不幸への嗅覚なり、不幸の心理的ベースが心の中で確立してしまっている。それを自覚しないと、それが暴れだすことになる。

そうして、「どうしてこんなことに?!」「ワタシはただふつうの生活がしたかっただけなのに・・・」と嘆くことに。
しかし、その嘆きの言葉こそが、不幸の心理的ベースが存在していることの証明のようなものなんですね。

(終了)
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発信後記

次回で、この12回シリーズも終了です。
次回は、このシリーズのまとめのようなものです。

6000字近くの文章が、12回続いたんだから、まあ、とんでもないシリーズでした。
ほぼ毎日の配信ですので、全部をじっくり読んでおられる方は少ないのではないかとも思いますが、プリントアウトして、休みの間にでも読んでくださいな。

疑問点や質問等がありましたら、お気軽にどうぞ。
R.10/12/25